「というワケでぇ、今日からウチにも女子マネが入ります!」

 何が「というワケ」なのかは誰も知らないが、堂々と言い放った黒尾の背後からおずおずと顔を出した女子生徒の姿に、音駒高校男子バレー部の面々はたいそう驚いた。
 子猫。
 いや、もはやハムスター。
 身長一八五センチの黒尾の後ろにすっぽりと隠れた小さな体。当部いち小柄の夜久よりもまた小さい。緊張に強張った表情、病人みたいに真っ白い顔、体操服から覗く細っこい手足。体育会系の粗野でやかましい連中とは真反対、そもそも生きる次元がいくつか違うのではないかと男連中が怯えてしまうほどの小動物が、そこにいた。

「梓、アイサツ」
「真柴梓です。一年二組で、……、……、よろしくおねがいします」

 ぺこ、と下げられた頭を黒尾が撫でくり回すので、何人かザワッとなった。大丈夫頭もげない?
 そんな梓の様子を眺めているうちに、研磨はなんだか自分の胃まで痛いような気がしてきた。緊張しすぎだし、怯えまくってるし、誘ったのはこっちだけど本当に大丈夫だろうか。黒尾にぐりぐり頭を撫でられながら、梓は心細そうに視線を彷徨わせている。
 あ、こっち見た。
 泣きそう。どうしよう。研磨の心臓と胃がキュッとなった瞬間、黒尾が梓の背中をバシンと叩く。

「ちょおぉっと人間界に慣れていないんですが、まあ仕事はしっかりするしバレーも詳しい子なんで。みなさんドウゾヨロシク」
「お前知り合いなの?」

 ずばっと聞いたのは夜久。さすがの遠慮のなさ。

「俺のお隣さん。研磨の幼なじみ」

 ババッと部員たちの視線が研磨に注がれた。やめてこっち見ないで。すると案の定、「こぉづめぇぇ」とガラの悪い唸り声を上げて同級生の山本が両肩を掴みにくる。大体黒尾の紹介もいけない、幼なじみなのは何も研磨だけではなく彼自身だってそう言えるくせに。

「おま……お前エェェ! 女子の幼なじみがいるとか初耳だぞ!」
「言ってないし暑苦しい……」
「まさか毎回自主練せずにとっとと帰ってたのはこのためか!? 答えろ孤爪!」

 別に自主練しないことと梓とは全く関係がないのだが、研磨の部活が終わるのを梓が待っていることも、大体必ず一緒に帰っていることも、梓に対しては他より気を配っていることも事実なので研磨は黙って目を逸らした。余計にヒートアップして、梓がおろおろして半泣きになって、夜久が止めて黒尾が部活を開始するまで大騒ぎは続いた。……先行きが不安すぎる。


EINE KLEINE



「見すぎ」

 トン、と頭上から手刀が落とされる。振り返ると黒尾が立っていた。

「つっても気になるよな。俺もさっき夜久にど突かれたわ」

 二人は体育館の隅にいる梓に視線をやった。初日である今日は、黒尾や夜久やコーチの指示を受けながら簡単な業務をこなしている他は、練習を見学している。部員の威勢のいい掛け声や雄叫び、ボールが床へ壁へと叩きつけられる音に、梓はいちいち肩を揺らして驚いていた。

「音が、やっぱ、だめかも……」
「こればっかりは慣れてもらうしかねぇよな」
「さっきからビクビクしてて不憫だな! ビビリなのか?」

 ひょこ、と夜久が顔を出した。他の部員がちょっと距離を測りかねているなか、彼はいつも通りの明るい態度で梓と接している。一番に梓が慣れるとしたら夜久か海だろう。
 研磨は視線を落としてぼそぼそと答える。

「耳が、いいんだ。それで、大きい音とか、人の話し声が苦手」
「へえ?」

 いまいちしっくりこないらしく夜久は首を傾げた。研磨も黒尾も、言葉として梓の苦手を知ってはいるものの、共有できない感覚のことゆえ全部理解できているわけではない。そういうもんか、と納得してできるだけ気を配るくらいしかできないのだ。ちょっと行ってくる、と研磨はふらふら歩きだした。
 すげー猫背、と夜久はその後ろ姿を指さして笑う。

「孤爪ってあんなふうに人のこと気にすんだな」
「まあねー。あいつ梓チャン大好きだから」
「……!? !?」
「イヤ異性とかじゃなくってさ」

 黒尾は右手を振って夜久の勘違いを制した。

「多分、波長が合うんだろ。二人でいる時間が一番落ち着く、って感じみたいよ。昔から」

 研磨が近付いていくのに気付いた梓は、あからさまに目を丸くして動揺した。
 他の部員が絡みにきたのならまだしも自分を相手にして一体なにを動揺するのか全くわからない。が、どうせ色々と考えすぎているに違いないので研磨は短く「梓」と呼びかける。

「う、うあ」
「平気? 音」
「ご、ごめ……音?」
「なんでいま謝ったの」

 つきあい自体は長いから、梓がどういうものが好きでどういうものが苦手か知っている、つもりだ。
 けどここ二年ほどの梓に対しては、何がどう彼女の心を傷付けるか読めない部分もあった。読めない部分は訊くしかない。できるだけ、傷付けたくないから。

「な、なんでもない。音、大丈夫。ちょっとびっくりするけど、慣れると思う」
「ん」

 中学から少しずつ伸びて、身長は研磨のほうが高くなった。背を屈めて顔を覗き込むようにすると、梓は視線を落とす。
 あまり目を合わせなくなったのもここ二年のことだ。自分も人のことは言えないので、今ではあまり気にしていない。

「顔色、悪くはないけど。無理ならゆって」
「あ……うん」
「初日から無理しないでいいから。ゆっくり、ってクロも言ったでしょ」

 梓お前は人間界レベル1なんだから初日から全部やらなくていい……みたいなことを、部活が始まる前、黒尾は彼女に伝えていた。顧問やコーチにも色々と話を通してあるらしい。梓を誘おうと言われたときどちらかというと乗り気じゃなかった研磨とは違って、黒尾はもう、彼女を巻き込む気満々なのだった。

「大丈夫。しんどくなったら、けんまに言う」
「ん。じゃあ戻る」
「ありがと、けんま」

 しょうがない、あきらめな、と思う。
 昔から研磨も梓も、バレーが大好きな黒尾に付き合わされるのが嫌いじゃないのだから。




 練習が終わって、体育館の片付けや掃除を済ませると、研磨は更衣室に向かった。いつもなら(参加しないとわかっているのに)自主練に誘ってくる賑やかな同級生も、今日は物言いたげに睨むばかりで絡んでこない。
 ハァ、つかれた、と独り言が零れる。
 練習終わりはいつもくたびれているけれど、今日は心労も重なってくたくただ。

「ずっと気にかけてたもんな」

 声をかけてきたのは、今日はこのまま帰るらしい二年生の海。

「紹介のときに黒尾が『人間界に慣れていない』とか言っていたけど、何かあった子なの?」
「…………」

 研磨は無言で着替えはじめる。無視ではない、考えている、海もそれをわかって返事を待っている。引退した三年生ならすぐさま「無視してんじゃねぇよ」とか難癖をつけてくるところだが、そういうところのない二年生たちは割合やりやすくて、助かる。

「人見知り、というか、人間が苦手、というか……」
「そっか」

 海はいつも通りのほほ笑みを湛えたままうなずいた。研磨が口をつぐんだ理由に、見当がついたのかもしれなかった。

 孤爪研磨と真柴梓が一緒に過ごすようになったのは、家が近所だったからという大前提のほかに、二人して引っ込み思案だったというのが大きいかもしれない。
 目立つのは苦手、人の目が気になる、一人でゲームをしているのが好きな研磨と、やや聴覚過敏の気があって大勢のいる空間が苦手な梓。ちいさな頃から、どちらかの部屋を訪れては二人して静かに一人遊びをしている、というなんとも不思議な関係だった。
 黒尾鉄朗が越してきて、年下の二人をバレーボールに巻き込んでからは、三人で外遊びすることも増えた。梓は黒尾にとても懐いて、ぴょこぴょこ後ろをついていく様子はまるで兄妹のようだったし、黒尾も梓と研磨をけっこう可愛がった。
 梓は静かで、言葉少なで、でもよく笑う女の子だった。
 それが変わってしまったのは中学二年の頃のことだ。

「孤爪くんこれ、真柴さんちにお願い」
「……うん」

 欠席した人への配布物が入った封筒を渡されたその日は、特に何も思わなかった。
 一年の頃は同じクラスだったから毎日顔を合わせていたけれど、二年は別だ。その日は研磨に朝練があったから登校時に会うこともなかったので、ああ今日は調子悪かったんだ、と思っただけだった。梓がわりと調子を崩しやすい子だということは、毎度プリントを届けている研磨が一番よく知っている。
 部活終わり、真柴家に寄ってインターホンを押すと、梓の母親が出てきた。
「梓、調子わるいの」と訊ねると、「頭が痛いんだって」と教えてくれた。
 その日から梓宛ての欠席連絡を預かることが増えた。
 たまに預からない日は、どうにか学校に来たか、遅刻してきて最後までいたかのどちらかだったのだろう。

「……今日も調子悪いの?」
「お腹痛いんだって」

 部活帰りに家に寄る。インターホンを鳴らしたら母親が出てくる。様子を訊ねると、頭が痛いとかお腹が痛いとか体がだるいとか。二週間を過ぎた頃には、さすがの研磨もおかしいと気付いていた。
 そういう日々が続いて、やがて、

「最近、あんまり学校、来ないね」

 ついにこの言葉が出た。三週間が経っていた。
 梓の母親はどこか諦めたような苦笑を浮かべる。

「梓ね、学校行きたくないんだって」
「……そうなの?」
「なんで行きたくないのか全然教えてくれなくって。いじめられたわけじゃない、って本人は言うんだけど、あんまり部屋からも出てこないし……。だめもとで研磨くんも一回訊いてみてくれない?」
「あー……ウン。じゃあ、おじゃまします」

 最後に顔を見たのは。
 多分、五月下旬にあった宿泊研修のとき。
 クラスも班も違うから、何かの移動のときに手を振り合っただけだ。そのとき梓がどんな顔をしていたのか研磨には思い出せなかった。でもそれより以前、黒尾と三人でバレーをして遊んだとき、「二年生のクラスがうるさくって、ちょっとシンドイ」って笑っていた気がする。
 クラスがうるさくて、ちょっとシンドイ。
 普通の人ならそんなに気にしない一言かもしれないけど、梓の「うるさくてシンドイ」は多分、普通の人の二倍くらいのしんどさがある。

 二階にある梓の部屋のドアは閉まっていた。
 だとしてもインターホンの音や玄関の話し声は聞こえていたはずだ。それでもドアを閉めきって研磨の顔を見に来ないということは、きっと会いたくないと思っているということ。
 あまり期待せず、トントンとノックした。

「梓」

 返事はない。

「……研磨だけど」

 ドアの向こうで動いた気配もない。

「開けていい?」

 生きているんだろうか。死んでるってことはないと思うけど。もしかして寝てる?
 梓の部屋のドアに鍵はついていない。ノブを握って力を籠めたら、普通に内側に開いた。カーテンを閉め切っているのか、室内は薄暗い。
 梓はベッドの上に座って、布団にくるまっていた。

「……開けていいって言ってない」

 起伏の薄い声にぞっとしたのを憶えている。
 ざらりとした手触りの、暗い声に、研磨は努めていつもどおりの声音で応えた。

「開けちゃだめとも言わなかったじゃん」

 入るよ、と今更ながら声をかけて足を踏み入れる。荷物を下ろして、ベッドに腰掛けた。
 部屋に荒れた様子はなく、きれいに片付いている。梓は毎日この部屋に閉じこもって何を考えているんだろう。
 訊いてみてくれない、と言われて特に何も考えずウンなんて答えてしまったけれど、一体なにをどう訊ねたらよいのやら。研磨はぱちぱちと瞬きをしたあと、散々視線を彷徨わせて、結局自分の膝元を見下ろした。

「…………」
「…………」

 梓との沈黙は苦ではない。
 むしろ小さな頃から、一緒にいても無言で別々のことをしていることが多かった。喋らなくてもいい相手がいるというのは有難いことなのだと、成長するにつれて痛感している。
 そんなことを考えていたら、梓が布団のなかから出てきた。
 ──制服を、着ている。
 それに気付いて、研磨は思わず唇を噛んだ。
 毎朝、起きて、ちゃんと支度は整えているのだ。部屋もきれいにして。多分、研磨が毎日届ける時間割を見て、教科書を準備して。制服を着て、学校に行こうとして──この部屋から出られない。それは一体どんな苦痛だろう。何が梓にそうさせるのか……考えても解らない。
 ぎゅっと膝の上に拳を握った。
 梓は閉め切ったカーテンをじっと見つめて「あのね」と口を開く。

「欠席連絡、いつも、ごめんね」
「……? ああ。いいよ、別に」

 学校からの下校ルートで考えると、家の並びは真柴家、黒尾家、孤爪家で一列に並んでいる。帰り道だから負担というほどのことでもない。大体、研磨が休みのときは梓が届けてくれるのだからお互いさまだ。
 なのに、梓はそれが耐え難い罪悪であるかのようにうつむいた。

「けんまに迷惑かけてるって、わかってるのに」
「……気にしなくていいよ」

 と言ったところで、気にするのだろう。
 梓はもう一度「わかってるのになぁ」と震える声で言ったあと、静かに泣きはじめた。
 泣くかもしれない、と身構えてはいたからあまり動揺しなかった。昔から梓が泣くところに居合わせると心臓が痛くなる。泣かないでほしくて、でも自分には何もできなくて、ただ手をつないでおくことしかできない。顔をごしごしこすっている梓の片手を取って、握って、もう片方の手にティッシュを握らせた。
 結局、学校で何かあったのかと訊ねることもできないまま、黙って手をつないでいた。

 次に来るときはゲームでも持ってこようかな。
 それで、梓の隣で、黙ってゲームしよう……ずっと。
 梓が嫌だって、出て行けって言うまで。あるいは梓が立ち上がれるようになるまで、ここでいつまでだって待っていよう。
 ……待っていられる。

 そしてそれ以降、梓は中学二年生のあいだ一度も登校しなかった。
 三年生に上がると同時に週三日ほど別室登校をはじめたけれど、学校では一言も喋らず、表情も変えなかった。梓は静かで、本当に無口で、全く笑わない子になってしまった。この年は同じクラスになったので、研磨は梓の給食を運んだり、昼休みに会いに行ったりした。
 家でも一緒に過ごした。同じ空間に一緒にいて、それぞれ自分の好きなことをする、ただそれだけの時間。たまにゲームを一緒にしたり、通信対戦したり、あるときバレーやろうと黒尾が誘ったときはおずおずとうなずき三人で外に繰り出した。梓は研磨や黒尾といるときだけは普通に喋ったし、笑った。
 高校は一緒に音駒に通おう、クロもいるよおれも受けるし、と誘ったところ梓がうなずいたので一緒に受検した。さもなければ梓は音駒から遠く離れた郊外の定時制を考えていると言ったので、研磨より黒尾が焦ったのだ。そういえばあのときも、黒尾のほうが熱心だった。

 そして高校一年生から、梓は二年ぶりの学生生活をやり直し始めたばかり。
 だから黒尾は、人間界に慣れていない、と言ったのだ。

 梓をバレー部に誘おうと黒尾が言いだして研磨が難色を示したとき、彼はこう言った。


 “あいつはさ。普通の人が普通にできることができなかったって負い目がいつもあるだろ”
 “そんなの絶対、損だ。たった二年、中学でつまずいただけで、この先一生あんな顔で生きていくのか?”
 “だからあいつに、胸張って誇れる経験をさせよう”

 “音駒の男子バレー部で全国大会に行ったんだって。インターハイで、オレンジコートで、みんなと一緒に戦ったんだって──そう言わせてやりたいんですよ、俺は”


1: Adagio



「梓」
「……んん……」

 体育館の玄関に座り込む小さな後ろ姿に声をかける。
 膝に顔を埋めた梓が、唸り声で返事をしたのにちょっと笑った。これはよっぽど疲れているな。

「帰れる?」
「…………」

 ふるふると首が横に振られた。
 隣に腰を下ろす。肩が触れるくらいの近さが、あたりまえの距離。
 自主練をしている面々の掛け声、雄叫び、ボールが床へ壁へと叩きつけられる音。それでも彼女の体がそこまで強張らないから、短時間のうちにずいぶん慣れたらしい。長年黒尾と三人でバレーの練習をしているし、試合のテレビ放送やDVDも一緒に観るし、何よりここにいる人たちの声には害意がないだろうから、うまくすれば慣れるだろうとは思っていた。

「がんばってたね。途中で帰ると思ってた」
「……うん」
「俺ゲームしてるから。立てるようになったら言って」

 研磨は制服のポケットからスマホを取り出して、ゲームを起動させた。
 梓が立ち上がれるようになるまでここで、いつまでだって待つつもりだ。……今までも、これからも。
 ずっと。