教室ではできるだけ透明人間でありたい。
中学の二年間を教室で過ごさなかったわたしは学期はじめの雰囲気なんてすっかり忘れていた。友だちがほしくないわけじゃないけど、どうやって作るのかわからない。研磨と分かれたクラスでは同じ中学校出身の人も何人かいたから、不登校だったわたしのことを思い出してほしくなくて、できるだけ喋らず目立たないように過ごした。
授業の間の十分休みはあっという間だけど、昼休みが問題だ。
入学してからしばらく、ひと気がなくて落ち着ける場所を探して彷徨ったけど、当たり前の話学校中に生徒が散らばっていて断念した。研磨やてつくんは「一緒に食べよう」と誘ってくれたけど、彼らには彼らの付き合いがあるわけで、それをわざわざわたしに割いてもらうのも申し訳なくて固辞したのだった。
結局のところ教室にいて、動かないのが一番まし。
まし、なんだけど……、
「…………」
「……? ……」
さっきからわたしの目の前には、福永くんがいる。
同じクラスだけど一度も喋ったことがない人だ。昨日のバレー部の活動で、ああ彼も研磨と同じ部だったのかと認識した程度。すらっとした長身をコンパクトに折り畳み、わたしの席の前にしゃがみ込んで、机に両手を置いて見上げてくる。目や顔つきが、どことなく猫っぽい。
「あ、あの……?」
「いつもお弁当?」
「う、ぇ、はい、」
質問が断片的すぎる。でもそういう喋り方は研磨で慣れている。
かろうじてうなずくと、福永くんは大きな目をきょろりと動かして立ち上がった。とりあえずカバンから取り出したお弁当を机に置くと、福永くんはすかさずわたしのお弁当を掻っ攫う。
「……えっ」
びっくりして固まっていると、福永くんはわたしを振り返ってじりじりと後退しはじめた。なにが、なにが起きているの。どうするのが正解なの。
返してもらおうと立ち上がったらピャッと教室の入口まで逃げられた。「なにやってんの福永」とクラスメイトに声をかけられている。
小走りに追いかけると福永くんは廊下に出て、わたしがついてくるのを確認するように振り返りながら、どんどん移動していく。わけがわからないけど、悪い人ではないはずなので、昼休みの喧騒のなかをビクビクと進んだ。
福永くんはとうとう生徒玄関で靴まで履き替え、体育館の左右にある鉄扉の前までやってきた。
ここまで来るともう、出入り口に男子バレー部の人たちがたむろしていたのが見えていたので、わたしは半ば脱力しながら駆け足に追いつく。
「オウ梓。おつかれさん」
「……ウ───……」
「なに。何に唸ってんの?」
どうせ発起人に違いないてつくんがお弁当を食べながらヒョイと手を挙げたので、その場に座り込んで膝を抱えた。
ちらりと見えたのは夜久先輩と海先輩。福永くんがいるから多分研磨や山本くんも来る。てつくんが入口前の階段から立ち上がって、わたしの両手を掴んだ。
「梓チャーン? どぉした、てつくんに何でも言ってみ」
「……つか、れた」
「そーかそーか。おつかれさん」
「昼休みの校舎、いや、だ。音が」
てつくんの手がぴくりと反応する。
「……そのうち慣れるさ」
多分自分が気になるほどに他人は物音に敏感ではない。
きちんと理解したのは小学三年生の頃だった。
自分が観ているわけでもないテレビの音、家族がドアを開閉する音、椅子や机の脚と床が擦れる音、教室で聞こえる話し声、とくに女の子のひそひそ話や誰かの悪口、男の子が急に上げる雄叫び、歓声、不意の生活音や人の声がとにかく耳障りで仕方がない。いらいらするばかりか、悪意ある人の声に影響されて関係ない自分までダメージを受ける。無造作な音の溢れる学校という場所は一日いるだけでも辛かった。高校生になった今でもそれは変わらない。
それじゃ生きていけない。わかってる。
気にしなければいい。わかってる。
もっと図太く。わかってる。
──それができたら苦労していない!
だからわたしは、普通の人が当たり前に過ごしている生活を送ることのできない自分が、本当にほんとうに、恥ずかしくて惨めで、きらいだ。
「今まで昼は適当に食ってたんだけどな。部ミーティングも兼ねて集まろうかと思って、俺が福永に頼んだんだ」
「そのくらいわかってるよぉ……。福永くんいきなり人のお弁当盗む人じゃないもん」
「あ、ウン、そうね」
「梓?」背後から研磨の声が聞こえた。「ほんとに連れてきたの」と呆れたような声音だから、多分、わたしのいない朝練のときにでも打ち合わせしたのだろう。わたしは最初のうちは朝練に来なくてよいとコーチから言われている。
研磨はわたしの横にしゃがみ込んで、こてん、と首を横にした。
「うるさい?」
「……ここは、うるさくない」
「廊下がいやなんだ。じゃあ次から迎えにいく……」
今日はクロが福永クンに強引に言いつけちゃったから、同じクラスだからって。研磨は抑揚の薄い声でそう言って、フと伸ばした両手でわたしの耳を塞いだ。
顔のまわりを包んだ体温と、掌から聞こえるごおっという低い音が、呼吸を正常に戻していく。
海の底に沈んでいくような、火山の奥深くに溶岩が蠢くような、静かで低くて穏やかな音。
研磨が昔に教えてくれたおまじない。
「……教室より、ここのほうが静かだよ。だからお昼、一緒にたべよ」
研磨はほんのちょっと口元をほころばせた。
EINE KLEINE
てつくんの策略でお昼ご飯を強制的にバレー部と食べることになったあの日から、昼休みになると福永くんが席まで迎えにきてくれて、研磨と山本くんが教室までやってくる。
最初のうちはクラスメイトから「どういうつながり?」「エッ、バレー部のマネ!?」と興味を持たれるのがどうしようもなく苦痛だったけど、福永くんはなんかよくわかんない猫みたいな顔で黙るばかりなので、わたしが答えなければならなかった。人と喋るのは苦手だ。だけどそんなわたしよりさらに寡黙なのが福永くんだった。
研磨が言うには、初めて福永くんとまともに喋ったときの第一声は「やりすぎドストエフスキー」だったらしい。
どんな状況だったのか。なぜドストエフスキーだったのか。なぜ韻を踏んでいるのか。謎が多すぎる。
中学三年のわたしみたく場面緘黙というわけでもないみたいだけど、わりと口数が少ないほうの研磨とわたしより、さらに発声が少ない。
「…………」
「……?」
ちょっと笑っているように見える真顔で廊下を歩く横顔を見上げていると、こてんと首を傾げられた。
ので、顔を逸らしてしまう。え、得体が知れない……!
「高校って、へんなひといっぱいいる……」
「? なに急に」
バレーをするには小柄な研磨もわたしよりは大きいので、その背中に隠れるようにして歩いた。
ちなみに山本くんは、てつくん曰く女の子と喋る方法がわからないとかで、研磨越しにわたしをじっと見つめるばかりだ。最初は怖かったし、モヒカンだし、いまも若干怖いけど、「ほっといていいよ」と海先輩が言ったのでノータッチを貫いている。
ほんと、へんなひとばっかり。
中学までは、物音がこんなにも気に障る自分こそがおかしいのだと思っていたのに。わたしって案外まともなほうだったのかもしれない。
男バレの人たちが体育館裏でお昼を過ごしていたのは、最初は校内の喧騒が耐え難いわたしへの配慮だった。てつくんが言いだしたことだったらしい。
しかし初日、お弁当を食べ終えたてつくんが
「……昼飯食ったらすぐバレーできるな、ここ」
と意味がわからないことを言いだして、確かにと同意してしまう人も二名ほどいたので、すっかり体育館裏で昼食からの体育館でバレーという流れが定着してしまった。結果、男バレの面々はお昼ご飯を食べた直後にもかかわらず、元気いっぱいボールを追いかけている。もはや昼練。
わたしと研磨は言わずもがな不参加組だ。
研磨は体育館の柱に背を預けてゲームをしている。
その隣に座り込み、食べてすぐ動いてお腹が痛くならないのかなぁとみんなの様子を眺めたり、研磨のゲームの進捗を覗き込んでみたり。……今度からわたしも本を持ってこようかな。男バレに入ってから、確実に趣味の読書の時間は削られていた。
「……つかれた?」
ふ、と意識が浮上する。いつの間にか研磨の肩によりかかっていた。
「……寝てた?」
「寝る手前って感じ。眠いなら寝てれば」
「うん……」
「入部してから一週間経つし。疲れてるんじゃない」
重たかっただろうな、と体を真っ直ぐに直したところ研磨がこちらを向いて見つめてきた。これは、多分、気にしなくていいから寄っかかって、という視線……だと思う。研磨のゲームの操作の邪魔になるのは嫌なんだけど、視線の圧力に負けて再びこてんと寄りかかる。研磨はときどき圧がすごい。
中学二年で登校をさぼって、中学三年で別室登校をはじめた。
高校一年春、普通教室に通えるようになって、夏から部活。いくら研磨の部活が終わるのを待っていたといっても、そのあいだの時間を自習室で過ごすのと、部活動をするのとでは疲労度が桁違いだ。しかも、家族と研磨とてつくんという狭いコミュニティに慣れきっていたところを、急にバレー部の人たちが増えたりもして。
「……すごく、つかれてる、けど」
「うん」
「たのしい」
「そっか」
「……もっと頑張りたい」
眠気交じりにうにょうにょつぶやいていると、研磨は最後に困ったような顔でわたしを見下ろした。
「梓はじゅうぶん頑張ってるから、背伸びしないで」
背伸び……。
普通の高校生がそれぞれ好きなことに人生を費やすように、わたしも研磨やてつくんのバレーに関わっていたかった。ただそれだけだったのに、たったそれだけのことが難しい。
やっぱり、身の程知らずだったかなぁ。
最初に研磨に聞いていた通り音駒高校男子バレー部は、マネージャーが雑務をしないと回らない、というほどの規模ではない。
それぞれが、ちゃんと、自分のことをする。準備も片付けも手分けするから早く済む。そのうちの一人ぶんをわたしが分けてもらっているだけだから、いてもいなくても多分あんまり影響はない。
コーチも先生たちもてつくんも、わたしに多くのことは求めなかった。だからとにかく最初のうちは、一度聞いたことを一度で覚える、それに集中した。何度も同じことを訊ねて煩わせるのは申し訳ないし、いつまでも楽な仕事しかしないマネージャーなんて入部する意味がない。
とにかく、普通に、普通のマネージャーが何をするかなんてわからないけど、せめて幼なじみだから優しくしてくれるてつくんや研磨じゃなくて、直井コーチや他の部員の人が求めるレベルの『普通』になりたい。もしかしたらこれが研磨の言う『背伸び』なのかもしれなかった。
「うし、じゃあレシーブ練をするから、真柴はボール出す係だ」
「はい」
ネットの向こう側に部員が並び、わたしはこちら側で、カゴから取り出したボールをコーチに渡す。レシーブで返ってくるボールは、交代で部員たちが拾ってわたしへと戻す。ボールを出して戻すだけの係、いるのか、と最初は思っていたけどみんな何も言わないから黙って従事した。
仕事をしながら気付いたのは、体育館は思いのほか、居心地がいいということ。
巧いひとほど、しずか。
ボールの落下地点をいちはやく見極め、誰よりも早い最初の一歩、ボールの下に滑り込む膝関節の柔軟性、衝撃をすべて吸収するやわらかさ、レシーブ後の攻撃のことまで考えた退路の確保。
リベロの夜久先輩がやはりレシーブ技術では抜きん出ている。本人の元気いっぱいな性格とは裏腹に、プレーはしずかで丁寧だ。
バレーで一番盛り上がる瞬間っていうのは、ノータッチエースが決まる瞬間でも物凄いスパイクが飛び出す瞬間でもない、スーパーレシーブが上がった瞬間。でも夜久先輩のすごいのは、普通の人ならスーパーレシーブになるようなボールを、ただのレシーブにしてしまえるコースの読みだ。
「ナイスレシーブ……」
コーチの横でボールを渡しながらぽつりと呟くと、ネットの向こうにいた海先輩がニコッと笑った。
「真柴さんはバレー経験者なんだっけ?」
「いんや俺が育てた。中学で女バレ入ったけど、先輩がめちゃくちゃおっかなくてすぐ辞めてたね」
てつくんひとの経歴を勝手に喋らないで……。
てつくんに誘われた研磨は中学校で男子バレー部に入った。わたしも、見ているだけが物足りなくなって女子バレー部に入部したものの、男子と違って上下関係がやたら厳しい女社会に馴染むことができず、二か月ほどで退部してしまったのだ。
音駒高校は四年前には全国大会にも出場した強豪校だ。
ただし当時の猫又監督が勇退してしまい、強い指導者を失ったことでここ数年の戦績は振るわない。あとをついだ直井コーチは猫又監督の教え子だそうで、堅実な『音駒のバレー』を継承している。
即ち、『繋げ』。
どちらにせよまずバレーはサーブレシーブができなきゃ話にならないスポーツだから、音駒はとにかくレシーブを鍛える。まともにレシーブできない選手は試合に出られない。
ボールを打つ音。シューズが床を踏む音。ボールが床あるいは壁に叩きつけられる音。ひとりひとりの声かけ。コーチの指示。あとたまに部員がはしゃいだときの笑い声。
「研磨サボんなぁ!!」
……たまに怒声。
オーバーでとるとこを、アンダーで楽したらしい。研磨らしいというかなんというか。
部員の顔と名前が一致したら、人の話し声は不快ではなくなった。
掛け声も、ボールの音も、シューズの音も、バレーボールをしているなら必然のもの。巧いひとのプレーはとてもしずかで、そういう音はずっと聞いていたいくらキレイ。
てつくんがレシーブに入った。長い手足を折り畳み、ボールの落下地点へ移動、衝撃を極力殺したきれいなAパス。パン、と乾いた音が天井に反響する。てつくんのプレーはしなやかな黒猫みたいだ。
誰も彼もがひとつの動作に集中している時間。しずかで、穏やかで、でもどこかヒリついた熱を孕んだ空気。
ここでは誰もわたしのことなんか見ていなくて、ただボールだけを追いかけている。
わざわざ消えなくたっていい。もともと、いない。
──ああ、
……息ができる。
ずっと聞いていたいと思える音が、学校にもあるだなんて思っていなかった。
「梓っ!!」
血相を変えたてつくんの悲鳴が耳に届いたのはそのときだ。視界の端に、山なりの孤を描いて降ってくるバレーボールが目に入った。──ボケッとしているように見えたのかもしれない。
一歩下がって、両腕を上げて。
両手の親指と人さし指で三角形。
手首柔らかく。指の腹で弾くように。
パンッ、と軽い衝撃。真上に上げたボールがゆるやかに落ちてきたので、今度は両手に受け止めた。そのままコーチに手渡すと、ぽかんとした顔でみんながわたしを見ているのに気がついた。
コーチも、夜久先輩も海先輩も山本くんも福永くんも他の一年生たちも。
ハッと我に返る。部員でもないのに、勝手に上げちゃった。
「……ご、ごごごごめ、なさ」
「いや! いやいやいや謝るな」
「意外だっただけ! オーバー巧いからびっくりしただけ!」
「ごめんな注目して! 巧いな!!」
謝るのはわたしのほうなのに、部員のみんなから「凝視してごめん」「気にしないで」と恐縮されてしまい、ものすごく気を遣われていることが判明した。
2: Poco a poco
その日の練習終わりには、顧問の先生とてつくんから、夏休みの合宿についての通達があった。
学校でやるぶんには多分女子は帰宅になるだろう、と軽い気持ちでふんふん聞いていたのだが、
「期間は一週間!」
「……いっ、しゅう、かん?」
長い。
「場所は埼玉、森然高校!」
「さいたま……!?」
遠い!
「もちろんマネも泊まり込みだから梓チャン頑張ってね」
「…………辞めたい」
「却下。そういう反応になると思ったわ」
「辞めるな! 息しろ息! 真柴ー!」
「AEDいる?」
二年生たちが楽しそうにわたしの反応を眺めている。両脇にいる研磨と福永くんは、ポンと肩を叩いて労わってくれた。
高校バレー部には普段から交流の深い何校かでつくられるグループみたいなものがあって、音駒高校は同じ東京の梟谷学園が中心となるグループに属するらしい。梟谷グループ四校は頻繁に合同合宿をしていて、その開催地は四校持ち回り。ただし夏だけは、涼しいという理由で埼玉固定だそうだ。
「む、む、むり、むりです」
「むりじゃねーって大丈夫! 向こうの女子マネみんないい人だった! 頑張れ! 負けるな!」
夜久先輩が元気いっぱいにバンバン肩を叩いてくる。痛い。負けるなって何に?
その後ろから腕を伸ばして頭をわしわし撫で回してきたてつくんが、悪役みたいな笑顔で楽しそうに脅迫してきた。
「そういうわけで梓、おまえには合宿までにスコアの書き方をマスターしてもらうから、死ぬ気でやれ」