朝、これまでよりも一時間以上早く家を出る。
 大体同じタイミングで真柴家、黒尾家、孤爪家のドアが開き、眠そうな三人が顔を合わせる。てつくんを真ん中に、欠伸を手で押さえる研磨とわたしで挟んで、バス停まで徒歩五分。まだ空いているバスで高校までは約二十分、研磨はゲーム、わたしは読書、てつくんはスマホでバレーの動画。
 高校についたら体育館へ向かう。大体、家が近い海先輩が一番乗りだ。部員の二人はクラブ棟の部室で着替えるため、ここで一旦分かれる。

「おはようございます」
「おはよう、真柴さん。今日も暑いね」

 海先輩がニコッと笑うので、わたしもつられて笑う。
 体育館の更衣室でぱぱっと着替えてしまうと、海先輩の準備をお手伝いする。ポールを運んで、高さを調節して、二人でネットを張る。基準は二メートル四三センチ。

「あの、前から思ってたんですけど……」
「うん?」
「ネットの高さ、二.四三にしてるの、てつくんですか」

 大らかな気質の海先輩と、細かいことはあんまり気にしない夜久先輩、この二人のおかげでわたしはあんまり気に病むことなくてつくんを「てつくん」と呼べていた。研磨も「クロ」って呼ぶ。てつくんも、黒尾先輩、と呼ぶことを強要しない。研磨がのびのび過ごせているのはこの二人の先輩のおかげも大きい。
 海先輩はネットの張り具合を確かめるようにぽんぽんと叩きながらうなずいた。

「そうだね。全国大会は二.四三だから、って」
「言いそう……です」

 見上げる高さの白帯。
 高校男子バレーのネットの高さは、大抵の大会で二メートル四○センチと決まっている。ただし全国大会となると三センチ高くなり、一般と同じ二メートル四三センチとなるのだ。わたしが目いっぱい腕を伸ばしても届かない白帯の、さらにその上で繰り広げられる空中戦。
 わたしには想像もつかない壮絶な世界。

「スコアの書き方は覚えられそう?」
「あ、えと、はい。書き方自体は、そんなに難しくないので」

 公式から出ているスコアシートに記入することはそう多くない。「今何が起きた!?」みたいなプレーがあると混乱するけど、基本的にボールに触った人を順番に記入して得点順をつければいいだけだ。……といってもスパイクだと時速一五〇キロを超えることのある男子バレー、クイックなんかは目で追うことさえできないこともあるので油断できない。
 でも、もっと───

「書き方以外に何か問題がある?」
「いえ、その……もうちょっと、項目増やしても、いいなって」

 音駒はどちらかというとコンビバレーのチームだ。一人でも三枚ブロックを抜けるスーパーエースがいるようなチームだと、エースの打ちやすさを重視したオープンバレーが向いているけど、音駒はクイックや時間差攻撃を多用する傾向にある。
 だからできれば、相手にどの攻撃が通用して通用しなかったのか、ブロックが何枚ついたのかそれとも振れたのか、そういうのを数字として出しておきたい。感覚として「ダメだった」よりも、根拠として「何割アウト」がないと。
 ……みたいなことをもごもご言っていると、海先輩は珍しく目を丸くしていた。

「それ、情報量多すぎて大変じゃない?」
「ぜ、絶対大変です」
「スコアシートも自作になるけど」
「う……。パソコンで作ったら、どうにかなりますでしょうか。わたし、エクセル、得意じゃないんですが」

 とりあえずてつくんたちの意見を聞いて、どういう情報がちゃんとあったらいいのか書き出して、その中から現実的に可能な項目を増やして……。合宿に間に合わせようと思ったら厳しいし、スコアをつけるほうの負担も大きくなるけど。
 てつくんの二メートル四三センチに、わたしも応えたいと、思ったのだ。

「なんていうか、間違いなく黒尾と孤爪の幼なじみだね」

 海先輩が嬉しそうにニコッと笑うので、わたしもつられて笑ってしまった。……褒められた、のかな?


EINE KLEINE



 よく考えなくても音駒は数年前まで全国レベルの強豪だったのだ。チーム独自のスコアシートがないわけない……と思っていたけど、戦績が低迷したここ数年の間にそういうものは廃れたらしかった。
 てつくんや海先輩の手を借りて部室を捜索したものの、過去のスコアブックは残っていない。辛うじて試合DVDがあるくらいだったから、結局、お昼休みにパソコン室を使ってシートを作ることになった。
 他の面々はいつも通り体育館で昼練をしているなか、てつくんと二人並んで一つの画面を睨みつける。

「確かに書き方をマスターしろとは言ったけど、スコア自作までいくとはな」

 エクセルに全然慣れていないわたしの代わりに、情報の授業でやったというてつくんに操作を任せた。てつくんはけらけら笑いながらマウスを動かしている。

「う。だ……だって、思ったより簡単だった……」
「地味にハイスペで助かってるよ。──項目増やすのはいいけど、試合中に書けるか?」
「練習すれば、多分。……むりかな」
「やってみればいいさ。すぐには無理でも、来年の夏くらいにはパパッとできちゃってるかもよ」

 さらりとそう言うてつくんは子どもの頃、バレーの試合で感動したプレーを研磨と一緒に再現しようとしては失敗していた。“今すぐには無理でも、高校生くらいになったら”と練習を繰り返して──実際、一人時間差という武器を身に着けてしまっているのだから凄い人だ。
 単純に、応えたい、と思う。
 わたしが普通より少し厄介な生活を送っていることを承知のうえで、自分のバレーに巻き込むことを決断してくれたてつくんの、バレーへの熱に応えたい。

「そういや合宿の準備終わった?」
「グゥ」
「何その声」
「ウ……わぁ……てつくん人が見ないようにしてた現実でぶっ刺してくる……」
「見ないようにっつっても、明後日からだし」

 うぅぅ、と机に突っ伏したところで、パソコン室の隅にたまっていた男子生徒たちが大声を上げて盛り上がった。爆発的な笑い声にちょっとびっくりする。何か面白いことでもあったらしい。
 うるさ、と両手の指先で耳を塞いだ。盛り上がるのはいいけど、音量を考えてくれないかなぁ。

「ああいうのは嫌か。バレー部はだいぶ慣れたように見えてたけど」
「あ、うん。なんか、その他大勢の話し声じゃなくって、部員の誰かの話し声になったら、なんとなく平気」
「教室まだシンドイ?」
「教室は……ちょっと。色んな人が、色んなとこで、色んな話してるから」
「ふーん。じゃあ合宿もアレかもなぁ。まあ置いていく気はないんで、頑張ってちょうだい」

 てつくんがニッと口角を上げた。わたしの幼なじみはやさしくて、バレーバカで、基本スパルタ。




 六月のインターハイ予選で敗退した音駒高校男子バレー部の、次の目標は春高予選。
 八月下旬から九月上旬にかけて行われる予選一次リーグでベスト4まで絞られ、十一月の代表決定戦で代表が決まる。第一代表、第二代表、そして開催地枠で東京都からは計三校。一次リーグへ向けて夏休み一発目に一週間の森然合宿、八月に入ってからは学校で合宿、立て続けの練習試合と行事が目白押しだ。バレー部の夏休み予定を見た両親に「大丈夫? こんな急に色々頑張って死んじゃわない?」と心配された。わたしもそれが心配だ。

 明日から始まる合宿へ向けて、荷造りをしていたら急に不安になってきた。
 このために買ってもらった大きなボストンバッグを見下ろして、しばらく悩んだわたしは家を出た。

 研磨のおうちは、てつくんのおうちの向こう。途中で黒尾家の二階を見上げて、てつくんの部屋に電気がついていることを確認した。今頃彼も荷造りをしているだろう。
 孤爪家のインターホンを押すと、研磨ママが「あら」と目を丸くした。

「梓ちゃん! 研磨なら上にいるよ」
「お邪魔します」

 ぺこりと頭を下げて靴を脱いでいるあいだに、ママが二階へ向けて「けんまー、梓ちゃん来たよー」と声をかけてくれている。静かに階段を上がっていくと、部屋のドアをちょっと開けた研磨が「ちょっと待って。今荷物広げてるから」と言ったので立ち止まった。
 わたしもさっきまで部屋に着替えの下着やシャツを散らかしまくっていた身だ。大人しく言う通りにして、許可が下りたところで入室した。

「……どしたの」

 普段ものの少ない研磨の部屋だけど、今日は床にエナメルバッグやリュックが散乱していた。荷造り真っ只中といった様子で少し申し訳なくなる。
 無言でベッドの端に腰掛けると、研磨はぱちぱち瞬きをしたあと、荷造りを再開した。

「なんか、ひとりでいたら、ざわざわして」
「……荷物はもうできたの?」
「できた。なんか、何がいるのかよくわかんなくて、重たくなっちゃったけど……」
「どうせ移動はバスだし重くていいんじゃない」

 研磨がタオルやシャツを詰めたり、コード類をまとめたりする音だけが響く。

「あのね」
「うん」
「……わたしが男の子だったら、けんまやてつくんと一緒の部屋に泊まれるのになぁ」

 ぴたりと手を止めた研磨が天井を見上げるような仕草をして、「うーん」と唸った。

「音駒の合宿だったら同じ部屋でもいいかもしれないね……って言おうとしたけど、山本クンがいるからだめだね」
「せめて音駒の合宿を先にやりたかった。一発目が他校と合同って、ハードル高いよう」
「それはクロに文句言うしかない。俺は、梓を入れるのはもう少しあとでもいいんじゃないって言ったよ」

 合同合宿では、女子マネは全員でひとつの教室に泊まるのだと聞いている。
 昼間の練習はまだしも、食事や入浴や就寝の時間まで、知らない人と同じ空間で過ごさなければならない。元ひきこもりには苦痛でしかない。夜久先輩はみんないい人だったと言っていたけど、仲良くなれるかどうかはまた別だ。
 そう、結局、それが一番のネック。
 合宿に行ってしまったらもうどこにも逃げられない。一週間、何が何でも耐えるしかない。そのことを憂えて今からなんだか具合が悪い。

「……本当に嫌なら、今からでもクロに言う?」
「え」
「口ではああ言ってるけど、梓が本当に無理って言うならクロだって聞くでしょ」

 振り返った研磨の表情はいつも通り平坦で、誇張でも心配でもなんでもなく、ただ事実を伝えているだけといった様子だった。
 それは確かにそうだろう。頑張れとか置いていく気はないとか、そうは言ってもてつくんだって優しい人だから、きっとわたしが本当に心の底から嫌だというなら無理強いはしない。研磨に対してそうだったように。
 でも、だからこそ、

「…………行く」

 だからこそあの優しいてつくんが択んだ『バレーに巻き込む』という決断を、わたしが蹴ることはしたくない。

「がんばる。頑張ってみたい……」
「うん。ま、ほどほどにね」

 研磨はわたしの答えを予想していたようで、大した気負いもなく微笑んで荷造りを再開した。


3: Andante