火星ソーダ・後篇



 冷たい目で薬師を見下ろしながら一試合投げ抜いた鳴さんは、まるで次元の違う生き物のようだった。
 先輩たちが異次元の強さを誇る選手であることは解っていたつもりだ。世代最強のチームを創るために鳴さんが声をかけていた人たち。勝つために稲実に集った、一つ上の世代のスター選手集団。
 そのなかでもやはり鳴さんは別格だ。

 薬師高校は強い。
 青道高校には公式戦で二度敗れているものの、市大三高を二度も撃破した試合は記憶に濃く刻まれている。選抜出場校として甲子園でプレーしたその一試合ずつも、けっしてマグレの勝利なんかじゃなかった。
 薬師高校は、強い。
 もはやダークホースとは呼べない。確実に、西東京の強豪の一角となりつつある。

 でも稲城実業のほうがもっと強いし、真田さんよりも鳴さんのほうが投手としての完成度は上だった。
 今日の試合はつまり、そういうことだ。



 稲実野球部のグラウンドの片隅でクーラーボックスの中を拭いたりジャグを洗ったりする私の手は、球場を出たあともずっと震えている。

 ざああああ、と排水溝に吸い込まれていく水の流れをじっと見下ろしながら、両手を握り合わせて無理やり震えを止めた。

 鳴さんの隙のなさは、味方として頼もしく思うべきだ。
 ……怖がってないで。
 大体、味方の気迫に呑まれて委縮するなんてどうかしている。マウンドに立つ鳴さんが凄いことなんて入学前から知っていたことだ。敵に怯えるのもどうかと思うけど、同じチームの仲間が怖いということのほうが問題ではないか。

「……あー、ホンット情けない」
「なにが?」
「わああああっ!! なんですか鳴さんもう急に声かけないでくださいよどっから湧いて出てきたんですか!?」
「はあ〜? なんなのお前、人を蛆虫みたいに」

 いつの間にか隣に立っていた鳴さんは眉間にぎゅっと皺を寄せてわたしの鼻を摘まんだ。

「もー! 触んないでください!」
「ん? ナマイキ言うのはどの口かなー?」
「あだだだだ」

 相変わらず後輩女子を女子とも思わぬ非道だ。思い切りほっぺたを引っ張られて、私は鳴さんの胸元に頭をぶつけた。

「で? 何が情けないって?」
「べ、べつになにも……」
「ハイ嘘ー。またスコアの書き方ミスって落ち込んでんの? いい加減慣れろよ」
「いやそこは大丈夫でしたけども! 鳴さん私のことバカにしすぎでは!?」
「じゃあなんだよ! さっきから全然視線合わせようとしねーし!」
「それは──」

 思わず顔を上げてしまった先、意外と近い位置に見えた鳴さんの、冷たい炎の鎮まったいつもの瞳と視線がかち合う。
 目のやり場に困り、色素の薄い髪の毛や鼻先や頬、彼の背後に見える倉庫やネットをうろうろした挙句、やっぱり私は視線を落とした。
 喉、胸元、高校名の入った辺り。
 左肩。

「それは、その……」
「ホラ、また」

 流しの縁に片手を置いた鳴さんからじりじり逃げ腰になっていると、ムッとしたような気配とともに距離を詰められた。ひええええ。内心わけもわからず叫びながら離れようとした瞬間、もう片方の手で逃げ道も塞がれる。

 つかまってしまった。

 鳴さんは流しの高さに合わせて少し背中を丸めている。こつんと降ってきたおでこが、軽くわたしの前髪を撫でた。


 えっ。
 なにこれ。


「めめめめめ鳴さん、ち、ち、近い……」
「だって近くしないと逃げるじゃん。で結局なんなわけ。英に逃げ回られると調子狂うんだけど」

 鼻先が触れるほども近くで、偉大な世代ナンバーワン投手が睨みつけてくる。
 重なった額と、私を閉じ込める両腕、今ここに誰かが通りかかれば確実に誤解されること間違いなしの危うい体勢。
 お願い誰も来ないで。
 こんなところ見られたら死んでしまいそうだ。

「ハイ大人しく吐くー。素直に吐いたほうが身のためだと思うけど?」
「なんですかコレ取り調べですか」
「食堂でカツ丼奢ってやろーか?」
「お、親子丼のほうがいいです……」

 がちがちに固まってしまった私の頬を、彼の右手の甲がするりと撫でた。
 この人、こんなにも私に触れる人だっただろうか。いや、偽物かも。精巧に造った鳴さんのマスクを被った別の人でこれはドッキリ企画かもしれない──待ってダメダメさすがにそれは突拍子がなさすぎる。

 大体私が鳴さんを間違えるわけがないし。
 少し高い体温も、身長差も体格差も、息も、においも、手も、全部間違いなく成宮鳴だ。

 ああ頭がクラクラする……。

「だ、だって」
「“だって”?」
「鳴さんが、怖いなんて、おかしいじゃないですか。私」

 鳴さんは無言でゆっくりと瞬きをした。
「で?」という催促だ。

「変なんです、私、最近先輩たちが怖くて。鳴さんまで、なんか別の人みたいだし。でも仲間なのに怖いとかそんなの、おかしいから」
「……ワッケわかんない」

 盛大に呆れていますという感情を隠しもせず、鳴さんはがくっと項垂れた。
 私の肩に顔を埋めて大きく溜め息をつく。

「試合中なんだからさーピリピリして当たり前じゃん……。別に英がベンチにいるからってわけでもねーよ」
「う、わかってます、ごめんなさい……」
「今も怖い?」
「今はそんなですけど、あの、近いんでドキドキしてます……」
「あっそ。英にまともな感性があって安心した」

 ……どういう意味だ。
 いつも通りそこはかとなくバカにされているような気がしたけど、凭れかかってくる彼の体温や重みにどぎまぎして抗議するどころじゃない。いつも野球部の先輩たちといるから小柄な印象があったけど、鳴さんは当然私なんぞよりも一回り大きいのだ。

 男のひとなんだから。

「め、鳴さんあのそろそろ離れて……」
「俺に指図しないで」
「これ指図?」
「はぁぁぁもうお前夏終わったら覚悟しとけよ……」
「エッなんですか怖い」

 夏終わったら、か。
 間違いなく夏の主役であるこの人が言うと、なんだか急にせつなくなる。

 この春にベンチに入れてもらったということは、今年の夏は多分スタンド組になる。鳴さんの試合をすぐ近くで見ることができる最初で最後の機会。夏が終わればこの人は引退してしまう。
 子どもみたいな意地悪ばっかする、誰より我が儘で誰より強い稲実のキング。

 どきどきしながら、両手をそろりと伸ばして、彼のユニフォームの裾を掴んだ。

「…………」
「…………」

 鳴さんは何も言わなかった。
 ただ私の首筋にすり寄って、静かに呼吸を繰り返している。
 僅かに上下する肩の動きにじっと目を凝らしながら、私も、何も言わずにユニフォームを握ったままでいた。

 グラウンドのほうから部員の声がする。多田野や福井キャプテンが鳴さんを捜しているみたいだった。足音がいくつか、近づいてきている。


「……夏、終わったらね」


 夏、終わったら、私たちどうなってしまうんだろう。


 怖くてせつない。終わらなければいい。誰よりも長い夏になればいい。でも早く終わってほしい。夏のその先の景色を、変わらず鳴さんと一緒に見たい。
 だから小さくうなずいた。


 宮下さんのリクエストより、成宮で後輩でわちゃわちゃしたお話、でした。わたしの中では成宮くんは絶対的王者であり畏怖すら感じさせる暴君であると同時に、気になる女の子には小学生男子みたいなちょっかいをかけていそうだなという偏見があります。
 一年生の頃ヘナチョコだった後輩マネさん、入部当初は成宮先輩をキラキラした目で見つめていたのでご本人も満更じゃなくかまっていましたが、かまいすぎて夢が醒めてしまいついにはいじられる度に原田先輩や平井先輩に助けてもらっていました。今は福井キャプテンが頑張ってフォローしてくれています。
 久しぶりの成宮くん夢楽しかったです。宮下さん、リクエストありがとうございました!



TIAM top