いつくしみの美学



「英って怒ることあるの?」

 と、亮さんがそう訊ねてきたのは、確か一年の冬頃のことだった。
 英を家まで送ったあと、温かいお茶でも淹れようと食堂に入ったら、二年の先輩たちがそんな話をしていたのだ。

「あ……りますよ?」
「へえ、意外。何して怒られたわけ?」

 答えに変な間が空いたのは、英が怒っているところを一瞬俺も思い出せなかったからだ。
 とはいえ先日の秋大観戦でブチ切れていたことや、中学生の頃の弁当投げつけ事件などがある。頻度は高くないが、一切怒らない人間というわけではない。

「えーっと、倉持の腕折るぞって脅されたり……俺が母親いないのバカにされたり……?」
「人のことばっかじゃねぇか」

 面白くなさそうな顔になったのは純さんだ。
 その隣で亮さんは興味深げにうなずいている。

「ふーん。誰かのためならあるけど自分のことでは怒らないって感じか。自分には厳しいけど他人には何も求めてないのかな」
「……っていうか、怒るのしんどい、って昔言ってましたよ。怒るのに使うエネルギーが勿体ないし、なんか悲しくなるらしいです」
「なにその謎理論」
「怒ると悲しいとか意味わかんねぇ」

 どうやら先輩たちの間では英の謎が深まっているようだ。そのまま「こうしたら怒りそう」と提案する亮さんたちに「いや〜反応はこうです」と俺が答えるという時間が続いた。
 もしもの話だが練習を真面目にしなかったら、多分何も言わずに軽蔑される。掃除を真面目にしなかったら、多分押しの強い微笑みを浮かべて掃除させられる。面と向かって英の悪口を言ったら、まあ人間合う合わないがあるわよねと流される。英のお気に入りのマグカップを割ってしまったら、故意じゃなければ普通に許してくれる。──等々。


 この頃の英はようやく野球部に馴染みはじめてきたところだった。
 二年に上がったあと、特に秋以降はあいつが怒ることなんて珍しくもなくなるのだが、当時はまだそこまで感情を表に出していなかった。


「うーんじゃあ、約束破ったら? 例えば待ち合わせをすっぽかすとか」

 亮さんのこの一言が、一年半の時を経て盛大なフラグとなるなんて、誰にも想像できなかったに違いない。


「連絡もせずにすっぽかしたら、さすがに怒るかもしれないですね」





『一也いまどこ』

 電話越しの英の声音を聞いた途端、さぁぁぁぁっと血の気が引いた。

 氷点下。絶対零度。氷山。吹雪。氷の女王。そんなものが一緒くたになって俺を嘲笑っているような幻が見えるほどに冷たく、怒気というかもはや殺気すら感じるような声だった。
 ──英が怒ってる。
 一緒にいた十七年間の記憶を総浚いしても憶えがないくらい、本気で怒っている。

「りょ……寮だけど……」
『へぇ。寮』
「あの、英……俺なんかしたっけ……」

 今日は確か朝練があって、授業を受けて、昼飯一緒に食って、午後の授業を受けた。
 監督や礼ちゃんたちは職員会議と研修があるため部活はナシ。そういうことになっていたので、俺は寮に戻ってから投手陣の球を受けていた。夕飯を食べたあとバットを振って、自室に帰ったら携帯が光っていたので開いたら、英からの着信だった──そして今に至る。


 まずい全然身に覚えがない。
 でもこれだけ怒ってるってことは俺、なんかしたんだ。


 同室の木村と奥村は、冷や汗だらだらで通話している俺を見て、なんだなんだと顔を見合わせている。

『そう』
「あの、英さん……ごめん……」
『何がごめんなのかもわかってない人に謝られる謂れはありません』

 敬語が怖い。

「何が悪いのかもわかってなくて申し訳ない……俺なんかした?」
『知らない』
「おい英っ」

 ──切れた。
 耳から離した携帯電話を茫然と見下ろす俺を眺めていた奥村が、「取りつく島もなさそうですね」と冷静に呟いた。いや全くその通りだ。普段、俺たちを年下の弟か後輩みたいな扱いをすることの多い英は、叱ることはあっても言い訳の余地さえ与えないなんてこと滅多にない。
 なのにアレだ。
 英の勘違いとか八つ当たりとかそういう発想はなかった。あれは、俺が、よっぽど彼女の逆鱗に触れることをしたのだ。触れるどころか毟ったレベルかもしれない。

「あのー……大丈夫ですか? 御幸先輩」
「顔色が悪いですが」

 本気で心配された。


***



 一晩考えたけどやっぱり心当たりがない。
 大抵のことは笑って流せるタイプだと自負している俺だが、今朝は珍しく胃がキリキリする思いだった。昨日の晩にあれだけ怒っていたのだ。いくら英とて、寝たら機嫌が直りました、なんてことにはならないだろう。

「どうした御幸、その顔」
「体調でも悪いのか?」

 部屋を出たあと鉢合わせた倉持と白州にまで心配される始末。
 なんと答えたものか悩んでいるうちに、いつものようにマネージャー一番乗りでドリンクを作っている英の姿を見つけた。通りかかった東条と金丸に、「おはよう」とあいさつをする様子は至極ふつうだ。

「はよー英」
「おはよう」

 倉持と白州に「おはよー」と、下級生に対するものよりはいくらか砕けた表情で返事をした英は、二人の後ろから近づく俺に気づいて動きを止めた。

「……おはよ……」
「おはよう。御幸」

 にこっ。
 朝っぱらから背後にキラキラとした花束の幻を見せるほどの満面の笑み。

 ぱたぱたと慌てて朝練へ向かう一年たちが「わ」と驚いて二度見する一方、その英の笑顔を目の当たりにした俺も倉持も白州も、偶然横を通った麻生も関も木島も、ゾッとして後退った。
 英の標準装備は仏頂面だ。
 顔立ちが整っているぶん、本人のご機嫌がいたって普通だとしても、憂いげだったり怒っているように見えてしまう。一年の頃はよくそれで誤解されたものの、野球部の連中は四六時中一緒にいるせいで、微妙な表情の変化でも英の機微がなんとなくわかるようになっていた。

 俺を除く一同が顔を見合わせる。
 ──めちゃくちゃ怒ってんじゃねぇか。何したんだよ御幸。
 そんな視線を一身に受けながら、ドリンク作りに向き直る英の横顔に声をかけてみる。

「あの、英」
「早く行きなよ、キャプテン」
「英さん……」
「キャプテンが遅刻だなんて後輩に示しがつかないわよ」
「…………はい」

 最後はもう返事したんだかしてないんだかわからないくらいの声量になってしまった。
 話はこれで終わりですとっとと行ってください──なんて看板を背中にしょっていそうな、頑なな彼女の横を通って、ガタガタ震える三年たちとともに寮を出る。
 間違っても英に声が届かない場所まで離れたところで、倉持のタイキックが叩き込まれた。

「御幸テメエ何した。なんだあの般若は」
「わかんねーよ……昨日の晩からアレなんだよ……」
「間違いなく激怒してたな」
「俺マジで石になるかと思った」
「な。怖かった……」

 英は朝練中その状態だった。
 基本的に普段通りで、俺以外の相手に対しては当然しっかり対応している。俺も練習中に用事がなかったからかもしれないが、支障がなさすぎて、朝の一件を目にした面子以外は何も気づいていなかったほどだ。「まるで去年の秋大中みたいだな……」と白州はウンザリしていた。

 他の奴らもさすがに「おかしいぞ」とざわざわしはじめたのは朝練後からだ。

「英」と怒っている理由を聞こうとしたらニッコリ笑う。
 無言だが圧力のある笑顔で『まだ怒ってるから話しかけないで』とアピールしてくるのだ。
 懲りずに二言目をかけようとすると、首を傾げる。
 やっぱり無言だがむちゃくちゃな圧力で『自分が何をやらかしたか思い出してから出直してきて?』と訴えてくるのだ。

 さすがに心が折れた。



 英の態度があまりに頑なだったからか、普段一も二もなく英の味方をする倉持やノリたちまで不憫なものを見る顔になり、昼休みには食堂で顔を突き合わせて会議を開く事態になっていた。

「そんで御幸。昨日の昼休みまでは普通だったんやな?」
「普通だったよな。俺ら三人で昼飯食ったぞ」
「倉持が自販機に寄って帰るっていうんで、俺は英と教室に戻った。いつも通り過ごしたあと午後の授業受けて、寮に帰って、夕飯食ったあとバット振って、部屋に戻ったら電話かかってきてもう怒ってた」
「怒らせるどころか昼休みのあとは会ってもないのか……」
「なんだろうな〜」

 白州とノリが顎に手をやって考え込んでいる。
 張本人に記憶のない原因を周りがわかるはずもなく、俺たちはうんうん唸りながら味のしない昼飯を食べた。英はあれだけ激怒しておきながら、他の部員に何があったか洩らしてもいないらしい。夏川や梅本もお手上げだったし、それとなく聞き出そうとした倉持は笑顔の返り討ちをくらったそうだ。
 それでも「勝手にやってろ」とならないのは、ひとえに英があんな態度をとるのが珍しいから。

 ぶっちゃけみんな、怖いから早く解決したいのだ。

「……つかあんだけ怒ってんの初めてだよな……心臓に悪ィ」
「はっはっは、十七年一緒にいて俺も初めて」
「「「威張るな」」」

「あのう……」

 そっと後ろから覗き込んできた一年生に、倉持たちはビクッと肩を震わせた。
 浅田と、奥村だ。ちょっと後ろのほうには心配そうな顔した瀬戸もいる。「どうした浅田」と同室の倉持が声をかけると、やや緊張した面持ちだった浅田がほっと息を吐いた。
 その横で呆れるほど堂々としている奥村が「天乃先輩のことなのですが」と切り出す。

「こいつの話を聞いていたら、もしかしてと思い当たりまして」
「浅田なんか知ってんのか?」
「それが、ボク昨日学校を出るとき、校門で天乃先輩に会ったんです」

 昨日学校を出るとき……校門。
 待て。

 ──「じゃあ校門で待ち合わせね」と、英はいつだったか、言わなかったか。

「このあと父の日の贈り物を買いに行くので御幸先輩と待ち合わせだって……」
「…………」
「晩ご飯の前に沢村先輩が『今日は御幸先輩に受けてもらった』って言ってたので、お買い物帰りに大変だなぁと……思っていたんですが……今朝の様子を見てもしやと……」
「…………」

 浅田の話を聞くうちに、倉持やゾノがどんどん真っ青になっていく。
 学校終わり寮に直帰して沢村たちの球を受けていた俺が、一体、何をやらかしたのかが明らかになったからだ。
 そして俺のほうも、昨日の昼休み、この間の練習試合のスコアを開いていたせいで右から左に聞き流していた英の話を思い出しつつあった。


 ──「あのね、こんど父の日でしょ。お父さんとおじさんにプレゼント買いに行こうと思うの、今日オフだし一緒に行かない?」

 ──「忙しいときにごめんね。早めに済ませるように色々考えとくから」

 ──「じゃあ校門で待ち合わせね」


「「「それだっ!!」」」

 そして俺は行かなかった。
 英は校門で待ちぼうけをくらった。英からの不在着信は夕方に一件と、夜に一件だけ。さすがに夜遅くまで待ちはしなかっただろうが、連絡もつかないまま待ち合わせをすっぽかしたあげく、約束したことさえ憶えていなかった(というか聞いていなかった)俺に怒り心頭だったのだ。

 いっそ全部きれいサッパリ忘れたままでいればよかった。罪悪感がやばい。
 そりゃ怒るわ……いくらなんでも。

 食事を終えた食器やトレーを急いで返却すると、英の姿を捜して三年の廊下を駆けまわった。自分の教室にも、紅子さんのところにも、マネ陣のところにもいない。英がたまに逃げ込む図書室の一角にも行ってみたが姿はなかった。
 あと残るは本校舎二階の隅。
 特別教室の並ぶ階で、もう使われなくなった第二音楽室や和室の傍、埃っぽいから誰も近づいてこない彼女の隠れ場所。

 英は廊下の隅に座り込んで本を読んでいた。
 足音が聞こえているだろうに顔も上げない彼女の正面にしゃがみ込み、「英」と、今日何度口にしたかもわからない名前を呼んだ。

 英は音もなく睫毛を震わせてこちらを見た。

「……聞いてなくてごめん」
「…………」
「聞いたふりしてスコア見てて適当に返事した。浅田に教えてもらうまで、出かける約束したこと自体忘れてた。すっぽかした挙句すっぽかしたことも憶えてなかった」

 彼女は答えない。

「ごめん」
「…………」

 無言ですっと顔を逸らした英の口元は、怒っているというより拗ねているような形になっている。
 基本的に怒ることの少ない人のくせに、珍しく寝て起きたあとも怒りが持続していたせいか、朝っぱらからずっと頑なな態度を取っていた。
 俺が昨日のことを思い出したはいいが、今更どう反応すればいいのかわからなくなって困っているというところだろう。色々器用で如才ないように見えて、そう見せるのが上手なだけの、強がり意地っ張りな女の子だから。

「こっち見て、英」
「……いや」
「許してくれません? なんでもするから」

 身を守るみたいにして開かれたままの小説を取り上げて、英の細い両腕の肘のあたりをゆるく握る。昔からこうすればこいつは逃げ場をなくしてこっちを見るから。
 案の定、「たいへん不服です」「しょうがなく一也のほうを見ます」という表情で俺のほうに向いた。

「購買のプリン買ってこようか。それとも帰りになんか食って帰る?」
「……、……もー、いいわよ」
「なんで。なんでも言えよ」
「もういいのっ。……大体、昨日の一也が全然話聞いてなかったのだってわかってたし、どうせ約束したことすら覚えてなくて自主練するだろうなって思ってたんだから」
「でも待ってたんだろ。ごめん」

「スコア読むのとわたしの話聞くのとどっちが大事なのかしらって思っただけだもん」


 な……なんだそれ。

 呆気に取られた俺をよそに、英は深い溜め息をついて項垂れる。

「もー、わかってたのに。今の時期、何よりスコア読むほうが大事って、ちゃんとわかってるの。でも本当は上の空なのムカついてたの。だから校門で待ち合わせなんて、試すような約束にして。そしたら段々待ちぼうけくらってる自分がばかみたいに思えてきて、一人で買い物済ませて家に帰って電話したら呑気な声で『俺なんかしたっけ』とか言うから余計イライラしちゃって」
「……英ちゃんかわいー」
「もう、ばかにしてるの!?」
「あー、つい本音が」

 むっとした英が子どもみたいな顔してぽかぽか叩いてくる。
 力は入っていないから痛くもないけど。

「やー、なんか初めてじゃね? 英がそういうふうに怒るのってさ」
「意味わかんない」
「だって英って自分がこうむる不利益に怒ることあんまねぇじゃん。いつも人のためでさ。怒らせたってわかったときはマジで血の気引いたけど、なんかちょっと新鮮だったな」

 英はいつだって年上のお姉さんぶって、叱る時もいつも余裕だった。我を忘れるほど怒ることがあるとすれば大抵自分以外の誰かのためだ。だから変な話、嬉しい。
 こいつが自分をぞんざいに扱わなくなってきた証拠だと思うと。

 そんな俺の安堵とは裏腹に、自己嫌悪に陥っている英は溜め息をつく。

「……子どもみたいでしょ。自分が嫌になるわ」
「ふつーだろ。英が我が儘言ってくれたみたいで嬉しいけど、俺は」

 英は眉を下げて口をへの字にして、変な顔になった。
 これは照れてる顔だ。
 十七年間、四六時中一緒にいたんだ。微妙な表情の変化で、大体なんでもわかる。

「変なひと。普通面倒くさがるものよ、スコアとわたしとどっちが大事なの、なんて」


 そんなもの。
 野球をしている御幸一也が一番好きだと公言して憚らない幼なじみ相手に、なにを面倒くさがることがあるものか。


 気を抜けばゆるゆると笑ってしまいそうな口元を必死に引き締めて、掴んだ肘から徐々に下ろしていき、白く華奢な両手をぎゅっと握る。

「二度としません。英の話、ちゃんと聞きます」
「……許します」

 怒るを通り越して恥ずかしそうな英は、またぷいっとそっぽを向いた。


 しろひさんのリクエストより、「御幸が何かをしでかし、高嶺に本気で怒られる」お話でした。
 高嶺は基本的に自分の不利益に対して怒ることはない、と考えながら本編を書いていたので、「御幸に対して本気で怒るって何したんだろう」とだいぶ唸って考えてみました。「お父さんたちのためのお買い物」をすっぽかされたから拗ねたようなものですね。
 真っ青になって奥村くんや倉持に心配される情けないキャップ、楽しかったです。リクエストありがとうございました!



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