晴れの日のマニキュア



「英」
「ハイ」
「近けぇ」

 次の数学の授業で練習問題が当たるから教えてくれ、と教科書を持ってきたのは倉持なのに、開いたページを覗き込んで教えていたら額を押して遠ざけられた。
 最近こんな調子なのだ。
 以前までは何も言われなかった距離を、急に気にするようになったらしい。

「……問題見えない……」
「いいから教えろ」

 そんな無茶苦茶な。



 僅かな違和感を胸に昼休みの廊下を歩いていると、前方にクラスメイトと歩く健二郎さんの後ろ姿を見つけた。
 思い当たる節というか、変だなと思う面子に目星はつけてある。今のところ倉持、ノリくん、ゾノくんが変だ。ナベくんたちも、ニコニコしてるけどちょっとおかしい。いつも通りなのは一也くらい。
 さて、健二郎さんはどうかな。

 わざとパタパタ足音を立てながら駆け寄ろうとすると、健二郎さんは半身振り返ってわたしの姿を確認するや否やがばっと両腕を前に突き出してきた。
 両肩を掴み、しっかり止められる。
 ……いつもなら、足音が聞こえたらわたしが背中にぶつかっていくのを想定して、立ち止まって構える人なのに。

「……健二郎さん」
「廊下は走ったら危ないぞ」
「そうね。わたしに何か隠してることない?」
「あるわけない」

 健二郎さんはもともと表情の変化が希薄なほうだ。仏頂面というわけではないけれど、沢村くんや倉持みたいにコロコロ表情を変えるわかりやすいタイプではない。
 それに、同期の男の子たちのなかではだいぶ大人びているほうに入る。

 ……そんな彼が、隠し事を簡単に話すわけがないか。

 探り合うように見つめ合うこと十数秒。
 昼休みの終了を告げる予鈴が鳴り響き、わたしたちはそっと体を離した。





「……っていう感じなんだけど。ノリくん」
「なんで俺に訊くの……?」
「ノリくんも最近挙動不審だから何か噛んでるんじゃないかと思って」

 ぐっ、と身を固くして黙り込んだノリくんをじとーっと見つめながら、わたしは手元のボールに針を突き刺した。
 午後練終わり。今日のうちに終わらせる予定だったボールの補修が五個を残して活動終了してしまったので、みんなの夕飯や自主練中にちくちくやっている次第である。室内練習場の入口の脇で作業していたら、バットを振りに来たノリくんが話しかけてくれたのだ。

 丁度良かったので最近の同期たちのおかしな挙動について問い詰めてみた。

「き、気のせいなんじゃないかなぁ」

 怪しいなぁ。
 ノリくん、マウンドの上でならともかく、実生活じゃ嘘つけないタイプだし。

「……わたし、何かしたかしら?」
「え?」

 倉持の隣を歩けば「距離が近けぇ」と小突かれ、教科書を覗き込めば「顔が近けぇ」と顔を掴まれ、なんだこいつおかしいなと思って飛びつくフリをしてみたら死ぬ気で避けられる。どうもとにかくわたしと距離を置きたいらしい、しかも物理的に。
 ノリくんは倉持ほどキッパリ遠ざけられないので、そもそもわたしに近寄らないようにしている節がある。正直こっちのほうがショックだ。

 もちろんパーソナルスペースは人によって違うから、わたしの接近が不愉快だというなら改めるけれど、今まで全然気にしていなかったものを急に避けられたらさすがに気になるではないか。
 別に、こう、嫌われたわけじゃないんだろうけど。
 ただ男の子たちの態度の急変が不可解なだけで。

「自分が敵をつくりやすいタイプなのは自覚してるんだけど。倉持やノリくんにまでこうも距離を取られるほどまずいことをしたなら教えてほしいわ……」

 しょーんとしおらしく俯くと、ノリくんは途端に慌てだした。

「えっ、違う違う違う! 英ちゃんは何も悪いことしてないよ! いや悪いっていうかまずいっていうか」
「あーそう、やっぱ何かあったのね。そこんとこ詳しく教えてもらいましょうか?」
「あっなんだよ元気じゃん!? 嘘ついたの!?」
「こういうのはカマをかけたって言うんですー」

 入り口付近でわちゃわちゃしていたわたしたちに気づいてか、首筋に薄く汗を浮かばせた健二郎さんが呆れ顔で寄ってきた。
 振っていたバットを膝に置きつつしゃがみ込む。

「何やってるんだ」
「……言っとくけど健二郎さんだって怪しいんですからね」
「?」

 ノリくんほどあからさまでないけれど、普段よりもしゃがむ位置が拳三つ分ほど遠い。最初はさりげなさすぎて気づけなかったくらいだ。
 むすっとしているわたしに代わって、ノリくんは助けを求めるように「それが」と肩を落とした。

「最近、俺たちが挙動不審だって……」
「……ああ……」

 否定する気はないみたいだ。
 健二郎さんは小さく息を吐いてわたしに手招きをする。
 縫い目の補修中だったボールに一旦針を刺して、拳三つ分の距離を詰めて健二郎さんに顔を寄せた。

 そしてデコピンをくらう。

「いった」
「ほら。そういうとこ」
「……今けっこう本気でデコピンしたでしょう……」

 額を両手で覆って蹲るわたしの横で「英ちゃーん!」とノリくんがアワアワしていた。
 痛い。だいぶ痛い。手心も容赦もなかった。

「倉持が言いだしたんだ。英はボケっとしててスキがあるからいつか絶対に痛い目を見る、今のうちに俺らで男女の適切な距離感を叩きこむぞ、って」
「なにその性教育みたいな教育テーマ……」
「去年は色々あったから心配してるんだろ。で、心当たりのある俺たちも乗ることになったと」

 去年……。まあ確かに心当たりが色々あるな。
 しかも言い出しっぺは倉持か。そういえば看護モードに入ったからって調子乗るなって怒られたこともあったっけ。

「え、だからわたしあんな嫌われ者みたいな扱いを受けてたわけ」
「そうだ。だから誰彼構わずひっつくのはやめなさい」
「先生みたいな言い方して。楽しんでるんでしょ」

 健二郎さんは薄く口角を上げた。
 控えめに言ってまあ意味がわからないし、あけっぴろげに言ってしまえばまたなんか変なことして男の子っていつまで経っても子どもだなぁ、という感じだ。
 とはいえ、何十年も性別:女子をしているわたしには計れない基準がきっと男の子にはあるのだろう。
 お年頃だしね。

「誰彼構ってひっついてるつもりだったんだけどなぁ」
「なお悪い。手招きされたからってホイホイ顔を寄せるんじゃない。何されるか分からないんだから」
「何する気だったのよ?」

 不意打ちでデコピンをくらったのが悔しかったのでこっちもやり返すことにした。
 自分でも笑いそうになるほどあざとい上目遣いで見上げると、さすがの必殺仕事人は動揺することなく見つめ返してくる。

「そうだな。特に何をする気だったわけでもないが」
「わ」

 とんっと肩を押されて尻餅をついた。
 針の刺さったボールを持っていたから手で支えることもできず、練習場の壁に背中をぶつける。

「どうも趣旨がわかっていないみたいだし、いつか見る痛い目なら今見たって違いはないだろ。力じゃ敵わないことなんて頭のいい英なら理解しているだろうから──」

 顔のすぐ横を抜けた健二郎さんの手が背後の壁を叩いた。だん、と思いのほか力強い音がして、仕掛けた側なのに一瞬息を呑んでしまう。


「実力行使でいいよな?」


 逃げ道を塞がれて思わず彼を見上げる。
 真剣な表情の健二郎さんと目が合った。いつも静かな双眸の奥で、炎が揺らめく。

 本気か冗談かなんてものはさておくとして。
 そっと、彼の眸を見つめ返した。意外だ。この人がこんな風に迫ってくることがあるなんて、考えてもいなかった。
 ……成る程つまりこの『意外』だと感じる迂闊なわたしに、みんなは危機感を抱いているわけか。

 瞬きの音も聴こえそうな距離。

 ぱち、ぱち、とゆっくり睫毛を震わせてから、そっと唇に弧を描く。
 伸ばした指先で彼の顎先をなぞり、ついっと押した。


「なぁに。──わからせてくれるの?」


 健二郎さんは石になった。

 次の瞬間顔を真っ赤にしたノリくんが「ストップストップー!!」と腕を伸ばしてわたしたちを引き剥がす。そのまま健二郎さんの腕を掴んでわたしから必死に遠ざかっていった。
 へんじがない、ただのしらすのようだ……。

「ふふ。らしくないことするからよ」
「健全な年頃のオトコを弄んでんじゃね───!!」
「痛ぁぁぁいくらもち危ない危ない危ないってば針持ってるんだからわたし誰か助けてごめんってば!!」

 勢いよく飛んできた倉持が容赦なくコブラツイストに持ち込んできたので、わたしの情けない悲鳴が青心寮中に響き渡る羽目になった。

「うるせぇお望み通りわからせてやろうじゃねーか!! 痛い目見るって言っただろうが!!」
「えっこんな物理的な痛みなの!? それは知らなかった!!」

 わたしの手のなかにあった補修中のボールを、騒ぎを聞きつけてやってきた一也がひょいと取り上げる。

「助けてキャップ……!」
「白州をからかうのはよくねぇな。も少し痛い目見せてもらえば?」

 超いい笑顔で見捨てられた。



 その後、わたしの悲鳴が聞こえたので外に出てきた先輩たちにより事態は鎮静された。言い出しっぺがわたしにコブラツイストを極めるという状況になってしまったこともあり、純さんの「ワケわかんねーことしてる暇あったらバット振れ」といういかにも野球部脳な一言で、謎のキャンペーンは終了と相成った。

 健二郎さんの石化が解けたのは、それから小一時間も後のことだったとかなんとか。


 椎名さんのリクエストより、健二郎さんに「実力行使でいいよな?」と言われるお話でした。
 最初メッセージを見た瞬間「えっなにこれ書きたい」と思って採用させて頂いたのですが、その後、健二郎さんに実力を行使されるってなんだ……? と悩みの無限ループに突入。一度別の話を書いてみたものの、だいぶリクエストから逸れたので没。という感じでなかなか苦しんだお話ですが、最後には倉持のコブラツイストが全部持って行ってくれました。わちゃわちゃしてて楽しかったです。
 もっと白州くんのことを知りたい……。もっと台詞やモノローグや過去の回想を見てみたいです先生……。と願うお話となりました。リクエストありがとうございました!



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