天乃先輩の張り詰めた表情は最初から最後まで変わらなかった。
Bグラでコーチのサポートをする傍ら、時折部員たちに個別に声をかける。九鬼を移動させてベンチで脚の様子を見ていたり、テーピングをしている二年の部員の足首を見たりもしていた。片手に持ったバインダーに何かメモしたり、グラウンドに準備していた飲み物の残量を確かめては寮のほうへ向かったり。
厳しいことをむやみやたらに言うわけじゃない。
ただ部員たちに負けないくらい真剣な表情で練習を見ている。怖いくらい険しい表情になることもある。
よく見ている。だから、たまに放たれる正論が矢のような威力を持つ。全て野球部のための発言だと誰もがわかっているから逆らえないんだ。
怖い人だ、というのが正直な感想だった。
「どうだった?」
気づけば陽は傾き、野球部の練習は終わっていた。見学席はがらんとしている。
一人ぽつんと残る僕を気遣ってか、由井が肩を叩いてくれた。
「……すごい人なんだなって思った」
「うん。ついでに言っとくよ。このあと寮で夕飯なんだけど、先輩たちはそのあともずっと自主練をしているし、天乃先輩も時間の許す限りそれに付き合ってる。その日の部員の動きを見ていて感じたことを共有したり、誰かのティーバッティングで球出ししながらメンタルケアしたり」
「バケモノだね……」
「本当にね」
だってマネージャーだろ。選手でもないのに。
自分が野球するわけでも、ないのに。
***
校内で天乃先輩の柔和な笑みやしゃんとした背中を見かけるたび、僕は野球部の見学席で感じた畏怖を思い出した。
住む世界が違う。
何か一つのものに己の持つ全てを懸けて打ち込むような人は、ある程度遠巻きに眺めて憧れているくらいで十分だ。
そんなある日、駅前のショッピングモールの中にある本屋をぶらぶらしていると、お母さんから買ってこいと言いつけられていた少女マンガの新刊を見つけた。
表紙で笑う女の子はどことなく天乃先輩に似ている。黒髪のおさげだからかな。
このヒロインは吹奏楽部だけど。
「あ、これ純さんが読んでたやつじゃね」
レジに向かおうとしていた足がぴたりと音を立てて止まった。
「本当だー。なんか最近沢村くんもハマったらしいよ。教室で読んで大号泣してたって春乃が」
「沢村あいつ何やってんの」
……間違いない。
僕と背中合わせに並ぶ少女マンガの棚を見ているのは、天乃先輩と御幸先輩だった。どうやら表紙を眺めてボケッとしている間に同じ棚に来たらしい。
声をかけるような間柄でもないので、なんとなくそのまま立ち竦んでしまった。
「あ、懐かしいこのマンガ。まだ続いてたんだ」
「なんか見たことある気がする」
「わたし雑誌買ってたから。一也も勝手に開いて読んでたよ」
……一説によると天乃先輩と御幸先輩は地元が同じ幼なじみで、青道に行くと決めた御幸先輩とともに甲子園を目指すため、天乃先輩もわざわざこの学校を択んだらしいのだが。
ホントかよと正直疑っていたけど、この分だと信憑性が高そうだなぁ。
そういえば由井が、土日は練習試合だ、って言ってたっけ。
部活も早上がりだから買い物に来たのかな。ちらっと肩越しに後ろを見てみると、天乃先輩はゆるっとしたシャツワンピ、御幸先輩はジャージだった。デートというわけではなさそうな感じ。
天乃先輩は少女マンガの棚を端から眺めては「あっこれ」「面白そう」と一人はしゃいでいる。
彼女の持っていた赤本を奪った御幸先輩は、パラパラと分厚いそれを眺めて「うわ」と顔を顰めた。
「お前これ解けんの?」
「九割がた。それ志望大よりランク上のところだから」
「志望大じゃねーとこの赤本て意味あんのか?」
「なんていうかこう、比較して志望大の問題が簡単に思えてくる、みたいな」
「はぁ。よくわかんねぇ」
僕にもよくわかんねぇ……。
ただひとつ分かったのは、部活中よりも学校にいるときよりも天乃先輩がふにゃっとしていて、御幸先輩の声音もちょっとだけ優しいってことだけだ。
二人はその後レジに並び、つかず離れず隣同士で歩きながら、今度はスポーツ用品店に入っていった。
スポーツに縁のない僕には何が何だかわからない用具を眺めては「これかっこいい」「でも使い心地悪そう」などと謎の会話を交わしている。御幸先輩はどうやらキャッチャー用具のお手入れ用品を購入するらしい。
……ていうか僕なにやってんだ。
本屋までは偶然出くわしたで済むけど、ここまでついてきたらただのストーカーじゃないか!
ハッと我に返って棚の後ろに隠れたが、正直気になるものは気になるんだ。だって向こうは青道高校で一番有名と言っても過言ではない二人組で、というかそもそも御幸先輩は全国区で有名な選手らしいし、天乃先輩だってそうだ(春のセンバツで全国中継にちらっと映ったときネットでめちゃくちゃ騒がれたって聞いた)。
そんな二人が、学校でも部活でもないところでどんな風かなんて、みんな気になるに決まってる。
「これはストーキングではなく尾行」
何が違うのかというツッコミはさておき。
「僕はストーカーではなく、二人の生態が気になっているだけの観察者」
なんか余計にヘンタイっぽくなった。
そんな僕に気づいた素振りもなく、二人はスポーツ用品を購入してまた店を出る。
あとは決まった用事がないのか、ふらふらと天乃先輩の洋服を見たり、スポーツ系のブランドのお店を冷やかしたりと、のんびりとした時間を楽しんでいるようだった。
時折ちらっと見える天乃先輩の横顔は、僕の知る彼女よりもどこか幼い。
対照的に御幸先輩の横顔が、普段よりも大人びているのが印象的だった。なんといえばいいのだろう、天乃先輩を見守っている、って感じがする。
やがて天乃先輩は、御幸先輩に一言告げて立ち去った。
どこへ行くのかなと目で追うとお手洗いだった。慌てて御幸先輩のほうに視線を戻したところで、あれっと目を丸くする。
「いない……!」
「誰が?」
僕の横に立っていたのは張本人であった。
瞬間移動……? え、忍者?
一六〇センチを超えたとこの僕より頭一個分大きいところから見下ろしてくる御幸先輩。黒縁眼鏡の奥の双眸は柔和だけど、腕組みをしている姿勢のせいでかなり、威圧感が、ある、ような。
そうだったこの人、青道野球部のキャプテンなんだった。しかも正捕手で四番。西東京三強と呼ばれる青道野球部のなかの、間違いなく中心選手。
オーラも存在感も僕なんぞとは比べものになるはずがない。
「あのさ」
死んだ。僕死んだ。
御幸先輩は僕の顔がさぁぁぁっと蒼褪めたのを見て、思いのほか柔らかい微苦笑のようなものを浮かべた。
「……英って、学校じゃいまだに『高嶺の花』扱いで、部活じゃ『厳しいマネージャー』の顔をして、常に誰かから背中を見られてるような感じなわけ。生徒に、先生に、部員に、OBさんに、あと英のことをテレビや雑誌で見かけた世間の人たちに、常に青道高校野球部の天乃英として認識される。選手でもないのに選手並みの気苦労なんだよな」
「ハイ……」
「だから、二人のときくらいはただの『天乃英』でいさせてやりたいんだけど、わかってもらえる?」
「ハイ……」
すごすごと後退りはじめた僕に、御幸先輩は手を振る。
いまはニコニコと人の好さそうな笑みを浮かべているけど、「わかってもらえる?」って言った瞬間の真顔は本当にやばかった。理解を求めるような口調の裏に「わかるよな」って念押しされた気分だ。
っていうか、オーラあるぶん迫力がすごい。
普段怒らない人が怒ると本当にやばいってこのことだ。
「じゃ、また学校で」
「ハイ、あの、お疲れさまでした……」
「ああ」
僕は御幸先輩と向き合ったまま後ろ向きに歩いていった。さながら山中で熊と居合わせた登山者の気持ちである。
彼は一応最後までにこやかに僕を見送ると、ある程度のところできびすを返して元の位置に戻り、天乃先輩が出てくるのを待ちはじめた。僕もさすがに後ろ歩きに限界を感じたので体を反転させて、モールの出口方面へと歩きだす。
……二人のときくらいはただの『天乃英』でいさせてやりたい、かぁ。
なんか、そっか。
天乃先輩があんなに野球に真剣なのってやっぱり御幸先輩のためだし、御幸先輩はそんな天乃先輩のこと、誰に見られていない場所でも大事にしているんだなぁ。
そんで多分、由井もちゃんとわかってるんだ。彼女が誰よりも、見られていることを意識して生きていること。だから天乃先輩がどの先輩よりも厳しくて怖いって言うけど、彼女にサポートしてもらえて幸せだ、とも笑える。
OBのお兄さんたちだって言っていたじゃないか、そういう役割分担なんだと御幸たちもわかってる、って。
それってなんか、すごい。
……青道野球部ってすごいなぁ。
この春、青道高校の一年生になった僕はこの場所で憧れの人を見つけた。
青道高校三年生、野球部のマネージャーを務める天乃英先輩である。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、成績優秀で人柄もよくなんと昨年のミス青道コンテストでグランプリを受賞。その隙のなさから一年生の時点でついた綽名が『高嶺の花』。
部活中は、言葉より背中で語る三年生たちに代わって、後輩たちに厳しく指導する一面もある。一説によると部員以上の野球バカだと言われているらしい。
ただし運動が苦手なんていうあざとい可愛さもあって、実際、今グラウンドに見えている彼女はクラスメイトと一緒に授業前のランニングをしながら苦笑いしていた。
そんな様子を観察している僕に近づいてきたのは、同じクラスの由井薫だ。
「今日はなに見てるの?」
「今日も天乃先輩はかっこいいなぁって思って見てる……あ、こけた」
「たまにちょっと、うん、なんていうか、鈍くさいとこもあるんだよね。面白いよね」
ずべしゃ、と高校三年生にもなってそんな転び方すんのかってくらい見事に転んだ天乃先輩。あのコケ方絶対恥ずかしいな……。倒れたまま起き上がれないのは多分そういうことだろうな。
お腹を抱えて大笑いしながら近づいていった御幸先輩が、天乃先輩の細い腕を掴んで起き上がらせる。
体操服や顔についた砂を掃ってあげたあと、顔を覗き込んでまた笑った。
天乃先輩もつられたように肩を揺らしている。
で、そんな二人を心配そうに見つめていたクラスメイトたちも、ケタケタ笑いながら天乃先輩の肩を小突いたり背中を押したりしている。
その様子を見下ろす僕と由井も、机に頬杖をついてちょっと笑っている。
「今日も平和だなー」
「だね」
第三者視点シリーズの最後の更新は後輩男子視点でした。みあさんの「他人から見た半分コンビ」、ぽぽさんより「学校か部活の様子」、詩@さんより「高嶺と御幸のお出かけを尾行する」というリクエストで書いてみました。
クラスメイトといる時の姿と野球部員といる時の姿が違ってドギマギ……というふうなご指定もして頂いたのですが、ドギマギっていうかビクビクしちゃってますねこのアホの子くんは。書き始めた当初の予定以上にアホの子になってしまって愛着が湧きました。由井くんと同じクラスです。最後の最後、御幸先輩に撃退されるとこが書いてて楽しかったです。
リクエストありがとうございました!