ミラの剥片



 神田ユウは絶句した。
 見覚えのある少女が科学班のソファにちょこんと収まっていたからだ。

 母親とそっくりの二重瞼にヘーゼル・アイ。父親の血を濃く継ぐ黒髪。ほっそりと華奢な手足、未成熟なこどもの体に滲み付いた剣士としての立ち居振る舞い。
 初めて会ったときを彷彿とさせる、十に満たない姿の市村あこやがそこにいた。

 絶句する神田の団服に、半泣きのリーバーが縋りついてくる。

「すまん! 神田すまん、オレがついていながら……!」
「どういうことだこれは……」
「簡単に説明すると、室長の作った若返りの薬を栄養ドリンクと勘違いしたあこやが飲んじまって、かくかくしかじかで退行した。十年ほど」
「成る程あの巻き毛シスコン野郎を斬ればいいんだな」
「GOと言いたいのはやまやまなんだが待ってくれ神田……!」

 最悪なことに頭の中身まで退行しているらしく、あこやは警戒を知らない無垢な瞳で「うわぁ、お父さん以外にも日本人がいるんだ」と興奮していた。十年ほどということは八歳──神田にさえ出会っていないようだ。
 それが良いのか悪いのか、定かではないが。

「リナリーもマリも、頼りになりそうなのはみんな任務で出払ってるんだよ、頼むからこのおチビと一緒にいてやってくれ!」
「テメエらの不始末だろうが俺に押し付けんじゃねェ」
「そうじゃなくてだな神田」

 涙ながらに両肩を掴んでくるリーバーになんだか嫌な予感がした。

「室長曰く二日以内には元に戻るとのことなんだが、いつになるかは全くわからないんだ」
「おい人の話を聞け」
「元に戻った瞬間のあこやの状態を考えろ! 誰が服を用意してやるんだよ!」
「なんで俺に押し付けるんだよテメエらはっ!!」

 神田の猛反論も、科学班のおっさんどもの『元に戻ったあこやにセクハラ認定を受けたくない』という必死の訴えには勝てなかった。





 あこやは大きな瞳で、十年後の本部をきょろきょろと見渡しながら神田のあとをついてきた。

 とりあえず縮んだ瞬間に身につけていた稽古着をワンピース代わりにして、下着やら下履きやらは自分で片手に抱えている。ぺたぺたと足音が響いていたので後ろを振り返ると、裸足の状態で廊下を走っていた。
 靴も大きすぎて履けないのだ、当たり前の話だった。
 神田が振り返ったのに気がついて、あこやはきょとんと見上げてくる。

「お兄さんは日本の人? もしかしてチャイニーズだった?」

 凄まじい異物感を伴って、あこやの問いが突き刺さった。

「……神田だ」
「カンダ……てことは、日本人だ。すごーい。ねえ、その刀がイノセンス?」

 あこやは八歳でもあこやのままだった。好奇心に任せて他人の得物に触れようとはしない。
 ただ距離の詰め方が今よりも子どもで、かなり無遠慮に間合いに入ってくる。『教団がホームで団員はみんな家族』、疑いようもなくそう信じていた、神田の嫌いなあこや。

「……『六幻』だ」
「神田ってもしかして英語が苦手なの? あまりに語彙が少ないような……」
「はっ倒すぞテメエ!!」

 昔の自分なら口より先に拳でこいつを殴り飛ばしていたに違いない。
 ……がしかし、そうやって繰り返してきたド派手なけんかのなか、洒落にならない怪我を負わせたこともある。いまの体格差では冗談抜きにあこやを殺しかねないので、ぐっと堪えて溜め息だけついておいた。

 チビの膝裏を腕で掬い上げ、肩のあたりに抱き上げる。

「ね、今の室長、コムイさんっていうんだって? 室長が変わると本部の雰囲気も変わるんだね」

 コムイが本部の室長に就任したのは神田たちが十二歳の頃だ。ちなみに、ジェリーが料理長に就任したのもこの頃である。
 キャス──あこやの母親が亜第六研究所でアルマに殺されたのが九歳。カゲマサが任務で殉職したのは十四歳。この少女は、両親が数年後に死ぬことをまだ知らない。

 あこやの部屋に戻って服のなかから鍵を取り出し、扉を開ける。
 ここに帰ってくるまでの道中、すれ違った団員に「神田の隠し子……?」「あこやにそっくりだ……まさか」と囁かれていちいちキレそうになった。人を何歳だと思っているのか。そのたびにあこやが「あのね〜」と説明してやる羽目になっていた。

「着替えてくるからここにいろ。外に出るな」
「そんなに警戒しなくたって、よっぽど増改築してない限り迷子になんてならないよ?」
「いいから出るな。出たら斬る」
「はーい、わかりました。ね、お腹すいたからあとで何か食べたいな」

 部屋を出て扉を閉める。

 ──任務地でアクマを倒したときよりずっと疲れた。

 せめて神田と面識のある年齢でいてくれればまた気分も楽だったのだろう。あこやが八歳のときに教団にいた人間となると、任務でいないマリにリナリー、医療班の婦長、あとは元帥連中くらいか。
 他にもわんさかいるのだろうが、神田が顔と名前を把握しているのはそれくらいのものだ。

 殺風景な自室に戻って、穴の開いた団服を脱ぎ捨てる。
 面倒を見ろと言われても子ども相手に何をしろというのか。
 いっそこのまま放置してやろうかとも思ったが、それはそれで戻ってきたリナリーあたりが煩そうだ。神田の知らないところでひょいひょい外出して、その先でもし急に元の年齢に戻ったら、あこやは上の稽古着以外何も身につけていない露出狂になってしまう。

 エクソシストとはいえ、あれも一応、体は女なのだ……。

 深い深い溜め息をつくと、裾が長めのカーディガンを羽織って部屋を出た。



 あこやの部屋のドアを開けると、自分のクローゼットを漁って靴下を見つけ出して履いていた。ぶかぶかだが、どうやらそれで歩こうというつもりらしい。
「お腹すいたー」とてけてけ出ていこうとするので襟首を引っ掴んで、不格好なそれを脱がせて肩の上に乗せる。

「大人しくしてろ」
「いいのー? 剣士なのに片手塞いじゃって」
「お前一人くらい抱えたまま刀振れる」
「おおっ。さてはカンダ、なかなか強いな? お姉さんみたいな見た目で」
「落とすぞクソガキ」

 こいつ、見た目はばっちりチビのくせに態度は今と全く変わっていない。
 むしろ遠慮容赦がないぶん今より口が悪いかもしれない。

 やっとの思いで食堂に辿りつくと、科学班からすでに通達がいっていたのか、注文口ではジェリーがテンションマックスで出迎えてきた。
 筋肉質な体にいかついサングラスを掛けた料理長の登場に、肩に乗せた小さな体もさすがに強張る。

「あら────!! アタシの知らない小さなあこやじゃないの。可愛いっ!!」
「こ、こんにちはミスタ……ミス?」
「いやんジェリーって呼んで!」
「カンダ、カンダ、このひとドッチ?」
「知るか」

 こんな感じで料理の注文も一苦労だった。
 神田の蕎麦とオムライスとを一つの盆に載せて、空いていた適当な席に座らせる。周囲からはかなりジロジロ眺められたが、「あこやだ」「懐かしいなぁ」「あれが噂の八歳のあこや」と、この辺りまですでに情報は届いているようだった。
 小さな手でスプーンを握る少女を見下ろしながら、神田も任務終わりの遅い昼食をとる。

 見覚えのある白い頭が正面の席についたのは、あこやのオムライスがようやっと半分ほど片づいたときだった。
 吐き気がするほどの食事をテーブルの上に積み重ねると、その光景にあんぐりと口を開けて間抜け面になった少女に向かって「こんにちは、あこや」と微笑む。

「こ、こんにちは……」
「……何の用だモヤシ」
「僕の名前はアレンですけど、さっき科学班であこやの件を聞きまして、神田が意地悪していないか心配だから様子を見てきてくれと頼まれたんです」
「心配するくらいならテメエらで見やがれってんだ……!」

 バキィと手のなかで箸が真っ二つに折れた。
 幸い蕎麦は今しがた食べ終えたばかりだ。四本になった棒を盆に戻すと、そのまま隣の子どもの口元を手の甲で拭う。アレンの登場にぽかんとした拍子にケチャップがついていたのだ。

「んむ」
「きたねぇ。カゲマサに叱られるぞ」
「む……それは勘弁」

 カゲマサは行儀に厳しい人だった。
 コミュニケーション程度の会話は必要と判断していたようだが、彼本人は食事中ほとんど口を開かなかった。些細なことで神田とあこやがけんかになれば即座に叱られたし、ひどいときは拳骨まで降ってきたものだ。
 小さな頭を見ていたらカゲマサの拳の感触まで思い起こされて、神田は思わず苦い表情になる。

「……神田に女の子の世話なんてと思いましたけど、そうしているとなんだか親子みたいですね」

 ビキィと音を立てて神田の蟀谷に青筋が浮かんだ。
 勘の鋭い探索部隊がそそくさと退避を始める。アレンの入団から二ヶ月が経ち、もはやこの白黒コンビの険悪な空気は当たり前のものとなりつつあったが、それも上手く仲裁したり諫めたりできる黒髪の少女たちがいてこその話。
 年下のほうは任務、年上はあの有様──と、この有様の年上のほうが、はてと首を傾げた。

「そういえばカンダ、お父さんとお母さんはどこにいるの?」

 神田の視界の端で、アレンが顔色を変える。

「十年後のお父さんとお母さん、会ってみたいなぁ」

 科学班がこの少女を神田に押し付けた理由の一つは恐らく、この問いに平常心で答えられる自信がなかったからだ。

 現実を隠し立てしたところで、この縮んだあこやが十年前へと帰るわけでもない。
 十年後には両親が死んでいると知ったところでこいつなら納得しそうだ。
 そもそも戦争の最中に生きる身で、自分の両親だけは無事だなんて甘い気持ちも抱いてはいまい。

 ──とは、思うのだが。

 神田は頬杖をついて、頬にかかるあこやの黒髪を耳にかける。

「カゲマサは長期任務。キャスはアジア支部の研究所だ。……二人ともしばらく帰っちゃこねぇよ」
「えーっ、お母さんまだアジア支部にいるの? いつ本部に帰ってくる?」
「俺が知るか。黙って食え」

 アレンは神田のついた嘘に何も言わなかった。
 ただ、堆く重なる食事を淡々と胃のなかに収めながら、得意の穏やかな笑みを浮かべて「実は僕、まだお二人に会ったことがないんですよ。早く会ってみたいなぁ」と話を合わせている。

 薬の効果が切れれば、今目の前にいる『十八歳のあこやが縮んだ八歳の少女』は消える。
 どうせ消えるのならば、変わらない幸せがあるかもしれない十年後を信じさせても支障はない。

 そう心の中で言い訳をした。



「ね、十年後のわたしってどんな人?」

 食後、大浴場に放り込んだあと部屋に帰る途中で、あこやは本部をぐるっと一周したいと言ってまた神田を足に使った。
 左腕に抱えられた少女は、短い両腕で神田の首にしがみついている。

「ジジがねー、いつも言うの。あと十年もすればお母さん似の金髪美女になるって!」
「なるわけねェだろ阿呆が」
「なんですと……!?」

 金髪が年とともに茶や黒髪になるならまだしも、この生粋の黒髪が、キャスのアッシュブロンドになるわけがない。
 ジジの大法螺を真に受けていたらしく少女は眉を下げた。
 大聖堂を臨む静かな回廊をゆっくりと歩きながら、神田は十八歳のあこやの髪の感触を思い出す。

「テメエはカゲマサの黒髪もらってんだろうが。そのままだ、そのまま」
「えー。じゃあカンダとお揃い?」
「髪の色に揃いもクソもあるか」

 その理論でいくとリナリーもコムイもお揃いになってしまう。
 あこやは自分の黒髪を摘まんで眺めたあと、後頭部でまとめた神田の髪にも触れた。「サラッサラだ〜」と引っ張られて頭皮が痛んだが、怒鳴っても堪えるたちの子どもじゃないのは短い時間でよく解ったので、好きにさせておく。

「ま、カンダとお揃いも悪くないか」

 なぜこのガキはこんなにも上から目線なんだ……。
 出会った頃のあこやはこんな風だっただろうか。亜第六研究所での事件の直後は、カゲマサが片腕を失ったことやキャスが目の前で死んだこと、そして自分も負傷していたせいもあってか、もっと大人しく慎重な性格だったように記憶しているが──

「あァ……」
「どーしたの、カンダ」
「なんでもねぇよ」

 ……あの事件が起きたことで、変わってしまったのか、こいつも。
 神田の洩らした吐息に異変を感じて顔を覗き込んでくる少女が、眉を寄せて「どっか痛いの?」と首を傾げる。落っことさないように背中を支えると、少女は神田の顔面を何かから守るように全身で抱きしめた。

 子ども体温に覆われて前が見えなくなったので、仕方なく足を止める。

「ンだよ」
「カンダの痛いの痛いの〜、あこやの膝まで飛んでこーい!」
「飛んでかねぇよバカか」
「あれ、おかしいなぁ」
「テメエみたいなクソチビにやるかよ」

 ばりっと首根っこを掴んで引き剥がすと、あこやは堪えきれなかったふうにぷっと噴き出して笑った。
 ころころと子猫のような朗笑が響く。

 これから経験していくであろう膨大な喪失も、悲劇も知らない、ただ戦争の真っ只中に生まれた不幸な子どもの幸福な笑み。
 神田の知らないあこやの笑顔だった。

「笑うな」
「なんでーっ、鼻つままないで痛い痛い……」


 その瞬間、ぽんっ、と小さな肢体が煙を噴く。


 なんの前触れもなかった衝撃に驚いて手を離すと、煙をまとった体が床に落っこちた。
「痛いっ」と聞こえてきた声が先程までのソプラノよりも少し低かったことに気づいて、神田はカーディガンを脱いで上から掛ける。

 廊下の窓を開け放ち、そこから白い煙が外へ流れてゆくと、見慣れた姿のあこやが廊下に座り込んでいた。

 チビではワンピース状態だったティーシャツを上に着て、下は神田が掛けたカーディガンで隠れている。
 人のいない場所にいたおかげでリーバーたちの危惧した最悪は免れたようだ。欲を言えば部屋で元に戻るのが最善だったが、そこはあとでコムイをシメるとして。

「げほげほ……うー、何事? あれ神田?」
「は───……」

 呑気な顔でこちらを見上げる彼女の姿に、自覚していた三倍ほどの疲労感が圧し掛かってきた。
 思わずしゃがみ込んで頭を抱えると、あこやは「どうしたの?」と手を伸ばしてくる。


 間抜けな顔、格好、けれど無遠慮なようでいて神田の間合いに入ることを意識している、慎重な指先。
 背中にずっしりと襲い掛かる疲労のなかに一抹の安堵が滲んだ。


「待て動くんじゃねぇ自分の格好をよく見ろ」
「はっ…………わたしは一体なぜ半裸でこんなところに……?」
「テメエが……」

 安堵を自覚した瞬間、積もりに積もった怒りが爆発した。

「科学班に転がってた正体不明の瓶をなンも考えずに勝手に飲むからだろうがッ!! そのへんに落ちてるモン拾って食うなってカゲマサに教えられなかったのかこのバカが!!」
「ひ──っ、なんかよく憶えてないけどゴメンなさい!」
「疲れた。帰る」
「いやいや待ってこの状態で放置しないでお願い神田!」

 本気で放置して帰る予定だったが、しっかと足首を掴んで阻止される。
 八歳児の服の代わりとして着ていたのは十八歳のあこやのティーシャツが一枚。そして神田がなけなしの慈悲の心を振り絞ったカーディガンが一枚。それだけだ。下着も靴もない。このまま本部を歩けばいくらあこやとて露出狂の汚名は免れない。

「……二度と科学班で変なモン口にするな! わかったな!! 次があったら細切れにしてやる!!」
「ごめんなさい〜〜」


 致し方なく神田は再び元に戻ったあこやを肩にかついで部屋まで戻った。

 それまでの道中、すれ違った団員たちに「お、戻ったか……」「隠し子再び……」と微笑ましげな顔で見守られていちいちキレそうだった。


 金糸雀さんのリクエストより、幼女化した主人公の世話をする神田のお話でした。
 コムイさんの怪しいお薬であれこれするのはDグレ夢では鉄板……! とかなりテンションの上がったお題です。なるべくほんわかしたものを、とのことだったので心掛けたつもりでしたが、すみませんこの二人すぐしんみりするしすぐケンカする……。でも書いていてとっても楽しかったです。
 金糸雀さん、リクエストありがとうございました!



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