ゴミ箱

0716
Sun
おにのかくらん 降谷零

***

 がちゃん。

 1DKの狭い部屋では、鍵の開く音って異様に響く。まして一人暮らしで、室内にいながら外から鍵を開けられることに免疫のない人間は、この聞きなれない音に縮みあがる。まず強盗を疑い、合鍵を渡している人間を思い浮かべ、かろうじて2つめの鍵が回りきる前に安全な候補を思い出した。が、その候補たる恋人があまりに多忙なので、無連絡で唐突にこの部屋に現れる確率が強盗並みに低く、手近に武器になりそうな鍋を握って見守った。ドアノブが下がり、開き始める。その時点で普段なら、これが零くんだとしたら八割がた彼だと自信を持てるはずなんだけれども、今日の私は自信を持てない。気配はなんとなく零くんらしく思われるけど、何も言葉を発さないからだ。そしてなんというか、生気もあまり感じられない。

 「……零くん?」

 もはや願いをこめてで呼びかけてみるも、返事はない。でも、人間の声に驚いて引き下がるわけでもないので、よっぽど肝が据わった強盗か、あるいは元気ナシの零くんか。まだ前者の線があるなと思い、手をのせていた程度だった鍋を本格的に構えて立ち上がりかけたが、開ききったドアの向こうにいたのは一応馴染み深い金髪長身のグレーのスーツで、首を傾げてしまった。間違いなく足の長さが零くんでは、ある。が。

 「……おか…えり……?」
 「………」

 反応が、何もない。というか項垂れすぎて前髪に隠れて顔も見えない。よっぽどひどくショックを受けるようなことがあったか、あるいは、体調が最悪か。鍋はひとまず置いて立ち上がり、ものすごくスローモーションで玄関内に入ってくる零くんのもとへ向かって、手のかばんを受け取ろうとしたら、この長身がぐらりと私のほうへ傾いてきてとっさに鞄を見捨てた。激重かばんがタイルを壊しかねない鈍い音をたてて地面に落ちる。

 「ちょ、ちょっとちょっと待ってちょっ……重っ、無理ある無理が!零くん!!」
 「………ねむい」

 受け止めようとは頑張っても、まず長さが違うので無理がある。人という字は人と人が支えあっている、みたいな金言が頭をよぎった。ぜんぜん支えられません。後ずさって重心をどうにかずらしても、今度は力の入らない零くんだけ床に落ちてしまいそうで力も気も何も抜けない。

 「むりむりむり!まだだめ、もうちょっと頑張って!私じゃ無理!起きて!!」
 「……おれもむり」
 「頭打つ打っちゃうから!!」

 疲労がピークを超えてしまっているらしい。長い付き合いでも2回ぐらいしか聞いたことがない一人称で、しかも眠いだの無理だのとこのサイボーグが弱音しか吐かないなんて。力が入っていないことなんかより圧倒的に、口走っている内容が事態の異常性の高さを示している。これまでだってぐったりで帰ってきたことぐらいはあるけど、このプライド鬼高サイボーグ、人前で“疲れた”“痛い”“つらい”“休みたい”の類の言葉が使えないように機能が制限されているので、言えなかったはずなのだ。少なくとも、前会ったときまでは。

 「起きて、あと3秒だけでいいから」
 「……3」
 「3秒」

 数字が魅力的だったのか、零くんはようやく壁を支えに自力で立った。ここでやっと顔が見れて、私はそのやつれ具合に絶句した。クマがひどすぎるし、痩せたし、あの肌荒れ知らずの童顔に毛穴と無精髭まで出現している。ありえない。2徹したってここまでじゃなかったのに。

 驚いてばかりもいられないので、衝撃は引きずったまま腕を握ってベッドへ誘導した。転がってしまう前にジャケットだけ剥いだら、そのままベッドにうつ伏せに倒れていってしまった。まあ、ここまで来てくれれば、あとは転がせばどうにかなるので、起こすことは諦めた。

 電気を消し、仰向けになるように転がす。息苦しそうなネクタイを解いて引き抜く。ボタンを3つ外してゆるめる。バックルが刺さりそうなのでベルトも外して引き抜く。頭を抱えて下に枕を入れる。タオルケットをかける。これだけのことが、身体が長すぎて相当な労力を使った。この人を介護はできない。

 「…お疲れさま」
 「……すー」

 言葉はなにも届いていなさそうだ。のび太かなってぐらい一瞬で、リズムの整った、おだやかな息の音がしてくる。こんなに無防備な顔なんてめったにさらしてくれないので、ちょっとテンションが上がってきて、レンジで蒸しタオルを作って顔や首も温めて拭いて、保湿もしてあげた。それでも彼は起きなかったし、なんならちょっと気持ちよさそうだったので、私も満足して、はやめに居間の電気も落として隣にもぐり込んだ。

 「零くん、ちょっとつめて」
 「……ん、」
 「ありがと」

 極端に体臭が薄いひとなのに、首筋から耳あたりに顔を埋めたら、いつもよりも匂いが濃かった。シャワーを浴びる隙もないぐらい忙しかったんだろう。好きな人の生きてる湿った匂いは無敵に安心するので、今のうちに堪能しておこうとしたら避けられた。意識もないのによっぽど嫌だったらしい。もう。

 *

 彼の存在を忘れていたので、接している体温と寝息に驚いて目が覚めた。ということで、寝起きはとても良かった。起きて零くんが来ていたことを思い出しても、自分が彼より早く目覚めたことも、私が起きても微動だにしないこの事態も驚くべきことだったので、とても寝ていられなかったのだ。

 時計は7時。祝日にしては早いけど、普段やってもらっていることを返すにはちょうどいい。なるべく空気を動かさないようにベッドから抜け出して、浴室へ向かう。お風呂をわかして、遅めの朝食をとってもらえれば、多少のねぎらいにはなるだろう。自分も顔を洗って、髪をまとめてキッチンへ出た。

 零くんが目を覚ましたのは、それから2時間後。起きるまで朝食を待とうと思って、それまでしのぎで飲んでいたコーヒーの匂いがきっかけになったのかもしれない。寝室のほうで突然ぶちっと寝息が途切れ、「…は?」といういやにはっきりした声が聞こえたので、壁越しに「おはよー」と返したら、2秒の間ののちに零くんがボサボサのままバタバタと登場した。顔全部が“わけがわかりません”と言っていて面白かった。

 「なんで…ここに」
 「覚えてないの?昨日自分で零くんが来たんだよ」
 「…うそだろ。何も覚えてない……あ!携帯!」
 「充電したよ。今のとこ鳴ってません」
 「え?……あ、ああ、……そう…ありがとう」

 フル充電になったスマホを手に返したら、ぜんぶ中を確認して、たぶん起きなきゃいけない案件がなかったかを見返して、ややあって大丈夫だったようで深くため息をついていた。忙しい人だ。

 「よく眠れた?」
 「……すごく。ありえないぐらい落ちてたな」
 「よかった。お風呂わいてるよ」
 「悪い、助かる…」
 
 記憶がないままやらかしたことがいちいちショックなようで、落ちている鞄だの脱ぎ散らかしてある靴だのに「ウワ…」と言いながら、零くんは脱衣所に消えていった。あげく、「服!そのまま寝たのか僕は!?」と脱ぎかけで飛び出してきてよけいに笑わされた。ちょっと潔癖だもんねそのへん。

 「ジャケット取り上げただけ褒めてよ。もうそれ以上は無理だった」
 「…待て、まさか自力で脱ぎもしなかったのか?ネクタイは?」
 「取っちゃった。首しまっちゃいそうだったし」
 「……ほんっとうにごめん。シーツ類全部洗う」
 「気にしないで、面白かったよ。早く入っておいでよ」

 やらなくていいってどんなに言っても彼はダメで、自分が風呂場に行く前にシーツと枕カバーをぜんぶ剥いできて、そのまま洗濯機のある脱衣所に一緒に入って行った。本当は止めようと思ったけど、こっちが遠慮しただけ向こうが倍気に病むと察して、やりたいようにさせた。元来人の面倒をたくさん見るほどちゃんと生きている人なので、自分が思いがけずやらかしたものぐさが人に迷惑をかけるだなんて考えられないんだと思う。大変な人である。

 「本当にごめん…」

 やっとぴかぴかになって出てきた零くんは、顔色こそよくなっていたものの、とってもげんなりした表情だった。無理やり箸を茶碗を持たせながら、「思い出した?」と聞いたら、静かに首を横に振られる。

 「会議を終えて、車に乗ろうとして…疲れすぎてるから運転はやめたほうがいいと思って車を置いてきた判断までは覚えてる。タクシーも自分で捕まえて…それで、……なんて言ったんだったかな…」
 「大学館本館?」
 「……言った。それだ」

 それは零くんのじゃなくて、我が家の近くのランドマークだ。タクシーやなにかで自宅の場所を言うときにいちばん伝わりやすいからよく使っている。逆に彼の家は近所に目印になるようなものがあまりないので、タクシーに乗ったら住所を言うか、通りの名前を指定して、この店のあたりを曲がって、などとと言うしかない。それを長々と説明するより、大学館のひとことで済むほうがずっと楽だったのだろう。

 「完全に自宅に戻ってきたつもりでいたよ…」
 「エレベーター乗ったらわかるじゃん。零くんちないんだから」
 「…いや、乗ってないな。階段で上がった、やけに階段遠いなって思った覚えはある」
 「うわヤバ。疲れすぎ」

 自力で立っていられないほど疲れているのに、そんな身体で4階まで階段で上がってくるなんて考えられない。しかもそんな息切れはしていなかったような気がする。あのコンディションで階段を足でなんて上がったら、たいていの人間は行き倒れそうだ。無事で良かった。

 「ていうか、何でそんなに死んじゃってたの?」
 「…全部の役の仕事が同時に立て込んだ…と言うしかないかな」
 「わぁ…ミスりそう」
 「スレスレだったよ。一応全部クリアできたから、少なくとも二役はあと丸二日休みになる」
 「おめでとう。もう一役に入らないことを祈るばかりだね」
 「本当にな。電波ジャックでも起きてほしいよ、全通信機器が使えなくなるぐらいの」

 そう言いながら3つ分の携帯を全部視野に入るような位置から外さないんだから仕方のない人だ。休まることがあるのかなあ。




続きが思いつかず、供養になりました

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