テニプリ リョーマくんと
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📞Ryoma 42:05
この履歴の表示をみると、心臓のはしをつままれているみたいな感覚がする。たったの四十二分、あれだけでこうも心構えを変えられてしまったことは、約一か月たった今もちょっと信じがたい。
窓のそとをみたら、地上よりずっと強い太陽光が雲に真っ白に乱反射していて目が痛いほどだった。気分がいいものでは決してなかったが、目はそらさないでいた。日光でも乗り物酔いでもなんでもいいから、気を紛らわせていたかったからだ。浮足立った気持ちに何もせずにただ首まで漬かっていると、発狂しそうになる。
残り所要時間の表示が、一時間を切った。画面上では、飛行機のアイコンが関東の上空に乗っている。長かった。あともう数時間で直接顔を合わせることになる。ロスから羽田、約十二時間のフライトは、結局ほとんど眠れなかった。先月これをやった彼は、この快適とは言い難い時間をどうやって過ごしたのだろう。
日本に行くことになった理由は、リョーマ——私の弟みたいな幼馴染——がすべてだ。
リョーマは私と同じ、米国生まれ米国育ちの純日本人だ。初めて会ったのは彼が小学校に入ったころで、地元のテニスチームで一緒になった。歳は三つ離れていたし、向こうがジュニア大会を総嘗めにするような忙しい天才児であまり地元にいなかったこともあって、それほど一緒に過ごした時間は長くない。それなのに、どうしてだか最初からずっと気が合った。同じような出自の日本人学生はほかにも数人いたけど、一番仲のいい日本人は誰?と聞かれたら、そろってお互いを指していたぐらいには、気を許し合っていたと思う。
そんなリョーマが、日本の中学に入る。と聞いた時は、世界の終わりぐらいショックを受けた。まったく予想していなかったからだ。なくなってしまうかもなんて恐れたこともないような、いわば空気とか水とかそういうものに感覚が近くて、急にいなくなるなんて聞いたら脳みそがシャットダウンした。本人を前に泣いて泣いて、三時間も口を閉ざした。三歳も下の男の子を相手に、である。今思えばさすがに悪かったなと思うけど、冷静にやめるなんてことは到底できない精神状態だった。
それほど落ち込みきったお姉さん相手に、もちろんリョーマは困っていた。悪くもないのに謝ってみたり、飲み物やらお菓子を渡してみたりとおろおろしたのち、どうにもならなかった私の機嫌をとるのに、別に東京とロスなんて会おうと思ったらすぐ会えるだろ地方じゃあるまいし、なんて大人みたいなことを言った。ど正論で小学生に慰められる高校生一歩手前の図はかなりシュールだったが、まあ当事者の私はそんな俯瞰はできず悲嘆に暮れていたし、リョーマも本気で優しかったので、日本に到着したその日から、毎晩こちらの夜、向こうでは真昼間に電話してくれるようになった。俺がいなくて寂しい?とか、また泣いてたの?とか、生意気にからかってくるのがくすぐったかった。誓って言うけど、ここまで本当にリョーマのことはずっとずっと、小さくてかわいい男の子だと思っていた。このあたりから強引に意識が変えられてしまったのだ。
四月六日の夜。日本では四月七日の昼。リョーマの中学の入学式が終わったころの時間だった。
『Hi.元気?』
あとになって思い出せば、いつもとは調子が違った。少年らしい高めの声を、なるべくクールに低めに出して、いつにも輪をかけて大人っぽく話していた。
「もう泣いてないよ」
『ほんとかな。おばさんに電話して確認していい?』
「やめて、ほんとに。死ぬほどからかわれる」
『オレの前で泣いちゃったこと?』
「ねえそれ一生こする気でしょ」
『泣いてる千瑛が可愛かったんだからしょうがないじゃん』
かわいいばかりのはずの男の子が、こなれた発音で自分に“かわいい”を向けてきたことには、ここで少なからず動揺した。でもそれは隠して、会話を続けた。入学式のかったるい長話のこと、ホワイトボードではない黒板のこと、日本人はアメリカの子たちよりも全体的に体格が小さくて、顔立ちも子どもっぽいこととか。
『オレもあっちでそう見られてたんだなってよくわかった。身長ほしい』
「えーうそ…次会ったとき身長抜かれてたら泣きそう」
『へえ、いいこと聞いた。絶対泣かす』
「…抜かれるのやだから私も伸ばそ…」
『ゲ。もういいじゃん。いい加減待っててよ』
「私に勝ってどうすんのよ」
『見下ろすだけだけど』
そう言われてリョーマの顔を自分の頭上に思い浮かべた。似たような顔立ちのリョーガのせいで、それを想像するのは難しくなかったけど、どうしてもあの、手を繋ごうと言うとおとなしく手を伸ばした小さなリョーマが思い浮かび、なんともいえない喪失感をおぼえた。あんなに、あんなに可愛かったのに。「嫌すぎる…」とごちると、電話の向こうから『なんでだよ』とあきれた声がした。
『いつかは絶対抜かれるんだから諦めたら』
「抜かれる前に会いたい……」
『ふ、別にいいけどさ。だったら急いだほうがいいんじゃない』
「ほんとに行こうかな。来月ぐらい…」
『……』
不思議なもので、電話越しに毎日声を聞いていたら、頭のなかでどんどん存在感が増していた。どこを歩いていても思い出す。余計なことに関心はもたず、人を食ったような態度で我儘を貫く裏表のないリョーマ。その隣の居心地の良さは別格だった。いなくなってみてやっと、自分が依存していたことを痛感する日々だ。
『…あのさ』
置いて行かれたような寂しさにとらわれていて、このときのリョーマの覚悟をきめたような声には気付かなかった。パソコンで安いフライトを探し始めていたせいであまり聞いていなくて、適当に返事をしたとき、本当に突然仕掛けられた。
『好きだよ。千瑛のこと』
「うん………え?なんて?」
『昔からずっと。小学生じゃ相手にされないと思って、今日まで待ってた』
聞き間違いかと思う隙はあっという間に埋められて、じわじわ理解して息をのんだ。画面なんて見ていられず、マウスから手を離して、理由もなくおろおろとパソコンを離れて窓際で膝をたたむ。『好きだよ』目の前にいなくても、声色からどういう顔をしているか分かる。勝気な、試合相手を怯ませる迫力の真顔だ。
「…まって。それってLoveの話?Likeの話?」
『…聞く?それ』
「だって、そんな…大事なことでしょ」
『聞かないとわかんない?ホントに?』
「……」
ほとんど確信はしていたけれど、それでもどうしても念を押さなければ、自分からわざわざラブを切り出す行為とリョーマが結びつかなかった。恋愛事というか他人自体にというか、テニスと猫とゲーム以外には興味を持たない少年だから。……のはず、だから。
リョーマの猛攻は止まらなかった。色気すら感じる掠れた笑い声で、『loveでしか接してないよ、オレ。誰かさんは鈍ちんすぎて何も気付いてなかったみたいだけど』と言い連ねてくる。今まで受けたどんな告白よりも、ボーイフレンドに言われたことよりも、明らかに胸が震えていた。
「も、わかったから…勘弁して、ね」
『やっぱり直接言えばよかったかな。中学入ってからってのにこだわっちゃったんだけど、反応見たかった。ねえ、今どんな顔してるの?』
そう言われて部屋の鏡を見て、がっかりした。自分の顔はあきれるほど真っ赤で、表情がとけていた。考えるまでもなく大差で負けていて、格好のつく返事を探して見つからなくて、結局、『恋人にしてよ』の文句で陥落した。繰り返しになるが、ついこの間まで小学生だった十二歳に。この秋高校に上がろうという人間が、である。
そしてこれから数時間後、“恋人”になってから初めてリョーマに会う。
ここまで緊張しているのは、ここまでお姉さんヅラで接しておいてあのざまで、シンプルに“どんな顔で会ったらいいの!?”というのももちろんあるが、もう一つ大きな懸念としては、“会ったらやっぱり弟みたいだった”になってしまうんじゃないか、ってことだ。身長で男の良しあしなんて語る気はなくても、シンプルにほぼ幼児のころから接している相手なのだ。電話で顔が見えなくて、それっぽいことを言われて流されちゃっただけなんじゃないか。実物を前にして、本当に“ボーイフレンド”の認識でいられるのか。これがもしダメだったとすると、リョーマとの関係ごと破綻してしまいかねない。
“——皆様、当機は間もなく着陸態勢に入ります。離席されている方は座席に戻り――”
まだリョーマの学校が終わるまでは時間がある。まだ、大丈夫だ、まだ。数時間の余地がある。到着してから心の準備を整えよう、と思って、往生際悪く目を閉じた。
*
「千瑛!」
転ぶかと思った。まったく油断していた。リョーマは学校をサボったのかなんなのか、制服で普通に到着ゲートで待ち構えていた。呆気に取られて固まる私をよそに、当たり前みたいに私のスーツケースを奪い、流れるように空いた私の手を握った。
「な、なんで。何してるの。学校は?」
「早退したけど…なんで?」
「……気持ち作らせてよ…」
「気持ち?……なんの?」
「まだ会わないと思ってたのに……」
「え?オレに?……いまさら?」
「思ったけど、私だって。でもさすがに緊張するでしょ…するよね?」
「全然?」
「……」
「なんてね。ちょっとはしたよ。でもそれより、早く会いたかったからさ」
「……う、」
「そんな顔してたんだ」
ついさっきまで男の子扱いなんかできるかなあ、などと心配していた理由が思い出せない。それぐらい初手から攻撃の手が緩まない。どれだけ隠したって空いた片手では表情もほぼまる見えだ。もはやちょっと泣きそうになりながら、自分よりやや下の目線から逃げ回った。恥ずかしすぎる。ここから丸二週間居候なんて耐えられるのかしら。
「二週間お世話になります……」
「ずっと待ってたよ。会いたかった」
「やめて……ちょっとほっといて」
「照れちゃって。かーわい」
「ねえ!」
「あ、時間ちょうどいいのある。バスにしよ」
「……はい…」
年上の威厳などまったくなく、やたらテキパキした制服姿の少年に連れられて言われるまま切符を買って高速バスに乗り込んだ。スーツケースは一度も返してもらえなかったし、乗り込むときまでレディファースト遵守。まあもっとも、一か月で急成長したというより、彼の場合はもともとわりとこういう資質が高い。南次郎さんのダメぶりを倫子さんが具体的に叱っているのを見続けて育っているからかもしれない。
「フライト疲れたでしょ」
「さすがに長いね。飽きた」
「寝れた?」
「ぜんぜん、なんか目瞑ったけど寝た気しないよ。リョーマ寝れる?」
「あんまり。目冴えるし基本ずっと映画みてる。疲れたら寝るけどすぐ起きちゃう」
「だよねえ。結局ワイスピ2回見た」
「全く同じことした」
目的のリョーマの家にほど近いターミナル駅までまる三十分かかったけど、体感は十分程度だった。毎晩一時間近く話しているのに、息をするように話が出てくる。彼を追って狭いバスの通路を下りながら、恋人として認識できるか問題はさておき、やっぱり一緒にいるのは好きだな、と思った。
駅から先はタクシーで越前家に移動した。さすが元プロテニスプレイヤーの持ち家なだけのことはあり、明らかに周囲の家よりも広々とした和様式の豪邸だった。
「倫子さんたちは?」
「夕方には帰ってくるよ。夜寿司でいい?」
「えっいいの!?」
「歓迎会したいんだって。あの人たち好きでやってるから気にしないで」
「ありがたい…すいません」
「部屋二階だから」
「あ待って重いよ!?私やる」
「それをオレが持たないでどうすんの」
四の五の言う隙はなく、スーツケースはそのまま階上へ持ち上げられていった。かなり大型なのでさすがに体格で持て余して持ちづらそうだったけど、重さに関してはなんということはないようで、涼しい顔ですたすたと上がっていく。
あてがわれたゲストルームには、ベッドも簡易的な机もハンガーもあり、小さな冷蔵庫まで備えてあった。ベッドの上にタオルや部屋着の類まで積んでくれている。まるでホテルの設えだ。二週間人の家ということにある程度覚悟してきたのに、全く必要なかった。
「洗濯機とかも勝手に使ってって言ってた。風呂場一階。足りないのあったら言って」
「ありがたーい…こんなにしていただいて、ちょっと申し訳ないね。二週間も」
「本当に気にしなくていいと思うよ。めちゃくちゃ喜んでるし、泊まれって言ったの向こうだし。…オレも嬉しい」
「……油断してた」
「今のは別に狙って言ってないんだけど…」
不意打ちの攻撃だと思ったら、本人としてはそうとられたのが不本意だったようだ。この程度で?みたいな顔をしながら、冷蔵庫からファンタとオレンジジュースの缶を出してきて、オレンジのほうを私によこし、ベッドに腰をおろす。その隣に座り、よく冷えたジュースを口に含むと、自覚していなかった疲れがどっと出てきた。
「はー…やっと落ち着いた」
「メシまで時間あるし、ちょっと寝たら」
「そうさせてもらおっかな。…あ!」
ドアの隙間から久しぶりのカルピンの顔が見えて思わず声をあげる。一瞬その音量にびくっとしていたが、一応顔を思い出してくれたようで、カルピンは前足でドアを押して部屋に入ってきて、ベッドに飛び乗った。そのまま私とリョーマの間の微妙な隙間に入り込み、立派な尻尾をおろして、狭いだろうそこにすんなり落ち着く。
「…ジャマなんだけど。分かってやってんだろお前」
「あはは」
「どいて」
ところが、リョーマが持ち上げようとしても、カルピンはぬるっと手から逃げて、今度は私の膝の上を陣取った。しっぽをぱたつかせているのが、“どかせるもんならどかしてみろ”と煽っているように見えて笑う。人間が入っていそうな振舞いだ。リョーマは、「こいつ…」とぼやきながらも結局すぐ諦めていた。愛猫家は結局お猫様に勝てないのだ。
「ちょっとおっきくなった?」
「食って寝るしかしてないからね。日本の餌気に入ったみたいで」
「へー。グルメだねカルピン」
「ほあら」
「手間かかってしょうがないよ。作んないと食わないときあるし…」
さっきまで喧嘩していたのに、カルピンがお尻を向けるのをやめてリョーマのほうを向けば、彼は無遠慮に耳をつぶすように何度か撫でる。雑なようで、実はカルピンが一番体の力を抜く撫で方だ。
「…それ、リョーマにしかできないよね」
「え?…どれ」
「カルピンこうやってなでるの。耳ぐしゃって」
飼い主然としたその仕草が昔からなぜか好きだ。自分にできないせいか。
「…そう?できると思うけど」
「リョーマだから許してるんだよ。ねー?」
私がやったら間違いなく逃げ出すだろう。許されているのは後ろ頭と背中までだ。ほわほわの毛玉を撫でていたら、同じく撫でていたリョーマの手が、ふいに私の手に重なった。どきっとして身体に力が入ってしまう。
目線の気配を感じて顔を上げたら、やっぱりあの猫目がまっすぐ私を向いていた。間抜けにも、距離がまるで恋人同士だな、と思ってから、恋人なんだったと思い出した。その変化についていけるかどうかをあれだけ心配してたのに、一緒にいたら結局リョーマはリョーマで変わらない。当たり前のことだけど。
「……もっと嫌がるかと思った」
「…ふ。全然嫌じゃなくて私もびっくり」
その手を逆に握り返して、掌をくすぐるように指先で撫でる。大きくなったなと思った。熱さは変わらないけど、かつてのぷにぷにした肉感はもうない。ラケットのせいで豆もあってざらついているし、筋肉もついて質感も硬くなった。変わらずテニスばかりやっているだろうことは、聞かなくてもわかる。
「…それ、やめない?」
あんなに飄々と甘いことを言っていたくせに、こういうのはダメらしい。拗ねた赤い顔がかわいらしく目をそらしていて、見た途端に自分が雷に打たれて無能になったのがわかった。心臓を打ち抜かれるってこういうことだ。ふつうなら不利になりそうなかわいいことをすら武器にしてくる小悪魔ぶり。
「なにそれ、かわいいんだけど」
「ぜんっっぜん嬉しくないんだけど」
「ああくるしい。かわいい、つらい」
「ねーえ。分かっててやってるでしょ」
「かわいい…」
不本意に可愛がられて不機嫌になるのも可愛くて、わかっていてからかい続けると、まったく痛くないデコピンがふってきた。ポーズで痛がると、今度はデコピンされたのと同じところにみじかくキスをされておちょくるのをやめざるを得なくなる。一瞬だけ接近した湿った体温で気絶するかと思った。
「そっちのがよっぽどかわいいよ」
とはいえさすがに照れはあったみたいで、リョーマはさっとベッドを立ってドアのほうへ行ってしまった。カルピンもそれを追ってベッドをおりていく。おでこキスの衝撃でものも言えず追えずで固まっていたら、リョーマが「寿司5時半。おやすみ」と振り返らずに言って、ドアを閉めて出て行った。出際に耳が赤いのだけは、見てとれた。
「……ひえー…」
会ったらやっぱり弟みたいな感覚に戻って、関係が終わっちゃう?
ばかなことを心配したものだ。リョーマはリョーマのスタンスを崩さずに、余裕でボーイフレンドの役もできるらしい。なんの違和感もないどころか、今までどうして意識せずにいられたのかがわからないほどである。
残り二週間。どう考えたって帰りたくなくなるに決まっていて、その気持ちのけじめのつけ方のほうを心配したほうがよさそうだ。
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