謎に 我愛羅
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二週間ぶりの自里。泥のような疲れ。早くこの砂まみれの服を全部脱ぎ捨てて風呂に入って寝たい、しょっぱいものが食べたい、次々とわく煩悩にだけ頭を使いながら、くたびれた身体を引きずって歩く。思ったことがそのまま念写できたらいいのに。今筆をとって報告書を書くなんて途方もないことに思えた。
受付で帰還報告をして、雛形を受け取る。カウンターで肘をついて、必要事項を書き入れながら半分寝ていたら、だいぶ遠くから誰かを呼ぶような声がして、それを認識できた直後ぐらいに「おい!」と耳元で怒鳴られて縮みあがった。
「ひゃい!すみません」
「寝てないでさっさと書け、馬鹿者」
バキさんだった。さっき思い浮かべていた煩悩が夢と散るのを感じた。用もなく話しかけて、書きあがるまでわざわざ横で待つような距離感などではないので、間違いなく雑用を与えに来たのだとわかる。せめて地獄の雑用ではありませんように。待たせたら雑用が倍になりそうなので、読めるぎりぎりぐらいの汚い字で殴り書きしながら「ご用でしょうか」と聞いたところ、「喜べ」と言われてがっかりした。地獄確定演出ありがとうございました。聞きたくないけどさっさと殺してほしいなと思って筆を止めて次のセリフを待ったら、完全に悪役の笑顔で、
「お前は今日からジョウニンだ」
と言われた。……。
「じょ……。なんて?」
悪いことしか受け入れられないモードになっていたようで、言われたことが全くぴんと来なかった。ぼけっと相手を見上げると、手にされたうち、細いほうの巻物を目前に開かれる。私の名前、そして、右の者を上忍と認める、の文言と一緒に、巨大な風影の角印が押されていている紙面に、目線をたっぷり三往復させてやっと、さっき言われた“ジョウニン”が、“上忍”で、それが自分だと分かって息が止まった。目指し続けていた昇進が叶ったのだ。いきなり。
「ありがとう…ございます」実感もわかないまま、ふわふわとお礼を言うと、「そしてさっそくだが」と悪辣な笑顔に両肩を掴まれて縮みあがった。何度高低差を味わえばいいんだ。
「な、なんですか…嫌なんですけど」
「安心しろ、朗報だ。記念すべき上忍としての初任務も決まっている」
「はや!いつですか…明日とか無理ですよ?今回けっこう疲れて…」
「バカを言え。三十分後だ」
「は!?…さんじゅ、はあ!?ブラックすぎる!」
「いつから上忍の世界がホワイトだと錯覚していた?」
「昇進なのに!なんで!」
何の疲れもとれないまま、洗濯もできないままUターン出張が決まり、絶望して頭を抱えたが、上の命令は絶対なので四の五の言っている時間がもったいない。十分でシャワー、十分で荷造り、向かいながら内容の把握をするしか方法はないので、それ以上の会話もそこそこに報告書と任務内容の巻物を交換して自宅に飛んで帰った。
任務内容は、先発した潜入部隊への物資補給と経過報告の受け取りで、行先はさほど遠くなく、所要時間は二日程度を見込む、と書かれていた。そこまでは、なーんだ楽じゃん、と思って読めたが、その次の、『隠密性を上げるため、編成は上忍二人のみとし』…の情報で絶望した。少数精鋭の極みみたいな編成に、昇進したてほやほやの挙句、任務帰りでろくに休めていない人間を組まないでほしい。鬼だ。私もかわいそうだし、何よりかわいそうなのは組まされる相手である。足を引っ張って恨まれたくないので、せめて多少の知り合いか、優しい上司だといいな、と思いながら、巻物をさらに広げてペアの名前を探して、…凍った。
「…え」
我愛羅。
いきなりの昇進よりも、帰還後三十分で里を出ることよりも、飲み込めない衝撃だった。
*
我愛羅と私は同い年で、アカデミーの同期でもある。
とはいえ足並みを揃えたのはスタートラインだけで、彼は最初から別格だったので、仕事でかぶったことは一度もない。位が下忍だったころも、ふつう上忍が請け負うような危険な任務ばかり受けていた。よって彼との縁はアカデミーに通った数年きりだし、当時だって会話もしたことがない。下手をしたら向こうはこっちの名前も覚えていないんじゃないかと思う。
が。
こっちは違う。忘れるどころか、大げさな言い方をすれば、彼は私の後悔の象徴だった。
守鶴という人智を越えた化け物をその身体に封じられた彼は、理不尽に恐れられ、爪弾きにあっていた。子どもの頃は今よりもずっと不安定で、彼が制御できないときは、影が化け狸になったり、身体が震えて異常に発汗したり、動物みたいに苦しみ呻いて動けなくなることもあった。守鶴ってものがなんなのかを知らずとも不安になるようなさまだったので、彼に埋め込まれた天災に近いその化け物を知っている大人が怖がるのも、無理もなかったかもしれない。……封じられた対象に自我がある以上、なんの免罪符にもならないが。
なんにせよ、私の親も含め、里の大人たちの怯えぶりは尋常ではなかった。そして、その影響をもろに受けた思考力のない子どもたちは、容赦なくその嫌悪を行動に移した。分からない頃は物を盗んだり暴言を吐いたりといった派手な嫌がらせをして、年齢が上がって刺激するのが怖くなったら、机を離したり無視したりと陰湿なまねをした。扇動した大人は当然助けないし、この態度は上級生にも下級生にも伝播した。要は、私たちの代が彼を陥れた諸悪の根源だった、ということである。
バケモノを身体に飼うストレスに加えたこの最悪で、我愛羅は心を閉ざし、ひどい時には殺人衝動も抑えきれないほどに心を病んだ。そのまま孤立して里の兵器となるように思われたが、転機がおとずれる。失敗に終わった木の葉崩しから、彼はまるで別人に変わった。起伏の激しかった情緒は安定して、無口だったのが努めて人に話しかけるようになり、協調を覚えた。そうして実績も重ねて自分に張り付いたネガティブなレッテルを数年かけてはがし、里の中で一定の立場を築き上げ、今や次期風影の呼び声も高い。
さて、そんな鰻登りの評価を受ける我愛羅とは対照的に、そんな彼を貶めた記憶がありありと残る私たちのほうはといえば、当然後悔と絶望の日々である。同期で話すときは、必ずこの話題が出て、誰もが口を噤む。あんなにひどい仕打ちをしておいて、今更ごめんなさいとかありがとうとかすごいねとか、到底口にできやしない。
あの頃の私は本当は、彼の地獄の不遇を理解していたし、かわいそうだとわかっていた。それでも助けなかった。関わることが怖かったのだ。加害者にだってなりたくなくて、我愛羅をとりまくすべてを大きく避けて生きていた。最も卑怯な手で、当事者から逃れたのだ。あの苦い記憶はじっとりと心に澱のように沈んで、約三年が経つ今も私の言動を監視し続けていた。
いっそ罵倒してもらいたい。扉の向こうにはもう、我愛羅が待っている。息をついても、身体の緊張がなにも楽にならない。あんなことをしておいて、敵意を向けられるのが怖かった。どこまでも卑怯が染みついていて嫌になる。
とはいえ時間は迫っていて、そうも言っていられないので、観念して扉を押した。卒業してからはもう、遠巻きにしか見ることがなかった彼がそこにいた。
「失礼します」
背がのびて、面差しもぐっと大人びていた。無表情は変わらないけれど、そこにかつての危なっかしさはひとつもない。その目に敵意が見えないことに安心して、そういう器の小さな自分に余計にがっかりした。
「千里です。今日付けで拝命したばかりで、ご迷惑をおかけすることも多々あるかと思いますが、どうかご指導のほどよろしくお願いいたします」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼む」
手が差し出される。一瞬呆気に取られて、慌ててその手を取って、ゆるく握り返されたとき、初めて彼に触れたことに気付いた。あんなに狭い教室に、何年も一緒に通い続けたっていうのに。
この二日間が終わったとき、取り返しがつかないぐらい自分を嫌いになりそうだなと思った。