手をつないでひるねして

***



 浴室で反響する鼻歌が、折り扉越しに聞こえてくる。短調の独特なメロディ、なんだったっけ、と首を傾げて、すぐに思い至った。まいにち、まいにち、ぼくらはてっぱんのー。たい焼きくんだ。さすがたい焼き愛の男。

 「早く出てよー?時間なくなっちゃうから」

 うえでやかれて、までで鼻歌が途切れて、水の音がした。上がるかなと一瞬期待したけど、まあ、そんなわけはない。「あとにじゅっぷーん」…長すぎる。

 「つーか純も入ればいーじゃん?」
 「えーやだ」
 「えーなんで」
 「暑いもん。早くしてね。あと2ふーん」

 古い換気扇が無能すぎて、こんな脱衣所では1分とじっとしていられない。足でサーキュレーターのスイッチを押して部屋を出る。さすがのわがままプーも、今日という今日の時間の余裕のなさは分かっているようで、文句を言い返してくることなく湯舟から上がる音がした。

 今日という今日。やつの妹エマちゃんと、やつの長年の相棒ドラケンくんが、結婚式を挙げる日。

 彼らが結婚するってことは、ドラケンくんからプロポーズの前、指輪選びの相談を受ける形で知った。先に聞いているだろうという予想に反して、マイキーはそれを知らなくて、わたしがその夜にぽろっと伝えてしまった。ふつうに「マジでぇ!?やっとー?」といつもの調子で言ったくせに、そのあと妙に安心しているというか、不安材料がひとつ消えた、に近いような顔で溜息をついていた。詮索もしなかったけど、なんだかあの顔は引っかかって残っている。ただふたりがくっつくか心配だったとか、そういう感じじゃなかった。しかもまだ油断ならないとでもいうみたいに、ちょっと険しい顔で空を睨んだりして。

 さっきわたしが閉じた湿度の扉が、ばたんと開く音がして、考えるのをやめた。冷蔵庫から麦茶を出して、グラスに氷と一緒に注いでおく。

 「あっちいー無理なんだけど下げていい?」

 許可を取るポーズだけは取るけど、下げていいって聞く前から5回ぐらいピピピが聞こえていた。「何度にしたの」「19度」バカの気温設定。でも確かに半裸の身体はほかほかで、見るからに暑そうなので、文句は言わずに麦茶をあげた。

 「おっサンキュー」
 「わたしもシャワー浴びてくるね」
 「クソあちーよ。飲んでけば」
 「え?…わっ」

 飲みかけをくれるのかと思ったら、真顔がぐんと寄せられて後頭部を押されてキスが来た。唇が麦茶のあじだと思ったら、まだ冷たさの残る麦茶が少量だけ、口の中にうつされる。香ばしい麦茶を飲み込むと口が離れ、まつげの刺さりそうな間近に挑発的な黒目が覗き込む。

 「もっといる?」
 「…、」

 熱っぽく、有無なんて言わせない顔。時間がないとか、もっといるって聞いたくせに麦茶がないこととか、ぜんぶがばーっと頭から溶けていって、ぼんやりと黒髪が似合うなとだけ思った。頷くと、また唇に食いつかれて頭の芯がじんと痺れる。湿度、シャンプーとマイキーの匂い、唇と舌の感触。ばかになりそうでいい加減に危機感が沸いたころに、大げさなぐらいのリップ音をたてて、キスが終わる。

 「…さ、支度すっかー」
 「あ。…時間!あと1時間で出るからね!」
 「それオマエのがやばくね?終わんの?」
 「終わらせる!」
 「オレのネクタイはー?」
 「自分でやって!」
 「いやオレ結べねえし」

 いいかげんそのぐらい結べてほしい成人男性。ドラケンくんにやってもらえ、って喉まで出かけて、今日の主役が向こうだったと頭を振った。同居人の傍若無人がどんどん自分のものになってきている気がする。

 無理もないと言えばない。出会って10年、付き合いだして7年、来月のアパートの更新を越えたら、一緒に住んでもう6年になる。





 パスされた駐車券を財布に押し込んでいる間に、車は薄暗い駐車場へと入り込んだ。翌祝日の日曜のホテルは、ランチ時でもないのにみっちりで、見るなり運転手は「げぇ」と呻いた。

 行儀よく磨き上げられた車が整列していると、なんだか背筋が伸びるような、場違いなような気分になってくる。片づけなんてほぼしないから、後ろは靴だのDVDだので散らかっているし。覗かれるようなことはないだろうが、おりたら多少整頓しようかな、と今更思った。

 「あ、あそこは?」
 「軽じゃね?場所的に。…ほら軽〜」

 絶好の場所だと思ったら軽自動車専用だったり通路だったりを繰り返し、諦めて地下最下層までおりて車を停めた。エンジンが止まってから自分が窮屈なパンプスを脱ぎ散らかしたままだったことに気付いて、慌てて足を通す。荷物を小ぶりのパーティバッグに移し替えるのも忘れていてもたもた準備するわたしに、マイキーが呆れ顔で手を差し出してくれた。

 「入んないやつ」
 「…すみません」

 入りきらなくなったハンカチや袱紗、招待状を遠慮なくその手に乗っけて、どうにかクラッチのボタンが留まる。それを見届けてマイキーはさっさと車から降りて、わたしがきちんと靴を履き終えたときに、わざわざ回って助手席のドアを開けてくれた。エスコートがめずらしくて目をまるくすると、居心地悪そうな目が横に逃げる。

 「別にー?なんかこけそうだし、足痛ぇってあとで大騒ぎしそうだからぁ」
 「別に何も言ってないじゃん。ありがと」

 決まりの悪そうな手をとって車から降りて、そっと腕を絡めて歩き出す。慣れた相手でも向こうはスーツでわたしはドレスで、なかなかない揃った正装の感触があいだに挟まれるだけで、非日常感に心もち浮足立ってしまう。それはたぶんマイキーも同じで、エレベーターへの誘導ひとつとってもなんだか今日は紳士然としているように見えた。

 「何階だっけ?」
 「親族の方は8階。わたし2階の待合にいるから、終わったら連絡して」
 「え?オマエも行くでしょ」
 「へ?」

 当然別行動だと思っていたわたしは、すでに2階のボタンも押してしまっていた。何を言い出すのかとぽかんとするわたしを相手に、マイキーも何言ってんのオマエ?みたいな顔をして見つめ返してきて、2階でちんと止まるや、閉じるボタンを押されてしまった。何もできないうちにエレベーターが会場へと浮上してしまう。

 「ちょっと待って、親族紹介だよ?」
 「分かってっけど。何?」
 「いや、何って」

 世間一般で親族紹介とは、恋人も行くものなのだろうか。それこそ婚約をしているとかならその場には入るかもしれないけど、わたしは特になにも言われていないってのに。知らないうちにプロポーズとかされてたっけと思い返そうとするも、そんな記憶は1ミリも思い当たらない。常識が食い違い、お互いにはてなマークを頭上に並べる。なんでこの人はわたしが行かないって判断に、心底予想外、みたいな顔をしているのか。

 「だって、なんて説明するの?わたしのこと」
 「彼女って言うけど?」
 「それ親族じゃ…」
 「みてぇなもんじゃん、ケンチンなんて誰も血縁じゃねーし。もいいから行こうぜ、時間」

 うんざり顔で“時間”だなんて言われて目が飛び出そうになった。なんだと。それじゃまるでわたしが常識でマイキーに劣っているみたいだ。そんなの幼稚園児未満といっていい。

 「ちょっと待ってマイキーに時間の説教だけはされたくないんだけど!」
 「あーハイハイいいから」
 「この……」

 今に喧嘩してやろうと思ったのに、無情なエレベーターは目的フロアについて、マイキーはわたしを8階へと引きずり出してしまう。進むまいと足を突っ張る前に、穏やかに祝福してくれるムードの式場スタッフからの挨拶にくわえ、向こうで真一郎くんたちと目が合って満面の笑顔で手を振られてしまい、溜息をついた。これで引き返せるわけがない。

 だいぶ気が引けながらも親族控室に入ると、真っ先にエマちゃんが「純ちゃん!」と歓迎してくれた。とたんに、居た堪れない場違い感がすっとどうでもよくなる。それぐらい彼女はきれいだった。前会ったときよりもさらに仕上げて浮き上がったデコルテラインを、パールのネックレスと細かなレースのオフショルダーが際立たせている。目鼻立ちのはっきりしたお顔に、プリンセスラインの真っ白なドレスが眩しい。駆け寄って来たそうだったが、たっぷりしたオーガンジーが邪魔していたから、わたしが駆け寄って差し出された両手を握った。

 「きれい!すごくきれい、おめでとうエマちゃん」
 「ありがとう。来てくれてめちゃくちゃ嬉しい!マイキーとはどう?喧嘩してない?」
 「してねぇし」
 「マイキーには聞いてない」

 別人みたいなのに、話してみるといつものエマちゃん。なんだか圧倒されて言葉がうまく出てこない。なにも始まっていないのに泣きそうになってしまう。シルク越しにぎゅっとその小さな手を握ると、負けないぐらい握り返された。

 「こんな…こんな美人な奥さんもらってドラケンくんは……」
 「はは、だな。すげぇラッキーだと思ってるよ」
 「!ちょっと、やだ!やめてよケンちゃん」
 「なんだよ、さっきまで褒めろとか言ってたのに」

 真っ赤に照れたら余計に可愛くて、目が釘付けになってしまう。こんなにきれいだったっけ。花嫁ってすごい。ドラケンくんも頬が緩みっぱなしだ。幸せオーラが強すぎてあてられてしまいそう。兄二人の奥さんたちと一緒にわたしはひたすらエマちゃんを褒め称えていたが、気の利かない彼女の兄たちは後ろでまるでいつも通りだった。

 「オマエらも車?混んでたろ」
 「ヤバかった。内堀通り動かねぇし、とめんのも時間かかるし」
 「だよな!?聞けよ、イザナ見越して前泊したんだって」
 「マジ!?ずる!言えよ!」
 「なんでいちいち言わなきゃなんねぇんだよめんどくせぇな」

 「……」

 ふいにその山もオチもない会話が耳に入ってしまい、女4人揃って眉をひそめてしまった。別に悪い話題ってわけでもないけど、これだけきれいに着飾った妹を前に渋滞の話とは。

 「車って…」
 「今する話?それ」

 上2人が真っ先にぎろりと男たちを振り返り、男3人はぴたりと止まる。「すんません」光の速さで真一郎くんが頭を下げ、あの気の強いイザナくんもマイキーも揃って口を閉ざした。義姉たちが強い。

 「お揃いでしょうか?」

 スタッフの方のお声かけで、わたしはエマちゃんの手を放し、それぞれに与えられた位置に並んだ。新婦側は上から、真一郎くんとその奥様と二人のお子さん、イザナくんとその奥様、そしてマイキーとわたし、その他に彼らの叔母や従兄弟数名。新郎側は、ドラケンくんの保護者代わりだという正道さんと、長く店員さんを務めているらしい廣井さんの2人。

 そういえば、真一郎くんたちもなにも言ってこなかったけど、この場に呼ばれたってことは、一応家族として末永くやっていくつもりがある、ということだろうか。今更ながら。

 「それでは、ご挨拶に入らせていただきます――」

 曖昧なままに、会がスタートした。





 「…信じらんない……」
 「なにがー?」

 いまだ顔も耳も熱くてコントロールが効かず、両手で押さえているが温度は一向に下がらない。なにが、じゃない。『兄のマンジローでーす。これ彼女の純。かわいーっしょ?よろしくお願いしまーす』メンツがメンツとはいえ、一応厳かな空気を守っていた挨拶の場は、この大バカ丸出しの挨拶で一気に崩れた。エマちゃんとわたしだけが顔から火が出そうになっていて、ドラケンくんはわたしたちの手前爆笑できはしないが噴き出して顔を背け、新郎側の親族は遠慮なく爆笑したし、イレギュラーすぎる挨拶でスタッフさんは明らかに戸惑っていた。

 「恥ずかしすぎる、死にたい…」
 「まだ気にしてんの?いいじゃん別に」
 「よくない!!!」

 ただでさえその肩書でその場にいることが変だっていうのに、その上あのおバカ丸出しの紹介。もともと知り合いのほうは分かってくれてるからどうだっていいけど、スタッフさんたちも含めて初対面の人たちは大問題だ。あ、あなたはそれに付き合ってんのね、っていうぬるーい目線。今日はまだ長いっていうのに、死にたすぎる。

 やらかした本人はあっけらかんとしたもので、何も悪いと思っていないからタチが悪い。「ごめんってー」と音だけで謝ってくる肩をすぱんと叩いたら、背後から「うお」と声がした。

 「なにこんな日にケンカしてんだよ」

 場地くんだった。その後ろから、ウェルカムドリンクを2つ持って三途くんも現れる。「目立ってたぞ」と言われてさらに死にたくなりながら、飲み物をひとつ受け取った。

 「早ぇなオマエら」
 「そうでもねぇよ、オレらはさっき。あいつらのが全然早え」

 示されたその後ろの光景は、もう、ああヤンキー集団だな、としか言えなかった。暴走族を引退して時間がたったとはいえ、わりあい自由な職場にいる面々が多いからか頭は色とりどり、そこはかとなく小物類もネクタイもギラギラでヤンキー好み、ちゃんと立ったり足を揃えて座っているような男は一人もいない。品行方正な大人が見たらどう考えても顔を顰めそうな、マナーの悪い光景。でも、ここ数年でちゃんとマイキーの影響を受けたわたしも、この空気になんだか実家みたいな安心感を覚えて笑ってしまった。

 「アッ、…総長!!」

 たむろしていたうちの一人が、マイキーの顔を見てはっと姿勢を正し、それで周りも気付いて、ガラ悪く統制の取れていなかった集団が一斉に背筋を伸ばした。マイキーはなにも動揺せず、「もう総長じゃねえし。楽にしろよ」なんて笑っていて、今更ながら上に立つ人間の度胸を感じて感嘆してしまう。

 「で?何喧嘩してたんだよ」
 「あぁ……聞く?それ」
 「何」

 一度は意識の端に追いやられたその事件を、そのままふたりにリプレイして伝える。マイキーはそれを聞く間も何も悪びれず、普通にグラスを傾けていた。

 「『兄のマンジローでーす。これ彼女の純。かわいーっしょ?よろしくお願いしまーす』」
 「ぶっは!!!ひっでぇマイキー!ガラ悪っ」
 「だってなんか暗ぇしつまんなかったんだもん」
 「挨拶にエンタメ性求めないでよ!エマちゃんも死にそうな顔してたよ!?」
 「なんでエマ。関係なくねぇ?」
 「……」

 やらかしたことをまるで分かっていないマイキーに、3人揃って言葉が出せなかった。思わず顔を見合わせ、溜息をつく。そう、こういうヤツなのだ。しかも言ったって伝わらない。それも全部分かっててここまで一緒にいるから、今更文句は言えないんだよね。

 「……とりあえず今の発言は伝えとくわ」
 「やめてやれよ…幸せ絶頂ってときに」
 「…確かに」

 誰からともなく溜息がかさなったとき、「マイキー君!場地君!三途君!」と続けざまに呼ぶ明るい声が聞こえた。振り返ると、武道くんとヒナちゃんと千冬くんだった。千冬くんは相変わらず場地くんの顔を見たらぱあっと顔が明るくなる。同じ職場なのにそのリスペクトたるや、もう恋慕の域で笑ってしまう。

 そして片や武道くんはといえば、なぜかマイキーの顔を見て目を潤ませていて、思わずマイキーのほうも見たら、その涙の理由が分かっているように「何泣いてんだよ」と武道くんの肩を叩いていた。何事だったのか考える隙もなく、続けざまに向こうのヤンキー集団からマイキーへ別の声がかかる。

 「総長!ちょっとだけお話いいすか」
 「あ?…あー…」

 元チームメイトからのお誘いに一瞬腰を浮かせかけて、ちらりとわたしを見てくる。連れを気にするなんてことを覚えたんだなと変なところで感心しながら、その背中を押した。

 「気にしないで行って。久しぶりなんだから。ヒナちゃんと待ってるし」
 「…そ?」
 「ほら、みんなも行って」

 今到着したばかりの男2人もまとめて、元東卍のメンバーのほうへと押しやる。元総長を始め幹部陣、かつての立役者の登場で、彼らは沸いていた。行って3秒と経たないうちに騒ぎが起きていて忍び笑う。改めて引きで見ると、男の母数の多い会場だ。

 「久しぶり。元気だった?」
 「はい!純さんも、相変わらずマイキー君とラブラブですねっ」
 「えー?ふたりには負けるよ」
 「そんなことないですよ」

 はにかむヒナちゃんの左手には、ダイヤのエンゲージリングとシンプルなマリッジリングが重ね付いていた。普段はなにも気にしていないつもりなのに、それを見るとちくりと胸が突かれる。訳の分からない親族挨拶に連れては行かれても、指輪はおろか、将来的な話だってひとつもしたことはない。わたしに至っては、故意的に避けていた。そんな話を挟んでマイキーがちらっとでも困った顔をしたら、ずっと引きずる傷がついてしまいそうで。

 どっと向こうで笑いが起きる。集団の中で、マイキーと武道くんを中心にして爆笑が起こっていた。あちこちから背中をどつかれたり、頭を撫でまわされている武道くん。涙が出るほど笑っているマイキー。

 ぼんやり見守っていると、同じ方を見ていたヒナちゃんが万感の思いを込めたような、しっとりしたため息をついた。

 「よかった……」
 「え?」
 「え?…あ、色々あったなって思って!みんなまたこうして仲良く集まれて、本当に良かったなあって…」

 東卍時代の話だろう。ほんのり聞いたことはあっても、詳しくは知らないその内容を彼女は知っているらしい。さっきの武道くんの涙は、その感慨深さからなのかもしれないとひとり結論付けて、「そうだね」と相槌を打ち、彼らを見やった。

 なんだかんだ言っても、男同士でバカ笑いしている顔がいちばん好きだ。さっきのバカみたいな挨拶ができる人だから人を集めるのかもと今なら思えて、怒りがすっと落ち着いた。





 披露宴はひたすらに明るく騒がしく進んだ。元東卍からふたりへの余興は謎に全力のソーラン節だった。練習しているなんて欠片も知らなかったわたしは、イントロの最中に隣におとなしく座っていたはずの同居人が立ち上がったのを、雰囲気に浮かされたのかと思って慌てて捕まえてしまった。それが最悪のミスで、「え?オマエも行く?」とにんまり笑われたかと思ったらいきなりステージに連れて行かれてしまい、小学校以来のソーラン節をわたしまで踊ることになったのである。わたしの強制参加を皮切りに次々他の参列客も、最終的には新郎のドラケンくんまで飛び入り参加したので、練習不足や不揃いはそんなに目立たなかったけれども、パンプスの足は死ぬかと思った。

 「急すぎる…」

 音楽が止まると、満場の歓声と喝采がステージを包んだ。上がった息を整えながらステージを降りようとすると、車のときと同じようにすっとエスコートの手が伸びて、悪戯っぽい満面の笑みが迎えた。

 「でも楽しかっただろ?」
 「…」

 悔しいけど、それはそうだった。振付なんて忘れてしまってあちこち見ながら出鱈目だったし、マイキーを含めた創設メンバーの異様なキレキレソーラン節は爆笑をさらったし、エマちゃん含めて参加しなかった観客側も、しっちゃかめっちゃかのステージの様相に大ウケで、わたしが知りうる限りの披露宴のなかでも最高に盛り上がっている。この人がいるとそうなっちゃうんだよなあ。一見めちゃくちゃだけど、こうやってみんなを楽しませてしまう。

 その後もなんだか、マイキーを中心に披露宴は展開していっているようにさえ思えた。新郎側の友人代表はガラじゃないと断っていて三ツ谷くんだったので、式典中に立ち上がったのこそそのソーラン節だけだったけれども、どのスピーチにもスライドショーにも主役級の登場だったからだ。衆目が集まるたびに大統領のように手をあげて挨拶していたし。

 ただ、一度だけその反応が曇ったことがあった。

 「ずっと引っ張ってきてくれたドラケンとマイキーに感謝してます。楽しかったな!」

 三ツ谷くんのスピーチの締めくくり、感謝しているというそのワード。結局また大物っぽく会場内に向けて挨拶してはいたが、その前に一瞬だけ表情が凍り付いたことに、たまたま気付いてしまった。隣にいたわたしでなければ見なかった角度だろう。その違和感に引きずられるようにして、ドラケンくんの結婚をわたしがうっかり漏らしたときの反応を思い出す。感謝に凍り付いて、ふたりの結婚に不自然なまでに安心するその心は、いったいなんなのか。答えはもちろん分からないまま、式は終盤となり、新婦から親族への手紙のプログラムに入る。

 宛先は、真一郎くん、イザナくんに続いて、最後にマイキーが呼ばれた。

 「マイキーへ。マイキーに手紙なんてすっごく変な感じだけど、みんなに書いちゃったし仕方なく書きます」

 メイン照明が落とされた会場が笑いで沸く。呼ばれた本人をうかがうと、意外にも腹を立てても、笑ってもいなくて、穏やかな、なんというか、凪いだ真顔で彼女のほうを見ていた。なにを考えているのか、やっぱり分からない。

 彼女の話すいちばん歳の近い兄の話は、終始面白かった。8割がエマちゃんから恨み節で成り立っていたトークではあったが、彼らが仲良く育ってきたことがマイキーを知らない参列客でもうかがい知れただろう。話は、マイキーが最初に自分をマイキーと名乗り始めたきっかけにさしかかり、いつぞやエマちゃんとふたりで話していて教えてもらったそれを久しぶりに思い出した。昔からそういうことができたひとなんだって、教えてもらったときにもう一段深くマイキーを好きになったエピソード。

 「4歳のときに佐野家に引き取ってもらったけど、その時はよく外人みてぇな名前ー!ってよくからかわれてて。それで、兄貴のオレがマイキーだったら一緒だから変じゃねえだろ、って言ってくれたのが、はじまりだったよね」

 マイキーが言ったそのセリフに、エマちゃんがとても救われたことがよくわかる声だった。胸に差し迫るものがあり、ふいに瞬きと一緒に涙が落ちてしまう。一粒泣いてしまうとあとからあとから溢れてきて止まらない。まわりもぐすぐすと鼻をすするのが聞こえた。

 「子どもの頃のあんなに簡単な宣言だったのに、20年経った今も“マイキー”でいてくれてる」

 それを知らなかった参列客にしてみれば、壮大な伏線だっただろう。席順の名前は“万次郎”なのに、ひたすらに“マイキー”の呼称を刷り込まれて、どういうあだ名なんだろうと思わせておいての、これ。嗚咽すら聞こえる場内で、わたしは知っていたのに余計に泣いてしまって、マスカラに触らないように指の腹でそっと拭っていると、すっと目前に自分のハンカチが差し出された。

 「…へ」
 「……泣きすぎ」

 クラッチに入りきらなくて、わたしがマイキーに預けていたものだった。照れたような、恥ずかしいエピソードをばらされて拗ねたような顔。普段ならからかいのひとつでも投げられただろうけれど、なんだかエマちゃんの話で感化された今は、彼女の話の小さなヒーローが実在したんだ、という感動に近いような気持ちでマイキーの顔を見てしまう。ずっと一緒にいるのに。

 「…ありがとう」

 渡されたハンカチを受け取って、メイクへの影響を最小限にするべく、目元にあてた。テーブルの下で、わたしを落ち着けるように膝の上に手が乗る。

 「マイキー大好き!絶対絶対、もっと幸せになってね!!」

 高らかなその愛が会場内に響いたとき、膝の上のその手がぴく、と再び凍りついた。さっきと同じ違和感を感じて顔を見て、さらに驚いた。ばつが悪い、なんてものではない。異常な強さの自己嫌悪。それでも、式場スタッフが気を利かせてスポットライトを彼に当てたときには、見間違いだったかと思うほどあっさりとその表情を消して、満面の笑顔をつくって立ち上がる。

 「オマエもな!!!」

 かつて総長だったころを思わせる、堂々たる声量が遺憾なく発揮され、場内は喝采に包まれた。それでもその顔に陰りを感じずにはいられない。もう引っかかりなどでは済まされない。これは確信だ。

 マイキーはふたりに、激しい引け目がある。しかも、だれにも言えないような、なにかが。





 会場の出口には、お色直しを済ませた新郎新婦がギフトを持って待っていた。最後の手紙でまだ目が赤いエマちゃんと目が合い、衝動的に駆け寄ってしっかりと抱き合った。

 「おめでとう、本当にきれい。最高の式だった」
 「ありがとう、純ちゃん。本当にありがとう」
 「指見せて?」

 式典のなかでドラケンくんの手で嵌められた指輪を、初めてちゃんと見せてもらった。たくさんある候補のなかからわたしが絞り、最後の最後は彼が選んだきらきらの指輪。華奢な指によく似合っていて、一緒に選ばせてもらったことが誇らしくなる。

 ドラケンくんにもお礼を言いたくなったけど、彼は彼でマイキーと何か話していたから、後日にしようと諦めた。後ろもつかえていることだし、最後にもう一度ハグして離れようとすると、エマちゃんにぎゅっと引き止められた。

 「純ちゃん、マイキーのこと、お願いね」

 妙に切羽詰まった、泣きそうなほどに必死なお願いのトーン。急なことに驚いて顔を見ようとしても、力が強くて離れられない。

 「…本当は、マイキーがすっごく弱いの、純ちゃんはよく知っててくれてるから。ウチ、マイキーが大好きなの。だからどうしても、純ちゃんに傍にいてほしい」

 ドレスのボリュームにも阻むアクセサリーも意識に入っていないんじゃないかと思うほど、彼女がわたしを抱きしめる力は強い。ここまで積み重なったマイキーへの違和感と、エマちゃんのこの必死ぶりが何か重なる。何があったんだろう。この結婚は彼らのどんな想いが、どれだけ詰まったものだったんだろう。あまりに何も知らなさ過ぎて、なんだかひとり蚊帳の外のような気がしてきた。そんなこと、エマちゃんに言ってもらう資格がわたしなんかにあるんだろうか。こんなに何も分かっていないのに。

 「よろしくね。大好き、純ちゃん」

 腕が離れ、エマちゃんの手からプチギフトがわたしの手へ贈られる。マイキーとドラケンくんはとっくに会話を終えて、向こうでマイキーが待っていた。詳しく聞きたくても、状況はそれを許さない。目を潤ませた笑顔に「またね」と手を握って、マイキーのもとへ駆け寄った。

 「お待たせ」
 「また泣いてんじゃん」
 「泣いてない」
 「そ?」

 絶対にまともに聞いていないトーンでせせら笑い、わたしの手を取って駐車場のエレベーターへ歩き出してしまう。慌てた。後ろにはまだ続々と、元東卍の人たちが出てくるっていうのに。

 「え?待って待って、みんなに挨拶しなくていいの」
 「いいよ、どうせ明後日会うし。それよりちょっと、純と用事」
 「わたし?」
 「うん。いっこ寄り道させて」

 めずらしく静かに言い含める声に、わたしはそれ以上なにも食い下がれずに黙った。ここまで重ねてきた違和感に、もうすぐ説明がつくのかもしれない。…。なんだか急に不安になってきた。エマちゃんにあれほどしっかりよろしくと頼まれた矢先に、こんなわざわざ改まって寄り道させて、だなんて、別れでも切り出されるんじゃないのか。

 「あの…」

 エレベーターが閉まって、十数秒かぎりのふたりきりの密室になったとたんに、マイキーが振り返って身を寄せて、あっという間に唇をふさいだ。不意打ちすぎて固まる。こっちはフラれるのかと不安になっているのに、緩急がきつすぎてついていけない。

 「言い忘れてた。かわいーよ、今日も」
 「………なにそれ……」
 「すっげー不安そうな顔してるから、変な話じゃねえよって言いたかったの。あ、駐車券出しとけよ」
 「……」

 とりあえず、フラれるわけではないらしい。が。





 連れてこられたのは神社だった。なにかの願掛けかと思いきや、東卍の集会がいつも行われていた思い出の会場なのだそうだ。懐かしそうに「全然変わんね。あそこだけ塗り替えてるけど」と手水舎を指しながら、石段に座る。

 「やっと終わった……」

 ざあ、と風がふく。きっとその目線の先には、かつての東卍のメンバーが並んでいるのだろう。なにが終わったのかは聞かなかった。結婚式が、にはかからないだろうから。

 「すげー長かったんだよね、ここまで。オレ的には」
 「…ふたりがくっつくまでってこと?」
 「そ」

 エマちゃんとドラケンくんが付き合い始めたのは、わたしたち世代が高校を卒業するころだった。15の頃に出会ったわたしでさえ、両片想いの期間が長くてもどかしく感じていたから、小学校からの付き合いのマイキーにしてみればもっともっとだろうし、そのコメントは自然といってもいい。普段なら聞き流していただろう。けど。

 「…夢でも見たの?」
 「え」
 「なんか…たとえば、マイキーのせいでふたりが破局する、みたいな…」

 自分で口に出してみたら、ずっとあったもやもやした違和感の正体が、やっと少し見えた気がした。結婚を聞いたときの妙な安堵、そのくせ不安そうな顔、そして今日最後、エマちゃんからのラブコールを聞いたときの自己嫌悪に、よどみなくそれを隠した思いやり。危なげなんてひとつもなさそうなふたりの幸せに、強迫観念に近いものすら持っているマイキーの違和感に説明をつけるとしたら、自分ではそんな説しか思いつかない。

 大外しだったら嫌だなと思って、続いた沈黙を「違うか」で取り消そうとしたら、「こっわ。なにオマエ」と引きつった声が頭上からして、顔を見たら得体のしれないものを見るような顔がわたしを凝視していた。急に怖がられてこっちこそ混乱する。

 「えっ、…そんなめずらしい顔されるとこっちのがこわいんだけど…」
 「いやオレのがビビるわ。頭覗かれてんのかと思った」
 「え?あ、当たりなの?」

 こじつけみたいな想像だと思っていたが、正解だったらしい。そんなちょっとした悪夢であれほど追い詰められるなんて、どれだけリアルな夢だったんだろう、と思ったら、聞く前から答えが出た。

 「正解。めっちゃリアルなやつね、毎回」
 「毎回?…そんな日常的に見てたの?」
 「マジで何っ回も。つーか千回越えてっかも。数えてねぇから知らないけど」
 「そんなに!?」

 わたしが見ていた限り、とても健やかに寝ていたように見えていた。そんな悪夢ではせっかく寝ても疲れきってしまうだろうし、そもそもそんな悪夢を連日見るだなんて、いったい何にそんなにも追い詰められていたんだろう。普段の楽天ぶりがとたんに危なっかしく見えてくる。

 「ぜんぜん気付かなかった…ごめん。最近は?大丈夫?」
 「あ、わり。純と付き合う前の話。今はなんもねぇよ」
 「…なら、いいのかな?なんだったんだろうね」
 「さあ、なんだろね。いまだにみんなでバカやってるときとか、たまにこっちが夢かもって思うときあるよ」

 連日の悪夢については想像がつかなかったけど、その不安な感覚だけは、多少実感を伴って理解できた。まして夢の内容が今に引きずるほど濃かったのなら、その不安定感はわたしが知っているのよりはるかに危ないものだろう。いまだに過去の東卍を見下ろすような恰好のマイキーに近づき、隣に座って、どこへも行かないようにその腕に抱き着いて、肩に頬をくっつけた。自分の話で急に不安になるわたしが面白かったのか、マイキーが笑って頭を撫でて抱き寄せてくれた。

 「純、自分のせいで人が死んだことってある?」
 「……ない、とおもう。あるの?」
 「うん。めちゃくちゃある。何人も。最後のほうはもーずっと自分のせいで人が死ぬぐらいに思っててさ、正直オマエもあんまり近付けたくなかったんだよね」
 「……」

 もう見なくなったとは言ったけど、マイキーの精神は結局まだ、悪夢の続きにいるらしい。出会ったばかりの頃、ほかの人に見せる人懐こさが嘘みたいな塩対応ぶりだったのを久しぶりに思い出す。マイキーとは、ドラケンくんからの紹介で、なんだか最初から男女の空気感が前提みたいなかたちで出会った。当時、彼への義理立てで付き合われていると思ったのは、やっぱり間違いではなかったようだ。

 「…今は違うんでしょ」
 「うん」

 懐に潜り込むと、鎖骨にぴったりと頬が合う。マイキーの膝にだらんと乗せていた手を、熱い手がぎゅっと握ってくれた。いまは違う、ちゃんと近付けたいと思ってるよ、を、触れたところから伝えようとしてくれているのが分かった。

 「オマエってオレが何してもぜんぜん平気じゃん?」
 「うん。……え?」

 雰囲気に流されて相槌を打ったあとに、言われたことを反芻して止まった。何してもぜんぜん平気?それは、それは大変に聞き捨てならない。「いや待って?ぜんぜん平気じゃないときあるよ!?」そんなものは肯定できないと頭をあげたら、仕掛けたマイキーはぐすぐす笑ってわたしを元の位置に引き戻してあやすように頭を撫でてくる。

 「いやーすげぇよ。オレの前でどんだけキレてもわんわん泣いても、次の日けろっとしてるし」
 「それはディスってるじゃん!」
 「ちげーよ、マジなやつ。泣いたりキレたりすんのって感情の清算っつーかさ、回復早くしてんだなってやっとわかったの。オマエはそれ分かってて、必要な時にそれやって切り替えてまたフツーに現実に戻ってくじゃん」
 「……」

 直情的に大暴れすることを、そんな大人な言い方で肯定されるのはだいぶばつが悪かった。ふつうにマイキーの無神経さにキレたり泣いたりしただけだ。カウンセラーのように話を聞いていたはずが、いきなり矛先を自分に変えられてついていけない。

 黙り込むわたしをよそに、マイキーの話は続く。

 「オレって実はすげぇ弱いの。知ってた?」
 「……知らない」

 半分ウソで、半分は本当だ。エマちゃんに聞かされていることもあれば、なんとなく危なっかしく見えることもあって、実は弱い、かもしれない、とは思っている。だけど実際に泣いているところ、弱っているところなんて、この長い付き合いで本当に一度も見たことがない。たとえばどうやったって泣いてしまうような動物モノの映画だって、泣いたとしても涙は絶対に見せてくれないのだ。どれだけ近くにいたって、どうしようもなくわたしはこの人の人生に不参加なのだと、常々思っていた。ヒナちゃんとは違い、パートナーがいつ、何に苦しんでいたのか、ひとつも知らないから。それはとても悔しいことだった。

 本人はそんなわたしの気持ちなんてつゆ知らずの様子で、なぜかわたしの返答が嬉しかったようだった。

 「ホント?純のなかでオレは強かった?」
 「…うん。悔しいくらい」
 「だったらいっか」
 「やだよ」
 「え。なんで?」
 「寂しいでしょ。こんな傍にいて、何が嫌なのか、苦しいのかわかってないなんて」
 「…そっか。確かに。ゴメン」

 そっか、そういうのもあるんだなと、ひとり納得して頷いていた。ずれているのはいつものことだけど、今日は妙に素直だなと思う。忠告を聞いてくれるのはいいことなのに、どうしてこうも胸が騒ぐのか。先を聞きたいようで聞きたくない。

 「話戻るけど」
 「うん」
 「その…あー…夢んなかで色々あったからさ、あいつらがくっつくのは、オレん中でデカいゴールだったんだよね。それが終わったから、今すげーほっとしてんの」
 「…うん」
 「で、本題はね、こっからの話」

 そのあとに続いた話は要約すると、こうだ。

 自分は弱い。弱いせいで色々な人間を不幸に巻き込んできた。ただ今回という今回はどうしてもふたりをくっつけたかった。何をどうしてもうまくいかないことが続いて、どうしたらいいか分からなかったその矢先に、わたしに出会った。そして、わたしといると比較的安定していられるから、この大きな目的――つまりはふたりの結婚のために、一緒に過ごしてきたのだと。一緒にいるとわたしが不幸になるかもしれないことはひたすらに伏せて、この7年を浪費させたと。

 話が進めば進むほど、マイキーはわたしのほうを見てくれなくなった。それはつまり、このふざけた理論をこの男は本気で信じてそれに忠実に生きてきて、そして今や本気でわたしに合わせる顔がないくらいに思っている、ということだ。信じられない。

 話が終わり、沈黙がおりる。こんなばかな話の先に続くのは、彼のなかではひとつだろう。変な話じゃないって言ったくせに、嘘つき。

 「…ごめん、純。…そんでさ、」
 「結婚して」

 息継ぎの隙を奪うようにして割り込み、さっきまでわたしの手を握っていたその手を掴んだ。さっきまで熱かったのに、知らないうちに冷たい。緊張してたんだ。あんなことを、本当の本気で信じて自分を追い詰めて生きてきたんだとわかると、視界が白むような怒りが沸く。

 「は?…な、なんて?」
 「勝手に振り回してきてごめんって、だからこの先を選べって言うんでしょ?じゃあ結婚して。一緒にいてよ」

 とんでもないことを言い出している自覚はあったけど、とっさに口走ったにしては自分のなかでは上出来だった。これぐらいインパクトのあるワードチョイスをしなかったら、この人を正気になど戻せない。どこに行くんだか知らないけど。面食らった顔が余計な拒否を口にする前に畳みかけた。

 「不幸にするかもなんて、みんなそうでしょ?お互い自分の勝手で振り回して振り回されて、それがいいから一緒にいるのに、ばか。不幸になったことなんかない、出会ってずっと楽しいよ、みんなそう思ってる。エマちゃんだってドラケンくんだって、場地くんたちだって」

 披露宴前の待合で、ヒナちゃんが今に泣きそうな笑顔でよかった、と呟いていたのを思い出す。なにかを知っている彼女でさえ何の心配もなく楽しそうに見えたあの光景のなかで、マイキーだけが違った。ひとり苦しむ頑固者にも、のうのうと生きている他人にも、なにより何一つ勘付きもしなかった自分が悔しくて悔しくて、一度泣いたらもう止められなかった。

 「……オレわがままだよ」
 「知ってるっ」
 「けっこーすぐキレるし」
 「わかってる!」

 並べてくるのがすべて今更すぎて肩を引っぱたいた。こうやって聞いていると本当にばかみたいだ。わがままですぐキレる男に結婚をせがむ、もっとばかな女。でもたぶん、恋愛ってそうだ。どんなに賢い人だって、1足す1より簡単なことが分からなくなる。

 ギャン泣きするわたしに、「落ち着け」とかとんちんかんなことを言うので「無理!!」とキレたら、マイキーはさらにとんちんかんに爆笑していた。ムカついて背中を引っぱたくと、「ごめんって」と宥められる。笑いながらでは火に油なのに。

 「つーか、たぶんすげぇ誤解してると思うんだけど、コレ別れ話のつもりで言ってねぇよ?」
 「…は?」
 「先に言っちゃうんだもん、オマエ。どんだけカッコいいんだよ」

 唖然。

 自分がだいぶネガティブな誤解をしていたことを一瞬で理解して、涙が引っ込んだ。ここまでの話の流れじゃ、わたしの予想のほうが自然だと、紛らわしいと怒りたかったけど、よく考えたら事前にエレベーターでそれは否定されていたのだ。忘れていたわたしが悪い。

 わたしが落ち着くと、マイキーが笑って「仕切り直していい?」と聞いてくる。

 「結婚して」

 さらっと言われたことに、色々な感情が一気に湧いて喉が詰まり、鳥肌がたった。さっきの誤解が恥ずかしいのと、やっぱり悔しいのと、…嬉しいのと。

 「……今わたし言ったし」
 「オレのが言いたかったもん前から」
 「知らないくせに…」
 「オマエだって知らねえじゃんオレの気持ちとか。あ、ダメんなったら引き返していいからな」

 らしくもないことを言って笑顔に屈託がないことに一瞬鎮火した怒りが復活して、その背中のど真ん中をぶっ叩いた。

 「いってぇ!」
 「似合わない!」
 「ええー…」
 「もう戻せないから覚悟してついてこいとか言えないの!?」
 「それはムリ」
 「よわむし」
 「そ、よわむしだから」
 「……」

 まるでひとが変わったみたいに自分が弱いを肯定する元無敵は、彼の一番上のお兄ちゃんとの血の繋がりをはっきりと感じさせた。そういえば真一郎くんは最弱王だったっけ。って言ったって、今の万次郎と真一郎くんとではだいぶ本質が違うけど。

 「…じゃあわたしが言う」
 「ふ、マジ?かっこよ、純」

 笑ってほしい。いままでみたいな嘘じゃなくて心から、ここにいていいんだって思いながら。そうしてもらうには、わたしが今何を言ったってだめだ。この先の彼が自分でそう思える経験を積み重ねて、自信を作っていくしかない。きっとものすごく根深いだろう。数年では済まないかも。

 「一生ついてきて」

 茶化す顔を両手で捕まえて、はっきりと言い聞かせる。大きな黒い瞳が、一瞬まぶしそうに眇められた。

 「…うん」

 そのためにも、今はこの返事で十分としよう。

 出会って10年、付き合いだして7年、来月のアパートの更新を越えたら、一緒に住んでもう6年。そうしてようやく、スタートラインを迎えるのだ。




***