9ヶ月会えないなんて聞いてない

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 「いらっしゃい」と迎えただけなのに、マイキーは廊下で呆然とした。おかえりとかいう短い単語をすら言い間違えたのかとこっちが不安になるぐらいの時間、黙って私をみて、天を仰いで、長い長いため息をつく。

 「…え。な、なに?怒ってる?私なにかした?」
 「…べつに…は?なに?なんか心当たりあんの?」
 「え怖、機嫌わる。牛乳いる?」
 「……」

 遠まわしに八つ当たりを茶化したら、大人げなかった自覚はあったようで、やつは怒らなかった。けど、私相手に非を認めて謝れるほどの機嫌にはなおらない。目線を真上から右上にまわし、もう一度ため息をついて、「話あるから今時間くれ」と低いトーンで言った。こんな声で改まって話があるだなんてとっさに別れ話しか思いつかず、馬鹿正直に「え別れ話される流れ?」と聞いたらちゃんと怒られた。「バッカじゃねーの!?」と。機嫌わる。

 向かい合って話したいらしく、ローテーブルを動かしてわざわざ奥にすわった。そして最初から小脇に抱えていた角2サイズのでかい封筒を卓上に置き、自分の向かいを指して「座って」と言うので、そうした。よけいに話の内容に見当がつかず、混乱しながら座る。封筒のすみには、JIAとかかれたロゴがあった。

 「…JIA?」
 「オートレース選手養成所。受かった」
 「ハ?」
 「まあ、うまく行けばプロってことになんだけどさ」
 「え。え?…えいつ?ごめん。おめでとう?」

 内容がぶっ飛びすぎていてついていけない。知る限りでは、マイキーは彼の兄の店を手伝ったり、整備士の免許を取ろうとしたりしているはずだった。オートレースって単語にすら馴染みがなくて自信が持てない。競馬のバイク版、と頭の悪い聞き方をしたら、まあ合ってる、と頷かれた。

 きちんと聞けば、申し込みは昨年夏に済ませ、十月に一次試験、そのうえで二か月前に二泊三日もかけて二次試験があり、つい三日ほど前に合否が発表されて、書類が発送されてきたらしい。確かに旅行だとかなんだとか言って不在にしていた時期はあったような気もするが、試験だなんて言ってくれなかったし、それらしい準備や緊張も毛ほども気取らせてくれなかった。周りも巻き込んで大騒ぎしそうなのに、ちっとも。

 「なんで言ってくれなかったの、試験のこと。ぜんぜん知らなかった」
 「倍率エグいんだもん。落ちたらダセェし」
 「えそうなの?何倍ぐらい?」
 「今年は知らねえ。去年は30倍」
 「マジ!?」

 知らないうちにこの男が一人でトンデモ難易度の試験に挑戦してクリアしていたことに、私は純粋に驚いたしすごいと思って感動したので褒め称えた。私が知っている彼であれば、誰だと思ってんだよ当然だろ、ぐらいのことを鼻の下をこすりながら言って永遠に賞賛を求めるはずだった。それなのに、なぜかこの吉報を私に伝えるまでも伝え終わっても、彼の表情は曇っていて、何分たってもそのままなのでさすがに不審が感動を上回り、「嬉しくないの?」と聞くと、ため息とともにマイキーが養成所のパンフレットを開き、一点をみつけて絶望を濃くしながら、卓上でその一行をとんとん、と私に示した。

 いわく、
 
 …”全寮制の選手養成所に入所し、約九ヶ月間オートレーサーとして必要な知識・技能を習得するほか、”……

 「きゅうかげつ!?寮!?いつから」
 「…読んで。喋るとウツんなるからオレもう説明しねー」

 すすめられて自分の手元にパンフレットを開き、ざっと眺めてぞっとした。ほぼ軍隊だ。まず外出は禁止、外部との連絡も原則禁止、六時起きの二十二時就寝、号令点呼、三歩以上の移動は駆け足、食事の制限時間五分、などなどマイキーでなくても大半の人間がはだしで逃げ出すような規則の数々。ひとつ見つけるごとにマイキーの顔を盗み見たが、肉親ひとり亡くしたかのような絶望感だった。

 「………えーっと、その……だい、…大丈夫…?」
 「ハ?全っ然ムリ。ムリに決まってんじゃん、何言ってんの?」
 「じ、自分で受けたくせに…これ全部知らないで試験受けたわけじゃないでしょ?」
 「………」
 「…うっそぉ」
 「……はーー………」

 本当になにひとつ知らなかったようだ。下調べも何もしないで、バイク好き!いじってみたけど整備より走るほうが好き!そうだオートレーサーになろう!みたいな、…ああ、そうだろう。どうせ。佐野万次郎のことだから、試験の受け方ぐらいしか調べずに特攻して、けろっと受かってしまった。そしてどうせこんなパンフレットにも彼は自主的に目を通さないから、エマちゃんか誰かが見つけて『マイキー寮生活するの?』とでも言われて『はあ?』と言ったに決まっている。

 「……純が調べてくんないから」
 「……」

 あげく、かけらも教えてくれていないくせに人に責任転嫁して、拗ねちらかしている。受かる能力はちゃんとあるのに、アホの子どもすぎて反論してやろうとも思えず、「そうだねそうだねごめんねぇ」と流したら、それはそれでつらかったようでしばらく黙ったのち、「マジで無理」と嘆いていた。ちょっとかわいそうになってきて、監獄生活に希望を見出すべくパンフレットの文字を追う。

 「まあ、まあさ。最初は朝つらいかもしれないけど、毎晩十時なんかに寝てたら起きられるようになるよ。基礎練はつまんないだろうけどマイキーもともと体力あるから別に余裕だろうしさ、いっぱいバイク触れるし」
 「………バイク」
 「ね。あっ、十分なら通話オッケーだって、ほら週一!」
 「………」

 励ましになると思ったのだが、いらないことを言ってしまった。「しゅういち」とひらがなみたいな発音で繰り返して、一瞬浮上しかけた顔がまたクッションへつぶれていく。一人が耐えられないタイプなどではないと思っていたけど、確かに逆に引きこもれるタイプでもない。

 引き続き資料を探しに探し、ようやく希望になりうる情報をひとつ見つけた。

 「ねえ見て、九か月ずっと缶詰ってわけじゃないって」
 「……」
 「お盆と年末年始、帰ってこれるよ」

 四月の入所からひとまず三か月と少し頑張って、それからまた四か月頑張って、残り少し。給水所とゴールを見せてあげれば、永遠に地獄が続くような錯覚から多少は醒めるかと思って言った情報は、一応奏功したようで、クッションに埋もれていた目がようやく出てくる。まだじとじとしてるけど。

 「ね?いったん頑張って、休憩してさ。ぎりぎり一年ではないわけだし」
 「…………はぁ…」
 「これ耐えちゃえばほぼ確実に夢かなうんでしょ」

 たぶんこの金髪は見納めになる。パンフレットには色まで明記されていなかったけど、眉、耳、襟にかからない長さを指定されていた。染めるのが訓練の邪魔になるとは思えないが、髪色なんて余計なことに気をとられるな、みたいな精神性だろうし、そこを変にこだわって反抗するのも賢くないだろう。やわらかい癖毛を撫でると、機嫌のわるかった目が、まばたきと共に力を抜いた。

 「………覚悟すっかぁ…」

 かすかすの声でそう言って、起き上がる。自分で持ってきておいて汚物みたいに触っていた封筒に自分から手を伸ばし、誓約書みたいな紙を出して、人のボールペンを勝手にとって名前を書き始めた。まだそんなものすら書いていなかったらしい。本当に諦めがつかないまま私のところに持ってきたのだと思うと、うれしかったし愛おしかった。

 「えらーい」
 「あ?ナメんなよ。代われよ」
 「百回生まれ変わってもその試験受からないから代われませーん」
 「……」
 「すごいよ」
 「…まーね。誰だと思ってんの」

 やっと調子が出てきたようだ。さっきまでこれでもかというほどトロトロ書いていたのを、姿勢もやや正してきちんと住所まで書き上げていた。小学校から全く成長していなさそうな、お世辞にもきれいとは言えない筆跡を、ちょっと微笑ましく見守った。

 「次に会えるの夏だね」
 「純、迎え来てね」
 「はあ?うそでしょ。つくばまで?」
 「当たり前じゃん。オレに何か月会えないと思ってんの?大丈夫?」
 「大丈夫、ギリ大丈夫。私のことは心配しないで、東京で待ってるね」
 「ねえ。ヤダ!」
 「だって何時間かかるのー?…ほらぁ電車じゃ二時間以上かかる!」
 「真一郎の車乗っていいよ」
 「持ち主の許可も取らないで…だいたい高速もムリだし」
 「下道で来んの!?やべえよやめときな」
 「ねえ、話聞いてた?行く前提にしないで」

 一人でそんなところまで向かうのにあと半年もないなんて途方もない話だと思って、私もずいぶん頑張ったのだけれど、結局マイキーに粘り勝ちされた。まったく譲ってくれなかったのだ。迎えに来ると私が言うまで帰らない、寝かさない、暴れる、今から東卍全員集めるとまで脅され、あとで撤回しようと思いながらしぶしぶ分かった、と言ったら録音されていた。知らないうちに誰かからロクでもないことを教わってしまったようだ。私が口をぱくぱくさせている間に、勝手に明日の私の予定を高速教習に変えていた。

 このあと一緒に書類一式をポストに投函しに行って、別れ際になってはたと思い出したようにマイキーが言った。

 「ケンチンとエマが別れてもケンチンに流れんなよ」
 「なーに言ってんの。心配しなくても別れないでしょあそこは」
 「三ツ谷も」
 「あーそれは危ないね」
 「…」
 「じょ、冗談だってば……そんな目する?」

 こんなに甘えた束縛男だったっけ。差し迫る遠距離恋愛がここにきて初めて不安になった。