泣かれたら平謝り





***

 誰に何を吹き込まれたんだか、その日は最初から挙動不審だった。急に謎のリーゼントとライダースで現れるし、その恰好に「キメキメだね」って突っ込んだら「いつも通りだケド?」と絵にかいたようにしらじらしいし、遊園地のチケットは並ぼうとしたら最初から持ってたし、挙げていったらキリがない。入園の時にライダースの小さなポケットから、ぎゅうぎゅうに押し込まれた赤いベロアがのぞいているのを見つけて笑ってしまった。隠し事に向かなさすぎる。

 ここでプロポーズしたかったんだろうなって場所は、人が多すぎて入れなかった。そうこうしてるうちに花火が上がって、応用の効かない男は花火の大音にかぶってギリギリ聞こえない大声で、たぶん、オレと結婚してくれ、と怒鳴った。口の形と指輪の箱で意図は伝わるけど、肝心なセリフは聞こえないし崩れたリーゼントはダサいし、やけくそになるのが早過ぎるしで笑いすぎて泣いた。帰り道別れる間際まで返事を引き延ばして反応で遊んでいたら、最後のほうはいじけすぎてあんまり返事してくれなかった。なんだかぬるっと付き合い始めてしまったから、彼が私をものにするためにあからさまに必死になってくれたのはこの日唯一といってもいい。

 というか本当に唯一です。

 「メシは?」
 「……」

 疲れて帰ってきてこれ言われて、笑顔でメシを出せる女性はこの世に存在するのかしら。怒るのも面倒だけど顔を見るとイラつくから、現実逃避するしかなくてすーっと目線を憎い顔から我が家の壁紙、天井へ向けた。怒らない、怒らない怒らない、怒らない。

 世の中の男性全員、これを言ったら自動的に金ダライが降ってくる制度にならないかな。ちゃりーんって罰金が頭から出るの。でその罰金は世の女性たちがいいランチを食べるのに使える、みたいな。

 「今帰ってきたとこだからまだ」
 「マジか。疲れてんなら外でもいいけど」
 「え!?やったーおれ焼肉ー!!」
 「えっ焼肉この前行ったじゃん、おすしがいい!!」
 「……」

 悪気がないのは分かっている、分かっておりますとも。この日に限って日持ちのしない刺身を買ったことなんて察せと言ったって無理な話だし、豚汁食いたいというからわざわざスーパーに行き直して大根を買ってきたのだって言ってないんだからこの男は知らない。そして子どもはいつだって焼肉と回転寿司とマックが大好き。だけども。

 「買ってきたのムダになるでしょ!30分待ってて!」
 「ええーーー!!焼肉は!!?」
 「こんど!!!」

 いつぞやの自分の母が夕食ごときで爆発していたのを、夕食ごときでキレ散らかすなんて余裕のない生き物だなと思っていたのを、深く反省した。みんなそういう生き物になるしかないんですよね。望まれない食事をわざわざ作る空しさときたら。
キッチンで指輪をはずしたとき、ふいにあの間抜けなプロポーズを叫んでこの指輪を突き出した必死な顔を思い出した。母親を悪者にして子供たちの外食欲を宥めている真一郎と、記憶のなかの彼を比べる。大きな勘違いだが、あの時はなんだか、ずっとあのぐらいの熱量で自分を必要としてくれるような気がしていた。それさえあれば、この先に起こりうる大変なことのたいていを乗り越えられるとも思った。それが現実はこう、パートが伸びてご飯が遅れて、本人たちの気分じゃないメニューになって、こんなつまらないことでどっとやりきれなくなってしまう。

 「ちょっと出かけてくる」

 自分を除いた3人の配膳を終えてそう言うと、真一郎が目をまるくした。

 「へ?メシは?食わねえの」

 意図は違えど例のセリフを二度言われてちょっと眩暈がした。一気に気持ちがささくれ立って、目線が冷たくなったのが自分で分かる。「探さないでください」ふつう書き置きで言う定型句を、大まじめに本人に向かって言い放ち、茫然とするあの顔を後目に財布と携帯をとった。

 たまには妻業、母親業をぶん投げたい日だってある。玄関を出たとき、一抹の罪悪感と相反する開放感で、ちょっとだけ涙が出た。2時間だけ自分を存分に可哀想がることに決めて、乗り物の中で唯一自分の名義の自転車に跨った。



 平日の夜7時、今夜中に帰らなきゃいけないうえに酒も飲めないのでは、あまりに中途半端で声をかけられる友達もいない。無計画に飛び出してみても、結局やりたいことなんかないんじゃないかとサボる才能のなさに一瞬青ざめたが、都会の繁華街はこんな時間の孤独な大人にも優しくて、遊べるコンテンツは溢れていた。映画を見るか、誰か相手してくれそうなダーツバーにでも行ってみるか、漫画喫茶かカラオケか。あちこちふらふらした挙句、暇つぶしは電車で数駅行った水族館に決めた。夜9時までの看板を見て、行けるじゃん!と思ったから。勢いでやらかしたプチ家出が、何か華やぐ感じがしたからだ。

 携帯は家を出てから15分後ぐらいに、1度だけ鳴った。無視していたら切れて、ややあってから何にだか分からない謝罪と、話し合う時間を求めるメッセージが入った。例えばこれで『いつ帰ってくる』などのいつも通りの感じならもっと怒っただろうけど、この場合には百点満点としか言いようがない気を遣ったこの文章でさえ、まるで自分が腫れもの扱いのように感じられてつらくなる。自分でも面倒くさいと思う。こんなコンディションではどうやったって相手を傷つけそうなので、今はぜんぶシャットアウトして、遠足先にだけ思いを馳せた。

 一瞬後悔したのは、水族館のフロアに向かうエレベーターがカップルだらけだったときだ。そりゃ、デートスポットですものね。軽率だったなと思ったけどいまさら引き返すのも悔しくてフロアに降り立ち、ひとりでも負けるまいと妙な負けん気を奮い立たせたそのときである。

 「ハ?」

 明らかに自分に向いた音量に思えて振り返ったら、目をまんまるにしたワカくんがこっちを指さしていて、私もまったく同じ顔になる。グループデートだったのか、知らないきれいな女の人二人と、男の人一人もなんだなんだと私を見ていて恥ずかしくなり、頼むから見てくれるなって気分になった。

 「何やってんの奈菜ちゃん。真ちゃんと一緒?」
 「…え、…えー……っと…」

 思ってもない人との邂逅にびっくりしているのに、その上鋭い質問で言いよどむ私に、女の機微に敏感なワカくんは何かを察したようだった。連れらしい3人を振り返り、「ワリ、オレここまでだわ」と急にとんでもないことを言う。当然三人は驚いて「えー!?なんで!?」と非難していたが、彼らの非難も結果的に引き離してしまった私の焦りもどこ吹く風で、私の手を引いて入場ゲートに向かってしまう。

 「え、え?いいの?友達」
 「ぜんぜん。てかむしろ助かった。つまんねーからどこで抜けよっかなって思ってたんだよね」
 「……どっちかと付き合ってないの?」
 「いや、飲みで会っただけ。男のほうも会うの2回目ぐらい」
 「……」

 ワカくんを連れ去る私を見る女子の顔から察するに、どっちもワカくん狙いだったんだろうなと遠い目になる。そして男子はそれを分かっていて、ダメだったほうのおこぼれにあずかろうとしていたハイエナ系だろう。この真一郎のお友達、昔からチート急にお顔がいいのだ。長めの前髪からのぞく美貌を薄目で眺めた。

 「で?」
 「ん?」
 「奈菜ちゃんは何?真ちゃんとケンカでもしたの?」
 「…いや、まあ、ケンカってほどでもないけど」

 言いながらばつが悪くて下を見て、自分の足元のクロックスといい加減なワンピースに気付く。水族館に行こうと計画して来る恰好じゃない。いかにもさっきまで料理をしていました、って出で立ちだ。どう見ても家出です、本当にありがとうございました。

 「……母親業、ボイコット中」

 正直に告げると、ワカくんは噴き出して笑った。なんだよそれ、とは言わずに、「イイじゃん。遊ぶか」と気軽に受け止めてくれて、心が軽くなる。入場料を払おうとしてくれるのを断固として断り、彼は再入場という形で一緒に入った。

 「そのへんはなんか別に面白みねぇから。あっちクラゲ」

 さっき入ったばっかりで順路を覚えているワカくんは妙にこなれていて、人混みは避けつつ、見ごたえのある水槽を選んでアテンドしてくれたうえ、大きな水槽の前をぼーっと見ていたら、どこからか可愛らしいペンギンが乗った青いカクテルのプラカップを持ってきてくれた。ひとりで頭を冷やすつもりで来たのに、まるでふつうのデートだ。真一郎とは、遊ぶにしても子どもがメインだから、長らくこんなことはしていない。たまにはと誘ったとして、え?ガキどもも一緒でいいじゃん、とか、言いそう。はい。いいんですけど。べつに。

 妄想の夫にさっきのやりきれなさが蘇り、一瞬水槽から目をそらすと、恐ろしいことにこんな機微さえイケメンは拾った。

 「何があったの?真ちゃんと」
 「…………ワカくんって」
 「なに」
 「…なんでも」

 鋭すぎる、と言ったら、自分が今真一郎のことを考えてたって認めるようで嫌で、結局何も言わなかった。薄暗い隅のほうでウツボが頭をもたげているのを見ながら、「全然大したことじゃないの」と言い訳の前置きをする。

 「『メシは?』って」
 「へ?」
 「パート伸びて遅くなって、急いで買い物して帰ろうとしたら豚汁って言うからUターンしてもう1回買い物して帰って、2分ぐらいで真一郎帰ってきて、『メシは?』って。で、まだって言ったら、外食する?って」
 「……それは」
 「分かってるの、悪気ないし。私が過剰反応しただけ。子どもも乗っかって焼肉とか言ってるときに急いで希望と違うメニュー作ったりとか、別にいつものことなのに、今日はなんかやたら嫌になっちゃった。プロポーズの時はあんなに一生懸命になってくれたのになー、とか思っちゃってさ」

 言えば言うほど、3歳と5歳を放り出して逃げ出してくるような事案じゃなくて、ばつが悪くて早口になる。無意識に左手の指を触って、そういえば洗い場に指輪も置いてきたことを思い出した。まるで当てつけだ。

 「…プロポーズって、ディズニーの?」
 「そう。誕生日でも記念日でもなく、フツーに行ったディズニー。…あれ?真一郎に聞いた?」
 「聞いたも何も、プロデュースオレらだもん。オレとベンケイと武臣」
 「え、そうだったの?」
 「そうだよ。プロポーズ大作戦」

 懐かしのドラマ名になぞらえて茶化すような笑みで、ワカくんが言う。チケットはあらかじめ準備して、人気のフードスタンドやパレードの時間も覚えていて、…指輪も準備して。たしかに、わざとらしいほど完璧だった事前準備に監修があったのなら、何の疑問もなく頷ける。それほど手厚い彼らのサポートをもってしてなお、花火にかぶって肝心なセリフがぜんぜん聞こえなかったのが真一郎らしくて笑えるけど。

 「混んでてうるさくて全然予定通りじゃなかったんだって?」
 「そうだよ、ぜんぜん聞こえないし、なんなら最初からポケットから指輪の箱見えてるし」
 「……え?鞄は?」
 「鞄とかあの人持ってないんだと思う」

 意地でもポケットになんでも詰め込むタイプの男だ。仕事用の工具をひっかけたウエストポーチぐらいのものだと思う。あと弁当の巾着。

 ワカくんはそんな真一郎をよく知っているだろうけど、人に渡す指輪の箱にさえ鞄を使わなかった事実は知らなかったようで、3回同じことを私に確認して爆笑していた。

 「しかも聞こえなかったんだ、プロポーズ」
 「花火にかぶって言うんだもん。指輪とかこんな!殴るぐらいの勢いで突き出して」
 「マジかよ。ちょっと待ちゃいいのに」
 「そんな応用効かないよ。激ダサ王」
 「でもオッケーしたんだ?」
 「……」

 そんなところで畳みかけるのはずるい。とは言えない。事実、オッケーしたから。人間てのは単純な生き物で、過去の楽しい思い出をていねいに頭で再生して、その時の自分の気持ちなんて思い出してしまったら、どれだけ怒っていたって相手を責める気持ちが凪いでしまう。

 とはいえ、じゃあすぐに帰ろうか、とはなれない意地はある。それはそれでこれはこれ。引っ込みのつけ方に悩んで黙る私を、ワカくんが楽観的に笑い飛ばした。

 「ま、許さなくたっていいんじゃない。たまには反省させたほうがいい」
 「……ありがとう」
 「行こ。自分お疲れ様会だと思って、今日は思いっきり遊んじまえよ」

 時計は家出を始めてからぎりぎり1時間は経たないぐらい。たぶんそろそろ食事が終わって、ゲームでも始めるころだ。お風呂に入れ始める時間ぐらいまでに帰ると考えれば、まだあと1時間ぐらいの猶予がある。ワカくんの言う通り、どうせならそれまで遊びきって、心のしょうもない澱を出しきってしまったほうがいいだろう。

 先に立ち上がったワカくんに差し出された手をとると、座っていたコーナーから引き上げてくれた。そのとき、突然背後からだれかに肩をつかまれて、悲鳴が出そうになった。

 「ひっ」
 「やっっと見つけた!」
 「…しん、」

 怒っていたはずだったし、今の急な接触でびっくりもしていたはずだった。それなのに、声で真一郎だとわかるととたんに迎えが嬉しくて、ほっとして泣きそうになった。あんなに色々言ったけど、結局自分は不安なだけだったのだとわかる。つまらないことで癇癪を起こしたのだって、まるで自分が望まれていないようで不安だったから。怒っているようで、本当はこんなことで家を出たりして、真一郎にも子どもたちにも面倒がられたらどうしようって不安だったのだ。どんな顔して帰ろうって。

 安堵のあまり潤んだ私とは対照的に、真一郎にはまったく余裕がなさそうで、肩で息を切らしながらワカくんだけを睨んで明らかに怒っていた。そうなってみてやっと、手を繋いでいるように見える今のポーズを自覚した。慌てて外そうとしたら、ワカくんは動じるどころか、挑発的に私の手を強く握って真一郎に見せつけてしまった。

 「ずいぶん迎え遅かったな」
 「…それは」
 「ヨユーってこと?」

 え、え、え。

 真一郎を挑発して私との仲直りを応援しようとしてくれているワカくんの意図なんてバリバリに伝わってきてはいるが、気の利くセリフのひとつも思いつかない私はふたりの顔を見比べて慌てることしかできない。け、ケンカしないで、という意図を伝えるのに、バカな頭は”私のために争わないで!”なんていうバカテンプレートしか捻出できなかった。私がアワアワしている間にも真一郎は元ヤンが現役みたいな様相になってきているし、ワカくんは面白そうに煽り続けている。こんな落ち着いたデートスポットで拳は良くない、良くないに決まっている。

 「わ、ワカくん、ありがと、いい息抜きになったしそろそろ…」
 「何、帰ろうとしてんの?あんな怒ってたじゃん奈菜」
 「ちょっと!?」 

 煽りが過ぎてノリノリになってしまったのか、呼び捨てに加えて手も離してくれないワカくんに本格的に慌て始めたら、真一郎がついにキレた。ワカくんの手首をつかんで私の手を離させ、抱き寄せ、

 「ざけんな、オレのだよ」 

 …。

 月9か少女漫画でしか聞かないようなセリフに、さっきまで煽っていたワカくんはぱかーんと口を開いたし、私は私でワカくん相手に宣ったとは思えない内容に耳を疑いながらも、残念ながらちょっとだけ、ほんのちょびっとだけときめいてしまって自分にがっかりした。さっきのワカくんのセリフがよぎる。――でもオッケーしたんだ。はい、そうです。

 静かに絶望あるいはあっけにとられて脱力した私たちの空気は、怒った人には伝わらない。かろうじてみたいな声で「面倒かけたな」と言って、私の手を引いて出口へと向かっていく。首だけで振り返ると、ワカくんが笑いながら手を振ってくれていた。このあとベンケイくんにでも言いにいくのだろう。



 ずんずん進んでいく真一郎は、水族館を出たところでもエスカレーターでも立ち止まってくれなかった。駅のホームに行ってしまえば止まって話ができると思ったのに、駅の中にすら入らないで通り過ぎて行ってしまう。手はきつく握られたまま、顔なんて見えない。すごく怒っている。

 「あの、真一郎」

 これじゃらちがあかない、自分から謝ろうと思って口を開いたら、びたっと足が止まって、勢いを殺しきれずに私は奴の背中に鼻をぶつけた。Tシャツは汗ばんで熱かった。走り回ったんだろう、と真一郎のこれまでを想像して、いまさらどうやって私を見つけたのか不思議に思った。一緒に来たこともない水族館なんて、そもそも探そうとも思わないはずなのに、と。

 「あの…どうしてここだって分かったの?ワカくんから連絡きた?」
 「…相手が自分で言ってくるわけねえだろ。ベンケイが連絡してきたんだよ、ふたりでいるの見かけたって」
 「え」
 「どういうこと?」

 その声色と、ようやく振り返った真一郎の目でやっと、この状況が疑われるようなものだったことに気付く。真一郎は百パーセントの確信をもって疑っているふうではなかったけど、不安に揺らいではいるように見えた。私のこともワカくんのことも信じたいけど信じ切れていない、といった感じで。傷つけたんだ。それがわかると、今までの焦りがすべて痛いほどの後悔にかわる。この、人を信じすぎるぐらいのきらいがある人が、いちばん疑いたくない親友と妻を疑って動揺している、そんな状況をつくってしまったことも、あるいは自分が信頼されきっていない事実も恐ろしく心を抉り、いっきに鼻の奥が熱くなってあっという間に涙が落ちた。

 「…えッ」
 「ちがう」
 「ちょ」
 「浮気なんかぜったいしてない。ワカくんはたまたまここで会って、憂さ晴らしに付き合ってくれただけ。誓って呼び出して遊んでもらったりしてない、突然飛び出したのは本当にごめんなさい。でもそれだけは絶対ちがうの」

 言えば言うほど死ぬほど本当なのに嘘臭く思えて、よけいに泣けてきた。こんなに失いたくないのに、なんであんなことで飛び出したりなんてしたんだろう。助かったような気持ちでワカくんに相手してもらったりしたんだろう。後悔が止まらない。どういう言葉を重ねても信じてもらえない気もして、しゃくりあげるばかりで何も喋れなかった。

 が、私が泣いたがために、とたんに私よりも追い詰められたのは真一郎のほうだった。見えないままでも分かるうろたえ方をして、「え、ま、待って奈菜、ちょっ……」などといっぱい呼んだのち、涙を拭う私の両手を両手で掴んであわあわと顔を覗き込んでくる。

 「ちがう、こっちこそ違うんですごめんなさい奈菜、いや奈菜ちゃん、様」

 その慌てぶりはまるで私の供述を信じてもらえたようにも聞こえるけど、実際には私が泣いたから引き下がらざるを得なかっただけだろう。やさしい。やさしいひとを困らせている。その事実でよけいに泣く私。クレッシェンドで焦りまくる真一郎。

 「ごめんなさい………」
 「ちが、やめてごめんなさいオレが、違う、ボクが間違ってました!!申し訳ございません!!」
 「ちがう、あんなことで飛び出すのもバカだし、水族館なんかで真一郎の友達と遊んで、真一郎が誤解するの当たり前だったのに」
 「違う、最初っからオレが悪い、メシ作ってもらってんのに無神経だし、ベンケイが見たっつって連絡してきたのだってどうせワカが指示したんだ、落ち着いて考えりゃわかる話なのに疑うとか…マジでごめん」

 思いもよらないことを言われて不意を突かれ、涙が止まる。考えてみれば、私を見つけた張本人が間接的に連絡したのなら、このできすぎたタイミングにも説明がつく。
顔を上げると、ちょうど真一郎のスマホが鳴って、片手で私の手を握ったまま真一郎が自分のスマホを開けて、見るなり「ほらあ」とウンザリ顔をした。なに、と首を傾げた私にも画面が向く。それはワカくんとベンケイくんのメッセージのやり取りのスクリーンショットで、真一郎が予想した通りの内容だった。

 「…なんで」
 「なんでって、ワカが自分で連絡するより目撃情報のがオレが焦るからだろ…くそ、遊ばれた…」

 『シンちゃんに”水族館デートか”って送れ』『は?』『いいから送れ』『送った。なんでってきた』『”一緒じゃねえの?奈菜ちゃんとワカ品川水族館で見たけど”って送れ』『はぁ』ひたすらベンケイくんが素直に言うことを聞かされているだけの画面。ただその内容と送信時刻はまちがいなく私とワカくんの無罪の証拠たりうるもので、私はようやく安心した。

 「ごめんな」

 深い後悔の滲む声でそう言って、真一郎が私の身体を抱きすくめた。安心しても涙は出る。一粒だけ泣いて胸板に顔を埋めて、謝罪の気持ちを込めて抱きしめ返した。顔をくっつけると心臓の拍動がよくわかり、走ってきてくれたことが嬉しかった。

 「帰ろっか。迎えありがと」
 「…当たり前だろ」

 そうして家路につくことにはなったけれども、通り過ぎた駅に戻るのも決まりが悪いし、泣いたばかりの顔ですぐに電車に乗る気持ちにもなれず、一駅分だけ歩くことになった。車通りは多いながら、徒歩の人は少なく、そっと手を繋いだ。ふたりきりで手を繋いで歩くなんてずいぶん久しぶりで、なんだかこっぱずかしくもあったけど、泣いた衝撃がよっぽど強かったのか、真一郎はここ最近でいちばん優しかった。

 「ほんと悪かった。ちゃんと直す。だから、…危ねえし、夜に一人で出てくのはもうやめてな」
 「……うん。ごめんなさい。子どもたちどうしてる?」
 「イザナのヨメさんが助けてくれて、今預けてる。泊まりでいいってさ」
 「え!?うそやだ!大変、迎え行かなきゃ!ごめんなさい!」
 「ムリだよ、ガキどもすげえ喜んでたもん。行ったって来やしねえよ」
 「ええ…」

 申し訳ないのもやまやまだけど、確かに行ったところで子どもたちは出てこないことは予想がついた。うちの子たちはどういうわけかとんでもなくイザナくんに憧れていて、彼の家に行くのも大好きだからだ。行くといつもの騒々しさが嘘のように、借りてきた猫みたいに大人しく過ごすのである。彼に寄り添って熱帯魚を見たり、ギターに触ったり、ベランダで何もしないで外を見ていたり。そして帰ってくるとガチャガチャ散らかった我が家を見てこれ見よがしに溜息をついて、イザナくんのマネとしか思えない言い方で「片付けろよ」とクールに言い放ってみたりする。…というのは余談で。

 それでも突然のことでご迷惑だったことは間違いない。ポーズだけでも行ったほうがいいかと悩んでいると、イザナくん本人からメッセージが真一郎の携帯に入る。“寝た”“義姉さんに気にしないでいいって言って”とまあ、飾り気はないが圧倒的に優しい文面でフォローをいただき、おかげさまでやっと息をつけた。

 「ご迷惑だっただろうに。ちゃんとお礼しないとね」
 「大丈夫だろ。懐かれてんのイザナもまんざらじゃなさそーだし」
 「そうかなあ…」
 「千尋さんもさ、『ふたりならいつでも預けてくれていいよ』って。やさしーよなあの人」
 「ほんとに…しみる…」

 どちらかというと末の万次郎くんに近いような、爛漫な性格のイザナくんの奥様を思い浮かべる。彼女のそういう申し出は、表情や声のマジックなのか、文面以上に甘えてしまいたくなる優しさがある。今後とも大切にしたいお付き合い。彼女たちが何か困ったら積極的に手伝おうと思った。

 「だから、今度また頼んで子どもら預けてさ、オレとも水族館行こ」
 「え、うそ?」
 「うそじゃねえよ。てかこの文脈で嘘ってなに?」
 「子ども抜きで遊ぼうなんて発想あったんだと思って」
 「あるわ!バリバリあるわ。なんだと思ってんだよ」
 「お父さん」
 「…まぁそうなんすけど、一応その前に奈菜の旦那なんだと思うんだけど…違った?」

 尻のポケットをごそごそ探ったかと思ったら、拗ねたような困り顔が私に指輪を渡してくる。決してあてつけではなくて、本当にうっかりシンクに置き去りにしてしまった私たちの結婚指輪。箱にこそ入っていないが、パツパツのポケットから出てくるシチュエーションで、さっきワカくんと話していた思い出が頭に蘇って笑ってしまった。

 ――オレと結婚してください!!

 残念ながら聞こえはしなかったけど、あの表情と背景はこの目に焼きついている。

 「ねえ、水族館デートOKするかわりに、お願いがあるの」
 「何?飯作る?買い出し?」
 「じゃなくて。……ディズニーでしてくれたプロポーズ、実は聞こえなかったの。水族館でもう1回やり直ししてくれる?」

 真一郎は目に見えて凍った。足まで止まって、「……そっ………」目に見えて動揺して返事をしない。超絶苦手分野のリピート要求が苦しいんだろう。本当は面白かったけど、いじめっ子の気持ちがむくむくと沸き上がり、両眉を下げて今に泣きそうな顔を作った。

 「してくれないんだ…(泣)」
 「します!!しますします!!ちょっと待って監督が要るのオレには!!」
 「監督なしがいい」
 「…絶対やめたほうがいいと思いますケド…」
 「それでも真一郎オリジナルがいい」

 こうして私は、ワカくんたちが怒鳴ってでもプロポーズを真一郎オリジナルにさせなかった理由を、この2週間後に身をもって知ることになるのである。

***泣かれたら平謝り




はしちゃんへなつより愛をこめて 遅くなってごめんね