篭絡







***

 薪の肌が小指にひっかかった。痛みというよりも驚きでついと首を竦めたら、その動作だけで彼は怪我を見抜いて、私の背後から薪を奪って暖炉に放った。

 「こういうのはオレがやるっつってんだろ。触んな」
 「たまたまだよ」
 「たまたまでも。嫌なんだよ、わかれよ」

 こんな小さな針穴程度の傷を、顔をしかめるほど嫌がる。怪我した指先は彼の口の中へ運ばれていった。美しい吸血鬼みたいだと思った。

 「心配性だね」
 「……違うよ」
 「そうなの?」
 「…」

 心配性以外のなにものなのかは、結局教えてくれなかった。



 蘭とふたり、他に動物と虫しかいないような山の中のログハウスにうつってきてから、まだ三日と経っていない。ぎらぎらした都会のなかでしか生きられないと思っていた男が、地味な車と服(ただし彼の持ち物の中でいちばん、の注釈は入る)で突然現れて、病室から私を連れ出して、こんな街灯もなく日が落ちれば正しく夜になるような場所へ連れてきたことについては、少なからず驚いた。一日のうち数時間ぐらいは六本木に戻るのだろうと思っていたがそれもなく、彼は一日中、怠惰なスウェット姿でカントリーな雰囲気のダイニングにねそべっている。ここがどこなのか、彼の所有物なのかなどの雑事は聞いていない。聞いたってどうせなにも分からないから。

 電波もとどかないのか、電子端末やテレビの類は一切ない。暇をつぶせるものは、蘭がくれた手芸道具ぐらいだった。とはいえ、もともと頭が単純な人間だからか、この程度の玩具でもいつまででも幸せに没頭していられた。ひとしきり編んで、目が疲れて寝て、起きて、コーヒーで一服して、蚊取り線香を焚きながら今度はベランダで編んで、食事をつくって、蘭と一緒にとって、散歩に出て、お風呂に入って眠る。あくびが出るほど退屈で贅沢なルーティーン。蘭も蘭で、時折私の編み途中を奪って数分続けてまたよこして、同じような時間潰しを繰り返している。いつまでもこんな世捨て人のような生活で大丈夫なのか、とも思うが、何も思い出せない現状では「なにが」大丈夫ではないのかが分からないので、具体的な質問を差しはさむ余地もないし、「大丈夫なの?」と聞いたところで「オマエは余計な心配しなくていいよ」と甘い顔で封じ込められるので、私はこのよく分からない平和なログハウスで暇をつぶしているしかない。

 「いつまでここにいるの?」
 「んー……見つかるまでは?」
 「見つかるの?」
 「いつかはね。そしたらまた別を探すよ」
 「別?」
 「次は海がいいよな。山は虫多くてダメだわ」
 「きらいだもんね。だったらもう動いちゃえばいいのに」
 「まだいいよ」
 「そうなの?」
 「いいの。これはこれで気に入ってっからさ」
 「どのあたりが?」
 「狭いとこ。ずっとオマエの気配してさ、どこいるか分かるし」
 「……」

 茶化しているのかとも思うけど、蘭の私を見る目はなぜだかずっと狂信的だ。記憶をなくす前の私がよほど彼に衝撃的な奇跡でもみせたのか、と思うほど。もともとこうだったようには、どうも思われないのだ。前述のとおり記憶がないので、もちろんこれも無根拠の話だけど。

 わからないことでいえば、もうひとつ。自分がつけている指輪のこと。

 シンプルなファセットの刻まれたシルバーリングと、指一周を囲むパヴェダイヤのうえに、ひときわ大きいカラットのダイヤが輝くソリテールリング。明らかにマリッジリングとエンゲージリングの重ね付けなのだが、残念ながら結婚した記憶すら今の私にはない。これで蘭が同じマリッジリングでもつけていれば、ただ蘭と結婚しているのだとわかるけど、彼の指にあるのはもっとごついファッションリングだけなのである。これに関しては何も聞けていない。なんとなく今の彼は、私を縛れるようなものを自ら手放しはしない気がするからだ。自分の夫が蘭ではない、というのはほぼ確信だった。

 「…なんか思い出した?」

 指をみていたら、背後から抱き込まれる。手足が長いから、なんだか蜘蛛の化け物に命を握られるような感覚がする。

 「ううん、なにも」
 「…そ。残念」

 絶対に残念がってはいないだろう声で、いつも蘭はそう言う。私に記憶が戻らないほうが都合がよいのだろう。

 *

 そろそろ底が見えてどうするのだろうと思っていたら、冷蔵庫のなかに生鮮食品が増えていた。もしかして、と思って棚をみれば、あらゆるレトルトやティッシュの類も、限界まで在庫が復活している。買い物になんて私はもちろん蘭は出ていないし、宅配がきた気配もなかったのに、どうやったのだろう。

 はてと一人首を傾げていると、背後から棚のとびらを閉められた。

 「どうやったの?」
 「魔法。それよか、調子どう?」

 無視もいいところの返答に面食らいながら、「おかげさまで…」と言い淀むと、熱をはかるように額にあの大きい手があてられる。下瞼をさげて結膜の色をみて、首、頬と順番に触って、「メシ食える?」と聞いてきた。病院で意識を取り戻したときからこれまで、どういうわけかずっと咀嚼しなくても飲めるようなものばかり食べていた。それでもあまり積極的に食べたいと思わないから、消化管によほど何かあったのだろうと思う。

 「あんまり量食べたい感じじゃないけど、もう少し形あるのでも大丈夫だと思う」
 「……ってなると肉ではねえな」
 「あ、意外と食べたい。塊はちょっと無理だけど、薄切りとかなら」
 「お。進歩」

 料理について、彼は意外にもできる側の人だ。レシピはスマホで見ながらだし、手慣れてはいなさそうなので、普段からやっていた、ではないのだろうけど、見た目も味も悪かったことは一度もない。今日もそれほど待たないうちに、私の回復食には、鶏のつみれが入った雑炊を出してきてくれた。この環境で三つ葉まで散らされていて、お育ちがいいのだなと思った。

 とてもおいしかったけど、量にして半膳にも満たない米の量で、食べなれない胃が限界になった。入りきらない食事を食道へ押し返しはじめて、最後一口のつみれが入らずにため息が出た。

 「どうしてこんなに食べようって思えないんだろう。…すごい食中毒だったとか?」
 「……」

 本当に何気ない一言だったのだが、私は瞬間で後悔した。これから発する言葉ひとつ間違えば命が危ないと感じるほど、空気が凍ったから。なくした記憶の手がかりになりうるような情報をこれほど嫌っている蘭をまえに、自ら求めようとするだなんて大間抜けだ。ばか。

 どう自分のミスを取り繕うかでもはや呆然としていたら、わかりやすく上っ面の笑顔が私をのぞく。嘘をつこうとしているのが丸わかりだ。恐怖心でも植え付けたいのか。

 「医者が言うには、あらゆる内臓が寝ちまってんだとさ。オマエ随分長いこと寝てたしな」
 「…そう…なの?」

 嘘を発されるはずだったのに、自分の体調の経過を思うとあながち外れてもいなさそうなことを言われて戸惑った。嘘をつくときは本当を混ぜて、などとよく言うがそういうことなのか、あるいは私が失礼にも表情を読み違えているのか。当たり前のことだが、自分の観察眼を疑い始めると、よけいに相手の気持ちなんて読めなくなる。呆然としているこっちを分かってか分からずか、たたみかけるように蘭が私の繋がりそうにもない断片的な記憶を混ぜ返した。

 「最初立てもしなかったろ。覚えてねえ?」
 「…おぼえてる」

 そうだった。少し話すだけでも息が切れて、腕を曲げる練習から始めて、車椅子にうつることさえ数日かかったし、ようやく自力で立ち上がれたときなどは、たまたまそのタイミングで現れた蘭が驚きのあまり見舞いの花束を取り落とすほど、私は弱っていた。

 結局私は今の凍った空気を飲み下し、蘭を疑いすぎたのだと結論した。最後の一口は、蘭が片づけ際に食べていった。

 「…リハビリ、たくさん手伝ってくれてありがとう」

 思えば、蘭が頻繁に現れるようになったのは花束を落としたあのときからだ。仕事もあるだろうにほぼ毎日日中に来て、熱心に理学療法士の話を聞いて、歩行を支えて、手を離すたびに転ぶ私を何度も受け止めてくれた。恐縮してそんなに面倒をみなくていいと言っても、オレがそうしたい、の一点張りで譲らず、やがて階段を介助なしに1フロア上がり切ったその日の夜に、私を病室から連れ出した。それがどういう意図だったのかは謎のままだけど、彼に私への害意がないことだけは間違いないように思う。

 腕を引き寄せられて、薄い身体に鼻をぶつけた。ベールみたいな薄い香水のむこうに、蘭本人の匂いがする。

 「…どーいたしまして」

 礼を受け取ることが不本意なのか、掠れた声が短く言い逃げて、後頭部をつかむようにして私を強く抱きこんだ。背中にそっと手をそえる。キスも口説きも恐ろしいほど上手いのに、こういうシンプルなハグに彼は慣れていない。とたんにどこかがぎこちなくなる。ふしぎな人。

 蘭がいなければ私は余裕で死んでいたと思うし、とても感謝している。けど、なんとなく何を言っても追い込む気がして、黙って自分よりはるか高い後頭部を撫で続けた。洗い物にとりかかるまで、それからずいぶんかかった。



 *