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 「寝つきを少し助けてくれるお薬です」

 毒にもならないんじゃ薬にもならない。耳ざわりのいい謳い文句の睡眠導入薬なんて、何箱あったって変わらない。寝つけないのが当たり前すぎて、限界まで動いて、気絶みたいに意識を落とし、悪夢を見て2−3時間で目を覚ます。そんな睡眠じゃ何も回復しないから、ずっと意識全部に曇りガラスのようなモヤがかかっている気がする。それだけ疲れていても、何をしたって肝心なところの電源が落ちてくれない。休みたい。眠りたい。それがいつしか、死にたい、に変わってくる。

 いつしか他人を殺すたびに、一抹の羨ましささえ滲むようになった。

 「…電気消せよ。休まんねぇだろ」

 久々に喋ったと思ったと思ったら、春千夜がずいぶんマトモなことを言った。電気なんてずっと前から消していない。映画館みたいに意識がある前提で電気が消えるのはまだいいが、眠ろうと思って電気を消したりすると、まるでこちらが意識を落とすのを暗闇のなかで何かが待ち構えているように思えた。最近のほうがひどいが、これは昔からとも言える。騒がしい環境のなかで、疲れすぎて意識を途切れさせるような眠りを理想にしていた。

 「消すな。つけといて」
 「…なんで?」
 「嫌いなんだよ」
 「こんな明るくて寝れんの?」
 「どっちにしろ眠れねえから変わんない」
 「……薬は?」
 「あんなん効くヤツいんの?」
 「……」

 愚痴るつもりはなかったけど、よくわからない草が紙に巻かれたものがこの2日後には用意されていた。渡しに来たのは春千夜の兄で、いつもの不誠実そのものみたいな笑みで「使いすぎんなよ」と言われた。明らかに見下した態度に腹が立ち、その場で捨ててやろうとしたら春千夜に止められて、部屋に焚かれたら望んでいたそのものにかなり近い睡眠が手に入った。依存するのに時間はかからなかった。だって薬は怒りも心配もしない。使えばそのまま機能するだけだ。望みどおりに。

 なくなりそうになると知らないうちに春千夜が補充してくる。使い慣れて効果が薄れると、なんだかよく知らないが似たような見た目の、違う種類を持ってくる。手に入りやすいはずはないのによく手が尽きないなと言ったら、「眠れないと死んじまうだろ」だと。こいつはどうしてそうもオレに生きててほしいのか不思議だ。口裂かれてんのにね。



 それほど眠れない眠れないと大騒ぎしていた頃に、転機が訪れる。春千夜が正体不明の草じゃなくて女を連れてきた。梅雨入り前だってのに土砂降りで、湿気がひどかった夜だった。

 「はじめまして、こんばんは。ゆきです」
                                 
 ラフなTシャツにデニム。そういった、、、、、商売ではないのは間違いなかった。化粧っけがなくさっぱりした顔立ちで、愛想よく笑うでもなく、なんの情報もない名前だけを口にして、そいつは向かいのソファに腰を下ろした。まるで新品の靴が座面にのっている程度の存在感というか、うまく表現できないが、異物感を最初から抱けなかった。今思えば、それこそがあいつの才能だったんだと思う。

 「……誰?何しに来た」
 「お話です。ひとまず20分もらえますか?」
 「…なんで?何の話すんの?」
 「そうですねー……じゃあ、とりあえず私の悩みを喋ります」
 「……なんでここで?聞かなきゃいけないわけ?」
 「袖擦り合うも多少の縁とか言うじゃないですか。テレビ見るつもりで、流しといてください」
 「……」

 正直、立ち上がるのも電話をとるのも面倒で追い出さなかっただけで、聞く気は最初1ミリもなかった。20分たてば出ていくという話だったし、正確にそうでなかったとしても無視していれば勝手にいずれ出ていくだろうと思ったから。ところがこの女、相槌があろうがなかろうが勝手に喋り続けられるメンタルの持ち主で、しかも本人が自分で言ったテレビというのも本当で、気付けば耳がその声を音ではなく情報として拾ってしまっていた。何歳で、どこに住んでいて、何をしているのか何も前情報がないのに喋り続けられるゆきの“今の悩み”は、最初は髪型の話で、前髪を作るか作らないか、パーマをかけるかかけないか、その次が爪の話で、今はなにも塗っていないけど、自分で塗るか塗らないか、店で定期的にジェルネイルをするかしないか、だった。要は死ぬほどどうでもいい話ということだが、こういうくだらないことに頭を悩ませるような生き物がふだん何を考えて生きているのか、というのは多少興味をそそられた。動物園で蛇の生態を早送りで見せられている時みたいな好奇心というか。

 ここまで無視し倒したが、この頃にはこっちの心が折れ始めていて、この次の話題で初めて質問した。ゆきが乗っている車の話のときだ。

 「私、今のベルファイアもう7年乗ってるんですよ。まだぜんぜん走るんですけどまあ飽きてきたしまだ売れるし、そろそろ買い換えようかなーって思ってて。で、黒のアルファードの認定中古車いいのが出てたからこれにしよっかなーって言ったら、バイト先のイケおじに『そんな車40代のおっさんじゃないんだからやめな』って言われたんですよ。じゃあ何がいいのって言ったらレンジローバーとか言って。予算オーバーどころの騒ぎじゃないんですけどっていう」
 「……何人家族?」
 「ひとりですね」
 「…デカくね?」
 「いや、私サーフィンするじゃないですかー」
 「知らねえよ。誰お前」
 「するんですよ。冬もスノボするし」

 本当はここで、滑り芸は喋りだけじゃねえんだ、って思ったし、それをそのままぶつけてしまいたかった。けれども、あまりにもここ数年に声ってものをきちんと使ってなかったから、そんな長文に日和って頭文字さえ出てこなくて、どうせひたすら早口の向こうだって喋りたいだけなんだから反応なんてしなくていい――と、こんな調子で一気に会話が面倒になって、口を噤んだ。ところが、ここまでこっちの反応を待たずに喋り続けていたゆきは、ここにきてオレが話すのを待つように、初めてパックジュースのストローを咥えて、ゆっくりと啜る。

 その目線が催促もせず、テーブルの角あたりに向いているのを見て、なぜか声帯が自然に開いた。

 「…車の上のせりゃいいんじゃねえの」
 「私の身長じゃちょっときついんですよね。固定も面倒だし」
 「連れは?」
 「ぼっちボーダーに謝ってもらっていいですか」
 「1人で行くんだ…」
 「友達いないんで…謎に喋るバイトはしてるんですけどね」
 「これ何の仕事なの?」
 「万屋です」
 「…よろず?」
 「人前での友達役、恋人役、失恋や仕事の愚痴を聞くとかが一番多いですね。珍しいとこでいうと、演技の練習相手もあります。お得意さんは引っ越し手伝いとか、送迎とかバイク便みたいなのも頼んできますよ」
 「需要あんの?」
 「意外と。昔はツイッターで客集めしてましたけど、今はなんとご紹介だけで成り立ってるんですよね」
 「値段は?」
 「最低時給スタートです。あとは後払い。満足度で決めてもらう形です、それが一番もめないので」
 「…強気だね」
 「私にとっては逆ですよ。こんなので?とか言われるの怖いし。最低時給スタートって事前に言ってても全く貰えなかったこととかもありますよ。新宿中心で動いてるんで治安悪いっちゃ悪いですかね。まあ貰えなかったとしてそれもネタになるんで」
 「…今までで一番面白かった客の話して」

 それから、頼むから爆笑してくれと言われて売れない芸人の前で三時間耐久で笑い続けた話とか、キャバ嬢相手に失恋して一晩中どれほど尽くしたか喋り倒し、泣き崩れて大満足したように思われたハゲが最低時給を割ってきて飲み代すら割り勘だった話など、約二年半のなかでの本人曰くの珠玉を聞いた。世の中変なやつがたくさんいる。お前がまさに変代表だから類友で勝手に集まってくるんだろうと言ったら憤慨された。変なやつというのは自覚がないんだなと思った。

 終了は、ゆきが腹が減ったからと自分のかばんから焼きそばパンを出したとき、春千夜が部屋に現れて強制的にかけた。開けられた遮光カーテンの外を見て、唖然とした。外が煌々と明るいのだ。直近での時刻の記憶はゆきの背後に見た八時を示す時計だったから、少なくとも十時間ていどは喋り続けたことになる。

 「…最後に教えて。今までの売上トータルは?」
 「一千万ぐらいですね」
 「そう。…手渡しと振込、どっちがいい?」
 「差し支えなければ手渡しでいただけると嬉しいです」
 「分かった」

 貴重な体験談を聞いた対価の最低限はそのトータルだろうと思ったのだが、春千夜にオレが一本用意しろと言った時点でゆきは悲鳴をあげて反対した。そう言われると余計に引き下がりたくなくなり、言い合い、銃すら持ち出して持っていけと言ってようやく、ゆきは諦めた。

 「先払いにしましょう。向こう二年半、なにがあっても最優先にします。その間一切の追加料金を受け取りません」

 これを条件に。

 ことわっておくが、これは恋物語でも友情物語でもない。オレがこの妙な生き物を観察する記録の、序章である。