*
だらんと落ちた四肢が、規則的に揺さぶられる。湿った体温が頬にへばりついている。誰かにおぶさっている感覚だと思い出すのに、寝ぼけた頭はずいぶん時間をかけた。
「…えっ」
これが意識の落ちてしまうまで眺めていた後ろ姿だとわかり、慌てて背中から身体を離す。記憶よりもずいぶん短い髪の頭がくるりと振り返り、あの頃とは到底重ならない愛嬌の笑顔がこっちを見上げた。
「おっ、起こしてしもうたか。寝ていてよいぞ」
「い、いけません閣下、自分で歩きます」
「かっかぁ?まーた随分古い夢を見とったの」
「……あれ」
伝説の輪郭がぼやけて、性根まで変わったようないたずらっぽい笑顔にすんと馴染む。と同時に、大変な上司に自分を担がせてしまっている、という焦りがばかばかしく消えていく。仰る通りだ。いったい何百年前の夢を見ていたんだか。
「起きたか?わしの名前は?」
「リリア様です…すみません」
「なに、思い出してくれればよい。閣下だと思われたまま寝られたんじゃ寂しいからのう」
好々爺のようにほけほけと笑いながら、現役時代と変わらない足はしゃきしゃきと寝室へ向かっている。今やこの不釣り合いこそ、彼なのだった。夢からの落差のせいで、たった数秒で数百年を越えたような気持ちになり、どっと疲れる。
「…火の番を代わってくださったの、覚えていますか?」
「んー?……そんなことあったかの」
「あの時の夢を見ていました。…今より口調は怖かったけど、お優しかったですよね」
絶対に覚えているだろうと踏んでそう言うと、やはり覚えていたようで反応に詰まっていた。マレウス様やシルバーとは違い、当時のリリア様をよく知る私から振舞いのことを言われるのは居心地が悪いのだろう。
「あまり掘り起こしてくれるな。“くろれきし”ってやつじゃ!」
「お嫁にとっていただくことになるなんて思ってもみなかった」
「言うなっちゅーとるのに……だいたいその言い方も。…嫁にとって差し上げたんでもねえし」
自称“くろれきし”の片鱗は、本当にたまにこうして口の端に出る。深呼吸ののちにはもう戻っていて、「こちらこそ、来ていただいて感謝しておる」と穏やかな応答があった。
結婚するとは思っていなかった。でも、なんとなくあの背中をみたときに、形はどうあれずっと一緒にいるような、不思議な感覚がした。あとになって考えてみれば、好きになり始めていたんだと思う。
「降ります、リリア様。ここまでありがとうございました」
「いーやーじゃ。たまには夫婦のすきんしっぷも必要よ」
「…どなたにそんなこと吹きこまれたんです?」
「ネトゲ仲間じゃ。『最近妻が息子にばかり構って寂しい』と言ったらさんざん妻子持ちー!?とか驚かれたあとに、すきんしっぷが足りないのでは?と言われての、たしかにーと」
「そんなこと仰ったんですか!?」
「事実じゃし」
「私がリリア様をかまっ、お構いしてないなんてこと、ないでしょう…」
どうしても構うだなんて表現は口に出しにくくて、かろうじてぎりぎりの敬語になっていない敬語で言い直す。だめかなと思ったけど、言い回しにはつっこまれず、彼はふつうに私が指摘を否定したことについて憤慨していた。
「ある!わしが帰ったら寝とるし!」
「そ、それは…シルバーが寝ていると、つられてしまって」
「…む」
「気をつけます」
「うむ」
年々彼はかわいくなっている。かつてだったらこんなふうに露骨におねだりなんて絶対にしなかったし、憤慨だってしなかった。今のリリア様を当時の閣下が見たらいったいどれだけ顔をゆがめるか、想像しただけでも笑えてしまう。
「本当に変わられましたね」
「肩の力を抜いただけじゃ。ただでさえ先の短い老骨は、せめて素直に生きんともったいない」
「……」
先の短い、の響きが心の急所を握った。少し昔なら、あなたに限ってそんなことはないとはっきり否定できただろうし、そもそも本気にしなかった。でも今は分かってしまう。その軽そうに放つ言葉に本音が少なからず含まれていること。それが彼の本意でもないこと。
「すまぬ」
「…いえ」
「さんざん生きたのだから、ようやくー、ぐらいの気持ちで迎えられると思っとったんじゃが、まったく甘かったの。未練を増やしすぎた。存外に苦しいものじゃ」
彼の生きた歳月と頭脳をもってしてなお、時間の流れに対して悟りを開けなかったのだと思うと、直球の“苦しい”の表現が心を抉る。
「今を大切に、ですね」
「…そうじゃな」
できの悪い転換だったけれど、彼は微笑んで頷いてくれた。泣きたくなった。
*
また火が燃えている。
その横で、魔石器が生きた蛙に振り下ろされた。短い断末魔からそっと目をそらす。注釈しておくが、ご本人曰く今行われているのは殺戮ではなく料理だそうだ。
「食っていくか?」
「…お気遣いだけありがたく、頂戴いたします…」
まさかそれを乳飲み子に与えはしないだろうという予想は甘く、歯も生えそろわない人間の子どもに蛙の足を与えようとしていたので、私はついにここで元鬼上司を止めた。止め始めるときりがないしと、これまでは強さの代わりに色々と欠けた方だということは認識しないようにしていたのだが、今にもみくちゃにされそうな罪のない命を前にようやく奮い立ったのだった。
私が入団してから三百年と少しが経ち、いろいろあって彼が人間の子どもを引き取ってから、彼は正式に軍を引退した。勝手に特別最高顧問に祀り上げられてはいるが、ご本人はどこ吹く風で城からやや離れた森に居を構え、子育て(ていねいなひとごろし?)に専念しているようだ。今日初めて挨拶に来たけれど、思った以上に人の子は危ない環境に置かれていた。強く生きてくれとしか言えない。この月齢ではヤギの乳が関の山ですと伝えることしかできない私を許してほしい。
「おお、飲んだぞ!見ろエレン!生き物みたいじゃ」
「…閣下、恐れながら、それは生き物です」
「お前まで閣下はやめんか。とっくに引退しとるんじゃ、こっちは」
「………」
マレウス様がお生まれになって、育ての父のようなことをされてから、閣下はずいぶん変わられた。赤子を怯えさせないようにか、まるで絵本のようなおじいちゃん言葉を使うようになり、笑顔が器用になり、雰囲気が柔らかくなった。それは演技ではなく、本当になにか吹っ切れたところがあるのだろう。正直あの右大将閣下の印象が強すぎて違和感はまだ取れないが、そのほうが彼にとって安定で幸せであるなら、心から応援したいと思う。
「なにかお手伝いさせてください。薪割りでも水汲みでも、なんなりと」
「お?そうか、そいつは助かるのう。なら、二時間ほどシルバーを頼むぞ」
「承知しま……え?いえ、逆」
「逆なものか。おなごに力仕事をさせるほど野暮ではないぞわしは」
「私、兵士なのですが」
「優秀な衛生兵じゃ、よく知っておる。では頼んだぞ」
「えっ、……えー…?」
異を唱えるひまもなく、彼は斧をかまえてひらりと身軽に表へ出て行ってしまった。ちなみに斧と言ったが役割がそうなだけで、実際はあの伝説の魔石器である。初めて見た時は卒倒しそうになった。閣下、恐れながらそれは、国宝です。
ほぼ一方的に腕の中に預けられた赤子をみる。紫の大きなひとみがうるうると光を湛えて、私を見上げていた。その顔にひとかけらの警戒もないことが、嬉しくもあり危なっかしくて心配にもなった。
「…はじめまして、シルバーくん。私は、エレンといいます。あなたのお父様の…古い部下にあたります」
「あ」
聞き慣れた音のようで、シルバー、にきちんと赤ん坊は反応して、にこにこと歯のない口の中をみせて笑った。家のなかは雑然としていてとても子どもがいるような雰囲気には思われないが、ベビーベッドのそばには乳児が好みそうなきらきらした玩具があって、彼がマレウス様のときよりもこなれた父親をやっているのだと分かる。家族なんてまるで別世界のことのように話されていた頃を思うと、なんだか勝手に感慨深かった。
揺りかごの美しい赤ん坊を見つめていたら、とつぜん横の窓があいて、閣下が逆さで顔を出した。度肝を抜かれて悲鳴をあげた私の反応がたいそう嬉しそうで、悪戯好きのいじめっ子根性は変わらないなと思った。
「エレンおぬし、以前戦場で赤子を取り上げていたな」
「えっ…あ、はい…一応、心得はございますが」
「抱いてやってくれ。父親代わりはできるが、母の手には敵わんからの」
「……」
子どもどころか夫もいないのだけれど、要は彼が求めているのが女人の手だということは分かったので、とっさに出そうだった反論は飲み込んだ。私が何も言わないのを満足げに頷き、「頼むぞ」と念を押して、彼は窓枠の上へ消えた。
残された私と赤ん坊――シルバーくんは、顔を見合わせた。乳児の目は水分が多くて、すごく好意的にとれば、期待に目を輝かせているようにも思えた。そっと両脇に手を入れて、ほわほわの、見た目よりもずっしりした命を抱き上げると、シルバーくんは楽しそうに声にならない音を出していた。
「意外と重たい。きっと大きくなられますね」
「あー?」
「あなたのお父様の身長も、すぐ抜いてしまわれるかも」
「……う」
「あ。今の、お父様には内緒ですよ」
言葉を理解しない存在に話しかけ続けるのは、意外にも全く苦にならなかった。どちらかというと、武器を振るのと筋肉が違うようで、抱っこし続けるほうが腕がつらい。でもあまりにも可愛かったから、結局私はほぼずっとシルバーくんを腕のなかに納めたまま話しかけ続け、気付けば眠ってしまった彼と一緒にうたた寝してしまっていた。
「も、申し訳ありません」
「いやいや。よい景色じゃった」
目が覚めた頃にはとっぷりと日は暮れていて、閣下が戻られたあとも私を起こさずに、自然に起きるまで待っていてくださったのは明白だった。恐縮する私に閣下はのほほんとしたもので、この世のものとは思えない味の夕食を出した(正直遠回しに無礼を怒られていると思った)のち、さすがに泊まれはしないと家を出た私を見送りに、シルバーくんを伴ってまで出てくれた。
「遠慮せんで泊まっていけばいいものを」
「ですから、いくらなんでもそこまでのご無礼を働くわけにはまいりません」
「わしが頼んどるのに」
「どうかお気遣いなく」
「…あーーまったく、石頭め。カチカチじゃなおぬしは!シルバーも呆れとるぞ!」
「閣下、恐れながら、すでにシルバーくんはお休みです」
「何度も言わせるな、もう閣下は引退しとる」
「…ヴァンルージュ殿」
「……まあ、閣下よりはマシだが」
ではどう呼べば正解なのか。…横目で表情を盗み見ようとしたら、拗ねた顔と目が合った。なぜか右大将時代の彼と重なる。浮かべる表情はまったく違うのに。
「…ここまでで。わざわざのお見送り、ありがとうございました」
「気をつけるんじゃぞ。また来るとよい。シルバーも喜ぶ」
「はい。…シルバーくん、またね」
もうすやすやと眠っている寝顔に手を振ると、閣下の手が私の手をとり、シルバーくんの未完成の手を握らせた。
「約束じゃ」
「…はい、リリア様」
手を開いた指に、リリア様の指が絡んだ。いつか野営で、火の番を代わってくれたときに感じた根拠のない予感が温度を伴って蘇る。そうだった。ずっと前から、私は、
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