反抗期の弟が掌を返すまで

***

 足首の後ろがシャワーでしみて、一歩逃げた。

 めくれた皮膚は絆創膏を貼っても、毎日同じ刺激を受け続けていつまでも治らない。それでも痛み刺激も繰り返せば慣れてくるようで、2週間もすれば見た目には痛そうな靴擦れをそのままにピンヒールでまっすぐ歩けるようになった。

 キャバクラで働き始めて2週間。自分で思っていたより体力も耐性もあるのか、あるいは今は徹夜テンションみたいにブーストがかかっておかしくなってるのか、動けなくなるような疲れは感じていない。どっちかっていうと唯一家の中で水商売を打ち明けた兄のほうが、わたしを心配して消耗しているように見える。

 『は?キャバだ!?ふざけんな!!』

 最初に相談したときはそれはもう大喧嘩になった。こっちはこっちで、明らかに容量オーバーの子どもの人数を抱えて火の車の家計簿をテーブルにたたきつけて、現実が見えていないのかと怒鳴ったし、向こうは向こうで妹がべたべたオッサンに触られていい気持ちでいられる人間がいるかと怒った。ただ、言い争いになることを予想し、数字のデータを用意していたわたしの優勢は覆らなかった。彼らが高校に進み、修学旅行なんかのお金のかかる行事も難なくクリアできるようにするならこの程度、それ以降大学やなにかに行くとすればこの程度と出した予想額に、そこを突かれるとぐうの音も出ない真一郎はついに、店長と話させろと言った。で、危ないことは決してさせるな、もし危ない目に遭ってお前が助けなかったことがわかったら死ぬよりひどい目に遭わせると、元トンデモ規模組織の総長の迫力をもって脅し、それでも雇いたいと言ってくれた店長の恩情でなんとか今に至る。

 弟たちは上から順に、14歳、11歳、10歳。まだまだ学童期の彼らにそういった商売を身近に感じさせたくはなく、深夜に帰宅したら真っ先にシャワーを浴びるし、朝は誰より早く起きて家事をしている。だから一応、ドジをやらかさない限りはこれまでのコンビニ夜勤と変わらない認識でいるはずだ。今朝なんて真ん中っ子がまんまと、「ガッコねぇやつはラクでいいよな!」と言ってくれて、「羨ましかったら早く成長しな」と言っておいた。

 「万里子ー?」

 脱衣所から真一郎の声がして、シャワーを止める。

 「なに?」
 「あ、万里子だった。わり、帰ってきたの気付かなかったからさ。一応不審者じゃねーか確認しとこーと思って」
 「なにそれ」

 声をかけられた理由が思った100倍くだらなくて、すぐにシャワーを再開する。身体中の泡を洗い流し終えてシャワーを止め、バンスを外して髪をおろした。脱衣所から真一郎の気配が消えていないのは分かっていたが、今更どうでもいいと思ってそのまま出たら、真一郎に女みたいな甲高い悲鳴をあげられてイラっとする。

 「声でっかい!起こしたらどうすんの!?」
 「そっち!?なんで出てけとか言わねぇのオマエは!」
 「逆になんで出てかねぇのよあんたは」

 言ってる今も、目を手で覆っているようでばっちり指の隙間から目を開いているのを知っている。妹の裸見るほど困ってるのか、とかわいそうになってきて、羽織ったタオルを開いて真正面から見せつけると、ご無沙汰すぎて刺激が強かったのか、後ろにのけぞって壁に頭をぶつけ、洗濯機の横にうずくまった。サイテー。

 「……クソ…万里子のくせにいい身体しやがる……」
 「マジでキモいんだけど。金払って」
 「いくら?」
 「500万。あと出てって」
 「んな安売りすんなよ!!」
 「払ってから言ってくれる?あと出て行け」

 さんざん言ってようやく真一郎は脱衣所から出て行ったものの、ドアを閉め切らずに薄く開いたまま、その横に腰を下ろした。それもさっきのセクハラも、慣れない職場あがりのわたしを心配してばかに明るく迎えている。そんなことは分かっていても、くすぐったくてお礼を言う気にはならない。

 「髪、乾かそうか?」
 「ちりっちりになるからいい。自分でやる」
 「かわいくねー!」
 「へたくそなんだもん真一郎。もう遅いし寝なよ」

 アホの文句をかき消すようにドライヤーのスイッチを入れた。寝なよと言っても真一郎は動かない。それどころか、もう服を着たからいいだろと言って再び蒸し暑い脱衣所に戻ってくる。しばらくまた出てけ出て行かないの茶番をやってから、少し静かになったタイミングで、
 
 「…身体つらくねぇ?」

 めずらしく直球で聞いてきた。鏡越しに、品定めするような目と目が合う。

 「大丈夫だよ」
 「…兄ちゃんはオマエが立派すぎて心配だよ。朝までやんなくていいんだぞ」
 「何言ってんの。誰がメシ作んの?」
 「オレとか」
 「バカ。起きられるようになってからモノ言って」
 「それは…努力するから…」
 「ていうか、いいの。タイミング揃わなくても、みんななんだかんだ言ってちゃんとご飯食べて出て行くの見るのが好きなの。心配しないで」

 朝型なのもあるけど、これは大昔からそうだった。始めたのは母が亡くなって間もなくだったから、小2とか3だったか、その当時本当にちっちゃかった末の弟をおんぶしながら朝食を作って、それを真一郎とじいちゃんが食べているさまが、まるでおままごとのお母さんみたいで楽しかった。それからイザナやエマが増えて、作り応えもでてきたし、自分が作ったものをもくもくと寝ぼけた顔で食べているのを見ると幸せになる。その時間を守るためなら、多少のつらいことは乗り越えようと思える。

 わたしの言っていることにウソがないと伝わった真一郎は、逆に大きなため息をついてずるずると壁を伝って座り込んだ。

 「オレがホストでもやればいいのかなぁ」
 「やめてそんな無謀な。ホストなんかこっちよりシビアだと思うよ?時給ゼロでクビでオシマイだよ」
 「そんなボロカス言うかねぇ!?」
 「フられた人数弟に数えられてるヤツにボロカス言わないヤツいる?」
 「……」

 ついに膝を抱えてしまったので、さすがに悪いなと思って「ごめん言い過ぎた」って抱きしめたら、腕からちらりと切れ長の目がのぞく。感情が読みとりにくい。

 「苦労かけてごめんな」
 「…そういうのわたしたちにはナシでしょ。頼りにしてますよ、パパ」

 それは両親ともにいないと理解した日から、長男長女のあいだにじっくりと形成されてきた暗黙の了解だ。


*視点交代↑万里子↓マイキー


 下駄箱の隅に、ひっそり隠すように見慣れない靴がひとつ増えた。刺さったら痛そうなかかとの高い、金のギラギラした靴。サイズからも持ち主は姉しか考えられないけど、初めてテレビで見るような派手なソレを見つけたとき、あのジミな女と結びつけるのに時間がかかった。履いてんのなんて想像つかないけど、ずっと定位置にはいても少しずつ位置が違うって気付いて、姉が夜勤に出て行ったあと確認したらその靴がなかった。

 「アイツほんとに仕事してんの?」

 別にどうでもいいけど、晩飯も一人抜けて、働けるはずの時間も返上して、万里子がよその男に時間を使っていると思うとそれなりに腹立たしくはあった。オレら下の兄弟にはさんざん夕食は一緒にとれと怒るくせに、自分はいいのかよ。オトナって勝手すぎる。

 「あ?なんで?」
 「…べつに」

 靴のことは言いたくなくて、ごまかした。わざわざ隠すように置かれた万里子のものの所在なんかを見張っているのを知られたくなかったからだ。あれだってたまたま目に入ってきただけで、オレは姉のことは嫌いだ。説教しかしないから。

 「まーオマエは嫌がるだろうけど、今オマエが食ってるその肉は万里子が稼いでっから食えてるぞ」
 「……」

 とたんに食べたくなくなるけど、牛肉は美味い。金でも払えばいいのか。ちらっとしゃぶしゃぶ肉が乗ったトレーに目を落としたら、5600円って書いてあって目が飛び出た。そんなのオレらにしてみたら半年分ぐらいだ。オトナってほんとずるい。稼げるもんならこっちだって稼いでる。

 「今や万里子様はオレの倍以上稼ぐ女だからな。オマエらちゃんと崇めて感謝して食え」
 「ネエにお肉残しておかなくていいの?」
 「エマはやさしーなー。万里子それ聞いたら泣いて喜ぶぜ。ま、あいつは今日職場で同じの食うらしーから気にすんな、エマが美味しく食べきったほうが喜ぶよ」

 そういう、どこまでも恩着せがましいところも嫌だ。普通に自分で独り占めしていいのに、あいつは自分の取り分も取らないで、えらそうに子どもにぜんぶ回してきて、にこにこしてる。気持ち悪い。

 「マンジロー、顔。なにがそんな気に食わねぇんだよ」
 「なにが」
 「わかってんだろ。万里子の」
 「全部」

 即答したら、エマに「なんでそーいうこと言うの!」と殴られかけたけど避けた。真一郎はシラタキ食いながら苦笑してるし、イザナは無関心でテレビを見たままだ。

 「高校出てからよけーに昼とか暇そーでウザい。道場にまで顔出してくるし」
 「そりゃ通ってるガキどもの手続きとかいろいろあんだよ。道場なんかオマエそんな顔出してねぇくせに」
 「手続きなんかしてんの見たことねぇ。ガキどもにエサやってるだけじゃん」
 「ヤキモチ?ダッサ」
 「ちげぇし!ぜっっってぇちげぇから何そのクソ妄想」

 黙ってたくせに急にクソ妄想してきたイザナに、落ちてたガスの替えを投げつけたら、ひらっと避けられて壁にぶつかって派手な音を立てた。やべって思った次の瞬間にはじいちゃんの拳骨が降ってくる。痛い。全部万里子のせいだ。クソすぎ。

 翌朝、洗面所に行ったら、まるで夜もずっといたみたいな顔で洗濯機を回してた。

 「おはよ」

 嫌われてる自覚があるから、いつからか挨拶は控えめになった。でもこれで無視すると「アイサツ!」って怒ってきて、言うまで放さないのが分かってるから、頷くだけ頷いてその横を抜け、歯ブラシを取る。万里子は文句を言ってこなかった。昔なら言っただろうけど。口がついてんならおはようぐらい言いなさい、とか。

 横目で万里子をうかがう。棒切れみたいに細い足の下に、見慣れない、黒のキラキラしたなにかが丸まっていた。下駄箱のパンプスと同じ違和感がふってくる。

 「…なにその服」

 自分で聞いておいて、何をそんなに怒ってんだと思うぐらい低い声だったけど、引っ込みもつかずにただ万里子を睨む。万里子は「なにって」と足元をみて、はっとしたような、悪さがバレたようなガキみたいな青い横顔をしたのを見逃さなかった。足で踏んで目立たないように「わたしの」と言うのと、オレがそれをひったくるのはほぼ同時だった。

 「ちょっと!」

 胸が思いっきり開いた黒いレースのワンピース。これを、この女が?冗談だろ、と思って顔を見たら、癪に障ることに想像だけでもその顔とワンピースはしっくりくる。そういえば、知らないうちにずいぶん女みたいな顔になった。

 「…何隠してんだよ。キモ。男の趣味?」

 決して自分が一瞬似合うだなんて思ったことを知れたくなくてそう言って、すぐに後悔した。なにが抉ったのかは知らないけど、深く相手を傷つけたことはわかった。泣かれでもしたらここに立っていられる気がしなくて、歯ブラシもそこそこにそのワンピースを万里子に返して、部屋を出た。

 気まずすぎて、朝飯は食わなかった。おにぎりにでもなんでもして追っかけて来て、てこでも食わせてくる万里子が、今日は追ってこない。


*視点交代 ↑マイ ↓万里子


 大丈夫、よくあること。反抗期の子どもだから。自分に何度も言い聞かせて、放っておくとどんどん後ろ向きになる気持ちを鼓舞して、今日受け取った現金を忘れないうちに口座に突っ込む。今日はよりによって万次郎の積み立ての日だ。無機質に表示された名義を見るだけで、息がうまくできないような胸の痛みが走る。

 キャバクラで働くっていうことにストレスを感じてなかったのが嘘のように、今日は疲れた。このまま家に帰るのがなんだか苦痛になってしまい、真っ暗な公園にふらふらと立ち寄る。深夜の公園に水商売丸出しのすれた女が落ち込んでいたら、不審者の恰好のエサなのは分かっていたけど、どうしても足が進まなかった。アルコールはバカみたいに入れたのに、正気になる何かがあると圧倒的に酔いづらくて、頭はしっかりしたまま具合が悪い。クラッチに入れているビタミン剤と胃薬を手に移してから、そんなものに頼ってまでコンディションを整える意味を見出せなくなって、錠剤を持ったまま止まってしまった。

 『キモ』

 たった2文字だ。言われたことだってないわけじゃないし、今までだったら万次郎に拳骨でも落とせただろう。だけど、わたしの後ろ暗い服を見られてのそれはとても言い返せなかった。そう言われてまで、軽蔑されてまで、しかもこれだけ体力と時間を削って家に尽くす意味ってなんなんだろう、これまでずっと封じてきた最低な気持ちが、綻んだところからじわじわと滲み出てくる。家、出てしまおうか。でも、エマは?女の家族がいないで、どうするの?

 「ユリちゃん?」
 「……え」

 急に背後からかけられた声に縮み上がる。それは紛れもなくわたしの源氏名だ。後ろを振り返って、最悪、やらかした、と一気に冷や汗をかいた。様子がおかしくて危ないと思っていた今日の客だ。つけられていたのかもしれない。

 「ご、ごめんね、急に声かけて…家、このあたりなの?偶然みかけたから、つい、フフッ。もし、ユリちゃんさえよければ家まで送るよ」
 「…あ、ううん…そんなに遠くないから、気持ちだけいただきます。ありがとう」

 目がどう見てもヤバい。足は今日に限って履き替えるものを持ってこなかったからピンヒールだ。走って逃げるには分が悪すぎる。刺激しないようにそっと話しながら、ベンチから立ち上がった。家と繁華街、どっちが近いか、ちょうど半分くらいまで来てしまった。どちらにも走っても3分はかかる。軽率に公園に入ったのを心底後悔した。

 「遠慮しないで。い、家がわかっちゃっても、押しかけたりしないから」
 「そんなの、疑ってないですよ」

 絶対にウソだ。どうしよう。家まで行けば真一郎もイザナもいるし、ボコしてもらうのは簡単だろうけど、それまでの間無事で済むとも思えない。携帯はクラッチだし、わざわざこの局面で出したりして下手に刺激したらと思うと、とても出せない。結局自体は1ミリも進まないまま公園を出て、ここで、としきりに断るわたしと、遠慮しないで、を入口で繰り返していたら、ついに肩を掴まれて声にならない悲鳴が出る。

 「どうしたの?もしかして、ヤバいヤツだとか思ってる?」
 「…っ、」

 喉がせまく締まっていてうまく声も出なかった。やばい、本当に、ダメかも。どうなるんだろう。真っ白になって冷や汗をかいていたところに、突然原付のエンジンの音が角を曲がってきた。

 「…は?」
 「…っ、」

 万次郎だった。恐怖で凍っているわたしとばっちり目が合って、一瞬で彼の目が殺気立ち、ぎらりと肩を掴む男を睨む。スタンドも立てずに原付を放り出し、わたしの肩を掴むその腕を両手でつかんで、肘に思いっきり蹴りを食らわせていた。男の汚い悲鳴が住宅街に響く。

 「帰るぞ」

 当然手が離れてフリーになったわたしを原付のほうに追いやり、そう言う万次郎に、男が断末魔みたいに叫んだ。

 「待て!警察に突き出してやる!!」
 「…あ?」

 男のほうに同情するほど、このときのたかが小学生は怖かった。肩に蹴りを入れて地面に転がしたかと思ったら、胸倉を掴んでどすの効いた声でさらに脅す。

 「こっちのセリフだよ。オレがサイフ取り上げる前に消えろ、キモ男」

 万次郎が手を離すと、彼は情けない悲鳴を上げて夜道へ消えて行った。恐怖の対象が視界から去って、一気に気が緩み、ずるずると地面に座り込む。そのわたしを見下ろして、万次郎ははぁっと溜息をついて怒った。

 「何やってんの?危ねぇだろ、誰か呼ぶとかしろよ」
 「………」

 声が思うようにやはり出ない。立ち上がれるのもずいぶん先になってしまいそうで、もう放って帰ってほしかった。喧嘩した弟に助けてもらえたのは嬉しかったけど、関係がよくなったわけではないし、むしろこんな格好で深夜に歩く姿を見せてしまったのも、この精神状態では受けきれそうにない。

 原付を立て直しても何をしても立とうともしないわたしに業を煮やした万次郎は、ついにしゃがんでわたしの顔を覗き込んだ。そして、「泣いて…」と聞きかけて、ぶつっと声を途切れさせる。その目線のさきは、わたしが固く握り込んでいた錠剤が、誤解を招く様相で手からこぼれていた。

 「……何、それ」
 「ちが…」
 「何がちげぇの。死のうとしてた?それとも、本当は病気なわけ?」

 そのどっちでもないことを伝えようにも、本当に声が出ない。どうにもならないことを悟った万次郎は、険しい顔をして、わたしにさらに一歩距離をつめた。逃げかけたとき、身体がぐっと持ち上がって、あっという間に足が地面から離れてしまう。

 「ちょっ、と」
 「立てねぇんだから暴れんなよ」

 原付は諦めたようで、横を素通りして万次郎はすたすたと家路についてしまった。重さを感じさせないほど、ペースも息も乱れない。最初は落ち着かなかったけど、時間が経ってしまうと慣れてしまった。

 自分のなかでは全然、小さな少年だった万次郎が、知らないうちに自分を持ち上げられるほど、不審者も追っ払えるほど大きくなっていた。なぜかこのタイミングで涙が出る。わたしひとりで不幸を背負った気になって、突っ走りすぎていた。そうじゃない。自分も含めたこの家族を守りたいから、この仕事を始めたのに。


*↑万里子 ↓真一郎


 万里子が帰るのをリビングで待ちながらうたた寝してたら、誰かに引っぱたかれた。

 「起きろ!」
 「…んだよマンジロー、寝ろよ」

 今帰ったばかりらしい万次郎に、どうせ大した用もないくせに起こしやがってとムカついたのだが、次に「万里子やべぇから」と言われて慌てて立ち上がった。部屋を見渡してもそれらしい姿はない。

 「どこだよ!?」
 「フロ。…変なやつに肩掴まれてすげぇびびってて、声出なくなってる」
 「あ?」
 「なぁ、アイツほんとは何やってんの?何隠してる?シンイチローは知ってるだろ?」
 「……」

 何があったかはすぐに分かった。水商売を身近に感じてほしくないと万里子が隠し通してきたことが、ついに万次郎に露呈したのだ。オレとしては別に、隠すよりは知っておいたほうがいいと思ってるし、特に反抗期全盛のこいつは一度、いかにお前の姉がお前を思っているかは知ったほうがいいと思い、万里子が入浴中の数分で全部バラすことに決めた。

 「ついてこい」
 「……」

 4畳半の万里子の部屋は、ほぼ物置になっている。キャバで働き出してから、化粧品だの服だのは少し増えたけど、基本的にものが少ないのは変わらない。
 布に埋もれさせるようにしまわれたクッキー缶を出して、あいつ名義ではない3冊の通帳を取り出して万次郎に渡した。

 「…なにこれ」
 「万里子がオマエらに積み立ててる金。高校んときからやってる」 

 名義はそれぞれ、佐野イザナ、佐野万次郎、佐野エマ。毎日日払いの賃金を受け取ったら、生活費を抜いた残りをそのままどれかの口座に突っ込んでいる。コンビニの時間の限られたバイトから、フルタイムのキャバクラになってから、その額は格段に上がった。最低賃金なんてものに縁遠い小学生でも、その額が今年度から急上昇していることと、それが3人分だという異常性には、さすがに気付ける。

 「これ」
 「キャバクラ。反対したんだけど、まともな仕事じゃ何かあったときに対応できる金がねえと」
 「……なんで言わなかったんだよ」
 「あいつが言うと思う?」

 両親を失ってから、万里子はいきなり強くなった。立場が人を変えるってのの典型例で、自分ひとりでは本当に何もできなかった小さな弟が寂しい思い、不安な思いをしないように、どこまでも気を配っていた。それは万里子を毛嫌いする万次郎にも伝わっていたようで、罪悪感に顔をゆがめている。

 「ま、あいつはお前らのこと、こんぐらい大好きってこと。ちょっとは優しくしてやれ」

 力の抜けた手から通帳を3冊奪って、また元の場所に戻す。見せたと知れたら大変だから、元通りになるようになるべく適当に服をかけていたら、万次郎が隣に座った。さっきよりはるかに不安げな顔がこっちを見つめてくる。

 「隠してんの、本当にそれだけ?」
 「なんで?」
 「……身体、なんもない?病気じゃない?」
 「……」

 なぜそんなことを聞くのかは知らないが、もし万が一そうだとしたら、万里子なら確かに黙っているかもしれない。にわかに冷や汗をかいて、「聞いては…ねぇけど」と言い、なぜそう思ったのか聞いたら、泣きそうな顔で訴えてくる。

 「…薬、すげぇ量飲もうとしてた。死のうとしてんのかと思った。死なないよな?」

 それを聞いてようやくぴんとくる。初めて見たときはオレも同じ疑いをもって、本人に問いただしたら笑われたやつだ。また衣服の山に隠された、二日酔いに効くサプリだの胃薬だのの瓶がまとめて入った箱を探りあて、万次郎にいくつか見せて「これか?」と聞くと、心底安心した顔で溜息をついたあと、イライラと歯噛みし始める。

 「まっぎらわしいんだよ!!自殺かと思った!!あいつ!!」
 「まあまあ、そう言わねえでやれ、酒の仕事はきついんだって。それに、たまにはムダに心配すんのもいいだろ」

 あの妹ほど危なげなく育つ奴はそういないと思ってそう言うと、万次郎はしばらく考えて、「…まぁ、ウン」とうなった。これまで心配をかけられた試しがないこと、それどころか、絶対安全圏にいると誤解していたからこそのウザさだったことに、ようやく気付いたようだ。

 万里子が風呂を出たところで、万次郎は万里子に「今までごめん」と素直に謝った。ばつが悪そうな、気まずそうな顔に、万里子はいたく驚いて、まず最初にオレに「言ったの!!?」と怒ってから、万次郎に「助けてくれてありがとうね」と優しく伝えていた。それに万次郎がますます行き場のない顔をしたのは言うまでもない。

 翌日道場をのぞいたら、万次郎が庭から面白くなさそうな顔で稽古場を眺めていた。どうしたのかと思ったら、その目線のさきには、万里子がガキどもにじゃれつかれている姿があった。仕事を始めて垢抜けて、みるみるきれいになったお姉さまにガキどもは夢中になってるし、懐いてくれない弟と同じ年代の子どもたちのまっすぐな憧憬が万里子もうれしそうで、きゃっきゃと笑い声が響いている。

 「…マンジロー」
 「うわっ!…なに…」
 「試しにさ、万里子に大好きっつってみ」
 「はあ?何で」
 「絶対面白いことになっから。オレじゃダメなんだよ、マンジローじゃねぇと。頼むから、試しでいいから言ってきて、ほら今」
 「今ぁ〜〜???」

 不満げな万次郎の背中を押し、稽古場に追いやる。ガキどもも万里子も、珍しい万次郎の登場に目を丸くしていた。さすがにずいぶん言い出しづらそうで何回か振り返られたけど、早く言え、と手をふると、ようやく万里子の手を引いて縁側に出て来て、だいぶ仏頂面で「万里子、…ダイスキ」と言った。そのときの万里子の顔ときたらもう、ガキの初恋見てるみたいにあまじょっぱくて可愛かった。目をきらきらさせて、「え?え?な、なんて、もう一回言って」と縋り、言ったほうの万次郎もそんなに喜ぶとは思っていなかったらしくめちゃめちゃ動揺して、「え…好きって」と口走って、はちゃめちゃに抱きしめられて真っ赤な顔をしていた。素直はいいことだ。うんうん。

 しばらく離してもらえず、ようやく逃げてきた万次郎の顔には、まだ薄く赤みが残っている。

 「び、ビビった」
 「言ったろ、万里子オマエのこと大好きだって。たまにはああやって甘やかしてやれよ」
 「……」

 謝罪したとはいえ、今までの態度から変わりすぎて思うところがいろいろあるようで、一通り百面相したのち、「……しょーがねぇなぁ…」と言う。こんな渋々みたいな顔しといて、2年後にはたまにどころか四六時中甘えてる信じられない大バカシスコンに成長するんだけど、それはまたべつの機会に。

***