灰谷リアコのいやがらせから助けてもらう話

※夢主 源氏名はユリで固定にさせていただいております
※軽度ですが嘔吐描写があります


***

 異変に気付かなくて、普通にパンプスに足を通してしまって、踵に重心を戻したら思いっきりバランスを崩した。足首ががくんと外転して、最悪の角度で床に押し付けられてしまう前に手すりを掴んで身体を戻す。あ、焦った。

 「わ、大丈夫!?」
 「な、なんとか。ゴメン、当たってないよね?」
 「あたしは全然。それより足ヤバくない?…ってかヒール折れてるよ!?」

 同僚のえみちゃんが、わたしより早く屈んで足首をみてくれた。焦りすぎて痛みなんか感じている余裕がなかったけど、今はジワジワと痛みがきている。そっと両足からパンプスを外すと、彼女の指摘通り、左足のヒールがきれいに根本から折れていた。

 「ついてないねー…お店の借りるっていっても、ヒールめっちゃ高いのしかないし…予備持ってる?」
 「持ってない…足くじいたっつってコッチでお店出ちゃおっかな」

 たまたま履いてきていたぺたんこは、ドレスに合わせるのにはカジュアルすぎはするものの、そんなに悪目立ちするデザインじゃない。えみちゃんの同意も得て、結局元のそっちに履き替える。いつもはもっとどうしようもないつっかけサンダルだから、今日はまだ運が良かったと言ってよかった。

 「これ袋入れとくね」とえみちゃんが折れたパンプスを回収してくれる。そのへんにあった適当な紙袋に入れようとして、そのヒールを見たえみちゃんの顔からなぜかさっと血の気が引いた。

 「……え?これ」
 「なに?……うわ」

 その視線の先、折れた左のヒールの根本をみて、わたしもぞっとした。そこにはカッターのような刃のあとがいくつも猟奇的に刻まれている。悪意をもった誰かに、わざとやられたのだ。しかもこんなにいくつも、恐怖させるように、相手の異常性を見せつけてくるように痕跡まで残して。

 「……大丈夫?」
 「まぁ…靴の出費は腹立つけど」

 やってくる相手の検討はなんとなくつく。月の売り上げランキングが発表され、だいたい2〜5番台を維持しているわたしに『灰谷だけじゃん』ってコソコソ言ってるあたりだろう。まあ、それは仰る通りなんだけど、そう言われても売り上げてるものは売り上げてるので、特に傷つきもしない。器物破損は困るから、今後はきっちり施錠するとか、私物は極力店に残さないとかで対策する程度だ。

 「…ねぇ、もしかしてリカさんじゃない?」
 「えっ?」

 彼女が容疑者として出してきたのは、わたしがまるで考えていなかった、この店でトップを常にキープしてるキャストだった。「な、なんで?」特に接点も思い浮かばなければ、ランキングが発表されても余裕の表情で「さすが♡」ぐらい言ってくれる豪快美人の彼女が、こんなみみっちいことをするようにはとても思えず、えみちゃんに聞き返すと、えみちゃんはわたしが候補に入れていなかったことさえ信じられないといった表情をしていた。

 「なんでって、灰谷くんたちのことめっちゃ好きじゃん!!」
 「え?そ…そこ?」
 「え!!?鈍いよ万里子ちゃ〜〜ん!!売上のやっかみで靴折らないよ〜〜!!!」

 そ、そういうもの?色事の恨みは恐ろしいってのはよく聞くけど、まるで自分に縁がなさ過ぎて想像がつかない。ここまでの人生が大半子育てとちまちました金銭繰りばっかりで、人生経験が浅いことを妙なタイミングで実感してしまった。

 それにしても、リカさんに蘭ちゃんや竜胆くんに熱狂しているイメージもあまりない。やたらにヘルプにつきたがったり、迎えや見送りでなんとか接点を作ろうとしている新人はよく見るけど、彼女はそんなことはしないし、そもそも蘭ちゃんや竜胆くんが初めて店に来た時にテーブルについていたから面識もあり、来店のたびにお互い親しそうに挨拶もし合っている間柄だ。そういったことをえみちゃんにつらつらと言うと、見る目がなさすぎたようで彼女はドン引きした顔になった。

 「蘭くんに『今度はあたし呼んでよ』って言って『そのうちな〜』って流されて、すっごい顔で万里子ちゃん睨んでたんだよ!!?気付いてないの!?」
 「え……全然知らない。そうなの?」
 「…万里子ちゃんは平和に生きてきすぎ」

 それはついさっきも自覚したことだ。ぐさっとくるからやめてほしい。
 まあ、灰谷絡みや売り上げなんかで敵の多いわたしにずっとよくしてくれているえみちゃんの指摘なので、半信半疑ながら一応心には留めて待機ゾーンに入った。ら、見事にえみちゃんの予想が大正解だったことを知る。

 「なにそのクツ!ババアじゃん!」

 わたしのぺたんこにそう言ったのは名前も覚えていない中堅どころのリカさん信者だった。さすがに突然の敵意にダメージを食らっているところに、リカさんが「やめなよー」と止めるつもりなんて1ミリもなさそうな笑顔でたたみかける。気付けば十数名のキャストの空気は、明らかにわたしを排除しようとしていた。なんとも懐かしい、中学時代にはあちこちで乱発していたクソみたいな空気。

 「…万里子ちゃん」
 「大丈夫」

 味方なんてさせたらえみちゃんにまで危害が及ぶ。こういうのは怒っても傷ついた顔をしてもネタで返しても、ぜんぶ跳ね返りがくるだけだ。ぜんぶ無視して、端の丸椅子に座った。

 耐え抜いても何ももらえない学生時代に比べれば、ここでは金を稼ぐというはっきりした目的がある。こんな低レベルなイジメなんて、気にすることじゃない。なんて、この時はタカをくくってた。



 頭が回るぶん、大人のイジメはタチが悪かった。特にこんな指名やバック争いをするキャバ嬢間、やりようはいくらでもあったのだとやられてから気付いた。たとえば、わたしの固定客に自らアフターを誘って鞍替えさせるとか、とんでもない席にヘルプにつかせてめちゃくちゃ飲ませるとか。地味に送迎車という密室の中で、聞こえよがしの悪口を言われるのも、耳をふさぎようがないからなかなか堪えた。そういったことを何度も何度も繰り返され、靴を折られてたったの3日で、強いほうだと思っていた自分のメンタルはかなり削られていた。

 まだ万全ではない足を引きずりながら、帰り道を歩く。家まわりの道が細かいので住宅街に入らないあたりで下ろしてもらうことはわりと普段からあることだったけど、今日は特に乗り合わせたキャストが悪くて早く降りたかったから、いつもより遠いところで下ろしてもらった。長く歩くとさすがに痛くて、少し歩調を緩めたとき、いやなことに気付く。

 背後にいた足音が、わたしにわざわざ歩調を合わせるようにゆっくりになっている。
一度痛みは我慢して早歩きしてみたけど、やっぱりそれに合わせて足音が速くなった。ちら、と振り返っても、暗くて街灯もないから、人影があることしか分からない。家まではまだ距離がある。真一郎にヘルプを頼もうかと携帯を出しかけたとき、突然足音が走り出し、ぞっとしてわたしも走ろうとしたけど間に合わず、背後から両腕で拘束されてしまった。

 「やっ…!!?」
 「声出すな、ユリだよな」

 変な声はやたら興奮しているようで異常に息切れしている。ヤバい。死んだ。どうしようどうしようとパニックに空転する頭はなんの結論も出せず、わたしも過呼吸みたいに浅い呼吸を何度も繰り返して泣きそうになっていた。だれか通って、だれか。人生で一番強く祈ったとき、突然殴打音がして、呻き声とともに拘束がゆるむ。

 「っ……」

 とっくに腰が抜けていたわたしは、不審者の拘束がなくなるとともに地面に落ちた。よく知った香りの上着がふわりと肩にかけられる。

 「大丈夫か?」
 「…は、…り、りん……」

 呼吸が上がりすぎて名前もまともに呼べなかったけど、わたしの前にかがんでいたのは竜胆くんだった。どうしてこんなところに、とも思いはしたけど、そんなことよりも安堵と感謝のほうがずっと強くて、掠れまくった声でどうにか「ありがとう」と伝える。

 「万里子」
 「…イザナ?」

 背後から聞こえた弟の声に驚いて、ようやく後ろを振り返る。そこには特攻服姿のイザナと蘭ちゃんもいて、さっきまでわたしを拘束していた男は、蘭ちゃんに首を絞められて気絶していた。

 「こいつ、知ってるヤツか?」
 「……えっと…あれ?見覚えある…」
 「客か?」
 「ううん、わたしのじゃ…あっ」

 自分の固定客じゃないと言いかけてから、彼を見かけたのが店だったことに気付いた。たしか、誰か、リカさんのではないけどリカさんとつるんでいるキャストをよく指名してる客だ。ついに客という男手まで使っていやがらせをしてきたのかもしれない。ぞっと血の気が引く。

 「誰」
 「……お客さんだった」
 「そうか」

 言うなりイザナは容赦なくその顔にグーパンを入れた。バキッと鈍い音とともに、口から血に交じってなにか白いものが飛んで行ったのが見えて、う、と目をそらす。助かった手前なにも言えないけど、なにも歯まで折らなくても。うちの弟は血の気が多すぎる。

 「蘭、免許証抜いて道に捨てとけ」
 「りょーかい、大将」
 「万里子、帰るぞ」
 「…うん。ありがとう、蘭ちゃん、竜胆くん」
 「立てる?」
 「うん、……あれ」

 恐怖に足が笑いすぎてか、まるで力が入らない。立ち上がるのにさえ苦心するわたしに、いち早く家路につきかけたイザナが戻ってきて、わたしに背を向けて屈んだ。

 「竜胆、乗せろ」
 「了解」

 されるがままに竜胆くんに持ち上げられ、イザナの背中に乗っかった。立ち上がるときに片足の靴が勝手に脱げて落ちたのを、竜胆くんが拾ってわたしの手に持たせてくれた。それにもお礼を言って、二人と別れる。

 「車、何時にどこで降りてる」
 「え…と、ファミマのあたり。1時半とか…」
 「わかった。ずれんなら連絡入れろ」
 「え」

 まるで迎えに来てくれるような言い方だ。さすがに週5の勤務に合わせてなんてありえないと思って聞き返すと、迎えに行くと強めに押し切られてしまった。言われるとすれば店を辞めろとか、車を降りるなとかの忠告だろうと思っていたから、そんな当然の指摘の一切ない、ただただ力強いサポートになんだか情けない気持ちになってしまう。

 「ありがとう…」
 「別に。オマエがそこで働いてなきゃ一家転覆してんだ。最初からそうするべきだった。悪い」

 別人を疑うほどイザナは大人で驚いた。そんなふうに言ってもらえて、このくだらないイジメに屈しそうだった心をいきおい勇気づけて回復してくれた。あの店のためでも自分だけのためでもなくて、ただ自分の家族を守るために行っているのだから、そこでどういう敵意を向けられても大丈夫だと思えた。イザナの首にぎゅっと抱き着く。

 「ありがと、ほんとに。お願いします」
 「……」
 「そういえば、昔コンビニで働いてたときも、実は守ってくれてたんだって?」
 「…どっちに聞いた?蘭か?」
 「いや、りん…あっ待って待って怒んないでよ!?嬉しかったから!!」

 基本的に低温で機嫌が読み取りにくいイザナの声が、明らかに低かったのに遅れて気付いて慌ててとりなした。持ち直したかどうかは分からない。竜胆くんには先に謝っておいたほうがいいかもしれない。
 そのあと、家についてからその心配してた当人から、安否を問う電話をもらって、申し訳なさのあまり口を滑らせたことは言えなかった。

 *

 気持ちは回復しても、体力が追いつかないところまでやられるとどうしようもない。

 「はい、飲んで飲んで〜!!」

 何回目かもわからないコールを受けて、まったく旨味を感じないただのアルコールを喉に流し込む。反射的に嘔吐しそうなのをどうにか飲み下して、ぐらぐら揺れる視界をどうにかまっすぐにキープしながらソファに戻った。

 「さっすがぁ!このコ飲めるでしょー!?」
 「やるねぇ!」

 どっと冷や汗がわくのを感じながら、となりにいるどうでもいい客に背中をたたいて褒められた。その衝撃で危うく出そうだ。軽率に触らないでほしい。ここ数年で鍛えた愛想笑いだけはどうにか張り付けて「ご馳走様でーす!」なんて強がると、客には見つからない角度でリカさんの目がだるそうに眇められた。

 ヘルプってシステムは本当に厄介だ。断っちゃダメだし、名刺も渡せない、バックも当然ないのに、ひたすら盛り上げなきゃならないから。

 この数日、リカさんは大勢の客を相手にするときのヘルプをわたしへ集中砲火していた。わたしを酒好きとして紹介して、度数が40%を超えてくるショットグラスを客にオーダーさせ、楽しいコールとともにイッキさせる。1回や2回ならどうにでもなるけど、今日は太客が大勢を連れてきてしまったから、状況はこれまででダントツの最悪だ。値段の高いショットを何杯も積み上げて加減なしで飲ませてくる。

 「もう一杯、イケるかなぁー?」
 「ちょっとちょっと、やりすぎじゃない?大丈夫?」

 客のほうもなかなか、下品に理性がないタイプで、止めているのはポーズだけだ。もう見たくもない同じグラスがまた目前に出される。昨日イザナに言われた、オマエが働いてなきゃ一家転覆、を思い出して折れそうな気持ちを奮い立たせ、立ち上がってグラスを掴み、バカな歓声を浴びかけたときだった。

 「やりすぎじゃね〜?」

 大きくて骨ばった薄い手が、グラスを上から奪っていった。ふわっと香った香水で、今の声が蘭ちゃんだと気付く。振り返ると、真上から予想したとおりの蘭ちゃんが覗き込んでいた。笑ってはいるけど、目が全然笑ってない。

 「ら…蘭くん」
 「こいつ、指名。いいよな?」
 「コレ返すわ」

 なにも減っていないグラスをテーブルにどん、と音を立てて戻し、蘭ちゃんはわたしを竜胆くんへと引き渡した。昨日に続いて情けないところばかり見られている。

 「…昨日からごめん、なんか」
 「何が。行くぞ」

 肩を抱かれて、引きずられるようにいつもの半個室に向かう。最初の数歩はよかったけど、だんだん本当に具合が悪くなってきて足を止めかけると、「腕、回せるか」と問われて一も二もなく竜胆くんの首に抱き着いた。膝の裏からふわっと持ち上げられて、彼に完全にもたれる形で、カーテンに隠れたソファに逃げ込む。

 「なんでもいいからスポドリ1L買ってきて」

 通りすがったボーイさんにお札を渡してそう言ってるのが聞こえる。ものすごく感謝したけど、もう口を動かす気力もない。

 「大丈夫か?吐いてくるか」
 「……のがいいかも…ちょっと、裏いってくる」
 「ムリだろ」

 反論するまえに、再び抱き上げられてブースを出た。連れられたのは広いほうの客用のトイレで、便座の前で下ろされてべたりと座り込んだ。いつもは不快じゃない芳香剤の匂いがやたらと胃の中身をかき回して、言いようのない気持ち悪さに襲われる。頭が重すぎて保っていられないわたしの髪がトイレに入らないように、竜胆くんが後ろでまとめてくれて、それからわたしの背中の真ん中あたりを強く撫でた。嘔吐を誘発するようなその動きに、一気に内臓が反り返って、すごい勢いで今まで中にためていた酒が逆流して噴出してくる。出しながら自分でもびっくりするほど酒しか出てこなくて、胃酸の混ざったアルコールで再び酔いそうなぐらいだった。喉が焼けそうだ。

 「っは…はぁ……ごめ……」
 「謝んなくていいから。自分の心配だけしてろ」

 それからもう一度、どん、と背中をたたかれて、残りがふたたびこみあげて吐きだした。それから2度吐くと、ようやく全部空になったようでなんとか落ち着いて、生理的に浮かんだ涙と汗をぬぐいながら、竜胆くんの身体に誘導されてもたれる。彼はずっと優しくて、おしぼりまでくれて、落ち着かせるようにぽんぽんと撫でてくれた。

 「…ほん、とに、ありがとう……たすかった……」
 「気にすんな。もういい?」

 頷くと、また身体を抱き上げられた。羞恥を感じられるだけの理性も飛んでしまっていて、まるで当然のように受けて元の席に戻ると、テーブルには蘭ちゃんが先について、ポカリ2本といつものウイスキーが置いてあった。

 「はい、水分補給」
 「ありがとうすぎる……やっと意識しっかりしてきたかも、ほんとにごめんね…」
 「んで?あれはどーいうこと?」
 「あれ…というと」
 「イヤガラセ?」

 蘭ちゃんにしてはずいぶん柔らかい言い回しを選んだなと思って、普通に笑ってしまった。そぐわない反応に彼の柳眉がひそめられて、長い指のデコピンが飛んでくる。いつもと立場が逆転したみたいだ。

 「ヒマ人がなんかやってるだけだよ。心配しないで」
 「急性アル中一歩手前でよく言えたなソレ」
 「その節は本当に感謝してます……次はもうちょっとうまく避けるわ。バカ正直に受けすぎた」

 ポカリは神の水かってほど美味しくて、ものの数分で1本空けてしまった。そこから閉店まで、彼らはヘルプから守るように延長を続け、自宅前までタクシーで送ってくれた。



 あれから日、月と休みをはさんで、火曜日になった。出勤日だと思うともう気持ちが重くて重くて、夕飯を作る手が何度も止まる。このままもう1日休んじゃダメかな、がちらつくけど、自分の性格上、ここでもし休んだらそれをずるずると引きずりかねないから、せめて今日だけでも、と自分に言い聞かせ続けて、どうにか支度する。

 玄関で靴をはいてたら、外から急によく知った排気音が聞こえた。万次郎だ。送ってくれないかな、と、地獄みたいな空気の迎車が嫌でとっさに思っていたら、「今日オレ送るんで次行っていいっすよー」と軽い声が聞こえて、思いっきりほっとした顔になってしまった。

 「万里子ーあっいた。聞こえてた?」
 「…うん、ありがとう」
 「…どした?なんかヤなことあった?」

 こういうときはいやに鋭い万次郎が、じっとわたしの目を見てくる。心配をかけているのが情けなくもあるが、こうも追い詰められていると心配が嬉しいって気持ちのほうが大きかった。立ち上がって、その首に抱き着く。

 「……」
 「ちょっとあったけど、吹っ飛んだ!ありがとう」

 もの言いたげに迷っていたけど、結局言葉を選べなかったらしい。溜息をついてわたしを抱きしめ返して、「貯めすぎんなよ」と静かに言われる。子ども体温がすさんだ心にしみて、正直すこし潤んだ。

 「もうちょっとだけ充電させて」
 「…んじゃオレもー」
 「え?……や、なに、あははっヤダ!やめてマイちゃんやだっ」

 さらにぎゅっと抱きしめられたかと思ったら、回った手で両脇腹をくすぐられて悲鳴をあげた。逃げようにも力が強すぎて全然逃げられない。強制的に笑っちゃうと、さっきまでどんよりしていた気持ちが勝手に上向く。立っていられないぐらいのくすぐり攻撃から笑って逃げに逃げて、やっと手を止めてくれたときには完全に足が浮いて、抱っこ状態になっていた。

 持ち上げられていつもより高い目線から万次郎を見下ろす。満面の笑顔が迎えてくれた。

 「万里子ダイスキ♡」
 「……めっちゃ頑張れるぅぅ……」

 どうしようこの可愛い生き物。ぎゅんぎゅんに心臓をつかまれてしまい、店での嫌なことなど吹っ飛んでしまって、見慣れてきた銀座の街が近づいてきても気持ちは暗くならなかった。

 「帰りも迎えこよーか?」
 「大丈夫。ダメージ食らってたら万次郎の部屋行くかもだけど」
 「まってる」

 さっと前髪をどけられて、おでこに唇がくっついた。励ましてくれてるのがちゃんと伝わる。心底感謝してその手を離して、店の裏口へ向かった。扉が閉じきってしまうまで、万次郎はそこにいてくれていた。
さて、今日はどうくるか。「お疲れ様でーす」と控えめに言いながら更衣室に入ると、予想もしない衝撃とハグが襲ってくる。

 「ユリちゃーん!!」
 「えっ??」

 抱き着いてきたのは、えみちゃん曰くの第一容疑者で、トップキャストのリカさんだった。わけがわからず興奮しているらしい彼女の後頭部と周囲を見渡すと、その空気も3日前のようにはまるで刺々しくない、気持ち悪い優しさが含まれている。

 「ど、…どうしたんですか?」
 「竜胆ってどういうコがタイプなの!?」
 「…へ?」

 どうしてそこで竜胆くんの名前が出るのか。まるでついていけない。混乱してるところにえみちゃんが来てくれて、彼女に見つからない角度で渋い顔をしながら、教えてくれた。

 「昨日あの二人、リカさん指名して飲んでいったんだよ」
 「え?」
 「そうなのあんまり急であたしびっくりして!だってずっとユリちゃんだったじゃん、そしたら『一回指名してみたかったから』って最初からあたし呼んでくれて」

 ずき、と胸が鈍く痛んだ。別に誰を指名して飲もうが彼らの勝手だけど、『オマエ一筋』だの『万里子じゃなきゃ来てねぇよ』だのをあんまり繰り返されて知らないうちに信じ込んでしまっていた。まるでホストの営業トークにのめり込む客みたいだ。それはリカさんもそうで、いつもあれほど客を振り回して限界を超えさせている魔性はどこへやら、少女みたいにきらきらした目でマシンガントークを続ける。

 「でね、今日同伴だったんだけど、あんなイケメンに料金払わせたくなくてさっきそこで解散してきちゃった」
 「…えーめっちゃ優しいですねリカさん!でもわかる〜〜」
 「わかってくれる!!?」

 喉につっかえそうなもやもやは全て飲み込んで、掌を返した。社会で生きていくってのはこういうことだ。マウントは取れるだけ取らせたほうがいいし、本当はアウトなちょっとしたルール違反は注意でも尊敬でもなく、共感。リカさんは簡単にわたしの味方になり、これまで冷たかったキャストも正気を疑う急変ぶりで優しくなる。こっそりずっと味方してくれていたえみちゃんが、わたしの冷えた手を見つからないようにぎゅっと一瞬握って、離れて行った。

 うわべだけの気持ち悪い明るさを保ちながらそれぞれに支度をして、待機ブースに向かう間も、リカさんはずっと昨日あったことを話していた。高いウイスキーをボトルキープしてくれたとか、手を握ってくれたとか、キスしかねない距離で抱き寄せられて本当はキスしたかったとかそういったこと。いちいち抉られるエピソードトークに、ずいぶんちゃんと反応できたと思うからそこだけは自分を褒めたい。

 「ね、今までごめんね?あたし誤解してたの」

 二人並んで座ったとき、本気で騙されてしまいそうな、本当に申し訳なさそうな顔でリカさんにそう言われた。何をとは明言しないあたりが、また上手いなと思う。

 「あ…いえ、こちらこそ…なにか失礼があったみたいで」
 「えぇ!?優しすぎだよユリちゃん…もっと怒っていいのに」

 恐ろしい生き物。わたしへの優しいって文言も、悪いことをしたって思ってるのもわりと本心なのが分かる。この人は自分の機嫌を全然自分でコントロールできていないし、感化されやすくコロコロ動きやすいという自覚もなく、しかも敵意をもったらどこまでも攻撃していいと思っている。

 あまり長く謝らせるとそれはそれで面倒なので、「っていうか連日で来てくれるんですね」と灰谷に話題を戻すと、リカさんはまんまと「そうなのー!」と上機嫌に叫んだ。

 「竜胆が明日も会いたいって言ってくれてぇ、アフターも誘われてるのー!どーしよー!」
 「、そう、なんですね!?すごい!言われたことないですそんなの」

 一瞬、返答に詰まってしまった。わたしが竜胆くんに傾倒しかかってることを見抜いてるのかもしれない。わざわざ名前を出して呼び捨てたうえ、『会いたい』『アフター』だなんて。これほど下に出てる相手にもカウンターは忘れないのだなと思った。これだけ警戒している相手にもダメージを与えられる言葉選びはさすがとしか言いようがない。

 「ね、ね、竜胆ってどーいうのが好みなのかな?服とかどーしよっか悩んでて」
 「リカさんならなんでも可愛いじゃないですか!わたしプライベート誘われたことなんてなくて、そーゆーのぜんぜんわかんないんですよねぇ」
 「えーっそうなの!?指名長いじゃん!どーして!?」
 「わたしあの二人に近所のオバサンだと思われてるんで」
 「うそーっ?そんなハズないと思うけどなぁ、ユリちゃん可愛いし…」
 「リカさんになんてとても並べないですよ、めっちゃきれいですもんね!」
 「やだぁ上手すぎ。ねえねえ、あの二人だとどっち派?」
 「えー…あんまり、考えたことなくて…リカさんはどうなんですか?」
 「あたしずっと蘭だったんだけど、昨日喋ったら竜胆好きになっちゃいそうだった!めっちゃ優しくない!?」

 さっきので弱ったのを確信したのか、リカさんはさらに畳みかけてきていた。その無邪気を装った目の奥に、ぎらりと悪意が見えている。すごい。いつぞやえみちゃんが言っていた、『そんなことじゃ靴は折らない』が頭によみがえった。たしかに、男女間のなにかのほうが簡単に人の理性を壊すのだと、こんなことで薄く実感した。

 開店の時間になり、「いらっしゃいませ」のボーイさんの声がいくつも重なった。その声の張りから、お得意さんなのはすぐにわかる。待機ブースから振り向くと、見慣れたモデル体型が2人と、誰か知らない黒髪の子が1人いた。

 「…誰?」
 「蘭!竜胆!」

 呼ばれるより前にリカさんが迎えに飛び出していく。蘭ちゃんはともかく、竜胆くんとリカさんが並んでいるのは見たくなくて思わず目をそらした。その表情が優しかったりしたら発狂して叫びそうだ。こんなくだらないことで、ここまでどうしようもない気持ちになるんだ。恋愛してる人ってすごい。

 「ユリちゃん、指名でーす」

 完全に自分の出番ではないと思っていたので、ボーイさんの声に驚いて「え?」と聞き返すと、彼はわざとらしく口をへの字に曲げて、親指で後ろを示した。

 「灰谷さんと一緒に来たあの人。テーブルは別だって」
 「…どういうこと?」

 もう一度振り返って見ても、灰谷ズと彼は普通の友人同士の距離感に見える。ばち、と竜胆くんと目が合ってなぜか反射的に目をそらしてしまった。なんにせよ、相手のオーダーなら従うしかない。

 「やだぁ、蘭!」

 媚び全開のトーンに思わず顔をしかめつつ、そのテーブルを見ないように通り過ぎて、隣のテーブルへ。釣り目が印象的な、これまた格好いい黒髪の男の子が一人で座っていた。

 「ご指名ありがとうございます、ユリ……あれ?二人と知り合いなら、本名も知ってる?」
 「万里子さんですよね。総長にはお世話になってます」
 「そ!?…ど、どっち!?イザナ!?」
 「はい」

 黒龍のメンバーだという彼は、九井ですと丁寧に名乗った。年齢は蘭ちゃんたちより2つも年下だという。蘭ちゃんたちがこの店に初めて来たときと同じ年齢だけど、それにしても万次郎の1つ上程度の子がこんなところに足を踏み入れていることに頭がくらくらして、引っ張ってきた隣のテーブルの派手頭を引っぱたきたくなった。

 「なにをこんな若い子連れてきてるのあの二人は……」
 「まぁまぁ。とりあえず飲みましょ」
 「待ちなさい未成年!」
 「フランスとかじゃ中学生でもシャンパンは嗜むらしいですよ。法的には16歳だったかな」
 「……」
 「ってことで、アルマンドのブラックで」
 「はぁ!!?」
 「金はあるんで」

 わたしが止める間もなく、彼はこの店最高額、100万越えのシャンパンをオーダーしてしまった。事態についていけなくてぱくぱくと酸素のたりない金魚みたいになるわたしに分厚い封筒を渡してくる。感触ですでに嫌な予感はしてたけど、ちらりと中をみると、おそらく300万の札束が入っていて気が遠くなり、ソファの背に頭をぶつけた。

 「ほんとになにものなの…きみたちは…」
 「ヒミツ♡」

 ぺろ、と舌を見せて笑われ、翻弄されすぎて頭がおかしくなりそうだった。いや、もうなってるかも。
金銭感覚が大バカの蘭ちゃんでさえ今まで入れてこなかった最高額のシャンパンを前に、さすがに手が震えた。

 「おー…さすが、うめー」
 「う、美味いのは美味いけど、もうちょっとよくわからない……」

 恐縮しきるわたしをまあまあと流して、九井くんが追加を注いでくれた。「かわるよ!?」と言ったら、「総長に何言われるかわかんないんで」と断固とした顔で拒否される。現役の黒龍の子には後ろの2人ぐらいにしか会ったことがなかったから、ちょっと面食らった。みんなあのぐらいの緩さなのかと思っていたけど、ちゃんとイザナはイザナで圧政しているらしい。

 「で、なんで二人と同じテーブルじゃないの?」
 「あの人たちの指示ですよ。万里子さんに変な指名入んねぇようにブロックしろって」
 「え?」

 九井くんが隣のブースを指で示した。聞いてみろ、ってことらしい。喋るのをやめて、耳をそばだてると、お酒の入ったリカさんの甘い声が聞こえる。

 「あたしちょっとやりすぎちゃうとこあって……引かないでね?引かないでよ!?…お客さんにお願いして、ちょっと脅かしてもらったことある……」
 「…!?」

 それは先週のストーカー事件のことだろうか。目をむいて九井くんを見つめ返すと、なにも驚いていないふうで続きを聞けとでもいうようにまた向こうを示された。蘭ちゃんの詐欺師っぽい雰囲気が全開になっている。

 「へーえ?オレらに言ってくれれば骨ぐらい折ってくんのに」
 「やだー!そこまでしちゃだめだよー!」
 「てかリカがそんなの頼むようなキョリのやつって誰?そいつ?どこ?彼氏?」
 「えー!そんなんじゃないよ、妬いてるの?カワイー竜胆!」
 「誰」
 「うふふ、内緒ーっ」
 「教えろよ」
 「えー?…じゃあ、ちょっときて?」

 竜胆くんを呼ぶその声に思わず普通に振り返ってしまった。席と席を遮るフェイクグリーンの間から、リカさんが竜胆くんに何事か耳打ちしてるのが見える。距離が近すぎだ。知らないうちに拳を作ってしまう。

 「…ツメ痛くないんですか?」
 「え?…あ、あぁ、平気平気」

 指摘通り確かに付け爪が掌にぶっ刺さっていた。さっきまでへこんでいたのが、ここにきて酒が手伝ったせいか苛立ちに変わってくる。あんな思わせぶりなこと言って、同伴して『一番に考えて』とまで言ってここにきて鞍替えなんて。お客さんの前で言語道断だけど、わたしは苛立ちの発散の邪魔にしかならない、そのやわい接着剤のツメをその場で剥がしてしまった。九井くんが絶句した。

 「はっ!!?」
 「あ、ゴメン、これ付け爪」
 「…びっっ…びびった……」
 「えっそんなに!?ご、ごめん」

 人の生爪を剥がした現場でも最近見たのか、本当に真っ青の九井くんに慌てて謝る。急に自傷行為するにしても爪を剥がすなんて気合い入りすぎだと思うのだが、彼にとっては付け爪という発想よりも自分の爪を剥がしだすほうが想像に易かったのかもしれない。イザナの素行が急に心配になった。

 話がそれた。「ふーん?」という竜胆くんの声で、姿勢を戻してまた隣に聞き耳をたてた。話はリカさんが『お客さんに頼んで脅かしてもらった』対象の人間に移っていた。つまり、わたしだ。

 「リカみたいなコがそんなイヤになるって、そいつ何したんだよ?」
 「えー…っと、みんなで無視とかぁ…聞こえるように悪口言ってきたりとかぁ…あ、靴も壊されちゃったの…」
 「……そりゃひでぇなぁ?つらかったんじゃねえ?」
 「う…うん、でも、誰にも相談できなくって、頑張るしかなくて……」

 なにかの精神病を疑う。自分が加害者側だったのを完全に忘れて、被害者側にトランスしている様子の彼女に、わたしは驚きも呆れも通り越して心配になってきた。

 「相手、誰?」
 「……いっ、言えない…」
 「言えよ」
 「………ゆ、……り…ちゃ……」

 リカさんがわたしの源氏名を口走ったとたん、がたん、と向こうの2人が立ち上がった。まさかあんな妄言を信じたのか。そっちを振り返ると、立ち上がった蘭ちゃんと目が合う。楽しそうな顔。どういうこと?何がなんだかわからないわたしの背中を、九井くんが押してソファから立たせる。

 「だって、ユリ。聞こえてたろ?どう?」
 「えー…っと……?」

 求められている答えが分からない。そもそも彼らはリカさんを信じているのか。今まで接してきた2人がそんな馬鹿ではないとは思っているつもりだけど、可愛い女を前に男はみんな馬鹿だとかよく言うし。そうだとして空気を読むなら、『リカさんごめんなさい』なのか。リカさんの様子をちらりとうかがうと、勝ち誇ったような顔をしていて驚いた。わたしが彼女の立場ならもう少し、実は全部バレてるんじゃないかって心配になるけど。

 否定するにも証拠はないし、本当に何を言えばいいのかわからずぼーっとしていたら、竜胆くんが深い溜息をついて、突然わたしの頭に軽いチョップを入れてきた。

 「へ?なに?」
 「オマエな、ちょっとぐらい怒れねぇの?」
 「は?」
 「九井、もういい。出せ」
 「ウッス」

 竜胆くんに催促されて九井くんがその場に撒いたのは、いくつかの写真とロムだった。いったいなんの?たまたま自分のもとに飛んできた1枚をのぞいて、息をのんだ。監視カメラの映像を切り取ったような画質の写真には、まぎれもなくわたしの靴のヒールにナイフを入れる、リカさんの後ろ姿があったから。

 「器物損壊、暴行教唆。やろうと思えば殺人未遂まで話盛れるぜ」
 「な…っ、なに…!?何これ!!?」

 何枚もあるようで、他のものはすべて九井くんがひとまとめに渡してくれた。ロムにはどれにも日付が入り、2枚はドラレコ、3枚は更衣室、監視カメラと書かれている。写真にはどこで撮ったんだか、わたしの折れた靴と、それを日常的に履くわたしの姿が写ったものから始まり、深夜の道でわたしを襲ったあの男や、ヘルプに入ったわたしにめちゃめちゃ飲ませた客に密着してホテルに入っていくリカさんの姿が写っていた。た、探偵?

 「へーえ。今の話は真逆だったんだ?」
 「ちがっ…ちがうの!信じて蘭!!」

 怒涛のように繰り広げられるドラマみたいな修羅場で、わたしはたった今自分が彼らに救われていることに気付くのにすら時間がかかった。リカさんはパニックを起こしていて、もはや見ていられない。他に撒かれた写真は彼女が必死でかき集めていたけど、蘭ちゃんににべもなく「元データ消してるわけねえじゃん♡」と言われて、「だましたな!!!」と泣き叫んだ。人がここまで追い詰められているのを初めて見て、潜在的な恐怖を煽られて思わず一歩下がると、竜胆くんに腰を抱き寄せられる。

 「悪い、ビビったろ」
 「……すごく…」

 ここまでさんざん乱高下させられて動揺した気持ちが、その囁かれた言葉と体温でかんたんに落ち着いた。こんな状況なのに、正直いちばんわたしが安堵していたのは、彼がリカさんにまるで靡いていない、ということだった。子どもみたいだけど、とにかく竜胆くんを取られたくなかったのだとここではっきり自覚した。

 わたしたちは、これでもかってほど客や他のキャスト、スタッフの衆目を集めまくっていた。水を打ったように静まり返った店内で、間抜けなBGMだけが空気を読めずに流れている。

 「今なら全員聞こえんだろうから警告しとくな。今回の件でリカについて万里子…じゃねーや、ユリになんかしたやつ。全身の骨折られたくなかったら、今日中に23区から出とけよー?」
 「脅しじゃねぇぞ。灰谷兄弟が地獄の底まで追っかけるからな」

 竜胆くんが追い打ちで言った、“灰谷兄弟”で、なぜか客とスタッフがざわついた。灰谷って、あの灰谷!?とか、そんなようなどよめきに、有名人だったのかと二人を見比べたが、教えてくれそうな気配はまるでない。その間に九井くんがボーイを呼び止め、わたしの未払いの給料と荷物を10秒で用意しろと言いつけていて、ビビり倒したスタッフが本当に10秒以内にむき出しの現金約30万強とわたしの荷物を持ってきた。蘭ちゃんがそのお札をかき集めて無造作にわたしのトートに放り込み、差し出してくる。

 「はい、解決♡」
 「え、えぇぇ………」
 「あ、そうそう、ここの店長と六本木のラウンジに話つけてるから。今日退店で明後日からそっちな」
 「ハ!!?」
 「今日は退勤。外で飲もうぜー」

 蘭ちゃんは満足そうな笑顔で、竜胆くんの逆から肩を抱いてくる。いつもと同じ、身体が勝手に愛されてると勘違いしそうな優しい手つきで、頭にほっぺたまでくっつけて、「どこにしよっか」なんて言う。店内の地獄みたいな空気なんてこの人にはまるで感じられていないみたいに。でも、

 「そんなババアみたいなヤツのどこがいいの!?」

 断末魔みたいな負け惜しみを叫ぶリカさんには一瞬表情を固め、寒気が走るような冷たい目になった。今に彼女に物理で手を出しそうな凄味で、とっさに彼らの服をつかむと、まったくシンクロした動きでわたしを振り返る。ビビったわたしの顔を見るやさっきの凄味はすぐさま立ち消え、蘭ちゃんはおかしそうに笑い、竜胆くんはばつが悪そうに目をそらした。

 「どこがってなぁ?どーなの竜胆?」
 「……なんでオレにふるんだよ」
 「え?だって兄ちゃんにまで手ェ出したら殺すって言っちゃうぐらいだしー?」
 「言うなよそういうのを本人の前で!!!」

 顔を赤くして怒る竜胆くんに、わたしは心臓をひっつかまれてしまった。本当にそう言ったのかな。横暴なお兄ちゃんの尻に敷かれ続けて文句を言いながら、それでもたぶん彼を尊敬してるから絶対に従い、面倒をみている彼が?どんなに怒っても殺気なんか絶対に向けないのに、信じられない。

 ちらりとわたしの顔色をうかがうような竜胆くんと目が合い、お互いにとても耐えられなくてすぐに逸らした。それを見ていた蘭ちゃんが、みるみるドン引きしたような渋い顔になっていく。

 「…マジかよオマエら。ガキか?」
 「うるせぇな…」
 「あーもーいいや付き合ってらんね。あのな、オレはそのババアっぷりが気に入ってんだよ。竜胆なんか知らねーうちにそんなレベル通り越してガチってるし」
 「……」
 「バカだったな?相手は灰谷兄弟の“お気に入り”だぜー?今胴と首が繋がってるだけ感謝しろ。行くぞ」

 最初はお得意のおちょくるような声色だったのが、最後は聞いたことがないぐらいどすが聞いていた。茫然と見上げるわたしには目を合わせずに、急に姿勢を低くしたかと思うと普通に持ち上げられてしまう。今まで経験してきたどの抱っこよりも視線が高くて怖くて、慌ててその首に抱き着いた。

 「高い高い高い!お、おろして蘭ちゃんめっちゃコワい高い!」
 「万里子のトロい足待ってらんねーの。酒酒ー」

 大注目を浴びるなかを長いコンパスがさっさと通り抜けていく。自分の顔にも注目が集まっているのが恥ずかしくて、その薄い肩口に顔を押し付けて隠して、もう周りなんて見ないようにした。入口の階段を下りる振動が止まって、戸惑い切ったボーイさんの「ありがとうございました」とともにドアが開く音がして顔を上げると、蘭ちゃんがわたしをようやく地面に下ろした。

 「はい、退職おめでとー♡」
 「え……っ、と……どこから…なにを……」
 「まず酒っつったろ?そういうまどろっこしい話は店入ってからにしろ。ココなんかねぇ?」
 「近いほうがいいすか?」
 「味優先、今日は中華のキブンー」
 「うっす」

 万次郎に送られてここに来てから30分も経っていないうちに、人生が激動してしまった。今日が最後になるなんて夢にも思っていなかった店の外観を、ぼんやり眺める。

*視点交代 竜胆になります

 九井が万里子の店で頼んだ残りは、確かにヤバい味だった。

 「んーー高級。さっすが財務大臣♡サンキュー」
 「いーえ。アンタらに貸しつけられるチャンスなんかそうそうないんで、逆にありがたいっすよ」
 「うわコエー」

 兄貴たちの化かし合いは置いといて、万里子はタクシーから乾杯までぽけーっとしたままだった。店に着きさえすればいろいろ問いただしてくるかと思ったのに、そんな気配もない。よっぽど衝撃だったんだろう。焦点を結ばない目の前に手を振ってこっちに戻すと、なんとか焦点は戻ったものの、迷子のガキみたいな不安げな目がおそるおそるこっちを見てくる。なにそれ。かわいい。そんな顔できたのか。

 「あのな、聞かれそうなこと全部先に言っとくな。前オマエ襲った男いたろ、すげぇ素人でさ。一応揺すったらボロボロ喋ってくれたから、あの時からもうオマエがリカにやられてんのは知ってたんだよ」
 「……ほ、ほう」
 「で、あの店のオーナー知ってたから、事情話して監視カメラ見せてもらって、あとはいろいろ証拠集めしてオワリ。なんか聞きたいことある?」
 「……なんかいっぱいあったはずなんだけどぜんぜん出てこないから今度でいいかな……」
 「おっけ今日はもう忘れろ、飲むぞ」
 「のむ…ああっ!!」

 茫然と飲む、を繰り返したとたん、万里子が突然悲鳴とともに自我を取り戻し、九井の肩を掴んだ。ああ、金か、と思ったらやっぱりそうだった。

 「お金!!九井くん!!払い過ぎ!!!返す!!」
 「いや普通に飲みたかっただけなんで気にしないでください」
 「アレ定価そんなにしないからね!!?」
 「キャバで100万使ってみたかったし」
 「無駄遣いの極み!!!」

 そこかよ。それだけ金を稼げることに何も着目されずに、無駄遣いを普通に怒られるのが笑えてしまう。初めて万里子に会ったときもこんなだったなと思った。さっき渡されたばっかりの現ナマをかき集めて押し付けようとする万里子と、絶対にいらないと跳ね返す九井の押し問答が始まる。永遠に収まらないだろうからと兄貴が金を取り上げて、「じゃあここは万里子の奢り、それでオワリ」とテーブルの隅に置いてしまった。どうせ払わせないくせによく言う。

 「にしてもホントイイ子ちゃんなーオマエ。わざわざいかれた自供聞かせてやったのに全然怒んねぇんだもん」
 「え……いや…わたしは二人がそのいかれた自供を信じてんじゃないかとそっちのが心配で…」
 「「ハ??」」

 馬鹿にするにもほどがある。そこまで脳ミソ空だと思われてるとは思わなかった。兄貴と同時に聞き返したら、思ったより怖がらせたようで、ずり、と引きつった顔の万里子が遠ざかる。

 「8割ないなって思ってたよ!?思ってたけど万が一ってことあるじゃん!?」
 「へーーえ???万里子はオレらがあんな頭ゆるゆるのバカ女に騙されるよーなクソモテねぇザコ男と同じって疑ってたわけ???」
 「そっ…れは言い方が悪すぎる……」
 「あーやべえ、すげぇショック…眠れないかも…」
 「あーあーこっちはこんなに心配したのになぁ竜胆」

 まあ信頼されるような素行じゃないのは確かだけど。ちくちくと罪悪感を刺すように万里子を追い詰めると、このお人よしは情けなく眉毛を下げて、ごめんごめんと何度も縋ってきていた。可愛いから許しそうになるのを、兄貴にテーブルの下で蹴られて止められ、なんとか踏みとどまる。

 「誠意見せてもらわねぇとな?」
 「…言い方がヤクザなのよ……なに?」
 「オマエにガチ惚れの弟にチューしてやって」
 「「はあ!!?!?」」

 テーブルをたたいたのはオレも万里子も同時だった。とてもそっちの顔なんか見れない。兄貴は万里子とオレを見てぐすぐす笑っている。尊敬はしてるけど、こういうところはマジで嫌だ。人が必死なのとかひたすら笑うタイプ。神経疑う。

 「気にしなくていいから!」
 「き、気にはするけど…あ、ていうか、今更だけど」
 「…なに」

 その声のトーンで、本当に好きなのかとか聞かれるのかと思ったら違った。酒を飲まされまくって大丈夫だとほざいていたときとははっきり違う、ほっとしたような優しい顔だ。

 「当たり前のこと言ってなかった。…助けてくれてありがとう」
 「…おう」

 まともに“誠意”を食らって毒気を抜かれた兄貴は、これ以上オレたちをいじるのをやめた。



 酒と味の濃い中華をアテにずっとバカ話をして笑って、気付けば4時間ほどたっていた。いつも通りへべれけになった兄貴は九井に押し付け、オレは万里子を送る。まだ終電のある時間で、酔い覚ましに歩いて帰りたいと言うからそれに付き合った。

 白い街灯に照らされる万里子の顔で、そういえば街を一緒に歩いたことがなかったと気付いた。

 「足平気なの?」
 「うん、もうすっかり。何にもないよ」
 「すっげぇ捻ってたのに」
 「そこまで見たの!?」
 「まあ」

 監視カメラの遠目でもわかるぐらい、足首がとんでもない角度になっていたのを思い出す。初めてその映像を見たときは、もうとても間に合わないのにうっかり手が出そうになったぐらいだ。兄貴でさえ『うわぁ…』と痛そうな顔になっていたし。

 そっちが心配なのは伝わらず、万里子は恥ずかしそうな顔で重ねてお礼を言ってきた。

 「本当に助けられちゃったね。ありがとね」
 「もーいいって…つーか、今回はたまたま気付けたからよかったけど。そういうのちゃんと人に相談しろよ」
 「すぐ終わると思ってたんだよー」
 「…ほんっと人に頼るって発想ねぇよな」
 「そんなことないよ、だいぶ甘えてる」

 まるで見込み違いの自己評価を言われて、さすがにイラっときた。夜道で襲われたときだってそのままヤられてたかもしれないし、急性アル中で死んでたかもしれない。相手がバカだから加減はなかった。命の危険だってあったのに、危機感がなさすぎる。思えばここまでだってそんなことばっかりだった。未成年の頃からキャバで働いてたのだって、あの家の兄弟たちを自分の力でどうにかしようとしたんだろうから。

 一度誰かがまともに怒らないとダメな気がして足を止め、万里子の腕も引っ張って止めさせた。きょとんと丸い目が見上げてくる。

 「マジで自覚ねぇの?どんだけ酔いつぶれても風邪ひいてても嫌がらせ受けてても、人に言ってんの聞いたことねぇんだけど」
 「……そうかな?」
 「そうだよ。そうしないと、周りが不安になるって思ってる」

 飲まされまくっていたあの場に居合わせなかったら、そんなことがあったなんてオレらには一言も言わなかっただろう。怒ったり他人を心配してたりの顔は見せても、自分のことで凹んでいる顔なんて一切しない。されすぎてもムカつくけど、あれで言わないのは異常だ。

 周りが不安になると言われると、万里子ははっとしたように黙った。自覚もなかったのか。

 「…そうやって家族守ってきたんだろな」
 「……そんな…格好いいものでは、ないけど」
 「カッコいいよ。…けど、オレの前ではカッコいい母親でいてほしくない。弟とタメだけど、弟じゃねえよ。いい加減オマエのこと好きな他人って認めて。困ったら言って。頼って。絶対助けるから」

 自分でもクサいなって思ったけど、恥ずかしいほど本心だった。万里子はぽかんと見てたけど、助けると言ったらあっという間に涙の膜が張って、ぼろりと大粒の涙を一気に2つも落とした。そりゃきつかったと思う。あんなワケのわかんない男に急に抱き着かれたり、酒で身体壊されかけたり、ドラレコも聞いたけど聞こえよがしに相当な悪口を言われていた。解放されて安心して泣く細い体を、たまらない気持ちで抱きしめた。

 どれぐらい時間がたったか。だんだんテンションが落ち着いてくると、いい加減人の視線が気になってくる。よく考えたら普通に地下鉄の入口に続く繁華街だった。万里子もそろそろ気付いて真っ赤になるような気がしてその身体を離すと、万里子は照れるでも怒るでもなく、いやにまっすぐな目でオレを見上げてくる。

 「わたし、人と付き合いたいって思ったことなくて」
 「え?」
 「あ、これでも好きになったことはあるんだけどね!?でもその人も別に彼女になりたかったわけじゃないし…もちろん前一瞬付き合ったのも全然なんともでさ、なんでみんな付き合うのかわかんなかったんだよね」

 この流れでふられそうになってるのかと一瞬疑った。でも、万里子の目はそれさえどうでもよくなるぐらいきれいで、握ってくる手は熱くて、ずっと見ていたくなる。

 「でも今日初めて分かった。竜胆くんがリカさんとくっつくんじゃないかって思ったらめちゃくちゃ嫌だったから」
 「…マジで疑ってたの?」
 「普通なら疑わなかったと思うよ。…好きだとこんなに不安になるんだね」
 「は」

 自分が先に好きだと言っておきながら、自分のなかで万里子と恋愛が結びついていなくて、万里子の言う“好き”にまるで夢みたいに現実感がなかった。好き?誰が?誰を?何も言えないでいるオレに、万里子は結局最後までカッコよかった。

 「誰かに取られたくない、当たり前に竜胆くんの隣にいる権利がほしい。…付き合ってください」

 やば。

 何テンポも遅れて、ずっと欲しいと思い続けてきた女に手が届いたことに気付いて、幸福感で飽和した。信じられないほど頭が働かない。まともに言葉らしい言葉も出ない。やっとの思いでもう一回抱きしめたオレに、万里子が涙の滲んだ声で笑っている。

 「大好き」
 「……オレも、すげぇ好き」

 ダッサい告白。兄貴の耳に入ったら死ぬまでからかわれそうだ。


***