***
何枚もプリントをめくりすぎて、指の皮脂が全然足りない。
「待って、一回とめて」
「むり、もう次来てるもん」
「これ二人分はどんまいすぎ。頑張れ」
ホームルームが始まってから、配られている紙の量はもうそろそろ三十枚を超えている気がする。こんなの配る前に教師陣で冊子に組んでおいてくれればいいのに。内心で毒づきながら、それでも容赦なく回ってくる紙をなかばやけくそで受け取って、苦戦しながら二枚取った。二人分、って前の子に言われたとおりで、わたしはノルマがみんなの倍なのだ。苗字が佐野なばっかりに。
わたしの指を苦しめている原因の半分は、“後ろに回して”をこれだけ繰り返されててんやわんやな教室のなかで、ひとりすやすやと寝息を立てている。佐野万次郎。学年でわたし以外に唯一の佐野で、出席番号でわたしとどうやっても切れない縁の彼は、この学校一、いや、知る限りでいちばんのヤンキーである。小柄ではあるけれども、常に一緒にいる大男の龍宮寺くんよりもはるか強いオーラを放つ。毎日学校に大遅刻してきては一言も発さずにそのまま机に突っ伏して寝続け、給食だけ食べて帰っていくという独特の通学スタイルなので、生徒のほとんどが喋ったことすらない。さすがに別格過ぎて引いたり怖がったりされるのが常だが、普通の人ならやりたくてもできない我儘を眉ひとつ動かさずに貫き通せる佐野くんには、みんながどこかで憧れているんじゃないかと思う。わたしも例に漏れない。三年生になって初めて同じクラスになって、連番でなにかと苦しめられることは多いながら、こうして二倍の手間を自分に課そうとも彼の睡眠の邪魔をしないようにひっそり手伝ってしまっている。
「はい最後!…大丈夫?」
「なんとか」
最後だと思えば余裕が生まれ、あっさり束から二枚を拾えた。折り目や皺がついてないきれいなほうをまとめてホチキスで閉じて、彼の机の横に引っかけた紙袋に滑り込ませる。最初はその肘の下とかに無理やり挟んだりしていたけれど、佐野くんが気付かなさ過ぎてただ床に散らかしていくので、見かねて私が自分で紙袋をかけたのだ。まあ、どれだけプリントが無事だったとして彼が持って帰るわけでもないので、ほぼゴミ袋と言って差し支えない。
「…んぁ」
ようやくわたしが着席したら、寝ぼけた声が後ろで上がる。しまった。座った衝撃で起こしてしまったようだ。
「ごめん、起こしちゃったね」
「……ううん。今なに?」
「これ」
今しがた紙袋に突っ込んだ冊子を、眠い目をこする彼の前に出した。わたしが束ねたものとは知らないまま、そしてそもそもこの修学旅行のしおりもどうでもいいまま、佐野くんはその表紙の字を目で追って大あくびする。
「ありがと、いいんちょー」
「…いいえ」
修学旅行なんて来ないんだろう。五、六人で一班という縛りのある班分けに、くだらない駆け引きがちまちま行われていることなんて彼は知らない。羨ましい。誰といちばん仲がいいか、離れたくないかなんてどうでもいいと思いながら、パーソナルスペースを確保できる逃げ場がない旅行先での約七十二時間が大きく左右されるのが分かっているから、自分だってその駆け引きをしているってこともすごくストレスだった。佐野くんみたいに、どうでもいいものをどうでもいいって言い切れるように生まれてこられればよかったのに。
ちなみにわたしは学級委員長なんかではない。佐野くんが勝手に、委員長っぽいと言ってつけたあだ名だ。
*
修学旅行の班分けが最終決定になっても、もめごとは終わらなかった。
はみだし者をくっつけられたグループでの仲間外れ。自分たちが絶対に一緒がいいと人を追い出してまで固定したグループの中での仲間割れ。たかだか三日のためだけによくもここまで揉められるなと呆れるほど、中学生というのは治安が悪かった。旅行が始まってしまえば落ち着くんじゃないかと期待して、黙ってやり過ごそうとしていたけれど、空気の悪さは旅行前日どころかなんど当日朝まで続いた。各方向の悪口で携帯が鳴りやまず、ほぼ眠れないまま携帯を開けたら未読が100件を超えていて、本当にウンザリした。準備し終えた鞄を見たら、ここから続く二泊三日を思って余計に鬱々とした気持ちになり、なんだか本当に具合が悪い気がしてきて、休んでしまおうか、とひらめく。それは今までわりあい優等生然として生きてきたわたしにとっては、天啓に近かった。実行してやろう。もうどうでもいい。こんな思い出はいらない。
覚悟を決めてしまえば、あとの行動は早かった。
季節外れの電気毛布をこっそり繋いで布団を温める。もともと眠れなくて目は開いてなくて顔色は悪いので、それをエスカレートさせるのに多少寝ぐせは大げさにして、暑いのは我慢して分厚いスウェットと靴下を出して着こみ、下に降りる。わざとらしくない程度に寒いを連発したり、腕をさすったり、溜息をついたりして、母親から「具合悪いの?」の疑いをもたれてしまいさえすればあとはもう楽ちんだった。温めかけのヘアアイロンで三十八度をでっち上げれば、向こうから「旅行は諦めなさい」と言ってくれる。
「お粥作っておくからね」
「ありがと」
「夕方には帰ってくるから。なんかあったら電話して」
いたわってくれる母には多少罪悪感が出たけれど、娘の心の健康も大事なはずだ、と勝手に結論して、開放感を噛み締めながらもう一度眠りについた。安心のせいかとても熟睡できて、次に目を開けたときには3時を回っていて笑った。
回復したと思われると今からでも行けと言われそうで嫌だったので、夕飯は部屋で一人で芯のないうどんをすすった。健康体には全然足りず、それに加えて昼に寝すぎて寝つけなかったこともあって、両親が寝静まったあとにひっそりと家を出て深夜のコンビニに繰り出すことにした。時計は零時を回るところで、こんな時間に出歩いたことなんてないわたしは、たかがコンビニへの夜道にとてもわくわくした。まるで佐野くんの生活を味わっているみたいだ。
最寄りのコンビニが見えるところまで来て、げ、と口の端が引きつった。狭い入口からゴミ箱まで、明らかにガラの悪そうな特攻服の男たちが何人もたむろしていたからだ。普段なら絶対に引き返して安全なコンビニに向かう。でもこの時の私は本当にバカで、サボりごときで妙に強気で考えが甘くなっていた。不良だって別に同じ人間なんだし。コンビニ使うぐらい許してくれるでしょ。なーんて。
「すみません、通してくださ……」
「あァ?」
もう、本当に後悔した。どすの効いた声、かっぴらいた目に、腕も足も振られたら死ぬような距離でガンを飛ばされて、気絶したくなった。Uターンしてダッシュで逃げられればよかったのだけど、こんなことに慣れていない身体はただ凍って動かなくなってしまい、妙な膠着が数秒続いた。今すぐ消えたい以外のことが考えられない。
そんな沈黙を切ったのは、コンビニの自動ドアの開閉音。それと、
「あ?…あれ?いいんちょー?」
その向こうに立っていた、佐野くんだった。
「…え」
「おー、マジで委員長じゃん。…あ?」
その背後に龍宮寺くんも来て、私を見つけてそう言ったのち、すぐに私のただならない怯えた顔に気付いたようだった。入口を阻む男達の群れを見て、一瞬で目の色を変え、こっちまで震えあがりそうな凄味で一喝した。
「テメェら何パンピーにメンチ切ってんだよ。ぶっ飛ばされてぇのか!?どけ!!」
すると彼らはさっきまでの横柄さが嘘のように立ち上がり、「すんませんでした!!!」と声を揃えて頭を九十度に下げたので、私は絶句してしまった。こんなに暴力的で危なそうな人間たちがこうも二人を、“絶対的な上”として認識している、ということに本当に驚いた。学校でだってすごそう強そうと思っていたけど、これほど本物だとは思わなかったのだ。さらに追い打ちで、佐野くんが鬱陶しそうにそのお辞儀を見て、一番手近なリーゼントに容赦ない蹴りを一発落としたので、いよいよ息が止まった。
「ヒッ」
「うるせぇよ。声絞れ」
「もっ…申し訳、ありません、総長」
「どいてろ」
地面に落ちた男にもう一発、ゴミを道わきに避けるような足払いを入れる。初めて見る冷え切った表情に目を奪われていたら、わたしのほうを見上げるまでの瞬きの間にくるりと一転して、無邪気な笑顔になる。切り替えが早すぎて混乱した。
「どーしたの?こんな時間にめずらしーね」
「え…あ、うん、おなかすいちゃって……」
「そっか。ごめんな、ビビっただろ?こいつらガラわりーから」
「あ、いや、そんな……ことは」
「無理すんなよ。嫌なもんは嫌でいいよ」
「……佐野くんたちがいてくれてほんとによかったです……」
「それなー。委員長運良かったぜ」
去年クラスが揃って以来の龍宮寺くんも、佐野くんにならってわたしを委員長呼びしてきた。声音も顔も、お化け屋敷とかを怖がった子どもを宥める大人のように優しい。この世界でも彼らは、圧倒的に我を通せる人種なのだと思い知らされた。サボりや深夜コンビニで喜んでいた自分が小さすぎて笑える。
「ていうか、総長って?」
「あれ?知らねえの?」
「泣く子も黙る『東京卍會』総長!…とか言ってもいいんちょー知らねぇよな。チームやってんの。こいつらは最近入ったヤツ。ケンチンは副総長で、オレが一番上ね」
「え!!?佐野くんが!!?」
雰囲気のあるひとだとは思っていたけど、まさかこんなレベルのガラの悪いのをまるでザコの下っ端のように扱うようなトップオブトップだとは知らなかった。こうして立って並んでみると身長も同じくらいのこの、朗らかな彼が。たしかにさっきの蹴りはひどい音だったし、その躊躇いのなさといいスピードといい、喧嘩慣れしていて強いんだろうというのは素人目にもなんとなくわかる。
流れで3人でコンビニに入り、商品を物色しながら、東京卍會の規模とか、いつからやっているかとか、何時くらいに何をしてるのかとかを聞いた。謎に包まれていた2人の不良の日常はまるでフィクションで、普通に人に従って生きるしかないわたしから見ると本当に輝いていた。その道をとることによる弊害なんてどうでもいいほど楽しくて、そうしている時間が好きなのだろう。彼らは話している間ずっと笑顔だった。無邪気でかわいくて、格好良かった。
助けてもらったお礼にとリクエストを受けたたい焼きをレジに持って行ったけど、横から出てきた龍宮寺くんがわたしのポッキーと一緒に買ってくれた。
「オレも食う〜」
元来人との距離が近いタイプなのか、コンビニを出るなり佐野くんは背後からわたしの背中にくっついて、ポッキーに手を伸ばしてきた。びっくりしながら「待って」と箱を開けるのを、肩に顔を乗せたまま待っている。
「おいマイキー!何フツーに一緒に食おうとしてんだよ。委員長あんま遅いのまずいだろ」
「いいよ、わたしが外出たの気付いてないはずだから」
「…そんなもん?大丈夫?」
「なんかあったら電話かかってくるから。ありがとね」
肩口にいたままの口に一本差し出すと、彼は手を使わずにぽしぽしと唇だけで食べていく。なんだか雛鳥みたいでかわいい。さっきの迫力と同一人物にはとても思えなかった。
ポッキーは半分くらい食べられた。送ろうかと言われ、触るのも初めてのバイクにわたしは大喜びでその申し出を受けた。徒歩でさえ5分とかからない距離はあっという間だったけどすごく楽しくて、一瞬仲間入りできたようで嬉しかった。音がしないようにひっそりと家に入ってからも、しばらくドキドキして眠れなかった。
そういえば、彼らは一応同じ中学のはずなのに、当たり前のように都内に残っていた。まるで修学旅行なんて別世界のことのように、わたしがここに残っていることに疑問も呈さずに。それはなんだか、開放感の裏に残っていた罪悪感や孤独感をゆるく溶かしてくれた。
*
修学旅行の3日間だけプチ不良を経験したわたしだったけど、その後はすんなりと元に戻った。佐野くんは相変わらず学校では起きている時間が5分ぐらいしかなかったし、チームのほうが忙しいようで登校しない日が増え、そうこうしているうちに席替えしてしまったからまるで接点が消えた。現実なんてこんなものである。
再会、というか、久しぶりに会話することになったのは、その約半年後、うちの実家でのことだ。
わたしの家は寺で、この地価の高い都内にもったいないほどの面積の墓地がある。秋は落ち葉が多くて、毎日この時期は交替で掃除をするんだけど、たまたま当番だったこの日、ある墓石の前に彼の後ろ姿を見つけてしまった。
場地家。
それはわたしにとってもまだ鮮烈な印象のある名前だった。先々週にこの寺で家族葬された彼は、面識はないもののわたしと同い年で、父に聞いた話では、健康体だったけれど何かの事件に巻き込まれ、刺創で亡くなったのだという。近くの斎場で焼かれたのち、小さな骨壺となって敷地内の墓石のひとつに収められた。母親らしい人が震えながら嗚咽を漏らすさまときたら、とても見ていられなかった。
この近所に住んでいて同い年だったなら、佐野くんの友達なことも十分に考えられる。そうだとしたら同級生などに見られるのは嫌だろうと思い、参道のほうへ箒とちりとりを持って移動しようとしたのだけど、もう遅かった。人の気配に敏感な佐野くんはあっさりちりとりの音で振り返ってしまった。
「いいんちょー!?なんで!?」
思ったより彼は元気で、その顔と声には純粋な驚きだけが入っているように思えた。それに少し安心して、参道に向かおうとしていた足を止めた。わたしとの間を阻む墓石と墓石の間を飛び越えて、佐野くんはひらりとわたしの前に舞い降りた。
「ここ、わたしの家なの。見つかっちゃったね」
「ここって…寺ぁ!?いいんちょーお寺の娘なの!?」
「そうだよ」
「へー、じゃあ将来…なんだっけ。尼さん?」
「ううん、今のとこ実家が寺なだけの普通の人になるつもり」
「…いいんだ、そういうの。ぜってぇ継がなきゃいけねぇのかと思ってた」
「協会っていうのがあって、どこのお寺も神社も人を派遣して引き継いでくれるんだって」
「ふーん…じゃマジで普通の人なんだ。でも実家寺ってなんかいいね、ハクつく感じ」
「そう?線香臭くないかただ心配」
「いい匂いだよ。オレ好き」
ストレートな物言いにどきっとしてその顔を見つめたけど、穏やかな顔に一切の他意はみられない。犬猫とかを好きと言う感覚なんだろう。とはいえ、長年のコンプレックスを一発で晴らしてくれるノンタイムの答えは、わたしが彼を見る目を変えるのに十分だった。
「…お墓参り?」
「そ、幼馴染。すげぇカッケーやつ、優しいの」
まるで生きているように紹介してくれるのが、なんとなく彼らしいなと思った。そんなふうに紹介できる関係の相手の死を、たった数日でこうやって話していることに計り知れないなにかを感じて、つんと鼻の奥が沁みた。
「カップ焼きそば置いてあったの、あれ佐野くん?」
「あー、それはバジの部下…後輩?ちげぇ、アイツ留年したんだった。んー…懐いてたヤツ?みたいな」
「東卍の人なんだね」
「そ。覚えてたんだ」
「忘れないよ、あんな話」
わたしの気持ちなんて知らずに、そんなやべぇ話したっけ、と佐野くんはきょとんとしていた。彼らにとってはあんなことが普通の話なのだ。一応同じ教室にカテゴライズされてるはずなのに、こんなに違う。まるで違うその世界を知りたくて、勝手に口から次々と質問が飛び出してきた。普段はどこを走ってるのかとか、兄弟はいるのかとか、東京にあるチームの話とか。なんでそんなこと聞くのって切り上げてもよかっただろうに、佐野くんは丁寧にほとんど全部の質問に答えてくれて、たぶん彼は彼で寺の娘という珍しい肩書のわたしに興味をもち、いくつか質問まで返してくれた。それなりに肌寒い陽気のなか、途中で買った温かいペットボトルが冷めてしまうまで、わたしたちはずっと本殿の階段で喋っていた。
「エマはケンチンが好きでさ」
話がちょうど、彼の妹さんが好きだという龍宮寺くんに移りかけたとき、聞き覚えのあるバイクのエンジン音が近づいてきて、佐野くんが喋るのをやめてそっちを見た。音はちょうどうちの門構えのあたりに停車し、噂の人、龍宮寺くんともう一人、小柄な金髪のリーゼントの子が現れる。
「おーいた。マイキー!」
「マイキー君!」
「おー、タケミっちも。ケンチンよくわかったね、ココだって」
そういえば、“マイキー”ってどういう経緯でつけられたんだろう。二人と話している背中をぼんやり見ながら思う。こんなに長く話したのに、わりと何度か気になっていたそこを聞きそびれた。聞いたらきっと、マイキーって呼んでいいよ、と言ってくれそうだけど、なぜかなんとなく、それをわたしが呼んではいけない気がした。
「またね、いいんちょー。長話付き合ってくれてありがと」
「こちらこそ。またね、佐野くん」
またねと先に言ったのは彼だけど、この頃を境に彼はより一層、学校に顔を見せなくなった。卒業式さえも来なかったから、この長い会話と、一度だけ校庭から授業を受けるわたしに手を振ってくれたのが最後である。
通り雨みたいな初恋だった。
*
それから約10年。
いい歳してどうよと思いながらも、結婚や同棲の相手がいるわけでもなく、高いお金を出して近所に独居を構える理由もなく、わたしは実家暮らしのOLになっていた。その日は深夜残業で疲れきっている身体に鞭打つような豪雨で、駅から徒歩5分と言えどびしょびしょに濡れていて気持ちは相当ささくれ立っていた。だったらとっとと屋内に入ればいいのに、やや自暴自棄な気持ちもあって、普段は夜なんて不気味で絶対に覗きもしない墓地がなぜか気になり、足を踏み入れた。数歩歩いて特に異常もなさそうで、虫の知らせなんてそうそう当たらないなと踵を返しかけたとき、突然中学の記憶が蘇った。
――幼馴染。カッケーやつ
なんで今?
忘れもしないその方向へ首を向ける。場地家。その墓石の前に、何かが落ちていた。人だ。ぞっとして駆け寄って、傘をさしかける。
「大丈夫ですか!?」
ガリガリの身体に、脱色しきった銀髪のツーブロック、刈り上げられた項には花札のような刺青。どうしてこんなにもかけ離れた手がかりで分かったのかと言われたら、しつこい初恋の未練としか言いようがない。
「佐野くん……?」
都内の道端で意識を失っているヤツなんて、ヤバいヤツか酔っ払いかのどちらかなんだから、触らない関わらないが普通。でも、これは。おそるおそる雨に打たれているその肩を引き起こして顔を見て、あまりのことに息をのんだ。記憶にある彼とはまるで別人のようにげっそりと痩せてひどいクマで、血色強い印象だった肌も青白かったけど、それは間違いなく佐野万次郎くんその人だった。
劇的な変化の理由も、ここにいた経緯も分からないけど、なんにせよわたしは迷わずに傘を閉じてその場に放り、彼を引きずり上げて自宅へ上げた。泣きたくなるほど軽かった。
家族は寝ていたからこの事件には気付かなかった。起こして何かいいことがあるとも思えなかったので、そのまま佐野くんを風呂場に連れ込み、ガスストーブをがんがんに焚いて、彼の体温を奪う衣服をとりあえず上半身だけ剥いだ。だいぶ乱暴に身体中を拭いたからか、わずかに眉をひそめたような気がして、急いで彼の名前を呼ぶ。
「佐野くん、わかる?しっかりして」
「……、」
試しに2、3度揺すって呼びかけてみたけど、ぐったりした目は開かない。ただ、「エマ」と、たぶんあの時聞いた彼の妹の名前に唇が動いたように見えた。ひどく苦しそうだった。
「救急車、呼んでもいい?」
普通なら取る必要もない許可をこの時取ろうとしたのは、なんとなくこの様相の彼が公共のものを嫌がりそうに思えたからだ。本当になんとなく。でもそれは正解で、意識がこんなに沈んでいるのに、彼は救急車という単語を聞くなりがっとわたしの手首をつかんだ。声こそ出なかったけど、その行動の意味するところは汲めた。
「……わかった、呼ばない。そのかわり、死なないでね」
手の力が緩む。だらりと絡んだ指をほどいて、わたしはこのあと彼のズボンまで引きずり下ろした。誰も見てなんていないけど、救命行為だからと頭で言い訳を繰り返す。当然パンツまで雨でびしょ濡れだったわけだけど、脱がせるのも替えに兄や父のものを差し出すのもさすがに抵抗があったので、タオルで水気だけ取って、本人ごとストーブで乾かした。髪を乾かし終える頃には、一応触って濡れない程度には乾いていた。
びしょ濡れの服は、同じく濡れた自分の服と一緒に洗濯機に突っ込んだ。普通の黒いカットソーとパンツのようで、そのタグがアルマーニだったからぎょっとはしたんだけど、そんなところまで面倒は見ていられないと諦めて普通にスイッチを入れた。ポケットから出てきたのは2台のスマホと、リモコン状のものを含めると10本近い鍵の束。本当にいったい何をしているのか。持ち物と服だけ見たら、こんなところで行き倒れるような立場には思えない。
ちょうど洗い上がったもののなかに入っていた兄のスウェットを着せて、再び彼を引きずり上げた。この時点で日付はとっくに超えていた。明日は有給、と心に決め、彼を背負って廊下を抜けて階段を上がり、自室のベッドに転がした。
「…エマ……」
発熱してたから氷枕を入れたとき、彼はまた妹の名前を呼んだ。閉じたままの右目から、す、と一筋涙が落ちて行くのを見て、事情はなにもわからないままに胸が締め付けられるような思いがした。
「…何があったの……」
答えはなく、そこからも、何人かの名前を呼んでいた。ケンチン、バジ、知っている2人の名前だけはかろうじて拾えたけど、他はもうわからない。泣きながら魘されているのがあまりに苦しそうでどうしていいかわからず、咄嗟に手を握って頭を抱き寄せてしまった。そうしたら、その先はもう名前を呼ぶことはなく、震えていた息がゆっくりと整っていき、規則正しい寝息に変わる。
さすがに再会した初恋の人の寝込みを襲っていたのが恥ずかしくなって、落ち着いたのが分かったらすぐに離れたのだけれど、15分もしないうちにまた魘され始めたから、折衷案で手を握ったまま眠った。どうしようもなかった。彼は実に人を振り回すのが得意である。
*
何のきっかけもなく目が覚めた。カーテンの隙間からは日がさしていて、時計は朝6時を指している。仕事を休むと決めたのに、社畜の身体が勝手に起きてしまって悔しい。
なんで横にならずに突っ伏していたのかをすっかり忘れていて、起き上がってベッドに佐野くんを見つけたときは絶叫するかと思った。
「なっ……あっ…そ、そうだった……」
ひとり呟いて、はあ、と溜息をつくと、ぞく、と背筋に寒気が走った。感覚的に、昨日自分も雨に打たれすぎて風邪をひきかけているんだろうと思う。ベッド下の引き出しから分厚いカーディガンを引っ張り出して羽織り、佐野くんの額に手を乗せた。微熱だか平熱だかのラインのわたしとは違い、明らかに発熱は継続していてあまり下がっていなかった。
台所に行って、新しいアイスノンを冷凍庫から取って部屋に戻り、彼の頭を抱えて取り替えたら、彼の眉間にぐっと皺が寄った。しまった、起こした。
「…さのくーん?」
「…?」
薄く目が開き、ゆっくりと焦点が合う。これほど長く会っていなかった、たかだかクラスメートの顔が分かるかとここにきて心配になったけど、彼は掠れた声で「いいんちょー…?」と発した。しんどそうに起き上がろうとするのを慌てて止めて、枕に押し戻す。
「まだ寝てて。つらいでしょ」
「……どういうこと……」
「…うーん、わたしも聞きたい」
とりあえずわたしの知る範囲、彼が場地家の墓石前に落ちていたことから保護したところまでを話すと、彼はある程度記憶が戻ったようで、なぜかうんざりしたような顔で溜息をついた。そんな挙動は記憶にいる佐野くんとはまるで重ならなくて驚いた。意外にこれが素だったりするのだろうか。あの時、無理はしていなさそうに見えたのに。
「…ごめん、迷惑」
「ううん、びっくりはしたけどちょっと楽しかったよ。何か食べられそう?」
「…ぜんぜんムリ」
「…聞いといてごめんだけど、なんか食べないと回復しないよ。おじやとかなら頑張れない?」
「………まぁ……」
長い間をおいて、本当に嫌そうな顔をするのがなんだか面白くて笑った。作っても3口ぐらいで諦めそうだなと思ったのだけれど、意外に彼は言った通りに頑張り、半人前ぐらいを盛ったお椀はきれいに平らげて、すりおろした林檎もきちんと食べた。
会社はもちろん休みにした。さすがに異変に気付いた家族には、性別は伏せて、中学時代の友達が行き倒れていたので助けたという事実に、今は何かのトラウマで知らないひとを怖がっている様子だというウソも混ぜて伝え、部屋に入らないように念を押した。
看病というより、無理やり食事を与えて転がしていただけなんだけど、夕方頃にはずいぶん熱が下がって佐野くんは起き上がれるようになった。
「少し元気になったね」
「…おかげさまで。オレの服とか、どうなってる?」
「そろそろ乾いたと思うよ、あとで持ってくる。スマホと鍵はこれ、あの雨だったから水没しちゃっててつかないかもしれないけど…」
一応乾かして充電だけはしていた2台を差し出すと、アンドロイドのほうを取って彼は電源を入れた。画面はついたようだ。だいぶ作りがいかついから、防水なのかもしれない。
「ちょっと電話していい?」
「うん、もちろん。わたし外すね」
ところが電話の相手がワンコールもしないうちに応答したものだから、わたしがドアにもたどり着かないうちに通話は繋がってしまった。スピーカーホンを疑う音量で、ものすごい剣幕というかもはやヒステリーを起こしてるような男の金切り声が「マイキー!!?今どこに!!?無事ですか!!?」と叫んだから思わず振り返ってしまう。佐野くんは笑っちゃうほどげんなりした顔で、これでもかってほど携帯を耳から離して「無事。明日には帰る」と低く伝えてあっという間に通話を切り、電源まで落としていた。
「ごめん。済んだから外さなくていい」
「……う、うん……過激派なんだネ……」
「…本当は仕事の話もしたかったんだけどね」
「あー…佐野くんが顔見せるまで聞いてくれなそうだね」
「よくわかんね。正解」
あの剣幕じゃ誰でもわかるだろう。仕事の話というなら一応距離感としては上司と部下なんだろうけど、一晩行方が分からなかっただけであれほど発狂しちゃうのだ。仕事上だけでなくプライベートも深く関わっている腹心といったところだろうか。かつての龍宮寺くんが頭をよぎる。
「夕飯うどんなんだけど、1人前いけそう?」
「うん、いけそう。凄いな、いいんちょー」
「え?なんで?」
「メシ美味い。こんな食えたの久々」
「……こんな病人の量を……もうちょっと食べな…」
中学時代、身長は低くても小柄に感じさせなかったのは、無駄なくついた筋肉のおかげだったのだと、こんなに華奢になって初めて分かった。何か大病でも患っているんじゃないかと聞いても、それは全くないと言う。気付いてないだけじゃないの、と言ったら、そうかもね、とどこか自嘲めいた笑いで言っていた。それを聞いて、何だこの放っておけない人、と静かに衝撃を受けた。さっきの電話で発狂していた相手も実はまともで、諸悪の根源はもしかしたらこの佐野くんの、どうしようもなく人を魅了するカリスマと、放っておいたら野垂れ死にそうな世話焼き根性をくすぐるところなのかもしれない。
家族が外出したのを見計らって、彼に歯ブラシとタオルを渡して浴室に案内し、上がったところで薬も添えて食事も出した。我ながら完璧な看病だ。再会して1日足らずでこれほど面倒を見させてしまうんだから、やっぱり彼は天性の、人を召し使う才能があると思った。
「……もともと風邪ひいてた?」
「え?」
食べ終わった食器を片づけるときに突然そう聞かれて、きょとんとしているうちに佐野くんの手がわたしの額に伸びた。冷たい手がぴたりとくっつくと、じわじわとわたしの上がった体温がそっちに吸われていく。何か恥ずかしくて身体を引こうとして、最悪のタイミングでぞくっと寒気が来てくしゃみしてしまう。探るような目線が痛い。世話を焼かれる専門かと思っていたのに、洞察眼も鋭いようだ。
顔にくっついたままの手が恥ずかしくて、その手首を引いて離す。
「ひいてないよ。大丈夫」
「熱いよ。さっきから寒そうだし」
「そうかな?」
「…部屋戻ろ」
皿洗いを始めかけた手にタオルを押し付けられ、背中を押されて部屋に戻った。彼の指摘通りで、体温を測ってみたらここにきて微熱だけど発熱していた。さっきとは立場を逆転して、わたしのほうがベッドに押し込まれてしまう。
「オレの面倒ばっか見て、濡れたまま寝たんじゃない?」
「そういうわけじゃないけど…」
「昔からそういうとこあるよね。修学旅行とかオレ行かねぇのに、しおりきれいに綴じてくれたりとかさ」
「……」
どこまで気付いていたんだろう。そんなのはただ、折るのが下手だなとか汚いなとか思われるのが嫌で、見栄で整えた体裁だった。見られてなんていないと思っていた。わたしはあの日、家族構成とか、場地くんの話とかを聞いて、彼のことをずいぶん知った気でいたけど、全然分かっていなかったのかもしれない。下手をすれば、わたしが佐野くんに恋をした瞬間さえ、察していたんじゃないだろうか。
懐かしそうな微笑みは、ようやくかつての面影を思わせた。なんだか泣き出しそうにも見えた。
「何が…あったの?今、何してるの」
「……いいんちょーは質問多いね。すげぇ懐かしい、階段で喋ったの覚えてる?」
今日は質問には答えてくれないらしい。そこからぽつぽつと彼が話したのは、わたしが求める彼の今の情報などではなく、輝かしく彼がチームのトップを飾っていたときのことばかりだった。わたしもすっかり忘れていたのだが、一度わたしは調理実習をサボった彼に、出来上がったマフィンをあげたことがあるらしい。味よりもわたしのお人よしぶりに感動したのだそうだ。そこから、机の脇に下げられた紙袋にも気付いて、卒業式は出なかったけど、なんだか捨てるに捨てられず持って帰ったという話もしてくれた。
「優しいよな。全然変わってない」
「……優しくなんかないよ」
彼が思うような純粋な優しさで、わたしはそれらをやったわけじゃない。マフィンをあげたのだって最初から彼にあげようと思って余分に袋詰めしたんじゃないだろうし、紙袋だってそうせざるを得なかったから下げただけだ。今回家に上げたのも、そこらへんの同級生だったらそうはしていない。あの時一瞬、強烈に惹かれたこのひとを、忘れられなかっただけだ。下心なんてあったに決まっている。
「知り合いだからって落ちてるヤツ家に上げんなよ。次は通報して」
「……そんなの、佐野くんじゃなきゃとっくにしてたよ」
「……元同級生だとしても、犯罪者になってるかもしれないだろ?」
それが自分のことを言っているのは、ニブニブの一般人のわたしでもわかった。一般人が気軽に買わないハイブランドのだる着、2台のスマホ、尋常じゃない量の鍵に加え、部下だという電話の相手は佐野くんを『マイキー』と呼んでいたこと、何よりうなじに入ったその刺青。どこかで見たようなと思っていたけど、やっと思い出した。このところちらほらテレビにも映る、武力だけでなら現在日本最大と言われる反社会的組織を象徴する模様だ。
でも、そんなことはどうだっていい。
「…佐野くん、ずっと人の名前呼んでたよ。エマちゃんとか、龍宮寺くんとか、場地くん」
「……」
つい最近、商店街で龍宮寺くんは見かけた。黒髪になっても刺青もガタイも相変わらずの迫力だったけど、でも当時にも増して大人で優しくて、今の佐野くんと一緒にいるような雰囲気ではなかった。それを熱に浮かされて、死別した場地くんと一緒に並べて呼んでいたってことは、本当はあの時代にとても未練があるのに、不本意に今の立ち位置にいて、誰にも頼れないんじゃないか。少ない手がかりでは妄想できるのはこんなものだけど、少なくとも今の体形や顔から、現状が彼の体質に合っていないのは間違いない。
「嫌なら、もう何も聞かないから……たまには、場地くんと…わたしにも、会いに来たら」
「……できねぇよ」
「どうして」
「……会いたくない」
「…それ、そんな声で言うセリフじゃないよ」
いつの間にか繋いでいた手に少し力がこめられ、まだ熱いことに気付いた。少し下がったとはいえ、彼もまだ弱っている。頭に浮かんだことを、大胆すぎるかな、嫌がられるかな、と一瞬悩んで、もういいやと思って壁際に身を寄せて、ベッドを半分空けて手を引いた。さっきまで顔をそらしていた彼が、驚いたように目を見開いてわたしを見た。恥ずかしくなってもいいところだと思うんだけど、なぜかわたしは落ち着いていて、大きい目だなぁって思いながらぼんやり見つめ返した。2度手を引いてようやく彼は横になり、同じ布団に潜り込んで、そのままわたしの身体を抱きくるんだ。熱がぶり返したのかもしれない。痛いほど閉じ込めてくる身体はとても熱かった。
「…なにも教えられない。巻き込むかもしれないし…………言うの、怖い」
「うん、いいよ」
「……連絡先教えらんない。会う場所も毎回変える。変装してもらうかも」
「あはは、すごいね」
「……やっぱ優しすぎ」
「ちがうよ」
なんとなく彼は今も何かのトップなんじゃないかなと思う。そのカリスマゆえにあまりの人数を魅了しすぎて、そしてそれらを全部守らなきゃならなくて、合っていない環境に雁字搦めにされてしまっている、とか。馬鹿みたいな仮説だが、彼に会ってこのカリスマを浴びさえすれば、きっと誰もがあり得ることだと分かるはずだ。わたしだってこんなにあっさり、二十代後半にさしかかる年齢で持ちかけられる条件じゃないものを快諾しようとしているのだから。
「そうだなー、どうしても申し訳ないって思っちゃうならー…アルマーニの部屋着でも買ってもらおっかな?」
「は?」
「すごい手触りいい、これ。よく寝れそう。洗濯機なんかかけてごめんね」
「……優しすぎ。オレだけにしてね」
「うっわ、人タラシ。やめてよ」
笑いながらそう言ったら、初めて佐野くんが喉の奥で笑ったのが分かった。あのときの快活な笑い方とは程遠いけど、わたしの茶化しで笑ってくれたことが嬉しくて幸せで、彼の薄い胸のなかでくすくす笑う。
「明日の朝にはいったん帰る。ありがと、いいんちょー…ってのも、もう変か。名前で呼んでいい?」
「え?名前知ってるの?」
「バカにすんなよ。真琴でしょ」
「ウソ!?」
「……そっちこそオレの名前知ってんの?」
「誰に言ってんの?万次郎くん何回わたし代理で君の名前書いたと思う?」
「え、うそ。なんで?」
「テスト名前も書かないからじゃんね……」
「マジかごめん。オレ卒業できたの真琴のおかげだね」
「それは本当にそうだと思うわ」
抱きしめていた腕の力が緩んで少し離れると、柔らかい唇が一瞬だけ押し当てられて、すぐに離れて、顔を見ないうちにまた抱きしめられられた。リップ音がいやに耳に残る。熱でぼけているから、時間差でキスされたと自覚してカッと全身が熱くなった。あの頃の自分が見たら卒倒しそう、というか、今もしそう。
さて、この時は何も言えない、連絡先も言えないと言っていたその1か月後には、わたしの携帯には当然のように佐川急便の名前で彼の連絡先が入り、3か月後には梵天の首領だとゲロゲロされ、あの電話相手の金切り声の持ち主“三途くん”と知り合い、気付けば退職して彼のメインのセーフハウスに囲われるようになったのだけれど、だいぶ長くなったのでここらでいったん、記録を切ることにしようと思う。
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