*1回目(再会より第14日目、金曜日)
白昼夢のような再会から、しばらく現実感がなかった。3、4日目ぐらいにはすべてが妄想だったんじゃないかと思った。何かと洗濯したり掃除したりしてしまったから、あれが現実だったのだと証明するものは、彼が出がけにわたしのスマホで作っていったメールアカウントぐらいだが、それさえ10日も経ってしまうとわたしが夢遊病で作ったような気がしてきた。というか、たとえあれが夢じゃなかったとしても佐野くんがわざわざわたしに会いにくるか?そう考えると、あの時「会いに来たら」なんて言ったことが、思い出すと手足をバタバタさせたくなるほど恥ずかしくなり、思い出してしまうたびに忘れよう、なかったことにしようと、自分で何度も暗示をかけるようになる。それを繰り返すこと2週間で、ほぼなかったものと扱えるようになりかけてきたとき、非通知の電話がかかってきた。
たったのワンコールで、2週間もかけて諦めたものが100まで蘇った。
『今日夜、日比谷まで来られる?』
期待していた声が耳に届くと、胸がいっぱいになってしまって、デスクで頭を抱えた。動揺が声に出ないように、静かに震える息をついて、呼吸を整える。
「うん。何時にどこ?」
『送る。読んだら消して』
何かとなぜか分からない指示だけよこして、すぐに電話は切れた。ややあって、あのメールボックスに一件、9時と、よく結婚式で聞くような外資系のホテル名が送られてくる。間違えそうだからスクショして、指示通りにメールを削除し、ゴミ箱からも消した。
仕事終わりにそのまま言われた場所へ向かい、ホテル内に入って、心の中で、ひえ、とつぶやいた。絢爛豪華なシャンデリア、とかじゃないけど、天井がバカ高くて、シックにまとまったホテルのロビーで、そんなつもりじゃなく入り込んだわたしはとても場違いに感じた。で、ここでどうしたらいいのか。携帯を見ると、もう1件メールが入っていて、フロントではなくコンシェルジュで黒川を名乗れとの指示だったので、そうした。部屋番号が記されたカードキーを渡され、エレベーターに乗る。キーがないとエレベーターにそもそも乗れない、目的階しか押せない、フロアにも入れない高セキュリティシステム。そうでもしなければ暗殺だの変態行為だのをされかねない要人御用達なんだろう。
フロアに上がったら、エレベーターの両サイドと、廊下にも何人か黒服がいた。明らかにホテルの人間ではない。わたしが怒鳴られやしないかとびくびくしたが、わたしの顔を見て逆に全員が深く礼をされてぎょっとしてしまった。部屋に着くころには相当変な顔になっていたと思う。
「…お邪魔しまーす…」
指定された室内に入ると、ホワイエのサイドのドアから佐野くんがひょいと顔を出した。ここまでドキドキしっぱなしだったのが、知った顔にようやく気が抜けて膝から崩れた。開けかかりのドアにもたれて深く溜息をつくわたしに、佐野くんが目を丸くして寄ってくる。
「なに、変なヤツいた?大丈夫?」
「…ううん、大丈夫。こんなとこ来たことないからすごい緊張して…顔見れたら一気に緩んだだけ」
体勢を直して、ドアを閉める。高級ホテルは気密性が高くて、本当に密室にふたりでいるのを実感してなんだか気恥ずかしかった。
「迎えやらなくてごめんな。うちの車に乗るとこなんて見られるわけにいかなくてさ」
「あはは、いらないよ!どんなVIP扱い?」
たぶん彼の客ならすべてがそういう扱いになるのが常なのだろうが、それを当然として受け取る立場にわたしはいない。しょせん中学の同級生だ。そういう気遣いはしてほしくない。のだが、そういうわけにもいかないのか、彼はわたしの笑い飛ばしに短くありがと、と言ったあとに、ぱっと手を差し出してくる。なにを求められているのか分からなくてその手と顔で視線を3往復ぐらいさせたら、「領収書」とやっと言葉で催促してくれた。領収書?
「な、なんの?」
「タクシー。もらってないの?」
「…えーと…電車で来ちゃったけど…」
「は?…マジでやめて。意味わかんない」
「…えぇ…」
ややキレた低めのトーンで言われて戸惑う。「そっから言わなきゃなんねぇの」ってそんな、怒られても。なんの非も感じてはいないが、一応謝って「次からはそうするね」と言うと、「絶対な。遠いからとかナシ」と念押しされてやっと手がしまわれた。
「メシ食った?」
「ううん、まだ。佐野くんは?」
「…名前」
「あ、ごめん。万次郎くんは」
「……食ってない。好きなの適当に選んで」
ぽいっと渡されたのはルームサービスのメニューだった。予想したのよりはるかに全皿高くて天を仰ぐ。が、この人と外に買いに行くなり食べにいくなりという選択肢は絶対にないだろうし、そんなこと言ったらマジギレされそうなのでもう選ぶしかなかった。あと、普通に話しかけられてリアクションを忘れたけど、部屋もヤバい。天井まで全面窓だし、なんかテーブルあるしソファもあるし、生活感を生んでしまうテレビなんてわざわざ隠されている。ただ、たぶん彼はそういうリアクションを鬱陶しがりそうだから、言いたいことの大半を飲み込んで「セレブ」にまとめたら、やっぱり苦い顔をされたのでもうカルチャーショックなんて今後は全部飲み込む覚悟を決めた。
「酒コレしかないから、苦手なら他の頼んで」
テーブルの上には高そうな琥珀色のお酒が入ったガラス瓶が乗っていた。フロントに電話しながらいらない、と首を横に振る。どうせ聞いても言わないと踏んで、彼の頼みたいものはいちいち聞かなかった。何があっても口に詰め込む気で普通の2人分より少し多いぐらいに調整した。
料理が届くまでの間に、お互いにお酒を注ぎ合ってちびちび飲んだ。香り高くてとろけるように甘い。うっかりしてるとめちゃくちゃ進んでしまいそうだけど、喉が熱くなる感覚から、かなり度数は高そうだ。
「お酒好きなの?」
「…これだけね。他はあんまり。付き合いでしか飲まねぇかな」
「この銘柄?…ジャンルで言うと何になるの」
「なんだっけ。ブランデーだったかな」
「初めて飲んだ。すごい美味しい」
「メシ前に行くやつじゃないけどね」
そんなこと気にしないでいつでも飲んでいそうなのに、わたしの手前気にしてくれているのか、そう言われた。美味しいからいいよ、と言うと、それについての返事はなかったけど、目を伏せてほのかに笑う。美人の儚げな笑みとグラスはとても絵になっていて思わず見とれた。
「つーか飲み始めちゃったけど、スーツ辛くねぇ?着替えてくれば」
「んー…ルームサービス持ってきてもらうとき恥ずかしくないぐらいの服あるかなぁ」
「ああ、そういや前言ってたヤツ買った。クローゼットに置いてるから、好きに使って」
「ん?……え!?アルマーニ!?」
「うん」
「ウソ!!?」
立ち上がってドレッシングルームに駆け込むと、確かにそこには皺ひとつないきれいなショッパーが立っていた。恐る恐る開けると、彼とまったく同じ上下が入っていた。忘れてしまうような軽口だったのに、本当に買ってくれたんだ。歓声を上げて「ありがとう!」と言ったら、こちらを見もせずに、いいからさっさと着替えろという感じでひらひらと手を振られた。今着ると完全にお揃いだな、と思いながらこそこそ着替える。てろんとして薄いのに、肌寒さが一切なくて感動した。高い服って高い理由があるのだ。
「すごい。着心地ゼロ、もう皮膚だね」
「皮膚って」
さわさわと生地をなぞりながらテーブルに戻ったら、わたしの喜びようを笑われた。だって締め付けもなくてこんなに肌ざわりが良くて温かいのだ。快適すぎる。
それから、あの日二人揃ってひいた風邪の治りの話とか、離れていた間のわたしの話をいくつかした。そのうちに料理が来て、全然食指の動かない佐野くんを煽って煽ってなんとか食べさせた。回復したはずなのに彼は食が本当に細くて、わたしの半分も食べないうちに「マジでもうムリ」とか言い出すのを、比較的もたれなさそうな中華粥を「あーん♡」で口に運んだ。苦い顔でそれでも口を開けてくれた彼がおかしくて笑った。人に優しい優しいと言うけど、本当に優しいのは君のほうだと思う。
夜景の窓ガラスに、同じ服を着て同じ皿をつつくわたしたちが写っている。なんだかとても自分を含む絵には思われなかった。気付けばだいぶお酒が進んでいる。まるで映画だなとぼんやり、鏡像の佐野くんばかりを見ていたら、窓ガラス越しに目が合った。視線が相変わらず強いな、と思っていたら、鏡の彼が向かいの何かに手を伸ばす。顎に触れた手の感触で、向かいの何かが自分だったのを思い出した。ボケボケだ。
「…酔ってんね」
「うふふ、なんにもわかんなくなってきちゃった」
頬を彼の親指がすべって、下唇をなぞって、押して、下の前歯に触れた。ふいにその背景の、キングサイズのベッドが目に入る。するのかなあ、とぼんやり考えて、佐野くんの顔を見て、やっぱり信じられなくて笑ってしまった。
「あはは」
「…なに」
「中学のときのわたしが見たら死にそうだなって。…ずっと憧れてたから、わたし」
アルコールに押されるようにして、というのは言い訳もあるけど、つるりとそれは唇から出た。好きだったから、と迷って、結局言えなかった。佐野くんは驚いていた。気付かれてると思ったのに、意外に自分に向けられる好意には鈍感なのかもしれない。
顔から手が離れて、食卓に乗ったままだった手を引かれた。それに従って立ち上がると、彼の膝に横向きに座らされる。お尻の感触で足が細いのがすごく分かってしまって焦って、「折れる!」って立とうとしたけど、抱き止められてしまって立てなかった。
「待って本当に痛めそうだから、ソファにしよ?ね?」
「そんな弱ってねぇよ。バカにしすぎ」
「だ、だって本当に細いんだもん…」
睫毛が触れそうなほど顔が近くて、さすがに恥ずかしくて身体中が熱くなってきた。咎めるような目線から逃れたくて目を伏せると、ふっと息も近づいて唇がくっついた。びっくりして目を開けてしまったら、彼も目を閉じてはいなくて、キスと間近な目線のダブルパンチで余計に死にそうになる。
結局その日は何もしなかった。話して、キスして、また話して、うつらうつらしてきたまぶたに柔らかい感触がくっついて、「おやすみ」と言われたら、意識が溶けた。
*2回目(前回より10日後、再会より24日目の月曜日)
朝のアラームかと思ったら、非通知の着信だった。
『明日そのまま仕事に出られるように準備してきて。恵比寿』
「はい…おはよう」
『おはよ。場所送る』
そう言って通話はすぐに切れた。今日会えるんだと思うと、じわじわ眠気が飛んで行ってしまった。普段起きる時間より30分も早いのに2度寝はできず、10分ぐらいで諦めて支度を始めた。遊びに行くとき用のデパコスを並べて、普段の倍の時間をかけて顔を作る。浮かれ度合いが自分で恥ずかしかった。
メールには前と同じように時刻とホテルの名前、部屋の番号が書かれていて、今朝うちのポストに鍵を入れたとのことだった。今日も今日とて夢の高級外資系。あと2、3回続いたら何も持っていないくせにまるで可愛げのない女になってしまいそうだ。というかすでに今日でさえ、セレブなホテルのロビーに、はいはいって気持ちしか湧かなかった。フロントを通らずに、もともと宿泊客のような顔をして部屋に直接向かうと、今日は部屋に入るなり突然のハグに迎えられて息が止まった。
「金曜まで待てなかった」
かわいいことを言いながら、ぐりぐりと肩口に頭を押し付けてくる。前回は翌日休みを見計らっての呼び出しだったらしい。そんなことを言われると毎週花金を空けたくなってしまう。
「鍵、入れてってくれたならピンポンしてくれればよかったのに」
「行ったのオレじゃないよ、部下。オレはさっきまで福岡いたから行けなかった」
「え、そうなの?いいなあ」
「満喫してる暇なんかなかったよ。行きたいなら今度行こ」
「行きたい!けど、食い倒れ付き合ってくれるの?」
「……努力はする」
もてる力が少なさそうな身体を笑いながら軽く抱きしめ返して離した。出張帰りで疲れているだろうに、この前会ったときよりも少し顔色がいいような気がする。
「福岡で何食べたの?」
「寿司3貫」
「……ごめん、何時間の滞在で?」
「え?…24時間ぐらい?」
「…うん、食べよっか、今すぐ」
弱り切った動物の給餌係みたいな気持ちになってきた。少なくとも1回の夕飯を通過してるはずなのに、いったいなんで寿司3貫になるのか分からない。10貫はいこうよ、もったいない。
福岡のお土産話なんてそこそこに、言われる前にルームサービスのメニューを取り上げた。今日は一緒に選ぶ気があるようで、背後から覗き込んでくる。
「何がいい?」
「んー…カレーかな」
「食べたことある?」
「ここのはねぇけど、ホテルのってだいたい美味いじゃん」
「そうなんだ。じゃあわたしもそうしよ。万次郎くんどっち?」
「ビーフ。真琴は?」
「じゃ野菜のほうにしよ。ちょっと交換しない?」
「うん」
待っている間に着替えてしまおうと思って備え付けの部屋着を引き出しから出したら、普通に「着ないの?」と今度はメゾンマルジェラの紙袋が出て来て目が飛び出た。この前に引き続いて部屋着にするブランドじゃない。やたらにおしゃれなスウェット上下を今日は受け取ってしまったが、今度からこの前もらったものを必ず持ってくるから、お願いだから気軽にこんなものを買い与えるのをやめてくれと伝えた。全然納得がいってなさそうだったけど、今回ばかりは彼が頷くまで譲らなかった。
「どう?」
「…すごい楽だし、かわいい……」
「そんな複雑そうな顔しないでよ。オレがあげたいだけだから」
「…大事にする」
「気楽に着てよ」
気後れして着なさそうなわたしを見抜いてか、彼は笑ってそう言った。柔らかさは昔には遠く及ばないけど、それでもちゃんと人懐こい顔で、再会したときのあの、無のまま固まってしまったような表情筋は少しずつ緩んできているように見える。そういう顔に戻ってきてくれるなら、高い贈り物もお返しの覚悟を頑張って整えて受け取ろうかなと思えた。
そうこうしているうちにカレーが届いた。彼の言った通りで、欧風カレーはどちらも複雑なスパイスが絡んでいて美味しかった。普通の単純なハウスカレーとはまた別ジャンルだねと言ったら、普段はココイチとかのほうを好んで食べるのだと言っていた。同じ公立中学にいたことさえ疑い始めていたから、そのコメントに正直安心した。
「明日何時に出る?」
食事を摂り終えて、前と同じお酒を舐めながらくつろぐ。時計は10時過ぎを指していて、明日の朝までもう12時間を切ってしまった。惜しいと思ってくれているのか、残り時間を聞く万次郎くんは、膝枕から手を伸ばして、指でくるくるわたしの髪を弄んでいる。
「んー…8時ぐらいで間に合うと思う」
「フレックスじゃないっけ」
「朝から会議なの」
「…仕事してんね、いいんちょー」
「下っ端だからね」
負う責任は軽いぶん、仕事量を捧げるしかないのだ。変に中心に持ってこられると固まってしまう自分の性格には合っていると思う。どこにいても勝手に祀り上げられて、そんなちまちました小物がやる作業とは縁遠い彼は、それをさぞ大変なことと誤解したのだろう。労わるような顔をして、慰めるように手が髪を撫でていく。
「替えがきく仕事だから大丈夫だよ。トップの人のほうが大変でしょ」
「…それだって別に替えはきくよ」
「きくかもしれないけど、抜けて崩れて立て直すまでの犠牲が大きいから頑張ってるんでしょ」
「……」
返事はなかったけど、わたしが言ったことに心当たりはあったようで、すっと瞳が壁の方へ流れた。また表情がなくなってしまった。いらないことを言ったかもしれない。こっちに心を連れ戻すべく、今度はわたしが彼の髪を撫でると、ゆっくりと目がわたしに戻ってきた。
「…真琴」
「ん?」
「酒ちょうだい」
「…」
目線はわたしの持っているグラスに注がれている。彼の分は、手を伸ばせば余裕で届くテーブルの上だ。起き上がって自分で飲めばいいのにそう言う意図は、つまりこのまま口移ししろってことだ。この目。なんかの催眠が働いてるんじゃないかってほど、彼の命令を邪魔する常識とか理性ってものが失せてしまう。
グラスに残ったわずかなお酒を口にすべて含んで背を丸め、わずかに身を起こした彼とぴったりと唇を合わせた。零れないようにと意識しているからいつもよりも余分に、その唇の感触を覚えてしまう。少しずつ温くなった液体を注いでいくと、ややあって彼の喉仏がごっくんと上下したのが振動で伝わる。すべて移しきってしまったところで、開いた隙間からブランデー味の舌が侵入してきた。
「、ん」
ここまでずっと触れるだけのキスだったから、驚いて身を引きかけた。でも、知らないうちに後頭部にそれを阻む手が回っていて、身を屈めたまま深くキスを続けることになる。口移しなんてしたせいで、鼻腔めいっぱいにアルコールが充満してしまって頭が余計にくらくらした。
唇は離さないまま、彼は身を起こして、ソファの背にわたしを押し付けてさんざん口内を荒らしてから離れた。その目は獲物を狩る獣にも、捨てられたくない子どものようにも見える。どちらも本当なんだと思う。正反対のものを身体に宿しすぎて、それが痛々しくも美しいからこの人は人をこれほど魅了するのかもしれない。
さて、どう考えてもこのあと身体を繋げる流れだったと思うんだけど、ベッドに倒されてしまうと不自然なぐらいに強い眠気がきた。わたしだってしたかったから、なんとか身を起こして耐えようとしたけど、なぜか眠気を助長するようなゆったりとした抱擁を受けて一瞬で落ちてしまった。そんなに疲れてたのかな。
落ちる間際、万次郎くんが電話しているのが聞こえた。
「次も同じ量でいい」
あまりに強い眠気で、なんの話だろう、とは考えられなかった。
*3回目(前回より3日後、再会から27日目の木曜日)
言われた締切は明日朝9時。あと15時間。社外秘のデータは持ち出せない。いよいよわたしも入社3年目にして、伝説の社泊が現実的になってきて絶望しているところに、携帯が鳴った。画面は非通知。死ぬほど嬉しい反面、今日もしお誘いがあったら絶対に応えられない現状にがっくりきた。
「もしもし」
いったん現実から離れたくて、廊下に駆け出ながら電話に出た。電話口の向こうで、万次郎くんが怪訝な顔をしたのがなんとなくわかる。いつもなら場所と時間だけ言ってくるのに、『どうした?』と聞いてきたから。
「終わらなさ過ぎて、会社に泊まりになるかもしれなくて…心折れかけてたから、電話うれしい。ありがとう」
『…そんなヤバいの?』
「もう、ほんとね、終わる想像がつかない。笑える」
骨組みはできていても、体裁を整えなきゃならない文章量が、ポイント9の余白最小のA4が30枚を超えている。担当していた人間がここにきて急病で出勤停止になったからこんな無茶なものが降ってきたのだけれど、基本的に仕事に感想をもたずにこなすだけのわたしでも、時間に追われすぎて逆に机に向かえない。
『何パーぐらい泊まりっぽい?』
「……78パーぐらい…」
『じゃ、残り22に賭けるしかねぇな』
「そう…だね、うん、わたしも帰りたい。やる、頑張ります」
『うん。また電話する』
確かに言われた通りだ。そこにあるのだからやるしかない。気持ちがきちんと前向きになり、また急いでデスクに戻って画面に向き直った。そこからは何も聞こえないほど集中した。一回入り込んでしまえば、あれほど嫌だったものに意外に歯が立つことが分かり、ただひたすら絡まったものをほどくようにこなして、3時間程度で半分まで来れた。
休憩を2分だけ挟んで、さらに3時間弱。時刻は12時を少し回ったあたりで、進捗としては甘く見積もって9割程度。オフィスにはもう誰もいなくて静まり返っているが、万次郎くんの鼓舞のおかげで少なくとも泊まりの準備はしなくてよさそうだ。
電話が鳴った。非通知。
『どう?泊まらずにすみそう?』
「本当におかげさまで…あと2時間はかからなさそう。ありがとう」
『オレは何もしてないよ。頑張ったのは真琴じゃん』
「優しい」
『何もしてねぇって』
あともう一頑張り、と励ましをくれて、電話はさっさと切れた。何もしてなくなんてない。本当にいいタイミングで心に養分をくれている。次に会った時にしつこくお礼を言おうと決めて、座ったまま大きく伸びをして、また画面に向き直った。
そこから校了、オンライン提出および印刷物を上司の机に置いた時点で、彼に宣言した通りの2時前だった。眠さや疲れよりも、とにかく達成感が勝って、ひとりオフィスで「やったー」と呟く。帰れる。嬉しい。次の出勤まで6時間といえど、5時間でも家に寄れるのならもういい。この短時間では忘れ物なんてしても困らないので、机をロクに確認もしないで鞄を掴んでオフィスを出た。
1階に降りて、がらんどうのはずのロビーにいたシルエットに、思わず叫んだ。
「万次郎くん!!?」
見間違えようもない華奢な銀髪ツーブロック。エントランスわきのベンチで暇そうにかけていた彼は、わたしの声に緩慢な動作で振り返って、ひらりと手をあげた。
「お疲れ」
「うそ、いつから…言ってくれればよかったのに」
「さっきだよ。2時間っつってたから、別に行けるなーと思って」
もう会うことなんて最初から諦めていたから、涙が出そうなほど嬉しかった。追い詰められているところに、しかもこんな時間に会いに来てくれる人がいるっていうのはこんなに幸せなことなんだと初めて知った。感動に震えるわたしを笑って、手を取ってくる。
「帰ろ。送るよ」
「ほんとにありがとう……」
「こんなので泣くなよ」
エントランスじゃなくて、そのまま一つ下のフロアの車寄せに連れて行かれた。そこにはレクサスの白いSUVが止まっていて、てっきり黒塗りのスモークガラスのイメージを持っていたこっちは逆に驚く。わたしの失礼な驚きを察して、万次郎くんは少し笑って「一般人乗せる用に持ってんの」と教えてくれた。とはいえ、やはり運転をする身分ではないようで、運転席には別に物腰丁寧そうなスーツの人が座っていて、万次郎くんはわたしと一緒に後部座席に乗った。「出して」というちょっとしたセリフがなんだかこなれていて、とことん人の上に座る人だなと思う。
色々話したいことはあったけど、さすがに疲労がピークにきていたらしい。静かなエンジン音をBGMに、座り心地のいいシートに沈み込んでいくような感覚を味わっていたら、いつの間にか寝てしまっていて、体感では瞬きをしたぐらいのところで揺り動かされて気が付いた。
「…あ、れ…ごめん…寝て……」
「寝てていいよ。鍵出る?」
「……コートの、」
言い終えないうちに、彼はわたしのコートのポケットに手を突っ込んでキーケースを探し当てた。自分でなんとかしないとと思いながら、泥のようにまとわりつく眠気に勝てなくて、なかなか立ち上がれない。彼が先に降りて家の鍵を開けて戻ってきてくれてようやく、車から降りることができた。
「…なんかすっ転びそう。上がっていい?」
「…う、ん、うん」
抱き寄せられた肩口でぼんやり甘えて頷く、その頭上で「朝6時に来て。車テキトーに変えて」と言っているのを聞いた。泊まって行ってくれるんだ。まだ、一緒にいられる。
そこからほぼ気絶だったので、次の記憶は朝になる。どういうわけか、「これオレね」と、佐川急便の名前で登録された電話帳の画面を突き付けてから、彼はわたしの予定起床時刻より早く出て行った。
あれ。連絡先は教えられないって言ってなかったっけ。
*4回目(それから13日後、再会より40日目の水曜日)
『帝国ホテル本館。8時』
繋がったとたんにそう言って、わたしの返事などひとつも待たずに通話は切れた。思わず「愛想わる」と携帯に向かって呟く。声は低くてずいぶんだるそうだった。具合でも悪いのかもしれない。会ってから聞くしかないか、と思って携帯を裏返して置いてから、そういえばもう彼に折り返すこともできることに気付いた。連絡先はもらったけど、電話ってラインとかメールよりもハードルが高くて、一切使っていない。例によって今だって、あれほど喋るのも面倒臭そうな彼にわざわざ通話で大丈夫か聞くほうが迷惑だろう。電話帳は開かなかった。
当初の約束に従い、終業後にそのままタクシーを捕まえてホテルへ向かう。メールでの指示通り、フロントで今日は望月を名乗ってキーを受け取った。
部屋に着いてドアを開けて、開ききる前にもう違和感があった。ほんのり、とても薄いけど、嗅いだことのない甘くて青臭い香りを鼻腔が拾う。
「真琴ー?」
続いて、別人を疑う、というか、中学時代に戻ったような、明るくて屈託のない声がわたしを呼んで、ドアを開けるや甘い笑顔にぎゅっと抱きくるまれる。「やっと来たぁ!」調子っぱずれにテンションが高い。電話ではあんなに無気力そうだったのに。
「…お待たせ。なんかご機嫌?」
「うん、すげぇ会いたかったから」
すでに出来上がっているのか、どこか舌ったらずで間延びした話し方だ。でもこれまで数回一緒にお酒を飲んできたなかで、酔っているのなんて一度も見たことがない。彼の好むレミーマルタンは度数40パーセントとかなり高いけど、普通に一晩で半分以上は減るし、たとえ一人で丸1本あけたとして彼は顔色ひとつ変えないだろう。何かが明らかにおかしい。
「メシ何がいい?オレ今日オムライスにするー」
絶対おかしい。尻を叩いて叩いてようやく食べる人が、もうメニューを決めてるなんてありえない。これに突っ込んでいいのか、躁鬱みたいにデリケートなやつで、元気すぎない?とか突っ込んだらぽっきりと心が折れてしまったりするのか。着いて数秒でこんな判断を迫られるとは思っていなくて、「う、うーん、ど、しよっかなー」と思いっきり動揺が態度に出てしまった。
「なーに変なカオしてんの?」
ぐんと拗ねたような、訝しむような顔が近づく。甘え上手な茶目っ気は、まんま東京卍會総長だった頃の万次郎くんだった。塞ぎこんでいるよりはマシと考えていいのだろうか。あまりに鬱すぎてハイになっているとかでなければ。…。顔を見てもやはりそうは見えず、心底今を楽しんでいそうだけど、電話とのギャップからやはりそのテンションに病的なものは感じてしまう。
「…お肉とかにしようかな」
「いいじゃん!ここステーキ美味いよ。一緒に食お」
食べられるうちに食べられるだけタンパク質をこの身体に、と思って言ったメニューは、子ども返りした彼には正解だったようだ。言うだけ言って本人の胃袋がついてこないことだけが心配だけど。
エネルギーの有り余る彼は、いつもならわたしに任せている注文さえ、率先して始めていた。
「ステーキ、マデラソースで。あーご飯で。あとオムライスと唐揚げとー、チョコサンデーと、ヴーヴクリコのフルボトル。…他なんかいる?」
「いや…いいけど、大丈夫?」
「なにが?…以上で。はーいお願いしまーす」
注文までしてくれるのはいいけど、絶対に食べきれないだろう。ステーキに唐揚げにオムライスっていったいどこのバカな中学生に金を持たせたんだって話だ。現状はそれで間違いないかもしれないが。
今日はいつものブランデーではなく、北海道のご当地ビールの缶が2缶と、レーズンサンドが置いてあった。「おみやげ!」また出張だったようだ。忙しい人である。
「あちこち飛ぶねぇ。いつ帰ってきたの?」
「ついさっき。4日ぐらいいたかな」
「お疲れさま。今度は少しは満喫できた?」
「ぜーんぜん。すすきのでセクキャバ付き合わされたけど、オレ真琴一筋だからさぁ」
「……、」
「えっウソ怒った?付き合いだから!ちゃんと見てねぇし!」
「ちがう、違うんですけど、ちょっと待って……」
本当にどう反応していいか分からなかっただけなのに怒涛の言い訳が始まってしまい、余計に恥ずかしい。ここまでずっと中学時代みたいに戻ってほしいと願い続けてきたけれども、こうなるといつもの無表情な万次郎くんの成分を足して2で割りたくなってくる。
わたしが嫉妬の怒りで喋らなくなったと誤解したままの彼と、彼の“真琴一筋”の文言から動揺しっぱなしで上手に弁明できないわたしで大いにかみ合っていない間に、ルームサービスが到着した。ウェイターさんがテーブルに配膳している間も彼の勢いは鎮火せず、「わかった!何発でもビンタしていいから!」と何も分かっていないことを叫んだのをついにビンタして止め、何も見ていませんの顔を頑張って貫いてくれているウェイターさんを送り出した。
「真琴怒んないで、ごめん、もう二度と行かないから」
「怒ってない、最初から怒ってないから」
「えなんで…オレ真琴がホスト行ったりしたらそこつぶすけど……」
「ええ……行かないし強火……」
上がりすぎたテンションに水をぶっかけたら、今度はこの調子でしおしおと半泣きで縋ってくる。これはこれで新鮮で可愛いけど、冗談なのか本気なのか、やや本気寄りのトーンの病んだセリフも混ざっていて危なっかしい。本当に感情の振れ幅がどうかしてしまっている。考えられるとしたら、やっぱり躁鬱か、あるいは…。
「ご飯食べよ、冷めちゃう」
「…許してくれてる?」
「だから怒ってないよ」
「怒って!!オレを叱って!!!」
「ふっ、あははっ、何言って、も、バカ」
本気で心配しているのに、中学どころか小学校低学年まで退行した彼の訳の分からない要求が普通に面白くて噴き出してしまった。その訴えのポーズがツボにはまって声を上げて笑うわたしに、彼も自分がバカ過ぎたことに気付いてか、つられて笑い始める。
「はーぁ、笑った……」
「ほんとやめてよ…お腹痛い」
ひとしきり笑って、二人して涙目を擦りながらようやくソファに並んで座った。ウェイターさんが注いでいったグラスをチン、と合わせて静かに鳴らして、口に含む。高級な味。最近身の丈に合わないものばかり口にしている気がする。というか、あのブランデー以外そんなに好まないと言っていたのに、これで良かったんだろうか。
それを聞こうか迷っていたら、彼が素手で唐揚げをつまみながら急にわたしのほうを向いて、肩に顎を乗せてきた。
「ねぇ、一生のお願い。聞いて」
「…ヤな予感しかしないんだけど」
「いや簡単簡単。もっかいバカって言って、ってだけ」
「やだ。なに言ってんの、変態」
「あ、それでもいいや」
「…そういう趣味だったの?」
「ちげぇし。…あーでも、真琴限定ならそうかも」
今日はずいぶんリップサービスが多い。さすがに驚かなくなってきて、「それはどうも」と薄いリアクションで返したら、ご不満だったようで「もっと照れて!」と怒られた。意外と面倒臭い人だ。そういえば記憶のなかの、龍宮寺くんが呼ぶ『マイキー!』って声は、半分ぐらいイラついていたかもしれない。
この情緒不安定の原因は、途中トイレに立ったときに判明した。玄関で感じたあの甘い匂いが薄く残っていて、ゴミ箱にタバコの吸い殻みたいなゴミを見つけた。はっとして漁ったら、それは普通のタバコなどではなくて、何かの草が巻かれた手製のものだった。ものが何かなんて分からないけど、たぶん、大麻とか、それに準ずる何かだ。だとすれば彼のあの様子にも説明がつく。
「真琴ー?大丈夫?」
驚き、焦り、色々な感情が渦巻いて、それを持ったまま固まっていたら、外から焦れたような声が聞こえる。反射的にその吸い殻をトイレの中に落とし、流した。こんなところに犯罪の証拠が簡単に落ちていていいはずがない。
「すぐ出るから!もうちょっと待っててよ」
「はーやーくー」
出たとたんに抱き着いてきた身体の華奢さを、普段よりもより強く感じてしまった。これほど病的に痩せた理由の一端はこれだったのだ。そこまで彼を追い詰めた、原因の根本は分からないままだけど。
しばらく彼はテンションが高かったが、日付の変わる頃になって突然電池が切れたようにまぶたがとろんと落ちた。くっついていてほしいという直球の要望に応えると、あっという間に寝落ちてしまう。再会した日の夜、ひどく魘されていた顔が重なって、胸の奥がずんと痛んだ。助けたくても、助けられるところに彼が見えない。こんなに悲鳴は聞こえているのに。
腕には複数個所の注射痕があった。彼の栄養不足の身体は、そんな小さな傷さえ治るのが遅い。
*5回目 (前回より9日後、再会より49日目の金曜日)
前日から泊まる用意をするようにと電話があり、当日夕方に社のビルの駐車場番号が送られてきた。前迎えに来てもらったのとは違い、指定された場所にはシルバーのアストンマーチンが佇んでいた。都心というだけあってそれなりに高級車のオンパレードな駐車場でも、大型の流線形のボディは圧倒的な存在感を放っている。こんなのに乗る人間と自分がまるで結びつかず、場所を間違えたかときょろきょろしていると、後部座席のドアが開いて、万次郎くんが顔を出した。
「乗って」
「あ、…これで合ってたんだ…」
「あれ。送った番号違った?」
「いや、合ってるけど…」
もにょもにょ言いながら革張りの座席に乗り込む。いったいいくらするんだろう。とても飲食なんかできない、とこっちが思っているそばから、わたしと彼の間を仕切るテーブルにはすでにグラスが2つ並んでいて、車のオーナーは普通にたい焼きを食らっていた。
「今日はちょっと遠出。明日の予定大丈夫だよね?」
「うん、平気」
今日はいつも通りだ。前回会ったときのハイな感じは一切なく、淡々と静かな表情で喋っている。車が停まったときを見計らってグラスを口に運ぶと、お酒もいつものブランデーの味だった。氷がなくてストレートなぶん、ダイレクトにアルコールが喉にくる。あっという間に酔っぱらいそうだ。
「こんな車も持ってたんだね」
「貰いモンだけどね。目立たせたくねぇときしか乗らない」
「貰っ…めだ……め、目立つよ……」
やっとの思いでツッコミを1つに絞り、遠慮気味に指摘すると、その自覚はあったのか、「…まぁ、こっちの業界っぽくはねぇってこと」と彼は濁した。今のところはっきりとカミングアウトは受けていないが、つまりヤクザっぽくないってことだろうか。確かに黒光りのセダンのイメージではある。
お金の絡む話をするとどうしても彼の事情に寄ってしまうので、車の話題はここで切り上げ、昨日今日あった同僚との話に変えた。こんなような話をしすぎて、彼はもうわたしの身近な人間の名前はまるまる覚えてしまっている。つまりそれだけ万次郎くんの周囲の話はしていなくて、わたしの話ばかりしているということだ。
遠出をすると言っただけあり、車は約1時間経っても走り続けていた。時折目に入る標識から神奈川方面に向かっているのは分かっていたけど、箱根新道に入ってようやく目的地が分かった。
「箱根!?」
「うん、行きつけがあって。明日わりと長く時間とれそうだったから」
「温泉じゃん!嬉しい!」
「好き?」
「すごく」
「ならよかった」
それからさらに20分程度。車幅が広くて心配になるような山道に入り、奥まった坂を下りて、ずらりと迎えの並んだ高級そうな旅館の前に停車する。車のドアを開けていただいて降りるだけで、ステージに上がる発表者のように緊張した。
「お待ちしておりました」
「手続きは運転してるヤツに任せるから、そのまま部屋行っていい?」
「もちろんでございます。ご案内はいかがしましょうか?」
「いらない。荷物は持ってやってくれる?」
「かしこまりました」
「ありがと」
行きつけなのだろう。所作のきれいな女将さんらしい人から鍵を受け取り、わたしの荷物を預けさせて、すたすたとエントランスではないほうに進んでいく。「離れだから」なにそれ怖い。もうギャップにいちいち驚かないって決めたはずなのに、毎回こっちの予想を超えてくるのだからいやになる。
部屋は広々とした石造りの露天風呂付の、部屋どころか一戸建てだった。お金に絡むようなことは言わない言わないって思っていながら、結局わたしは経済力の差にへろへろと彼の肩にもたれた。
「どうかした?」
「……毎回……こんな……豪華じゃなくていいんですよ……」
「こうでもしないと使い道もないんだよ。許して」
「…………」
「宙ぶらりんの金に言い訳つけんのも大変でさ。形に残んない方法で消化できんのむしろ助かるんだよね」
「……ひえ」
桁違いのセレブはこういう感覚なのか。初めて触れる金銭感覚に唖然とした。「ま、オマエが気遣うことじゃねぇから心配すんなってこと」ぽんぽん、と頭を撫でられ、慣れた様子で備え付けの部屋着にあっという間に着替えて、テラスのリクライニングチェアへ行ってしまった。
食事は和のフルコースの部屋出しだった。わたしも最後は苦しいぐらいの量だったけど、彼はそんなに残さず、苦もなさそうに平らげていた。こころもち健康になっているのかもしれない。いい傾向だ。
で。
「…入んないの?」
「は、入るけど、さあ」
問題は露天風呂である。
部屋から大きな窓ガラスで丸見えの露天を指されても、そんな状況でどうやって服を脱ぎだせっていうのか。絶対見えるに決まっている。毛は言われた昨日の時点で処理したから大丈夫だろうけど、食べたばかりで丸くふくれた腹を見られるのはだいぶ嫌だ。
ぐるぐる迷うわたしに、ついに万次郎くんが噴き出した。どうもからかわれていたらしい。
「見ないでやるから、入ってきなよ。気持ちいいよ」
「……いじわる…」
「そんなこと言っちゃうんだ?一緒に入る?」
もう黙って、という意味を込めてその背中をはたく。彼はけらけら笑いながら、奥の洗面化粧室のほうへ歩いて行った。
扉を開けたらもう屋外の脱衣所で、浴衣を脱いで外へ出た。茂みで隠されているとはいえ、なんだか布一枚もなく外に出るのが心もとなくて、雑に身体を流して髪をまとめて、石造りの浴槽へ足を入れた。
じんわりと指先から広がる温かさに、一瞬身体が縮まって、ゆっくりと緩む。
「ふー……」
湿った緑の匂いを深く吸い込むと、身体のすみずみまで浄化されていくようだった。たしかにとても気持ちがよかった。行きつけにするのもよくわかる。
数分なんの音も気配もなくてすっかり気を抜いているところで、カラカラと戸の開く音がして慌てて振り返った。
「ちょっ」
「やっぱオレも入っていい?」
質問しながら答えは待っていない。浴衣のまま出てきたと思ったら、ぽいぽいってテラスに脱ぎ捨てて、そのままお湯に入ってきてしまった。ここまで何度も一緒に寝ていながら本当に何もなく、お互いちゃんと上下とも着ていたもので、その肌を見慣れなくて思わず顔をそらす。
素肌の肩にその手が乗った。
「嫌?」
「い…や、じゃないけど……」
「こっち見て」
そう言いながら、彼は腰に手を回したりはしない。ただ口頭で言うだけだ。普通なら紳士だと思っていいかもしれないけど、彼の場合はそのほうが相手が従うのを分かっていそうだ。結局わたしは、物理的に強制もされていないのに自ら振り返って、キスを受けた。軽く触れるだけを2度、3度と繰り返して、静かに熱を湛えた目線に間近に捉えられる。お湯の中で指が絡まった。
「顔赤い」
「…見ないで」
「見るだろ」
少し笑って、耳たぶと首筋にキスして、こめかみ同士をくっつけただけで、彼は満たされたような息をつく。中途半端に煽られて、じくじくした熱が身体に溜まる。顔がくっついたままの彼を伺っても、その手は緩くわたしの手を握ったままそれ以上干渉はしてこない。やっぱりだ。偶然じゃない。
万次郎くんはあえて、わたしを抱いていない。
わたしか彼かどちらかの寝落ちは、たまたまのようで仕組まれている。いつものあのブランデーには、おそらく耐性のある人間に効かない程度の、睡眠導入作用のあるなにかが含まれているんじゃないかと思う。それを少し疑っていて、今日はあまり口にしなかったら、案の定この時間でもわたしにあんな眠気は来なかった。裸で一緒に過ごしてキスをしても、この人はわたしと寝るつもりはないのだ。どういう理由で引かれたかは分からないが、彼なりのなにかの一線なのだろう。
「しないの?」
でもそれが守られるのは、わたしが主導にならなければ、の話だ。
本気で思っていることが伝わるように、躊躇わずにはっきりと発音して、まっすぐに目を見た。わたしが流されていると思い込んでいる彼は、驚きに目を見開いて、さっきまであれほど優位に立っていたのが嘘のように少し身を引く。離れそうになる手をぎゅっと強く握り込んで引いて、初めて自分から口づけた。
息をのんだ音が聞こえる。パーソナルスペースが狭いようで、実際に懐に入れるまでのハードルは彼の場合、とてもとても高い。結局あの龍宮寺くんさえ、一緒に堕ちるには至らなかったのだから。
「…前にも言ったけど、わたし、優しくないよ。わたしが、万次郎くんを欲しくて拾ったの」
「……やめろ」
目線が逃げる。隔てるものが一枚もないこんなところに、自分で入ってきたくせに。同じベッドで何回も夜を明かそうとするのに、それが思いやりだとでも勘違いしていそうなところにだんだん苛立ちさえ感じてくる。
「中途半端なところで満足したふりしないで。…大人でしょ」
「……」
二人でいるとどうしてもあの頃に感覚が戻ってしまうけど、わたしも彼も二十歳を超えて数年が経つ。良くも悪くも大人になってしまったのだ。責任の取り方も知っているし、人を堕落させる快楽もいくつも知っている。
抽象的な言葉の意味するところをちゃんと汲んでいて、それでも目を合わせない彼に火をつける方法は、あとはもう一つしか思いつかない。握っていた手を離して、丸いおでこを中指の背でぱちんと弾く。
「意気地なし。恥かかせないで」
「…は?誰が?」
とたんにぎらりと光った目に思わず笑う。ヤンキー特有、売られた喧嘩は絶対に買うマナーは健在だった。お湯をかき分けて腰に腕が回り、ぐっと距離が近づいて素肌の身体がぴったりとくっつき、唇も食べられる。嚙みついてくるような口の開け方をしたわりに、柔らかい唇と舌だけで甘く深く弄ばれて脳味噌が溶けそうだ。
「…本当に逃がせなくなるよ。意味わかる?」
息をふき込まれるような距離で発された声は、耳のなかでいやに反響する。彼の膝の上に跨って抱き合っているから、密着したお腹とお腹の間に勃ち上がったモノは感じていた。こんな状態でよく引き下がるような予防線を張れる。心の装甲があまりに硬い。
「逃げだしたら死ぬぐらい?」
「…笑いながら言う?ソレ」
「万次郎くんが思ってるよりなにかと覚悟してると思うよ、わたし」
初恋が特別だとはよく言ったもので、わたしは彼に関してまるで頭がとけている。一緒にいた時間のなかには一見、そうまで傾倒するプロセスがないから、彼に自覚がないのは無理もない。悪いのは初恋を拗らせたわたしだ。
「好きだよ」
「……、」
今言おうと思ったことをそのまま相手に言われて、夢かと思った。不意打ちが過ぎて、情事中の戯言をうっかり真に受けて黙ってしまう。動揺がもろに顔に出てしまったわたしの耳を彼が咬んだ。
「いっ」
「逃がしてやろうと思ってたのに。バカ真琴」
誰もそんなことは頼んでいない。バカはそっちだ。
*6回目(それから3週間後、再会より70日目の金曜日)
「…のさん、佐野さん!」
聞き慣れた自分の苗字だけど、自分ではなく別の人間を思い起こして意識が戻る。「は、ハイ」間抜けな返事とともに姿勢を正し、同僚から仕事を言いつかって、パソコンへ向き直った。
箱根での一泊から、全然だめになってしまった。
露天風呂から始まったセックスは、ひとを堕落させるなんて可愛い表現ではとても足りなかった。カリスマはあんなジャンルでもとんでもない才能の持ち主で、身体が溶け合うって比喩はなにも大げさなものでも虚構でもないのだと思い知らされた。最中に左手中指と薬指の付け根あたりを咬まれて視界が真っ白になるぐらいに意識がスパークした瞬間が、あれから何度もリフレインしてしまって、日中の生活にすら支障をきたしている。
あれから今日でちょうど3週間になる。おおむね2週に1度のペースだから、本当は先週の連絡を待ちわびてはいたけど、連絡は来なかった。会うたびに違うところを飛び回っている彼のことだから多忙なのだろうと思い、自分から連絡するという発想がまるでなく、ただただあの晩を何度も思い返しているに留まっていた。というより、幸福感の余韻があまりに続きすぎて、そして自分の幸福のキャパシティが埋まりすぎていて、それ以上の供給を想像できなかったともいえる。まあ、言い訳です。マナー違反だったといわれれば、そうかもしれない。
終業後、非通知から電話が来た。万次郎くんであれば佐川急便で表示されるはずだから、訝しく思いながらそれに出たら、声は彼ではなかった。
『佐野真琴さんですか?』
知らない男の声に自分のフルネームを呼ばれてさすがに戸惑う。「え……と」と肯定していいものか迷っていたら、向こうのほうが察して説明をしてくれた。
『マイキー…佐野万次郎の部下の、三途と言いますが』
「あ、…はい、お世話になっております」
『こちらこそいつも上司がお世話になっております』
咄嗟にビジネス電話の返しをしながら、この電話の向こうの声が記憶のなかの金切り声と重なった。万次郎くんを拾ったあの日、彼が電話したときにワンコールで出て、彼に喋らせずに叫ぶだけ叫んだあのひとなんじゃないだろうか。今の淡々とした語調とはつなげにくいが、どことなく声質が近いような気がする。
「ええと…彼から伝言かなにかですかね?」
『アー…今どちらにいらっしゃいますか?』
「ちょうど仕事終わりでして、会社……赤坂のあたりです」
『なるほど。この後ご予定がなければ、お迎えに伺ってもよろしいですか?』
「え」
聞き覚えのある声とはいえ、ここでOKと言ってしまうのはさすがに警戒心がなさすぎる気がして即答できない。なにせ待ち合わせにタクシーで行かなかっただけで怒られたわけだし。
「その…疑うようで大変恐縮なんですが、万次郎さんご本人は連絡できないような状態なんでしょうか?」
『…それは』
三途さんが言いかけたとき、向こうで『貸せ』と低い声が聞こえて、ガサガサとスピーカーに増幅された摩擦音が響き、『真琴?』とひどい掠れ声が耳に届いて驚いた。まるで別人だけど、間違いなく彼だ。
「なに、風邪!?ひどい声、ごめん、そういうことだったの?」
『別にそうじゃねぇけど……会える?』
「うん、大丈夫。ごめんね、あんまり喋らなくていいから。待ってればいいんだよね?」
『もう下にいる。きて』
その声はやたらとしんどそうで、ちんたらと待たせてはいられなかった。エントランスからUターンして、エスカレーターを1段飛ばしで降りて車寄せへ向かう。わたしが飛び出したとたん、数台止まっているなかの、今日という今日は明らかにそれっぽい、黒塗りのスモーク車が1台滑り出してきて、前に停まった。でもわたしが何より驚いたのは、その車種もさることながら、その助手席に座っていた男の容貌である。
「どうぞ」
その男は、完全停車より少し前からドアを開けて降り立ち、後部座席のドアを開けてくれた。ド派手なピンク頭、その色だけでも振り返るほど目立つけど、そんな色が霞むほどにその面差し、スタイルがあまりに常人離れしている。人工物でも植えていそうなバサバサの睫毛の下に、神秘的なまでの翡翠の瞳がのぞき、すらっと細長い身体にはスリーピースが本当によく似合っている。ふと脳裏にいつか電話で聞いた金切り声がよぎり、え、こんなとんでもないのがあんな声出したの?と五度見してしまう。
などとよそ事に気を取られてしまったけど、車に乗り込むと、奥には座席を限界まで倒して死んでいる万次郎くんがいてそれどころではなくなった。
「顔色悪っ、やだ、なんで?大丈夫…じゃないよね、熱は?」
「……三途、気になる?」
「え?」
「見てた」
「なに言ってるの…」
具合が悪すぎて支離滅裂になっているのか、わたしの目をしっかり見てそんなことを聞いてくる。何を言ってるんだかわけが分からない。まともに取り合っても仕方ないと思い、その額に触るも、熱はまるでなく、むしろひんやりと冷たかった。貧血とかなのか。車内が暗くてはっきり見えないが、とにかく青白くて生気がないことだけはわかる。
そうこうしているうちに三途さんも乗り込み、ドアが閉まって、車は音もなく公道へ滑り出した。どこへ向かうかは知らないけど、ドライブ間に冷え切った手だけでも温めたくて両手をぎゅっと握り込む。
「寒くない?」
「…答えて、真琴」
「へ?…なに、何に?」
「三途、気になる?」
支離滅裂なわりに、質問は一貫していた。聞いてくる万次郎くんの表情は、なにかにひどく追い詰められているようだった。わたしが握っていたはずなのに、いつの間にか握り返す力のほうが強い。
「あの電話の声のひとかなって思って。ほら、最初にうちに泊まったときの」
「……え?」
「万次郎くんが電話したらワンコールもしないうちに出た、あの。違う?」
真っ暗だった瞳がゆっくりと大きく見開かれて、街灯の明かりを映した。冷えた指の力が少し緩む。質問の意図もわからないが、彼が何かに安心したのは確かなようで、なぜか助手席の三途さんや運転手さんからさえ、安堵のような溜息の音がかすかに聞こえたような気がする。
「…合ってる。よくわかったね」
「さっき電話越しに聞いたときからもしかしてって思ってたの。思ってた人より全然落ち着いてたけど」
「……」
「それより具合、大丈夫なの?着くまで寝てたら?」
「……ううん。もったいないから」
「え?」
「せっかく一緒にいられるんだからさ」
やつれきった顔がふっと綻ぶように微笑んで、ばかにいじらしいことを言う。やめてほしい。ぎゅっとつかまれてしまった胸を押さえながら、「わたしなんかいつでもつかまるよ…」と呟くと、穏やかな顔から一転して、恨みがましそうな目が見上げた。
「でも電話はしてこねぇじゃん」
「はい?…だ、だって自分が連絡先は教えられないって言ったんじゃん」
「けどオレ教えたじゃん」
「いやそんなノリで教えられても、緊急連絡先みたいなもんかなって思うでしょ。気軽にはかけないよ」
「なんで?意味わかんねぇ。よく連絡しないでいられんね?つめた」
「はぁあ?」
めんどくさ、が喉の奥まで出かけて、言ったら余計に面倒臭くなりそうだと思ってすんでのところで止めた。具合が悪そうなのは変わらないけど、掠れ声でひたすら拗ねきった恨み言だけぶつけてくる彼は、かつて憧れたあの顔からは想像もつかない繊細さだ。さっきまでかわいそうで愛おしい気持ちでいた自分が急にばかばかしく思えてきて、溜息をついた。龍宮寺くんが似たような溜息をよくついていたような気がする。
「そんなにしてほしいなら最初から『毎晩声聞かせて大好き真琴ちゃん』ってはっきり言っといてよ」
「はぁ??なんでオレがそんなの言わなきゃなんねぇの」
「声枯れすぎ、全然内容入ってこない。喋ってないで喉休めなよ」
「ふざけんな、まだ喧嘩続いてんのに黙れっか…痛っ!」
あまりに黙らないのでうっかり、ついに真横の頭に頭突きしてしまった。思ったより痛かった。涙目で見上げてくる彼に多少悪いなとは思ったけど、たぶん同じぐらい痛いから痛み分けにしてもらいたい。
「喧嘩なんかしてないでしょ。静かにしてないと治らないよ」
「……石頭」
「は?」
「ゴメンナサイ」
いったん売られかけた喧嘩は、睨んだら一瞬で引っ込められた。あの無敵のマイキーと言われた人相手に、口喧嘩で勝ってしまった、とワンテンポ遅れてぎょっとしたけど、もういまさら引っ込みはつかない。申し訳程度にさっき頭突きしたあたりを撫でる。
「痛かった?ごめんね」
「……頭突きってやったほうも痛くねぇ?」
「あはは、うん。結構衝撃きた」
「…オレもごめん」
痛かったろ、と同じあたりを撫でられる。かわいいひとだ。頬をくっつけると、頬にちゅっとリップ音が響いた。
聞けば、どうもこのところ嫌な仕事が立て込んで、ずいぶん精神的に追い詰められていたようだ。八つ当たり同然だったと重ねて謝られた。わたしだってそのぐらいすることはあるだろうし、お互い言い返せるのだからいいでしょうと言うと、痛いぐらい抱きしめられて顔が見られなかった。
車は約20分走り続けた。錦糸町インターを出てからはよく分からないが、とりあえず今回届けられたのはタワーマンションの立体駐車場だった。
「自宅?」
「…使う頻度で言えば、第三ぐらい?」
「……」
もう突っ込まない。どんなにとんでもない内装が待ち構えていても、絶対に。
三途さんはほぼ全くと言っていいほど声を出さず、わたしたちをエレベーターへ誘導し、最上階まで一緒に行った。フロア唯一のドアの前まで来て、玄関内には入らずに何か小さな封筒を万次郎くんに渡し、扉が閉まるまで深く頭を下げたままだった。
「メシ何がいい?」
「何があるの?」
「なんもねぇから出前。近いのは蕎麦とピザとカレーかな」
「じゃあ蕎麦」
「わかった。冷蔵庫にメニューはってる」
冷蔵庫は無駄に巨大だった。縦は天井まであるのに、横にも大きすぎてほぼ正方形で、扉に謎にウォーターサーバーみたいなものまでついている。開けたら本当に空の部屋がひんやり保たれていて、庶民感覚がもったいないと心の中でぼやいた。全体的に生活感がないなかで、側面に貼られた色とりどりの出前のチラシだけが異様に浮いている。
「天ぷらそば、温かいほう」
「だけ?」
「んー……じゃあ、板わさと揚げ出し?」
「了解。酒は好きなの取っていいから」
「へ?どこ?」
「そこ」
指で雑に示されたもはや壁だと思っていたところは、壁一面のワインセラーだった。ひえ、と声は出たものの、なんとか感想は飲み込めた。いちいち突っ込んでいたらこっちまで喉が枯れる。
お酒は小瓶の米焼酎にした。というか、他の瓶が桐箱だったりギラギラしてたり一升瓶だったりして、とても触れられなかったので、これ以外の選択肢はなかった。どうせ相手は体調不良だから飲まないだろうし、と思ったら、電話をかけながらもうその手にロックグラスになみなみ注がれたいつものブランデーがあって、このひとはもうだめだなと思った。アル中のうえヤク中だ。後者についてはわたしがゴミを見たのを言っていないので言わないけど。
「いる?」
「…眠くなるやつ混ざってないなら」
「……もう入れてねぇよ」
ふっかけると一瞬固まりはしたものの、意外にすんなりと犯行を認められてしまった。そこをつつきまわすか一瞬迷って、やっぱりやめた。どうせどうしようもないところで躊躇ったのだろうし、もう使う必要がないと判断されたのならそれでいい。食事用の焼酎はそこに置いて、彼と同じものを貰いに行く。
蕎麦は美味しかった。今夜のハプニングは、彼の声が枯れすぎていて最中に笑っちゃったことぐらいでとても平和だったので、以降は割愛とさせていただく。
*7回目(それから13日後、再会して83日目の木曜)
さて、ああも言われたので、それから毎晩わたしは佐川急便(名称上)に電話をかけた。短くて2分、長くて40分程度。おおむね自分は寝る前で、彼は同じように寝そうなタイミングであったり、空港であったり、なんだか風のノイズがひどいどこかであったりした。内容はいつも話すようなのと同じ。何があったとか、今度何をしたいとか。コールが7回続いたら切ろうと思っているけど、今のところ電話を取られなかったことは一度もない。
『明後日、竹芝まで来られる?』
だいたい当日か、早くても前日に言われるその予定を2日も前に聞けたのは、この習慣の思いがけない利点だった。
「木曜日?」
『うん。金曜から香港行っちゃうから、その前に会いたい』
「わかった。香港いいなぁ」
『みやげリクエストは?』
「エッグタルト!」
『わかった』
忍び笑うような“わかった”ってセリフはまるで、かわいいなあ、とダイレクトに言われているようで、だいぶくすぐったい気持ちになった。甘ったるい会話。まるで恋人だ。まあ、関係性だけを言えば恋人といっても差し支えはないのかもしれないけど、一般的なそれとはだいぶ違う。彼氏がいるかと聞かれて、素直にいますよとは言いにくい。
『どうした?』
「なんでもないよ。優しいなーって思っただけ」
『…何回でも言うけど、優しいのはそっちだよ。…あー悪い、呼ばれた。また明日な』
「うん、気を付けてね。おやすみ」
『おやすみ』
電話が切れて通話履歴を見たら、佐川急便がずらりと並んでいて、配達物を永遠に受け取らないヤバい客みたいだなと思った。将来性のある関係ではないのを、こんなことで見せつけられた気がして溜息をつく。
で、その翌々日。
指定されたホテルは、エレベーターで上がったところにロビーがあった。天井から床、調度品まですべてが総合してアートになっているような空間のど真ん中に、目当ての人は座っていた。こんなおしゃれな空間を似合うどころか背景にしてしまっているさまに見とれていたら、視線に敏感な万次郎くんは3秒とたたないうちに顔を上げ、わたしを見て穏やかに微笑んだ。
「お疲れさま」
「お疲れ。いこっか」
「うん。珍しいね、ロビーで待っててくれてるの」
「人少なかったからね」
たしかにフロア内の見える範囲には、わたしたちとスタッフを除けば2人しかいない。これまで待ち合わせてきたホテルは、飲食店や宴会場、会議室の併設がある大型のものばかりで、何時であろうとひっきりなしに人が出入りしていたから、彼のような立場のひとが落ち着いていられるような空間ではないのは想像がつく。
エレベーターに再度向かうまでの短い距離で、すいと右手をすくい上げられ、優しく握り込まれた。人が少ないとは言え、公共の場だと思うと少し気恥ずかしい。よく考えたら2人きりの場ばかりで、普通に道とか電車とか、表立った場所で一緒にいたことがほとんどないのだ。つくづくイレギュラーな関係である。
「明日は何時に発つの」
「12時ぐらいに羽田発」
「そしたら9時ぐらいには出る?」
「いや、このまま行くから10時ぐらいまでは大丈夫。真琴は明日は?」
「じゃ同じくらいに出る。わたしは12時に間に合えばいいから」
「え。…飛行機遅らせろって言う…」
「やめてやめて、仕事あるから多少早く着くぐらいでいいの!」
本気で携帯を出してきたから慌ててしまわせた。詳しいことなんか知らないが、この小さいようで規模の大きい我儘に振り回されるのはまず三途さんな気がする。わたしや万次郎くんには見せないだろうが、そうなったら電話の向こうでとんでもなく荒れそうで心配だった。
部屋はいつもに比べれば広さは控えめなものの、つくりは全くありきたりではなかった。謎におしゃれな電子ピアノがおいてあり、広々としたバルコニーからは浜離宮公園が一望できる。そこまでは本当に素敵だけど、問題は風呂のガラス張りと、脱衣所に壁がないってことだ。オープンなカップルの宿泊を前提としているとしか言いようがない。
「どこで服を脱げと……」
「ここに壁閉まってあんの」
唖然とするわたしに、泊まりなれた万次郎くんがお風呂場のわきにきれいにたたまれた仕切り戸を示す。引き出してみるとガラス張りの浴室から脱衣所までがベッドのほうからきちんと隠れて感動した。
「すごい」
「あ、やべ。余計なこと教えた……出すの禁止な」
「ありがと、絶対に使う」
「一緒に入るなら関係ねぇじゃん」
「入るって言ってないけどね」
なんて言いつつ流されるのが得意なので、結局このあと仕切りなんて使わずに一緒に入り、そのままえっちして、ラストオーダーぎりぎりに夕食を頼んだ。室内にもテーブルはあったけど、気温がちょうどよかったのでバルコニーに持ち出して食べた。
食後にいつものブランデーを楽しんでいたとき、耳障りな電子音が静けさを壊した。わたしの携帯だった。発信元は上司の携帯だ。
「うわ。…なんだろ、ちょっと出るね」
「うん」
「ごめん…はい佐野です」
電話に出ながら席をはずそうとしたら、服を掴んで止められた。行くなってことのようだ。かわいい。ひっそり笑いながら、もといた自分の椅子にかけようとしたら、さらに引っ張られ、上司への対応で手いっぱいで抵抗もできないまま彼の足の上に誘導されて抱きかかえられてしまった。
「いえ、大丈夫です、すみません…」
会話が多少おろそかになってしまったことを詫びながら、まるいおでこを小突いても彼はまったく悪びれなかった。空気を読まない電話のほうが悪いと言いたげだ。丸出しで拗ねている。面倒くさい女みたい。機嫌をとるのに音が出ないようにそっとキスをして頬ずりしながら、電話を続けた。
用件をまとめてしまえば、明日緊急で会議になったので朝9時には来て準備をしろとのことだった。だるい、とは思ったが、まだ常識の範囲内の時間なので四の五の言わずに了承し、通話を切る。
「なんだって?」
まだ切れてないんじゃないかぐらいのタイミングで、食い気味に万次郎くんが内容を聞いてきた。
「明日9時に来いって」
「…はー…?こんな直前になって?」
そんなことを言う資格がいちばんないのを自覚していない彼は、ありえない、と目をぐるりと泳がせて背もたれに頭をぶつけた。
「ひとが会う時間1時間増やすのにどんだけ気遣ってるか分かってから連絡してこいよ…真琴携帯貸して。文句言う」
「バカ、やめてよクビになるから」
「クビでいいじゃんもう…」
それはオレが養うからって意味なのか。
とたんにぐずって機嫌を損ねてしまった万次郎くんをあやしながら、このところ定期的に考えているわたしたちの関係について思いを馳せた。いろいろ考えてみて、援助交際とかパパ活っていうのがいちばんしっくりきてしまい、頭を抱えた。
*8回目 (前回から1週間後、再会から90日目の木曜)
出がけに、しばらく海外を点々とするので電話がつながらないかも、と言われたとおりで、その後まるまる1週間は電話をかけても、圏外か電源が入っていないかで繋がらないというメッセージが流れるばかりだった。あとどれくらいで繋がるようになるんだろう。不安になり始めた頃の昼過ぎに、非通知の電話が鳴る。
『三途です』
電話の向こうは予想したとおりの彼だった。淡々とはしているが、なんだか前聞いた時よりもずいぶん早口のような気がした。「お疲れさまです」と返すと、やはり急いでいるようで挨拶は飛ばして性急に用件が来た。
『今夜成田に来られますか?7時頃』
「成田…空港だと、そうですね…早くても8時かも」
『だったら迎えに行きます。すみませんが少しでも早く』
「えっ?ど…どうしたんですか?」
『あなたじゃないとダメなんですよ。何時に終わりますか?』
ずいぶんただならない言い方だ。それほどの急ぎでわたしじゃないといけないことに想像がまるでつかず、輸血かなにかかと思ったが、そんな特殊な血液型はしていない。
なんにせよ、そうまで言われてしまうと誰にでもできる仕事をちんたら流してはいられない気持ちになり、ちらりと自分のデスクと向こうの上司の机を見やる。いけなくは、ないかも。
「………ちょっと、交渉します。折り返してもいいですか?」
『あと10分で搭乗です。間に合いますか?』
「間に合わせます」
その時点で通話を切り、デスクからいくつか書類を持って上司のところまで直談判に行った。これまでどんなに帰りたくても、家族が危篤というウソは使ってこなかったことが功を奏し、どうにか4分以内に正規退勤時間で切り上げる許可をもぎ取って、万次郎くんの番号へ折り返す。
出たのは三途さんだった。
『来られますか』
「19時ですよね。到着ロビーでいいですか?」
『満点。よろしくお願いします』
満足そうな返事を最後に、すぐに通話は切れた。向こうで搭乗締め切りの声が聞こえていたから、本当にぎりぎりまで粘ってくれたのだろう。
恐ろしく進まない時間と格闘して、退勤時間になるのとほぼ同時にオフィスを出た。時間はかなりタイトだった。京成上野までタクシーを使い、スカイライナーで空港へ向かう。到着ロビーに着いたのは19時7分で、本当にちょうどその時間に、ゲートの向こうにピンクが見えて思わず「セーフ…」と呟く。
それはさておき、今日の登場はなかなかとんでもなかった。三途さんの後ろに、またド派手な紫のメッシュが入ったツーブロックの背の高い男と、銀の長髪の黒いチャイナ服、その後ろにさらにずらずらと似たようなガラの悪い黒服が並んでいて、絶対に近づいてはいけない集団ができていた。これほど人前で関わりたくないと思ったのは初めてだが、もう逃げられない。
「間に合いましたね。急がせてすみません」
「いえ……おつかれさまです…それで、万次郎くんは」
集団のなかにいなさそうに見えたからそう聞きかけたとき、とつぜん三途さんの背後から気配が飛び出してしがみつかれた。ものも言わないし顔も見えないけど、その骨ばった身体とだる着といい力の強さといい、間違いなく万次郎くんだ。また相当追い詰められているらしい。抱きしめ返さないと不安になっちゃう人だといい加減分かってきたので、人前ということはいったん忘れて思いっきり抱きしめ返してあげた。
「おかえり」
「………ただいま」
小さすぎてわたししか拾えないぐらいの音でそう言い、さらにしがみついてくる。紫の長身のほうが、「おおー」と目をまるくしてわたしたちを凝視していた。彼らの前ではまあ、見せない顔なんだろう、たぶん。
「…えーと…それで、連れて帰ったらいいですか…?」
「車は用意させてますが…首領、どうします。ホテル取りますか」
「……真琴きめて」
「えぇ……じゃあもう自分ち帰ろう、疲れてるんでしょ。わたしを連れ込んでもいいのはどこなの」
「…三途、御苑」
「うっす」
と、こんな流れで新宿御苑にほど近いトンデモマンションに連れてこられた。今日は完全にでっかい赤ちゃんで、言っても引きはがしても全然離れないので、わたしは彼を引きずり歩くしかなかった。車を降りてから部屋への道すがらに三途さんに事情を聞いたところ、ここ一週間近くはほぼ電波も通じないほどの地下に缶詰になって仕事をしていて、どうもその仕事のために精神安定剤(絶対ウソだと思う。麻薬の類だろう)を極量近くまで使用した結果の離脱症状なのだそうだ。徐々に減量するのがセオリーなところを、わたしに会うのにその状態ではいられないとの主張でいきなりゼロにしたから、香港空港の時点で震えと悪心がひどすぎて、到底電話できる状態ではなかったと。そんな判断ができるならまず摂取をやめていただきたい。
「では、うちのボスを宜しくお願い致します」
「……ボス」
「…アー…首領、もういいですか?」
「自分で言うからいい」
嫌な予感しかしないそのセリフを聞くと、三途さんはまた頭を下げて玄関から出て行った。扉が閉じきると、これまでだってべったりだったのに余計に腕に力が入り、首が締まるほどで呻き声さえ出た。
「くるし、はな、離れないから、ゆるめて」
「……むりすぎた」
「聞くよ、聞くけども」
なぜか暗い廊下にとどまりたがる彼を無理やり居間のほうへ引きずり、電気をつけた。明るいのが気に入らないようだが、暗い空間で暗いことを言い続けてロクなことにならないなんてことは誰にでもわかる。座面の広いソファで一緒に横になると、胸に顔を押し付けて「むり…」と呟いていた。うわあ、めんどくさい。今はまだかわいいと思えるけど。
「梵天って聞いたことある?」
「………」
カミングアウトは急にきた。くぐもった声で淡々と、そのボンテンというのが自分がトップを務めている、いわゆる反社の組織名なのだとついにゲロゲロと吐きだした。最初からわたしはそのうなじの刺青でその界隈の人だということだけは見当がついていたから、はっきりした組織名はもちろん今聞いたし、本当にその元締めなんだと知ったのはさっきの三途さんの「首領」呼びだけれども、今更特に驚く要素はなかったので、ただうんうんと頷いて応えた。
「…驚かねぇの」
「なんとなくそんな感じだろうとは思っていたので…」
「…あのさ、ぼけっとなんでも受け入れんのやめて。フツーじゃねえし危ねぇから」
文句を言わずに受け入れたっていうのに、暴言に近いクレームが来た。むかつきはするけど口ごたえしてもしょうがないので、はいはいと適当に流していたら、本当に分かっているのかと念を押すように、具体例を挙げてきた。
「……恐喝も殺人も、何回もやってる。たぶんオマエが思ってるより」
「……」
殺人と言われてしまうと、さすがに同じノリで流せはしない。それはわたしが殺人を絶対悪だととらえているからではなく、彼が誰よりもそれにあたり、自分を嫌悪しているだろうからだ。
「…そりゃ、しんどいね」
「……少しは逃げる素振りとかしろよ…」
「なんでよ」
香港では裏切った組織の末端の人間たちを地下倉庫に捕らえ、あらゆる拷問をくわえて持ち出した情報を吐きださせたそうだ。本当なら2、3日で済ませるつもりが、思いのほか粘られたことで時間がかかって気が狂いそうだったのだという。自分が目を離さないことがいちばん早く済ませる道だったからそうしていたけど、陽も当たらず、わたしの声も聴けないところに1週間もいると、どうしても死にたくなって仕事を進めるどころではないから、かろうじて残った正気がむしろ薬に頼ったと。勢いでやりすぎた自覚はあるようで、もう二度としないと締めくくった。
「…真琴、一生のお願い」
「それこの前も言ってた」
「聞いてくんなかっただろ、ノーカン。今度は絶対聞いて、どうしても」
「……なに」
「明日仕事行かないで」
「……」
「明日だけは絶対、夜まで一緒にいて」
「……」
実際のところ、明日は週末に備えた仕事はそれなりにあった。けれども、そんなことはこの状態の彼を前にあまりに些末なことで、本当に頭が溶けていると思うけど、わたしは横になったままで上司に電話を一本入れた。まったくの健康体の母をもっともらしく病人に仕立て上げ、こんなことは初めてでわたしも母も心細く、どうしても付き添いたいと涙を誘うストーリーを作って切る。
「…ありがとう」
「いいえ」
「……修学旅行んときも思ったけど、意外とワルだね、いいんちょー」
「……気付いてたんだ。てっきり佐野くんは修学旅行なんて知らないのかと思ってたよ」
久しぶりのあだ名に二人して少し笑って、抱き合ったまま目を閉じた。その眦に涙が浮かんでいるのを見て、たまらない気持ちになる。関係性を表現する言葉で、援助交際がいちばん近いだなんて予防線にしてもひどいことを思ってしまった。ずいぶん前から本当はわかっていたのだ。あの佐野万次郎が自分を、ということが、どうやっても信じられなかっただけで。
最初は、当時の関係性の薄さからそれほど深入りするだなんて思っていなかったからこそ、彼は簡単にわたしに頼る方向に傾いたのだろうと思う。わたしを警戒していなかったこと、そして彼を取り巻く環境のストレスが予想外に働いて、連絡先を教えないとか、抱かないとかっていう複数のボーダーラインが会うたびにぐらついて、壊されて、きっとこの“梵天の首領”というカミングアウトは、本当に本当に最後の線だった。それを破ってしまったことで自分を責めて死にたくなんてならないように、ずっと見張っていなきゃいけないような気持ちになり、より一層力を込めて彼を抱きしめる。
将来性なんてもうどうでもいい。わたしも、彼との関係の責任をとって生きていきたい。
*9回目 (前回より10日後、再会より101日目の月曜)
軽率に休んで先送りにした仕事は、週明けから思いのほか自分を苦しめた。それにしか時間を割けないほどの仕事量が月曜から降ってきてしまったから、ぜんぶが遅延したのである。毎晩の万次郎くんへの電話は欠かさなかったものの、帰宅してからでは遅すぎるのと眠すぎるのとで、仕方なくだいたい8時から9時頃、一息つけるのに社の休憩室からかけていた。
『…今日も残業?』
「そうです……手が遅いバカはわたしです…」
『…身体壊すなよ。メシ食えてんの?』
「それは万次郎くんに言う資格はないけどね。わたしはさっき牛丼食べたよ」
『オレもさっき大戸屋食ったよ』
「健康、すばらしい。継続してください」
『……』
もの言いたげな沈黙には気付かないふりをして、そのまま2、3言話して通話を切り、オフィスへ戻る。仕事の山の量自体は変わらなくても、いつでも電話をして弱音を吐いていい先があるとずいぶん心象が違う。大きく伸びをして、残りに手をつけた。
ようやくめどがたってデスクを立って携帯を確認したら、最近は使われていなかったあのアドレスにメールが一件入っていた。明日何時になっても構わないから来てほしい、というメッセージのしたに、場所のURLがついていた。何時になっても構わないと言われても、そんなに待たせるわけにはいかないなと思い、さっきは明日に回そうと思った仕事を今日のうちにやってしまうことに決め、再び椅子を引く。その甲斐あって、この日の退社は午前になったが、約束の当日は7時に送られたレストランに到着できた。
通された個室に顔を出すと、先に座っていた彼が目を丸くした。
「…早かったね」
「ちんたらやってただけみたい。約束あると思ったら頑張れたわ」
そう言うと、彼はなんとも言えないような顔をつくり、目の下を指でとんとん、と示した。クマ、って言いたいんだろう。自分だってわりと濃いのを作ってるくせによく言う。
「残業代出てんだよね?」
「うん、わりとホワイトなので。ありがたいことです」
「あったりまえだから」
「このご時世じゃそうとは言えないよ。勤務時間内に頑張り切れって話でしょ」
「……イイ子ちゃん」
「そのほうが生きやすい人間もいるのよ」
作る気もなくても人間がついて来すぎて、勝手に組織ができてしまうような彼とは、まるで性根が異なる。薬を飲んで逃げたくなるほどの現実は、わたしにはない。自分が愛してもらっていると自覚できた今でも、こんなひとにとってわたしみたいなのを近くに置いておいて何か面白いと思うことはあるのか、っていうのは常々疑問に思うことだ。今の時点では彼がわたしのような生き物に縁遠くて安心できているんだろうと思うけど、時間が経って、その物珍しいっていうバイアスが取れてしまったら…。考えたくもないことだった。
「お酒、それ何?」
自分が凡人という話を続けたくなくて、さっさとお酒のメニューを開いて話を切りあげてしまった。話したくないのは伝わったようで、万次郎くんは今自分が持っているグラスがどれか教えてくれて、同じものを頼んでくれた。
その食前酒を皮切りに、コース料理がスタートする。二人きりの高層階の夜景に、すみずみまで行き届いたサービスがなぜか新鮮に感じて、そういえばこれほど贅沢をさせてもらいつつもこれまでレストランで食事をしてきていなかったことに気付いた。人目につかないようにこれまでホテルのルームサービスを貫いてきたのだろうから、ここは完全個室だからいいということなのか。それについて聞いたら、思いがけない返答がかえってきた。
「…この前けっこー迷惑かけただろ。そのお詫び」
「え?…なんだっけ?」
「はぁ?…あのな、仕事休ませて成田まで迎えに来させてんだからさ、それで認識ナシってどんだけお人よし?マジでやめて。こわい」
「あはは、別に仕事は休めてラッキーだったよ?交通費もちゃんと貰っちゃったし」
「…はいはい、そー言うよね……まぁあと単純に、今週すげぇ忙しそうだったから労いの意味もあるよ。お疲れさま」
「それは染み渡る……実際お酒が最高に美味しいです」
「よかった。たくさん飲んで」
最高の甘やかしに遠慮なく、勧められるままお酒を飲んだ。ペアリングのコースだったようで、お皿の数だけ出てくるグラスに、メインが出てくる頃にはだいぶ会話能力がふわふわだった。
「仕事辞めたくなんねぇの」
正気になってから思い返すと、わたしが酔っぱらったのを見計らって聞かれたのかなと思う。このときぼけていたわたしは、完全にシラフのテンションの彼に、万次郎くんはお酒強いな、などと思っていたけど、そもそもたぶんあまり口にしていなかった。
「んー…そんなに?」
「なんで?」
「…求められて嫌がってるうちが華かなって。責務ってものが何もないと、わたしダメなんだ、寂しくなっちゃう…のかも」
ああ、酔っぱらってる。言いたくなかったところまでつるりと出てきてしまった。頭に残った理性的な一部が、あとで絶対に後悔すると警鐘を鳴らしているのに、それをまともにとらえられない。わたしは残念ながら、理性を飛ばしながら全部ちゃんと覚えているタイプなのだ。
「…じゃあ、責務であれば他でもいいの?」
「求めてくれるようなところがあればねー。資格とか、なにもないから、大卒ぐらいでさ」
ヘッドハントされるような派手な功績や人脈は持っていない。よっぽど嫌なことがない限りは、あるいはやらかさない限りは今の会社に勤めるだろうと思う。これ以上の条件のところに自分が就職できる気もしないし。
「…真琴が大事にしてるものって何?」
「えー…?家族とかってこと?」
「そういうの、全部。趣味でもいいよ。教えて」
「うふふ、なんで?面接みたい。…まずは万次郎くんかなぁ。あとはまぁ…家族と、友達?趣味はー…なんだろ。片付けは好きだな。映画も好き。あとはー…あ、落ちてる生き物を拾って健康にするの。初めてやったけど楽しい」
「…オレのこと言ってる?」
「どうでしょー」
彼の聞いていることが、どういう意図での質問なのかは、あえて考えないようにした。自分の期待と違うとつらいなと思って。
*10回目 (翌日。再会より第106日目、火曜、最終回)
二日酔いどころかまだ酔っていて痛む頭を押さえながら出社したら、オフィスに入るや課長に両肩を掴まれた。
「は」
「社長がよんでる、社長室、いますぐ」
「えっ!!?」
鞄を落とした。社長?とは、我が社の代表取締役のことなのか。社員約5000人を抱える大企業の、CEO?気軽に一社員を呼び出すことなどありえない。その認識は課長も同じのようで、何が何だか分からないがとにかく早く行けとエレベーターに押し込まれる。酔いなんか吹っ飛んだ、と言いたいが、頭が痛いのも気持ち悪いのもそのままに、上がったこともない最上階のフロアを奥まで進んだ。
扉の両サイドにSPらしい黒服がいて、わたしが来たら勝手に社長室のドアを開けてくれた。一礼しかけてその首筋に万次郎くんと同じ刺青を見つけて絶句した。なんで。
「あ、ああ、佐野さん」
その刺青に完全に気を取られていて、社長室の中にいる社長さえ頭から飛んでいたのだが、社長も社長でなぜかわたしに救われたというような顔でソファを立ってわたしのほうへ歩み寄ってきた。その社長を見るつもりで室内に目線を向け、さらに唖然。空港で見かけたあの紫のツーブロックと、似た面差しの同じ紫のウルフカットが座っている。あのときには気付かなかったけど、二人の首には揃いの花札の刺青があった。
「…ど、………どういった…ご用向きで……」
「うちの大口取引先の理事の方だ。先方たっての希望で、君…あなたをヘッドハントしたいってことでね。今日付けでもと。どうかな」
「は」
突然も突然すぎる。年度をまたぐならまだしも、今日付けで転職とはまるで常識外れだ。そもそも取引先などとはずいぶんきれいに繕ってくれたが、こっちは彼らが反社の幹部だと知っている。といっても、社長だってそれは分かっているからこれほど焦っているのだろう。わたしが凍っている間に、ずらずらと“先方”の条件がどれだけいいかを並べ立ててきていた。それを聞き流しているあいだに、一応面識のあるツーブロックのほうと目が合い、胡散臭い笑顔がひらひらと手を振ってくる。
「本来引き継ぎ期間は設けるべきだけど、どうしても急ぎなんだそうだ。…正直、従ってくれるとうちは非常に助かる。もし受けてくれるなら…これはオフレコだけど…このぐらいでどうかな」
手元で見せられた金額に、目が飛び出るかと思った。自分の年間総支給額の3倍ははるかに超えている。わたしごとき平社員に対して。そんなにも梵天に借りを作りたくないのだ。万次郎くんが界隈で具体的にどういう存在なのか、初めて理解できた気がした。
「行きます、行きますけど、そんな額はお受け取り致しかねます」
「どうしても受け取ってほしい。頼むから」
「え、え……いや、もう、だったらまんじろ…梵天の方に、どうか、無理ですわたし。行きますから、それでいいですよね?」
自分でも何を言っているのか分からなかった。行くって言ったってそもそもどういう立ち位置で行くんだという話。さらに追い打ちをかけてくるように見せられる、自分の口座に振ってくるとはとても現実感をもって思えない額に、もはや過呼吸のようになって社長から後ずさって逃げていたら、「決ーまり♡」と聞き覚えのある声とともに高い打点から肩を抱かれた。
「諸々の手続きは任せていいんだよな?」
「勿論でございます。どうぞ今後ともご贔屓に」
「こちらこそー。んじゃ行こっか、真琴ちゃん」
あまりの横暴ぶりに、どこに、などとは聞けなかった。引きずられるようにして社長室を出て、エレベーターを降りて、いわゆる、という感じの黒塗りスモークの後部座席に乗せられる。両サイドには決して逃がさないとでも言うように紫コンビが挟んでいて、ここに来て初めて人生をどこで誤ったかを考えさせられた。
「一応、自己紹介ね。アンタの旦那の部下。オレが蘭で、こいつが竜胆」
「………ハイ……」
「ハハ、すげぇ色々言いたげ。そゆの飲み込めっから好かれたんだろな」
そうなのだろうか。まあ、余計なことを聞かないと確かに最初に約束はした。結局色々聞いてしまっているけれども。
「それで…その、どこに向かってるんでしょう?」
「アンタの実家だよ。荷物まとめんのに一回帰っていいってさ」
「………えーと…」
「兄ちゃん、それじゃ混乱するだけじゃん…。あのな、あんたの家でマイキー待ってるから。なんでこうなったか自分で言いたいだろうし、オレらはここまでしか言わねぇけど、頑張って我慢して」
ここまで黙ったままだったウルフの竜胆さんのほうが、ずいぶん言葉もかみ砕いて語調も優しかった。こんなにまともそうな人がいるのだと大変失礼なことを思いながら少し安心して、仕方なく頷く。ちなみにこのあと十数分のドライブで、竜胆さんのほうが蘭さんの年子の弟だと聞いてそれなりの衝撃を受けた。横暴な兄をカバーし続けて生きてきたんでしょうか。
自宅に到着し、どう親に説明したものかと思っていたのだけれど、リビングではなぜかすでにスーツ姿の万次郎くんと両親が対面していた。わたしの到着に対して、母のほうが想像もしえない笑顔で「結婚だってね」と言ってきたので、いったい誰のことだと目をむく。候補者たりうるのは兄ぐらいだけど、周りにそんな気配はなかった。
「とってもいい方じゃない。どうして今まで言わなかったの」
「………」
わたしの背後に該当者でもいるのかと一回振り返ってみたが、にやにや笑う蘭さんと、真顔の竜胆さんしかいなかった。頼みの綱の万次郎くんは振り返らない。急に会社を転職?とかいう名義で辞めさせられたこととか、彼らに連れ帰られたこと、荷物まとめてこいなどの文言から、あまりに非現実的だけど、つまり今日の一連の流れは、スケール外のプロポーズということで片づけられるのかもしれない、と思い至る。あの、佐野万次郎がわたしに。はぁ。
まあ、あの、とは言ったものの、ここまでくるとわたしの中にあのスター性は皆無である。激重病み男とかでもいいかもしれない。言ったら余計病んじゃうので言わないが。
「…わたしも自分で信じられなくて。おどろかせてごめんね、ふたりとも」
「……」
すまし顔で話を合わせて隣に座ったら、万次郎くんが信じられない、みたいな、怪物を見るような目をわたしに向けてきた。自分がふっかけておいてそんな面白い顔をしないでほしい。笑いそうになる。
もちろんわたしだって、いろいろと思うことはある。いくら万次郎くんに頭がとけているといえども、これはやりすぎだし、重すぎだ。いきなり色々なものを捨てさせすぎている。約3か月前、わたしが彼を拾ったばかりの頃にこんなことをされていたとしたら、ドン引きして逃げていただろう。でももうその短期間で、わたしは知ってしまった。彼がとても弱いこと、優しいこと、あまりに染まりやすいこと。だからこそ、わたしのようなただ流されている人間を、特別と思ってくれたこと。
わたしがこれまでの時間を投げ出すには、それは十分な根拠だったのだ。
「いろいろあって急な話になっちゃったけど、わたしはこの人が望むようにしたい。…応援してくれる?」
机の上にはたぶん梵天のもつ表向きの会社とかそんなようなのだろう、企業の名前、代表取締役との肩書が載った万次郎君の名刺があり、どミーハーの母は一も二もなく喜んで賛同した。父も大変に渋々ではあったものの、住職で世間様の一般企業名などにはまるで疎く、それらしい質問はあまりできずに敗北し、わたしが家を出ることを認めてくれた。
話し合いを終えてソファを立ち、ドアのほうに向かったら、灰谷兄弟が声も出ないほど笑っていた。廊下に出るのに一緒についてきて、笑いすぎて泣いている蘭さんに肩をたたかれる。
「オマエマジすげぇわ、なんでこんな冴えねえのとか思ってごめんな。首領が選ぶだけある」
「……そういうのわざわざカミングアウトしなくていいんですよ」
失礼男はそのわたしの返しにすら笑いが止まらず、廊下に崩れてしまった。もう知らない。放置して自室に向かう。
後ろで、竜胆さんが万次郎くんに話しかけるのが聞こえた。
「よかったな、マイキー」
「……」
どんな顔をしてるんだろう。気になって振り返ると、万次郎くんは魂が抜けたみたいな顔になっていて、蘭さんの笑い袋の新たな火種となっていた。なんだか一生いじられてしまいそうでかわいそうだったので、彼を呼ぶと、はっとしたようにわたしのあとをついてくる。でも一言もしゃべらない。
ずいぶん長くだんまりを決め込んだのち、自室で最低限の荷造りをしているときにようやく、
「なんで」
と消え入りそうな声で言われて、わたしも笑ってしまった。
「なんでって。好きだから以外にある?」
本当に本当に長くなってしまったけれど、まとめてしまうとたった2文字に収まる。彼が拾ってくれるというのなら、従わない理由なんてひとつもない。
こうしてわたしは彼のセーフハウスに囲われ、立場上、極妻となったのだった。
*おまけ 佐野くん視点で
たとえば、咲き始めている桜の木の枝。花壇にある花。きれいで傍に置きたいと思ったとして、それを手折ることは物理的には簡単だけど、木がかわいそうとか、みんなのものだからとかという理由で、やらない。自分にとっての真琴は、そんな感じだ。
むかしから、本人が当たり前にする行動がとにかく優しい子だった。人を派手に喜ばせたり笑わせたりということはなかったけど、絶対に傷つけていることも同様にない。穏やかに好かれるやつ。当時こそまるで自覚はしていなかったけど、その後ろの定位置は居心地がよかった。あの寺に迷い込んだ夜はひどいバッドトリップで意識なんてあってないようなものだったが、かすかすの意識のなかで本堂の階段が目に入ったときにふっと感じたセンチメンタルだけははっきりと覚えている。それが中学時代に真琴とあの場で話した時間を思い起こしてのことだったのは、正気になってから気付いた。
最初は1、2回甘えるだけのつもりでいた。ところが2回目が終わり、数日でおかしくなり、3回目を決めたら、そのあとはずるずると自分を甘やかすばかりだった。引くと決めたボーダーなんて毎回破った。何回目だったか、真琴の正義感を試すつもりで、わざと大麻の使用痕を残したら、引くどころかホテルからその証拠を隠滅していて、気付いた翌朝にこっちが動揺させられた。お人よしが過ぎる。一度はその矯正も考えたけど、真琴の常識はどうしようもなく頼られたら応えるのが当たり前だった。勤務先にまで文句も言わずに業務をこなして死にそうになっていて、自分がどうやっても負担をかけてしまう以上、真琴に負担をかけるものは減らそうととりあえず辞めさせてみたけど、これは根本的な解決にはなっていない。いつかちゃんと教えてやんなきゃいけないとは思う。証拠隠蔽は立派な犯罪だと。気軽に片棒を担ぐなと。まあ、どの口でとしか言われないだろうが。
「嫌だろうと思うことから先言っとくね。門限は日没」
「え?外出ていいの?」
「………あのさ、初手で上回ってくんなよ。そう言いてぇの我慢してんだからさぁ」
想像力がたくましいのか適応力が高すぎるのか、真琴は腹立つほどぽけっとした顔で「あ、そう?それは恩情ありがとう」などと言ってくる。本当に監禁してやろうかこいつ。
「外出は行先と会う相手言って。移動は基本車、歩くのはここらへん徒歩5分圏内だけ。あんまりぶらぶら歩かないで、友達とか会うならできれば飲食店だけにして」
「はーい」
「……言っといてなんだけどもうちょっとなんかねぇの?」
「極妻じゃしょうがないでしょ。思ったより緩かったよ?」
「……」
「なに。変な顔して」
「…オオモノだよオマエ」
「そう?ありがとう」
本人がそうとらえていないとはいえ、外出のハードルがこれまでから跳ね上がるのは確かだ。せめてと用意した屋上に、ことのほか真琴は喜んでいた。罪悪感からの小さな補填だと分かっているだろうに。
高い柵から外を見て、「天気いいねぇ」とのんきにほざく真琴の隣に立ち、腰を引き寄せた。
「…あんま物がないから、欲しいものは全部買って。ほっとけばオレ散らかすし」
「へ?」
「ネトフリとか、動画のサブスクはたいてい入ってる。好きに見て」
「……」
「拾ったの育てんのはオレで満足してくれる?」
少し前に真琴から聞き出した趣味をひとつずつ潰していくと、真琴は目をまんまるにして、声を上げて笑いだした。心底楽しそうな笑い声が高層階の澄んだ空気に吸い込まれていく。「めちゃめちゃ愛感じた」バカ言え。こんなもんじゃない。
***
この大変に長いものを読んでいただきました方、いらっしゃいましたら心より感謝申し上げます。
ありがとうございます。