部下に紹介される話





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 モーゼの海割りを初めて経験した。本当は悲鳴のひとつでも上げたかったけど、空気を読んで頑張って堪え、心の中で白目をむくだけにとどめた。昔から海を割り続けている男(夫)は、羽織ったスーツをなびかせながら悠々とその割れた間を歩み進み、立ち上がった波は彼が通り過ぎるのと同時に、一様の最敬礼に頭を下げていく。

 「首領、ご内儀。この度はご結婚おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます」

 進み切った先にはピンクが、今日はジャケットも着て同じように最敬礼した。ご内儀、だって。初めて聞いた。そう言うんですね。

 集まった人数はざっと見積もって数十人だろう。梵天の核となる中心組織の主要メンバーだそうだ。用件は首領の妻の面通し。これ以外の人間には一切わたしの顔は見せないよう箝口令を敷き、万が一にでも写真や情報が洩れたら即座につぶせるようにこれだけの人員で対応するのだと言っていた。どれだけの危険度なのかも知らないし、その界隈はお任せするしかないので、特に口答えはしていない。

 「似合ってるよ」

 ちょうど横に並んだ蘭さんが、ほとんど口を動かさずにそう言ってくれ、もうひとつ向こうにいる竜胆さんもわずかに微笑んで頷いてくれた。小声で「ありがとう」と返すと、正面のギャラリーからは見えないように、帯の結び目あたりに頑張れ、の手が一瞬だけ添えられる。

 万次郎くんも今日はいつものだる着ではない。面倒がりそうなものなのに、朝から文句も言わずにスリーピースを身に着けていた。ジャケットに手を通したくないのは学ランの頃と変わらないようで羽織りっぱなしだけど、いつもと違うぴりっとした空気はとても恰好よくて素敵だ。大衆を前に普段となにひとつ変わらずに、淡々の結婚の報告と今後の方向について話している。

 その後ろ姿に、ふと一度だけ見た東京卍會の特攻服の後ろ姿が重なった。バイクで走り去る快活な笑い声の、あの。どうしてだろう。

 見過ぎていたせいか、万次郎くんが言葉を切って振り返って、わたしを見た。中学の頃を思い返していたせいで振り返られただけで少し驚いてしまうわたしを、ちょいちょいと手招くのでさらにもう一段、壇上に上がり、彼の隣に立つ。中心の演説台だと、より大勢の視線が刺さるようだった。

 「この人が、オレの唯一、最大の弱点だ」

 うわっ。

 声に出さなかっただけ褒めて欲しいが、声が飛び出しそうだった口は覆った。ちゃんとした場だと思い出して慌ててひっこめて、固めているから何も乱れてなんていない髪を耳にかけて、彼らに向けてなるべくゆっくり頭を下げる。

 「この場に呼んだ人間には、何をおいても彼女を最優先にしてほしい。万が一外に欠片でも情報が漏洩したら迅速に始末しろ。相応の報酬は出す。…逆に」

 ここまで静かに話していたのが、急に語調が変わって心臓が跳ねる。後ろと傍らに控える、三途さんを含む幹部陣だけがその万次郎くんの変化にまるで動じず、首領と合わせて下方の人間たちの威圧に転じた。

 「漏洩があったとき、真っ先に疑われるのは自分だと思え」

 “飴と鞭”の、最上級のお手本といってよかった。わずかながらにまだ朗らかだった空気は一転、しんと水を打ったように静まり返る。隣でぎらりと光った目は、言いようもなくカリスマの塊だった。場違いながら、彼がこんな立場に置かれる所以をしみじみと体感した。

 手を握られ、引かれて、壇上から降りて部屋を出た。威圧された彼らのなかに、正面切ってわたしに目線を向けられる者はひとりもいなかった。そのかわり、背後から、あるいは靴のあたりに痛いほどの視線は感じた。それらから守るように、次席たる三途さんがぴったりとついてくる。

 廊下を抜けて、わりあい近くにある応接間に入る。わたしは万次郎くんに倣って革張りのソファに座ったが、後からぞろぞろとついて入ってきた幹部陣は一様に入口のある壁際にずらりと並んでいった。左から、三途さん、鶴蝶さん、望月さん、蘭さん、竜胆さん、九井さん、明司さん。ひとりひとりと話すと意外に優しい人も多いのだが、こうやって並ばれるとさすがに迫力がひどい。絶対に近づきたくない。

 「疲れた?」

 静かに息をついたつもりだったけれど、座ったことで緩んでしまった緊張はあっさりと悟られ、すかさず労わる手が肩に回った。わたしを引っ越させてからというもの、万次郎くんの過保護ぶりは日々加速している。

 「何もしてないから大丈夫だよ。緊張しただけ」
 「…そこはもう慣れてもらうしかねぇけど。ごめんな。もう当分させない」
 「気遣いすぎ。大丈夫だから」

 言葉や抱き寄せられる仕草の甘ったるさとか、そんなことよりわたしにはこれが大幹部7人の真正面で繰り広げられていることのほうが問題だった。彼が機嫌を損ねない程度に甘やかしに抵抗しつつ、姿勢を正す。そんなことはお見通しでにやにやしている蘭さんの顔の前にだけ、なにか遮蔽物を置きたかった。
何の時間、って言いたい時間を切ってくれたのは、三途さんだった。

 「首領、いいですか」
 「ああ」

 なにを始めるのかと思えば、彼ひとり前に出て、万次郎くんではなくわたしの前にひざまずいた。驚いて彼の頭頂部と万次郎くんを見比べたが、どちらも目は合わせてくれず、三途さんの骨ばった大きな右手がわたしの前にエスコートでもするように捧げられる。なにが正解か分からないが、おずおずとその手に自分の手を乗せると、流れるように手の甲に唇が当てられ、怖気ではないなにかが全身にぞくぞくと走った。なにこれ。なに?

 「この度主とともに我々の組織を預かっていただくこと、まずは厚く御礼申し上げます。組織の末端に至るまで貴女のものですが…こと、我々7名は貴女の手足となり、命となりますことをここに誓います。いかようにもお使いください」
 「……」

 翡翠の目にまっすぐに見上げられ、どう返していいか頭が真っ白になってしまった。絵になるひとだなとしか思えない。助けを求めて隣を見たら、「形式だから」とこの重たい雰囲気を蹴散らすような気の抜けた声で言われ、今度こそ深く溜息をつく。

 「……こういうのの返しは先に教えておいてよ……」
 「思ったまま言っていいよ。代わりに死ねとか」
 「言わないから。どんな鬼嫁?」

 取られたままの手を軽く握り返し、立ち上がって同じ目線になるよう膝をつく。「え」万次郎くんの間抜けな声を後ろに聞き、三途さんの驚いた顔を前に、わたしもさっきの彼と同じように頭を下げた。

 「役割は違いますけど、彼を主人として守っていくという意味では、何よりの同士だと思っております。頼りにしてます。こちらこそ、どうぞよろしく」
 「……恐れ…入ります」

 これでいいかという意味で振り返ったら、万次郎くんは予想外にもぶすくれた顔でわたしを見下ろしていた。ヤキモチ焼きにもほどがある。あきれて笑ったら、頭を小突かれた。「触りすぎだから」本当に面倒臭いひとだ。

 てっきり次席だから三途さんが挨拶したのだと思っていたら、そのあとは順繰りに同じことが起きた。全員が膝をついて手にキスしてくる。蘭さんがいちばん無遠慮にわたしの手を掴んで、誘惑するように指で遊んでしっかり口づけていたけど、髪の色を見なかったことにすればいちばん王子様的な外見の三途さんのキスを乗り越えたわたしに怖いものはなかった。万次郎くんが静かにキレてただけで。

 このあとはこのメンバーだけで宴席が設けられた。最初こそ格式ばっていたものの、酒が入るとタガが外れがちな性分が揃っているらしく、たったの30分でほぼ全員が壊れて無礼講となる。優雅な料亭の一室だったのに、あっという間に罵声と奇声に溢れた、一升瓶がゴロゴロ転がる地獄の空間と化してしまった。ちなみに万次郎くんは今日の主役だからと主に蘭さんに死ぬほど飲まされて潰されたので、はやばやと部屋のすみで気絶している。てっきりざるだと思っていたので、静かに昏倒したときは愕然とした。

 「悪いな、うるせぇだろ」

 さんざんからかわれて疲れて、日本庭園を臨む外廊下に逃げて涼んでいたら、通りがかりに気を遣って声をかけてくれたのは竜胆さんだった。あれほど飲んでいたのに、ほんのり顔が赤い程度で目も語調もいつも通りだ。お兄さんの暴れっぷりとはずいぶん対照的である。

 「皆さんでよく飲むんですか?」
 「まさか。メインの職場バラバラだし仲わりーし、全員揃って飲むのなんか創設以来だよ。特にオマエの旦那なんて絶対1杯で帰るしな」
 「えっ!?そうなんですか!?」
 「そうだよ。明日は豪雨」

 切れ長の垂れ目がいたずらっぽく笑う。その頭の向こうの長い廊下からは、ぎゃんぎゃん騒ぐ声が遠く聞こえていて、とても仲が悪そうには思えない。ちょっと血の気が有り余りすぎているふしはあるけど、そんな迷惑な価値観が合う集団なんてそうそういないんじゃないだろうか。万次郎くんだって、もし昔のままだったら1杯で帰るようなつれないことはなさそうに思える。

 中学に戻ったわたしの心を読むように、竜胆さんが静かに言った。

 「なんてな。たまたまじゃなくて、アンタがすごいんだと思うよ。マイキー、ずいぶん丸くなった。幼馴染だっけ?」
 「中学の同級生です」
 「そっか。最近再会したんなら、色々びびったんじゃねえの」
 「……昔を知ってるんですね、竜胆さんも」
 「その頃はチーム違ったからそんながっつり関わってはねぇけどな。色々あったから」
 「そうみたいですね」
 「聞いた?」
 「いえ」

 聞いたとすれば、彼が一緒に育ってきた家族全員が亡くなっているということぐらいだ。詳細をきちんと話してくれたのは、いちばん上の真一郎さんのことぐらいで、他のもう一人のお兄さんや妹のエマちゃん、おじいさんのことは、濁すように早口だったからあまり話したくないのだろうと思う。掘り返すところではないと思って聞いてはいない。

 ちらりと竜胆さんを見る。「そっか」と言って目をそらすさまは、何も知らないひとが謎に包まれたボスを暴きたくて聞いている様子には思えない。おそらく、彼が変わった決定的な何かを知っていて、同情的な気持ちを持っている。

 「聞かねぇんだ?」
 「知った上で支えてくれている方が傍にいてくださってるなら、十分かなって」
 「……そんな綺麗なもんじゃねえって言いづれぇな」
 「言いづらくしました。すみません」

 意外そうに見開かれた目がわたしを見て、くすぐったいような気持ちで微笑み返した。このところ、変に 強気になってしまった。自分を変えた決定的なことは、間違いなくあの万次郎くんの人生ごと奪うような強引なプロポーズだ。彼にあらゆるものを捻じ曲げさせてまで自分を選ばせた事実と、なにより、あの数秒で両親を前にはっきりと彼を選ぶと言えた自信。無敵感というのか、今までふらふらと頼りなかった自分の言動を支えてくれる太い支柱が、しっかり自分のなかに立っている気がする。

 「あー。竜胆が首領の女に手ェ出してるー」
 「げ」

 いったいいつ抜け出してきたのか、べろべろになった蘭さんが突然現れて竜胆さんの背後からめしゃりとつぶした。抵抗らしい抵抗なくおとなしくつぶされているさまに、彼らのパワーバランスを垣間見たような気持ちになる。

 「飲んでるかー、猛獣使い」
 「猛獣使い?」
 「だってそーだろ?あれオレ感動したんだよね、あれ、ほら空港でさぁ」

 酔っぱらい過ぎてあれだのそれだのの多い蘭さんの話をまとめると、いつぞや彼らの香港帰りの成田にわたしが迎えに行ったときの話だった。万次郎くんがわたしを呼び出すよう頼んだのかと思っていたが、むしろ彼は絶対に来させるなと言っていた側で、電話は完全に三途さんの独断だったそうだ。それを到着直後ぐらいに首領に伝えたら激ギレしていて、わたしが引き受ける直前まで大暴れだったらしい。

 「アレが空港じゃなくてもーちょい体調マシだったら、ヤク中殺されてただろーなってぐらい。それが真琴ちゃん見たら急に甘えだすじゃん、笑ったわー」
 「オレそれ見てねえ。そんなに?」
 「ちょーヤバかった。降りるまで真っ青で歩くのもギリギリだったのに、『真琴さんいらしてます』って言ったとたんに目の色変わって壁ドンだよ。他の客ドン引き」
 「そうだったんですか?ゲートのあたりじゃだいぶおとなしかったように見えたんですけど…」
 「体調悪すぎて結局倒れたから、意識薄いうちにヤク中が引きずってったんだよ。それ見たときは、あーこいつ真琴ちゃん生贄にする気なんだなって思ったんだけどなー」

 彼らの中で、万次郎くんは機嫌を損ねたら手のつけようのないモンスターのようだ。言うに事欠いて生贄呼ばわり。確かになかなかに極端な性格で、思い込むとあっという間に転げ落ちるタイプなので分からなくはない。でも、意外に頭突き一発で正気に戻ったりもするんだけどなあ、と思う。

 わたしのもの言いたげな雰囲気を察したのか、竜胆さんのほうが「どうやって手なずけてんの?」とセリフの冗談っぽさのわりに、まじめな顔で聞いてきた。

 「手なずけてはないですけど…」
 「てるだろ。すげぇおとなしいもん」
 「……えー……女だからじゃないですか?」
 「「それは絶対ない」」
 「マジちゃんと手ェ出るもん女でも。てか基本無視だよな」
 「会話しねーな。ヤることヤったら追い出し、終了」
 「……」

 過去の話とはいえ、仮にも現在妻の前ですぱっと言葉を選ばなかった蘭さんに、竜胆さんがげっと顔を引きつらせてその後頭部を引っぱたいた。「いってーなんだよ竜胆」「言うこと選べよバカ兄貴!」最初に会ったときにも思ったけど、彼はずいぶん気遣い屋さんだ。なんだってこんな組織にいるのか不思議なほどに。それに対して蘭さんは、「いーじゃん別に昔のことだし。結果的に自分が特別扱いされてるってわかんだからさァ」と的を射ているのか射ていないのか分からないことを言う。「そりゃそーだけど…」そして竜胆さんはその暴論に丸め込まれている。いつもこんな感じなのかな。

 「…言わないと警戒するから、こっちの考えてることは全部喋るのと…あとは、八つ当たりにはキレ返すように心がけてます」
 「……ガキのしつけ?」
 「…というより、保護した動物にここは安全だよーって言い含めるイメージ?」

 当初に比べてずいぶん彼の我儘が出てきたのは、わたしを安全だと認識したからだとは思う。だけど、おそらくまだその信頼は全然浅い。外出を許可したのは自分なのに、外に出ているとすぐに連絡が飛んでくるのだ。わたしがふらふらと自分のもとから逃げ出すことを警戒している。その警戒を解いて、”手なずける”方法があるなら、むしろわたしが教えてほしいぐらいである。

 わたしの言ったことに、竜胆さんは自分の記憶に当てはめるように右上へ視線をやったけど、その傍ら蘭さんは「あー、虐待児の保護」とぽんと手を叩いた。独特の解釈に、竜胆さんがまたさっきと同じように彼の頭を引っぱたく。

 「言葉選べっつってんじゃん」
 「いてー。なーに竜胆、やたら首領のヨメに優しいじゃん。狙ってんの?」
 「冗談でもマイキーに聞かれたら殺されっからやめてマジで!」
 
 微笑ましいやり取りに声を出して笑ったら、ふたりが同時にまったく同じ瞳の動きでわたしを見た。兄弟ってすごいなあと思いながら、髪型も体つきもこんなに違うのにそっくりな顔を眺める。彼らはまじまじとわたしを見たのち、視線を上に泳がせ、「…なるほどなー」と揃ってなにかに納得したような溜息をつく。

 「え、なに…なんですか?」
 「なんでもなーい。冴えねー女とか思っててごめんなーって話」(2度目)

 だからそういうの言わなくていいんですよ…と、今度は言えなかった。言ったって絶対になにも改善されないどころか、あてこするように言ってくるだろう蘭さんの性格がもう分かってしまったからだ。大きな骨ばった手が、わたしのがちがちに固めたまとめ髪をがしがしと無遠慮に撫でる。大崩れするだろうけど、もうこの後に何もないからいいやと諦めてされるがままになっていたら、竜胆さんが「ちょっ、…まっ、兄貴、ストップ…」小声ながらめちゃめちゃに焦った様子で何度も蘭さんを引っ張りはじめる。あ、嫌な予感。

 「あー?なにー…………起きたんだネ、マイキー……」

 蘭さんがゆったりとホールドアップしたことで解放され、彼から身体を離してその後ろを見たら、万次郎くんが冷え切った目で蘭さんの頭に銃口を当てていた。一応料亭だし、急いでその銃を取り上げて隠したい気持ちはやまやまだが、ここでわたしが少しでも蘭さんを庇うような真似をしたら間違って発砲もあり得る。ひとまずは立ち上がって万次郎くんの傍らに行くと、銃口と目線は動かさないまま、わたしを蘭さんから遠ざけるように背後に誘導された。

 「言い訳あんなら3秒は聞いてやる」
 「可愛かっ」

 彼が答えきらないうちに、パァン、と乾いた大音が響いてわたしと竜胆さんは縮みあがった。一瞬本気で銃殺を疑ったが、その銃口は知らないうちに標的からずらされていて、蘭さんはかなり引きつった顔だったけど無事だった。向けられていた方向の床、柵、庭にも、なんの抉れた痕もない。…空包だったんだ、と数秒遅れて理解して、溜息をつく。

 「脅かさないでよ……」
 「あ?撃たねぇだけマシだろ。こいつ庇ってんの?」
 「庇ってません。バカなの?」
 「はぁ?バカ?誰に言ってんの?」
 「あーあーあーあー待て待て待て首領、ご内儀……オレらが悪かったからアンタたちがケンカすんのやめて」

 ズレた方向にヒートアップしかけたわたしたちを止めてくれたのは竜胆さんだった。いくら万次郎くんが極端バカといえど、さすがにこの言い争いのばかばかしさには気付いてくれたようで、素直に黙ってくれた。そうなってやっと、彼にまだ酔いが残っていることに気付く。瞳も身体もふらふらしていたからそっと身体を支えると、すんなりとくっついてきて、腰に手が回った。

 「次触ったら実弾入れるから」
 「はいはい、肝に銘じまーす」
 「帰るよ、真琴」
 「え」

 さっき竜胆さんが言った、一杯で帰るのが常、というのが頭を過ぎる。もっとも一杯どころか彼は一升近くまで飲まされている気がするが、さっきの空気ではまだ宴会は続きそうだった。せめて自分が主役の今回は最後までいたほうがいいんじゃないか、と灰谷兄弟をちらりと伺うと、ホールドアップしたふたりは明らかに“機嫌が悪くならないうちに連れて帰れ”または“オレを見るな”と首を横に振っていた。なんとなく梵天における自分の役割が分かってきた。蘭さんが最初に呼びかけてきた猛獣使いって呼称は、彼にしてみれば全然冗談じゃなかったのかもしれない。

 「わかった、そうしよ。大丈夫?目据わってるよ」
 「日本酒が合わねえだけ…別に平気。山井呼んで」
 「お水貰ってこよ」
 「ああ、オレ貰って来るわ」
 「んじゃ運転手は電話しとくわー」

 鮮やかにここから立ち去る言い訳に役割を掻っ攫い、止める間もなくふたりはそれぞれの方向へ去っていった。まあ、たぶん一刻も早く逃げたいんだろうし、任せておけばいいかと諦めて、自分の役割を見たら、さっきの迫力はどこへやら、万次郎くんは青い顔でぐったりしていた。本格的にだるそうだ。長椅子に座らせて、自分の肩にもたれさせる。全身が脱力しきっているくせに、わたしの手を握る手は強い。

 「…なに話してたの」
 「万次郎くんのこと。どうやって手なずけたんだって言われたよ」

 竜胆さんは言葉を選べって言ってたけど、蘭さんの言う虐待児のほうが、わたしの例えなどより芯を食っていたなと思った。わたしが心うつりすることが、このひとは怖くてたまらないのだ。そんなことありえないのに。不安な質問にノータイムで答えて、あくまで普通の力で手を握り返すと、力が入りすぎて筋張った手が少し緩んで、力が均等になっていく。

 次に彼が出した声にもう怖がりは入っていなくて、ただひたすら甘えていた。

 「……なんて答えた?」
 「ナイショ」
 「なんで。教えてよ」
 「だってそれ教えたら飽きられちゃうし」
 「は?」
 「企業秘密でーす」

 まるく見開かれた目は、まるでわたしがそんなことを恐れているなんて想像もしていなかったようだ。相手を失くすことを恐れるのがお互い様じゃないんだったら、どうやって結婚なんかするっていうんだか。

 身体を起こしたまま茫然としている彼を、もう一度自分にもたれさせて甘やかしてこれ以上の質問を防いでいたら、背後に近づく足音がした。お冷を持った竜胆さんだった。

 「…水、貰って来たけど。マイキー大丈夫?」
 「あ、ありがとうございます。飲める?」

 冷えたグラスを受け取って万次郎くんの前に出すと、わずかに頷いて自分で唇に運べた。飲食ともに細い彼だけれど、さすがにこれほど飲むと余程脱水だったようで、一気にグラスを空にしていく。派手に上下する喉仏が珍しくて、うっかり見入ってしまう。

 「…ありがと、竜胆」
 「え。…あ、うん。もーちょいいる?」
 「平気」

 彼にとってはなにが珍しかったのか、竜胆さんも万次郎くんをまじまじと眺めていた。普段はあまりお礼を言ったりしないとか、そういうことかな。

 「車、もう来るってよ」

 いつの間にか来ていた蘭さんに、わたしの鞄代わりの巾着を渡された。お礼を言って受け取ると、「こちらこそ♡」と何へのお礼か分からないことを言われる。聞き返す前に玄関へ連れて行かれた。

 「じゃーなーマイキー、とヨメちゃん」
 「ありがとうございました。お先に失礼します、また」
 「お疲れ」

 車のドアが閉まる直前、「すっげえ…」「な、言ったろ」というふたりのぶつ切りの会話が聞こえた。なんとなく気になって、滑り出す車の中からふたりを見ていたら、蘭さんがすぐに気付いて胡散臭いほど屈託のない笑顔で手を振ってくれた。それに会釈で返そうとしたら、ぐい、と後ろから引っ張られて、万次郎くんの骨ばった肩に頭をぶつけて涙目になる。

 「いった!肩尖りすぎ!!」
 「……もう当分会わせねぇ」

 詫びのひとつもなく、低く呟いた声は明らかに怒っていて、痛みが吹っ飛んだ。しまった。よく考えてみれば、今日のスタートから彼にしてみれば面白くなかっただろう。幹部陣の手へのキスとか、竜胆さんと二人で喋ってるとか、蘭さんに頭を撫でまわされるとか。逆の立場ならめちゃめちゃ不愉快だ。避けて欲しい。

 「ご、ごめん…万次郎くんの仕事仲間だし失礼があったらいけないと思っ」
 「浮気モン」
 「ちがいます!!」

 猛獣使いなんて称号は、まだまだ程遠い。



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