No2と





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 結婚して初めて彼が出張に発った翌日から、いきなり体調を崩した。自分では気づいていなかったけど、あらゆる環境の変化に緊張し続けて、このひとりになったタイミングでようやく身体から素直に悲鳴が上がったのだろうと思う。夜中にひどい寒気で目を覚まし、立ち上がったらふらふらで重心が定まらず、どうにか身体を引きずって季節外れの毛布を引きずり出してくるまった。それでも歯の根が合わないほど震え続けて朝になり、9時頃になって寒気が引いてきたと思ったら今度は身体が熱くて眠れない。体温計のありかを知らないから正確にははっきりしないが、体感でいうと8度台以上には発熱している気がする。

 唯一救いと言えるのは、こんな状態を見たら気が狂うほど心配して取り乱しかねない同居人が出張でとうぶん帰ってこないこと。誰にも気を遣わずに存分に回復に専念できる。水分補給さえしていれば死にはしないだろうし。

 なんて事態を楽観視して、ベッドとお友達になってすぐ、電話が鳴った。

 「…うわー…」

 画面を見て思わずひとり呻く。発信元は万次郎くんだった。油断した。かかってくるなら夜だと思ってたのに。

 鳴りっぱなしの電話を放置して、カレンダーを振り返る。当初の帰宅予定はちょうど1週間後。出張先は上海。一緒に行ったのは九井さんと望月さん。大幹部2人を従えて行ったということはつまり替えがいるということで、最悪彼らに仕事を押しつけて帰国を急ぐこともできてしまうかもしれない。最近の過保護ぶりを思うと十分にあり得る。それは色々な意味で休まらない。

 ここまでを1コール以内で考え、2回咳払いしてから通話ボタンを押した。

 「はい、おはようございます…」
 『おはよ。寝てた?』
 「ん…ごめん」
 『いいよ。ごめんな、眠いときに』

 うまくいった。あえてだるい声をそのままに出したら、彼はちゃんと寝起きなだけだと思ってくれて、昨日遅かったの、と聞いてくる。明け方までドラマを見ていたと言ったら笑われた。

 「どうかしたの?」
 『夜電話できそうにねぇから、朝のうちに声聞いときたかっただけ。元気?』
 「すごくねむい」
 『だろうね』
 「まんじろくんはご飯食べてますか」
 『食ったよ。ホテルのなんちゃって日本食の味のなさやべぇ』
 「あ、お味噌汁の小袋入れてるよ」
 『ウソ。知らねぇそれ、どこ?』
 「スーツケースの…開いて右側の真ん中らへん…?ジップロックに入ってない?」

 一昨日荷造りしたスーツケースのぼんやりした記憶を手繰る。電話の向こうでだいぶガサガサやったのち、『あった!』と明るい声がした。ほっと息をつく。

 『今入れるわ。サンキュー』
 「はぁい。頑張ってね」
 『はは、ねむそ。寝る?』
 「う…お仕事の人の前ですみません…」
 『いーよ、ゆっくりしてて。おやすみ』
 「おやすみ」

 彼に不調を伝えることなく通話を終えられた満足感と同時に、一生懸命喋ったせいか頭が割れるように痛くなり、ベッドに頭を抱えて丸まった。目の奥にじくじくした刺すような痛みまできて、イライラしてシーツを掴む。痛み止めは鞄に数錠入れていたような気がするけど、探しに立ち上がるのも億劫だった。このまま少し落ち着くまで動かないでいて、動けそうになったら探しに行こうと思って、ベッドに丸まった姿勢で固まる。

 それからどれぐらい時間が経ったか。

 痛みのピークを通り過ぎて、痛いは痛いけど慣れてしまって、土下座寝のままウトウトし始めた頃に、インターホンが鳴った。心当たりの宅配物は思いつかない。申し訳ないけど居留守しよう、と思って放置する。2回目は鳴らなくて安心してまたウトウトしていたら、玄関の鍵の開く音がして飛び起きた。

 「いっ……」

 急な動きでさっきのピーク時のような頭痛に見舞われ、視界が暗くなった。両手でこめかみを押して痛みを散らそうとしている間に、躊躇いのない足音が廊下を歩いてきて、寝室を通り過ぎて居間へ向かって行った。不審者かもしれない、どうしよう、でも痛すぎて動けない。色々なことに一気に追い立てられて、頭が空転しまくってまったくどうしたらいいか分からなかった。

 「ご内儀、いらっしゃいますか?」
 「……」

 ドア越しに聞こえてきたのは、三途さんの声だった。不審者じゃないなら、ひとまず命の危険はない。そうして安心して溜息をついたのち、いや、これはこれでどうしよう、と新たな悩みが出てくる。すっぴん、髪ぼさぼさ、パジャマのこのだらしないさまをあの顔面の前に?出す?いや、そんなことより、さっき彼の上司に隠した手前、体調不良をどうするか問題まである。ごまかし通すのか、どうするのか。頭が痛すぎて吐きそうになってきた。

 どうしようもできないうちに、寝室の扉が2回ノックされ、ついにすべてに諦めがついた。ドアににじり寄って、開かないようにドアノブを掴んでから一枚板を挟んだ向こうに話しかけた。

 「すみません、体調崩してしまって……っ!?」

 言い終わらないうちに、わたしが掴んでいた力なんてまるでないようにドアノブが下がって向こうに扉が開いてしまう。バランスを崩した身体は、そのまま三途さんのほうに倒れ込んだ。

 「すみません…!」

 寝巻きのままスーツの人に受け止められたことが恥ずかしすぎてすぐに身体を起こそうとするも、三途さんは抱き止めた腕を離してくれなかった。やたらに深刻な顔に覗き込まれ、手の甲が寝汗の額に当てられて眩暈がする。万次郎くんだけはかろうじて慣れたけど、もともとそんなに美形に耐性なんかないのだ。この体調の悪い時にぶち込んでこないでほしい。

 「高いですね…首領には連絡してますか?」
 「……さっきごまかしたので言わないでいただけると大変に助かります…」
 「そういうわけにもいかないんですよ。こういうことがないように、出張の間はオレらがこうして来ることになってるので」

 オレらとは、まさか幹部7人の日交替制ってことだろうか。信じられない。言ってほしい。前日まで忘れてたとしても、せめてさっきの電話で一言あったっていいはずだ。唖然としていたら、ずるずるとベッドに引きずられて「横になっててください」と座らされてしまった。手には携帯。さっきごまかしたばかりの夫に通報される前に、慌ててその手首をつかむ。

 「待って!」
 「ダメです」
 「いや、だって言ってどうするんですか…帰れないのに無駄に心配かけてもしょうがないし、これで万が一帰ってきちゃったら梵天が困るんじゃ…」
 「……」

 聞いてくれる余地はあり、三途さんは面倒そうにしながらもわたしの意見も考えているようだった。帰ってくるなんてありえない、とは彼も言えないだろう。それに今回の上海は、結婚してからさんざん長期の出張を拒否してきた万次郎くんにさえ、仕方ないと溜息をつかせた出張だ。梵天にとってそう軽いものとは思えない。いや、反社の仕事を応援してどうするんだって話ではあるけれども、この際それは置いておく。

 「2日だけください。その時治ってなかったら連絡します」
 「……」

 数秒の間、大きな瞳がゆっくりと一周し、左下あたりをじっと見てから、ひとつ溜息をついて「明後日のこの時間までですよ」と低く念を押された。勝った。ほっとしてお礼を言うと、「もういいので寝てください」と肩を後ろへ押される。

 ひと段落ついてしまうと、焦ったせいで遠のきかけていた頭痛が戻ってくる。三途さんの手前、いろいろと張ろうとしていた見栄が、横になったとたんにぐらついてきた。もういいかな、と思ったぐらいのタイミングで彼が寝室を出て行ったから、遠慮なく頭を押さえて呻いていたら、思っていたより全然早く戻ってきてしまってしっかりわたしが悶絶しているさまを見つかってしまった。

 「…頭痛ですか?」
 「す、すみません……お構いなく…」
 「構います。言ってください、痛いですか?」

 この家のことは、住み始めて1か月弱のわたしなどよりも三途さんのほうがはるかに詳しかった。枕を保冷枕と取り替えたのち、一通りわたしから問診をとってまた消えたかと思ったら、鎮痛薬と体温計を持って戻ってきたのだ。わたしが来る前は、彼がこうしてほぼ万次郎くんの面倒を見ていたのだろう。万次郎くん本人よりも三途さんのほうが、そのへんの人なんて絶対に近付けなさそうだ。

 「医者はあと30分程度で到着します。なにか召し上がりますか?」
 「えっ?……き、来てくれるんですか」
 「所属の者がいますので。それより、食事は」

 基本的に病気になったら、食欲がなかろうと栄養を詰め込んで治す主義だけれども、もし今これで食べると言ったらこのひとが作るのか?と思ったら、とても素直にはい食べますとは言えなかった。いったいいつ帰ってくれるのか。「お気遣いなく」と力なく言うと、彼の目がまたも面倒くさそうに眇められる。

 「言っておきますけど、明日交替が来るまで帰りませんよ。…アー替われねぇんだった、隠してんなら明日もオレか」
 「え」
 「少なくとも明後日の朝までここにいるので、自分で何かできると思うなってことです。で、食事は?」
 「……おねがいします…」
 「はい」

 敬語なんか本当は使いたくないんだろうなとありありと分かる態度で、三途さんは寝室を出て行った。なんだかどっと疲れてしまった。まあ、せめて四六時中寝室で監視されていないなら、食事なりなんなり世話を焼いてくれるひとがいるのはありがたい。とにかく顔が美形すぎて疲れるだけだ。…いや、疲れる。

 それから15分もしないうちに、梵天お抱えの医師が到着した。おそらくただの季節性の風邪だが、明後日になっても熱が下がらないようならまた連絡するようにと言われ、補液の点滴を受けて終了。初めて往診ってものを受けたけど、この体調のときに起き上がらずに適切な対応が受けられるというのがこんなに楽だとは思わなかった。申告もしないで恐縮だが、今日ばかりは万次郎くんの立場に心から感謝した。

 そして問題の三途さんの看病だけれども、わたしの想像を裏切って、気が休まらないことなんてひとつもなく、ただありがたいばかりだった。三食きちんと消化に良さそうなものを出してくれたうえ、起きるたびにストローまでさした飲み物が新しく取り換えられていた。食器の片づけもわたしが寝ている間にすべて済ませてくれたし、トイレや入浴に立つのも放っておいてくれたために、食事を出してもらう以外で彼の顔を見ることはなかった。おかげで存分に休養することができ、翌朝にはすっかり頭痛は落ち着いて、多少の微熱程度にまで回復したのだった。

 「おはようございます」
 「は」

 早朝に居間に顔を出したら、三途さんはとっくにスーツ姿で、テーブルでパソコンを開いていた。眼鏡がびっくりするほど大変によくお似合いだった。歩くわたしを見て信じられない、みたいな顔をして一瞬ではずしてしまったので、ちらっとしか見えなかったが。

 「体調は?何かお持ちしますか?」
 「だいぶ回復したので大丈夫です。昨日はありがとうございました」
 「……」

 わたしが動いていようと全然信用ならないようで、彼は甲斐甲斐しいままだった。ソファに座らされたかと思うと、ばさばさとブランケットで包まれ、体温計を渡され、測り終わらないうちに温めたレモネードまで出てくる。誰に鍛えられたんだろう。

 及第点だと思った37度2分を示す体温計を笑顔で渡したら、バカじゃねぇのと言いたそうな顔で無言で寝室を指さされて笑ってしまった。

 「寝ようにも寝すぎちゃって。ヒマなのでこっちでテレビ見てていいですか」
 「…アナタの家です。ご自由にどうぞ。毛布持ってきます」

 ご自由になんて突き放したわりに、座面の広いソファはあっという間に簡易ベッドに作り替えられた。毛布と陽光のぬくぬくした温かさのなか、テレビを見るか微睡むか食事を摂るかだけしていればいい。天国みたいに堕落しながら、三途さんといたらダメになりそうだな、と思ったとき、実際にそれでダメに拍車をかけていそうなお手本が思い当たってぞっとして、早く回復しなければと思った。このままでは万次郎くんみたいなのが2人住んでいるだけのダメダメの家になってしまう。携帯をいじるのをやめて、毛布に潜り込んだ。眠気はなかったけれど、寝ようとしてしまえば睡魔はちゃんとやってくる。

 お昼過ぎになって自然に空腹とだしの香りで目が覚めた。体感としては健康そのものだ。テーブルには湯気のたつ卵粥と林檎が並んでいて、あたりを見渡しても三途さんの気配はない。食べ始める前に一言お礼をと思って起き上がり、廊下に出たら、開けるなり苛立った彼の声が聞こえた。

 「だから手ぇ離せねっつってんだろーがタコ。テメェでどうにかしろ1日ぐらい」

 ここまでどこか冷たいとはいえ、お淑やかな敬語で接されてきたせいで必要以上に驚いてしまい、はっと息をのむ。廊下の先、ほぼ玄関近くで電話していた本人と目が合い、げ、と渋い顔をされた。

 「…アー、そうしろ。パソコンは使えるから。おう」

 わたしに遠慮してか、通話相手にまでやや勢いを失くした彼に安心したのち、すぐに、その“手が離せない”元凶が自分なことに気付いて青くなった。そうだった。本来なら今日は手が空いているほかの幹部が巡回に来るはずが、わたしが隠蔽すると言い出したばかりに彼がここを離れられなくなったのだ。まずい。
 三途さんが通話を切ったことを確認して、わたしも廊下に出た。

 「お仕事、大丈夫じゃないですよね?お蔭様でずいぶんよくなったので、気にせず外出してください」
 「いえ、奥方が気になさるようなことではないので」
 「でも」
 「大丈夫です」

 笑顔で言い切られて二の句も告げない。どうぞ昼食を、と居間を示されてしまう。かといって、はいそうですか、とも言えず、わたしも食い下がった。どうしてもということなら今日の夕方にでも戻ってきてくれればとか、色々と代替案を並べてみたがすべてOKとは言ってもらえず、彼が仕事に出て行く交換条件として唯一許されたのは、

 「首領に連絡するなら」

 だけだった。しかも昨日わたしが隠したことまで全部言うならOKだそうで。そんなの脅しでしかないし、だいたいそんなことを言おうものなら万次郎くんは三途さんに目を離すなと言うはずだ。より一層出て行けないに決まっている。

 ここまでさんざんああだのこうだのと言い争ってきたために、わたしたちはこの数分で謎にヒートアップしていた。

 「期限明日って言いましたよね!?」
 「オレがここで見てられるならの話です。外すなら連絡するしかない」
 「先生もただの風邪だって言ってたでしょ!?大丈夫です!」
 「こっちの身にもなってください。あんたに万が一があったとき殺されんのオレなんです。あといつまで立ってんですか寝ろっつってますよね」
 「ああもうムリして敬語使わなくていいです!」
 「だからズレてんだよそれ今関係ねぇだろ!…あ」

 勢いで怒鳴ったあと、彼はしまった、と口をおさえ、「…すみません、取り乱しました」と猫をかぶり直した。そんな丸出しの取り繕いを受けることに意味がないことが分からないのだろうか。「だから敬語いやなのでそれでいいです」いい加減彼の頑固ぶりが頭にきていたので、ふんと愛想悪くそう言うと、わりと素は子どもっぽいらしい三途さんも今に舌打ちしそうな顔でイライラと視線を天へ回した。

 「こちらこそアナタに敬語使われる立場じゃないのでやめてください」
 「……」

 その後数秒、沈黙の中でばちばちと視線をぶつけ合ってから、いったいなんでケンカまがいをしているのかと振り返ってばかばかしくなってきた。そもそも、わたしたちが喧嘩するようなことではないのだ。元はといえば彼の上司であり、過保護すぎるわたしの夫でもある誰かさんのせいである。

 「……もう、わかった、やめるから、そっちもやめてよ……ご内儀も居心地悪いからやめて」
 「じゃなんて呼べっつーんだよ」

 こうなってしまうと意外に彼は振り切れるのが早かった。大いに雑になった言葉遣いは、それでもさっきのムリした敬語などよりは引っかからない。

 クールダウンしてくると、ここ2日まるで働いていなかった頭がじわじわと痛くなってきて、溜息をついた。これで解熱が遅れたとしてもぜひ連絡しないでほしい。譲らなかったこの人のせいだし。

 「もーなんでもいいよ、真琴でもおいてめぇそこのとかでも……」
 「ざけんな、マイキーに殺されるっつってんだろ。…頭痛ぇの?」
 「いっぱい喋ったら疲れた…」
 「バカかよ。寝てろ」

 三途さんに背中を押されて居間に戻ると、用意された昼食は見事にぬるくなっていた。「温め直しましょうかァ」と丸出しの不機嫌で聞いてくるので「結構ですありがとう」と突っぱね、お粥を口に運ぶ。温くてもだしがきいていて美味しかった。こんなガラの悪いのがこんなに繊細な味を作ってくるってちょっと頭がバグる。正直にそう言ったら、拳を握り固めた彼に「自分の立場に本当に感謝しろよ…」と押し殺した声で言ってきたからナメすぎたなと思った。

 ちょうど食べ終えてもう一度寝ようとした頃に、携帯が鳴る。

 「げぇ万次郎くんだ……はぁい」

 電話の向こうは声が反響していた。狭い部屋なのだろう。いわく、今日も夜は時間がとれなさそうだったから無理やり会議を中座して電話してきたのだそうだ。まめだなあと思いながらお礼を伝え、こちらはなにもないと報告した。ちょうど皿を片づけに来た三途さんが呆れ顔でわたしを見る。

 「そういえば、三途さんが様子見に来てくれたよ。びっくりした。先に言っといてよ」
 『え?言ってなかったっけ。ごめん、忘れてた。今日誰だっけ?』
 「なんか他の誰だかだったみたいだけど、急に予定入っちゃったらしくて連続で三途さん」
 『そう』

 長くしゃべっているとまたじわじわと頭が痛い。カラ元気全開で数分余りの通話を続け、「ばいばーい」と明るく切ってぐったりと枕に頭を沈めたわたしに、三途くんはばかじゃねぇのと溜息をついた。

 「なんでそんなに言いたくねんだよ。フツー女ってそういうの言いたがらねぇ?」
 「いや、だってこれで万次郎くんが帰ってきたりしたら、わたしが残りの仕事押し付けられた九井さんたちに恨まれるじゃん。普通の人ならわたしだって風邪ひいたって素直に言って甘えるよ」
 「……」

 反社の恨みなんてだれが好き好んで買うかっていう話だ。こっちだって普通のサラリーマンだったら遠慮なくつらいって申告するだろう。普通のサラリーマンやってるような人なら普通、妻の風邪ごときで出張から帰ってくるようなことはしないだろうし。

 「オレらがアンタに敵意なんて向けられるわけねぇだろ。そんなんする前に殺されんだわ」
 「ああ、そう、それ、ウソついたのバレたら万次郎くんに殺されるからそれもあって絶対言えない」
 「いや今の状態がバレたらオレのが殺されんだけど」
 「共犯じゃん。一緒に死のう」
 「ふざけんな一人で死ね。もう電話すっからな」
 「絶対しないでお願い300円あげるから」
 「いるか」

 脅すわりには彼は携帯も手に取らず、甲斐甲斐しい看病を続けてくれた。多少は打ち解けられたことで、今朝がたまでは続いていた、知らない人が家にいるような緊張感はずいぶん薄くなって、居間で彼が普通に仕事している間でさえ普通に眠りこけることができた。起きたら「他人のいる空間でよくそんなグースカ眠れるな。頭お花畑かよ」とかすかさず悪口が飛んできたけど、それもまあ、打ち解けた、ということで。

 夕方5時頃、夜10時頃と続けて体温は36度台に落ち着いていて、頭痛もまったくしなくなっていた。これならわたしから離れてもいいはずだと主張すると、彼はやや渋面ではあったものの、仕事はあるようで、明日朝にまた様子を見に来ることを条件にようやく頷いてくれた。

 玄関先に送り出すとき、彼は「あ」とマヌケな声を出してわたしを振り返り、大真面目な顔で念を押した。

 「言うの忘れてた。いいか、ぜっっってぇボロ出すなよ。オレがここに泊まったなんてことがマイキーにバレたら梵天は崩壊だ」
 「え?なんで?」
 「当ったり前だろぉが!」

 意図を汲めなかったらめちゃくちゃに怒られた。彼のここに泊まって看病するという判断は、わたしの我儘を通すため、また、万次郎くんに出張を継続してもらうことのメリットが大きかったからかろうじて下したものだそうだ。三途くんが泊まらず連絡もせずでわたしに何かあろうものなら万次郎くんがブチ切れてバーサーカーになって梵天は崩壊するが、事後報告で泊まりましたがバレても以下同文である、ということ。大げさなと言いたいけど言い切れない。

 「……っていっても、反社が崩壊するならそれはそれでいいような」
 「中途半端な正義感出すなぶっ飛ばすぞ!テメェも監視カメラつきで監禁されたくなきゃ死んでも隠し通せ」
 「監視カメラ!!?」
 「候補には出てたからな。盗聴器と監視カメラ、全居室にっつって」

 ただそれはさすがに良心が咎めたので、折衷案として玄関先までの監視カメラと、玄関ドアの震度センサーまでで思いとどまってくれたのだそうだ。わあよかった、と手放しでは喜べない。いつだってそっちに転化する可能性はあるということである。

 監視カメラかあ。実家にいた頃よりはるかに一人の時間が長くなった今、一人でいるときの挙動はだいぶ不審になっていると思う。見られるなんて想像するだけでぞっとする。

 「独り言もろバレは勘弁してほしいなぁ…」
 「……ほんとズレてんなオマエ」
 「えっやめてよ。よく知らないけど三途くんに言われたらおしまいな気がするんだけど」
 「口に出さねぇと死ぬ病気かなんかか?マジでマイキーいるからってナメてんな」
 「ほんのちょっとだけナメてる」
 「正直すぎだろぶっ飛ばすぞ」
 「誠実と正直は巡り巡って自分を救うものよ」
 「この角度でよく説教できんな?」

 頭をわっしと上から掴まれてポーズで「痛い痛い」と悲鳴をあげたが、実際はなにも痛くなかった。ちゃんと手加減されているし、こうやって手を出すほど気を許してもらえたのだという証明でしかなかったので、少し嬉しかった。

 「ほんとに分かってんだろうな」としつこく念を押されて、何度もうなずいた。

 「分かってるよ、そりゃあの万次郎くんだし。わたしが三途くんと結託して隠し事して、しかも家に泊めたなんて、…知れ、たら……」

 ふつうに自分がやらかした我儘を反芻して、ようやくまずったことに気が付いた。事態が事態だったことと、彼に冗談でもそう言うことが失礼なほどにあまりにわたしへの下心というものがなさすぎたこととか、シンプルに家が広すぎてその異常性に気付かなかったけど、伴侶不在の家に異性を泊めるのは完全にアウトだ。さーっと血の気が引いていくわたしを、今更気付いたのかと三途くんは呆れている。

 「え?泊め……ヤバ……どうしよ」
 「だから言ってんだろうがもう二度とめんどくせぇこと言い出すなよ」
 「…分かってたのに共犯になってくれたんだね」
 「今回だけだ、何かと状況がそうするしかなかった。言ったら間違いなく帰って来るだろうしな」
 「……本当に万次郎くん想いだね」
 「……」

 答えはない。ただでさえ多忙だろう彼がここに泊まることには、彼にとってデメリットしかなかったはずだ。それらがすべて梵天、というか、万次郎くんの世界を守るためだということは、普段の態度からも想像に難くなかった。

 「香港のとき電話くれたの、独断だったんだって?」
 「あ?……灰谷クソ1号か……」
 「壁ドンされたの本当?」
 「るせぇな」
 「ごめん。聞いて嬉しかったよ。万次郎くんに近づく人間にたぶん本人より厳しい人が呼んでくれたの」

 当時からずっと思っていて言い損ねていたことをようやく言えた。出発ギリギリの搭乗口からの電話は、今もはっきりと思い出せる。お世辞なんて口にするメリットがなければ絶対にしないだろうこの人が、ああもわたしじゃないとダメだと言い切ってくれたことは、実はその後もわたしの小さな心の支えになり続けていた。

 「…面通しの時にオレに言ったの、忘れてねぇよな」
 「うん。咄嗟だったけど、本心だよ。……こんな立場におさまっちゃってるけど、万次郎くんの扱いなんて三途くんには全然敵わないから、そういう意味でもめちゃめちゃ頼りにしてる。今回はほんとにありがとう」

 三途くんはもう振り返らず、わたしの声にひとつだけ頷いて、「朝8時に来る」と言い残して玄関を出ていった。
 
 この後もちろん発熱はせず、万次郎くんが帰国するまで健康体を維持したけれども、三途くんが譲らなかったのでこの後5日間はほぼ彼の監視下、毎食三途くん作であったことを併記しておく。

*過保護が一人増えた。