灰谷と








***






  カーテンを引く音がして、瞼の裏がほの明るくなり、ゆっくりと五感が目覚め始めた。コーヒーの苦くていい香りが、こぽこぽと湯の沸く音に乗って漂ってくる。今日は万次郎くんが先に起きたんだなあ、とぼんやり思いながら、心地いい眠気にふたたび身体を預けて微睡んだ。

 「真琴」

 温かい手が髪を撫でて、甘く優しく名前を呼ぶ声が耳に吹き込まれる。目は閉じたまま、幸福感に勝手に口角が上がってしまう。その唇に一瞬だけ、柔らかい感触が乗っかった。

 「おはよ」
 「…おはよう」

 いやになるほどきれいでかわいい顔に覗き込まれて、朝からぎゅうと心臓がつかまれた。これだけ同じ時間を過ごして、何度もダメで面倒な顔も見てきたんだからいい加減慣れたっていいと思うのに、初恋の魔力はまだ消えない。

 「今日オマエが好きなやつ。なんだっけ?犬みたいな名前のさ」
 「ベーグル?」
 「それ」
 「うれしー…けど万次郎くん嫌いなのに」
 「最近ちょっと分かってきた。てか別に嫌いじゃねえよ」
 「そうなの?」

 口の中の水分が全部とられるとかもさもさするとか顎が疲れるとか、食べるたびにさんざん文句をつけているくせによく言う。もの言わずに面倒くさそうに咀嚼しているときの顔を思い出して笑ったら、「なーに笑ってんの」と拗ねた顔にくすぐられて、弱い悲鳴をあげながら身をよじって逃げた。くすぐってくる手を止めたくて手首を握ってとめようとしても、力が強くて負けてしまってぜんぜん逃げられない。ひいひい言いながらベッドを転げて、「もうむり」と繰り返し訴えてやっと止めてくれた。

 「目ぇ覚めただろ?」
 「覚めたけどつかれた」
 「こんなので?しょーがねぇやつ」

 もはや介護のように上半身を抱き起こしてもらい、なんの自力も使わずにベッドに座る姿勢になった。彼が起こしてくれるときはいつもそう。身体を動かすのが億劫でどうしようもない寝起きには本当にありがたい。

 こんなかんじで、それはもう穏やかに日々を過ごしていた。

 おおむね毎日、万次郎くんは三途くんの迎えを受けて朝出ていって、夜7時8時頃に帰ってくる。わたしはその間は、洗濯をしたり掃除をしたり、洗濯物を干すついでに屋上でお茶を楽しんだり、手のこみまくった料理を作ったり、何十話もあるドラマに没頭したり、およそ人間が仕事もなにもなくなってヒマになったらやりたいと思うようなことを毎日毎日やっていた。自分でも驚くほど寂しいとも思わず、退屈もしない。もともと適性があったのかもしれないし、やはりなによりも、好きな人が毎日帰ってきてくれることは大きいと思う。趣味もやる気が起きずに鬱屈とした気持ちになったとしても、やっぱり帰ってくる2時間ほど前には立ち上がって、何が食べたいかなとか、お風呂場も部屋も暖めておこうとか、そういう気持ちになるから。

 当然、社会で生きていたときよりはるかにトラブルは少ない。感情の起伏は、ほぼ映画とかドラマとか、あるいはニュースなんかの他人事に委ねられているといってよかった。自分のことではせいぜい家事での小さなトラブル、SNSを見て刺激される物欲、あとはひたすら万次郎くんに可愛がられたりからかわれたりして気持ちがあまやかに波立つ程度。つまりマイナス方面はほぼなし、要はあまりに幸せでゆるっゆるの日常にあって、わたしの脳は極端に鈍っていたと言っていい。

 事前に知らされた幹部の来訪以外には絶対に鳴るはずのないインターホンと、扉を乱雑に叩く音。以前のわたしなら鳥肌が立っただろうし、鍵のかかる部屋に隠れて警察に電話しただろうに、その音に最初に疑ったのは映画のつけっぱなしだった。今にして思えば、あまりの脳の溶け度合いだ。CTとか撮ったらスカスカだったかもしれない。手にあった最後の一枚を干してしまってから、屋上から普通にそんな音が続いている居室フロアへと降りていってしまった。そして、廊下に出てしまったとたんに鳴り響いた銃声一発で、ようやく危機感を取り戻したのである。

 「〇×▼※!!!×■!!!」

 まったく聞き取れない(おそらく中国語?)理性の飛んだ怒鳴り声に、足も動かず声も出ずでわたしは情けなく硬直した。さっきの銃声は玄関の鍵まわりに向けて撃ったようだが、分厚い扉を突き破るには至らず、わずかにだけ鍵穴近くを歪ませている。銃火器では開けられないと諦めたのかずっと扉を蹴っていて、頑丈そうだったはずのヒンジが飛びそうなほどガタガタと揺れていた。

 殺されるかもしれない恐怖をまえに完全にストップした頭のなかで、どうにか万次郎くんに頼ることを思いつく。震える手でポケットのスマホを触ったのと、それが震え出したのはほぼ同時だった。心臓が口から出るかと思った。

 「…あ、」

 発信元は万次郎くんで、震えるあまり一度取り落としたスマホの通話ボタンをなんとか押して耳へ運ぶ。『真琴!?』焦った声はおそらくちゃんとこっちの窮地を知ってくれていた。

 「もしもし」
 『よかった、出た…ごめんな、一人で怖かったろ。歩ける?』
 「え、…と、ちょっとまって」

 足にはなんの力も入らない。音はどんどん大きくなり、再び銃声が2発響いて気ばかりが焦る。一度携帯をポケットに戻し、手すりに縋ってどうにか立ち上がって、つんのめるようにして廊下からひとまず居間へと戻った。

 「歩ける」
 『よし。そしたら、屋上上がって。階段の扉の鍵は閉められるから』

 屋上から逃げるというのがあまりぴんとこなくて聞き返そうとしたとき、再度銃声が響いて身体が縮み上がり、声にならない悲鳴が出た。『落ち着け、大丈夫だから。そう簡単に破れねぇように作らせてる』心強い事実だけを伝えてくれる声に、うん、うんと自分に言い聞かせるように繰り返して、こわばって動きにくい身体をさっき降りたばかりの階段へ運ぶ。震えて何度か失敗しながらドアを閉めたとき、おそらく玄関が破られたような轟音が響いて、余計に血の気が引いて急いで鍵を閉め、必死で階段を駆け上がった。

 『上がりきったら電気のスイッチの下のとこ、赤いボタンあるだろ。それ押して』

 答えることも忘れて、なんだろうと思い続けていた赤い押し込み型のボタンを押すと、ここまで上がってきた階段に数枚の分厚い防火扉がおりた。たしかに時間稼ぎにはなりそうだ。

 『外出てそこも鍵閉めて。広い面のとこにヘリ着けるからそっちには行かないで。あと少しで着くから』
 「ヘ、…ヘリ?」
 『そう。物置いてるならどけて』
 「置いては…ないけど…」

 梵天っていったい、と唖然としてしまう。極力物を置くなと言われていた広いスペースが、緊急時のヘリポート扱いだったとはまったく思わなかった。それから時間にして5分、下に響く銃火器音に怯えて恐ろしく長く感じるその時間を、彼は電話を切らずにずっと話してくれていた。招かれざる客が誰なのかは5、6候補があって、急ぎ調査させてはいるがまだ絞れていないのだそうだ。それもそのはずで、先方はご丁寧に1階のエントランスからエレベーター、各フロアの監視カメラ等のセキュリティさえもハックして侵入したから、彼に異常を知らせるアラートが鳴ったのは、うちの玄関ドアに取り付けられていた震度計が相手の発砲で異常感知したその時、つまりほんの数分前のことだったのだ。それからすべてを放り投げてヘリを出させたというのだから、その行動の速さには恐れ入る。ドクターヘリ並みだ。

 バラバラとプロペラの音が響く。近づいてくるに従い、音量はどんどん増していった。敷地内に入ってしまうとあまりの音と風で目を開けていられなくなり、そろそろ着地したかと目を開けたぐらいのタイミングで、よく知った体温にいきおいよく抱き包まれる。

 「よかった」
 「万次郎くん」
 「きて」

 これほど近いのに声は断片的にしか聞こえない。最低限のせりふで、彼はわたしの手を引いてまたヘリへと走り出し、わたしを先に機体へと乗せて押し込み、ドアを閉じるなり「出せ!」と怒鳴った。命令に従い、ヘリはすぐに上空へと浮き上がる。

 外にいてもひどかったが、中もまたうるさかった。声なんてとても聞こえない。万次郎くん手ずからシートベルトとヘッドホンをつけてくれて、マイクの設定もしてくれて、スピーカー越しに声が聞こえようになる。

 「無事でよかった。ごめんな」
 「ううん…ありがとう。早かった」

 心からそう思って言ったのだが、万次郎くんは一瞬驚いて、罪悪感のかたまりのような顔で、お互いのシートベルトに阻まれながらわたしの頭を抱き寄せた。今になって気付いたけど、手がとても冷たい。よっぽど心配してくれたのだろう。

 ヘッドホンをつけているとはいえ、たくさん話すには喉が疲れる。一度安心して力の抜けたわたしたちは、それからヘリを降りるまでは口を聞かず、ただ手を繋いで身を寄せ合っていた。こわかった。震える息をつくたび、もう大丈夫だというように繋いだ手の親指が手の甲を撫でてくれた。

 飛ぶこと数分、またどこかの高層ビルに着地して、エンジン音は静かになった。ヘッドホンとシートベルトを外し、彼の手に従ってヘリから降りると、例によって三途くんと鶴蝶さんが神妙な面持ちで待っていた。

 「ご無事で何よりです」
 「相手は?」
 「マイキーが正解だったよ。来た連中は望月の部下が始末したが、思ったよりめんどくせぇことになった。詳しいことは後で話す。なんにしてもしばらくはあの家はブラフにするしかねぇ」
 「わかってる…っと、大丈夫?」

 小さな段差に蹴り躓いて少し揺らいだだけなのに、万次郎くんにすぐに抱き止められる。反射神経が良すぎるなと思いながら、頷いて離れようとして、がく、と足の力が抜けてしまった。驚きながらも手を離さなかった彼のおかげで、地面に膝をつかずには済んだけど、自力では立っていられない。原因ははっきりしていた。さっきの恐怖があとからきたのだ。

 「ごめんなさい…」
 「なんで謝んだよ、バカ」

 嫌だったけど本当に歩けないのでどうにもならず、そのままお姫様抱っこで屋内に運ばれてしまった。そうして安心できる環境にあると身体が理解したとたんに、なぜかあちこちで狂い始め、内臓が重たく捩れるような感覚と吐き気がして、血の気が引いて冷や汗まで出始めた。この数か月、甘やかされすぎたのかも。出社なんてしたらショック死しかねないほど弱体化している。

 「マイキー、一度止まれ」
 「?なに」
 「ご内儀が」

 後ろを歩いていた鶴蝶さんがぎょっとして万次郎くんを止めるほど顔色が悪かったらしい。万次郎くんに顔を覗き込まれる。彼は愕然としたあと、明らかに殺気立った。

 「…鶴蝶、始末したって言った?」
 「……何人かは生け捕りだ。こっちに連れ帰らせる」

 物騒な会話は声を抑えていたものの、言った本人に抱えられているから丸聞こえだった。三途くんは斜め上に視線を投げ、不敵な笑みで“ゴシューショーサマ”と呟いている。うちに侵入した人間たちのことだろう。

 「真琴、大丈夫?気持ち悪い?」

 一転して優しい声がわたしにそう聞く。「だいじょうぶ」と答えた声が我ながらまるで大丈夫ではなく、面倒臭い女だなと思った。

 「あとちょっとで寝られるとこ行けるから。頑張れ」

 申し訳なくも彼の肩に頭も完全に凭れて、意識が半濁したまま階下へ連れられる。万次郎くんの匂いと体温に安心しきって、気持ち悪さも少し薄れてうとうとし始めたころに、エレベーターが目的階についた。扉が開くなり、なんとなく大勢の気配を感じて目を薄く開いて周りを見ると、またあの結婚会見もどきと同じように、黒服の男たちが一斉に頭を下げて道をあけていた。さすがに降りようと首に縋っていた腕をほどいて降りますアピールをしたが、完全に無視された。

 「えっ、おりる」
 「なんで」

 まるで答える気がない返事をよこして、また彼は海を割っていく。幸い全員お辞儀しているおかげでじろじろ見られずには済んでいるが、気持ちは落ち着かない。意味がないとは思いながらじっと身を縮めて、彼の足が廊下を抜けきってしまうのを待ち、奥の部屋に入ってようやく息をついた。

 といっても、室内もそんなに気を抜けるような空間ではなかった。目も頭も頭が痛くなりそうなほど壁中に貼られたモニターの青白い光と、紫煙の香りが部屋を満たしている。中央に置かれた会議用らしい大きなデスクには知らない6人がそれぞれノートPCを叩いていて、他にも複数名が壁際のモニタとデスクトップPCをせわしくばたばたと行き来していた。

 「よう。ご無事で何より」

 煙のなかから現れたのは蘭さんだった。部屋の奥には竜胆さんもいて、部下に何事か指示しているようだったが、到着した首領一行を見て中断して歩み寄ってくるのが見えた。

 「状況は?」
 「8割5分って感じ。あと15分もあれば向こうのメインに侵入できるぜ」

 抽象的な質問に答えたのは竜胆さんのほうだった。タブレット端末でどこかの、見慣れない漢字の地名が多い地図を表示して、このあたり、と見せる。幹部陣の目が冷ややかにその画面に注がれているさまは、これまで目をそらしてきた彼らの“仕事”の顔で、いろいろな意味で居心地の悪い気持ちになった。

 「愚問だろーけど一応聞いとくな。どこまで?」
 「つぶせ」
 「りょうかーい」

 蘭さんは愉快そうに薄く笑い、中央デスクでひときわ忙しそうにキーを叩いている男たち2人の背後に立って一緒に画面をのぞき込み、一人のマウスを奪ってなにかを指示していた。圧倒的陽で生きていそうな蘭さんは、とてもITのほうに明るそうには見えないが、そうでもないのかもしれない。

 それにしてもこの暗闇のブルーライトは、誰もきついと思わないのだろうか。目の寿命が10年ぐらい縮まりそうだ。目を開けているだけでもきつくなってきて、さりげなく彼らの目につきにくそうな角度へ首を傾け、目を閉じかけると、竜胆さんに見つかって顔を覗き込まれてしまった。

 「つーかご内儀は大丈夫?すげぇ顔白いけど」
 「寝かす。仮眠室空けて」
 「誰も使ってねぇよ。どーぞ」

 竜胆さんがひらりと手を向けた方向は、この部屋のさらに奥だった。万次郎くんはわたしを抱いたままそっちへと進んで、暗闇でほぼ壁と同化しているドアを迷いなく探り当てて開く。そっちの空間は真っ暗で、うっすらと隣から届くブルーライトで、シングルベッドと衝立があるのが見えた。

 彼は病室のベッドみたいに清潔で簡素なそこにわたしをおろしてくれた。薄い布団を胸あたりまでかけて、手を握って枕元に顔を寄せる。

 「こんなところでごめんな。部屋の準備させてるから、できるまではこっちで休んで」
 「…、万次郎くんは」

 この逼迫した状況で彼が出て行かないわけにいかないだろうことは想像に易かったけれど、あともう数分だけでも傍にいてもらいたくて、彼の手を握り返してしまう。目をぱちぱちと瞬かせたのを見て、甘えすぎたかなと恥ずかしくなって「なんでもない」と引きかけると、彼は眉を下げてくしゃりと笑った。

 「ここにいるよ。どこにも行かない」
 「……お仕事」
 「オレがああいうのできると思う?方針決まったらあとはほっぽってても勝手にやるから、あいつら。大丈夫」

 さっき万次郎くんが発したそれらしい方針といったら、『つぶせ』のたった3文字だ。そんな抽象的な文言でいいわけがない。気を遣わせてしまった。でも、きっとここで行ってと突っぱねても、わたしの怯えを察している優しいこのひとは今更そっちには行かないだろう。あの暗い部屋で作業している彼らに申し訳なく思いながら甘えて目を閉じると、柔らかい手が頭を撫でてくれる。

 「家ね、しばらく帰れねえ。ごめんな。取ってきてほしいもんとかある?」
 「…アルマーニのやつ…」
 「はは、ほんとアレ好きな。買っとく」
 「ちがうよ、あれがいいの…初めて貰ったものだし」
 「…バカだねオマエ」

 彼には本当にいろいろと、たくさんのものを貰っている。今着ている服だって下着も含めてすべてそうだし、左手薬指の不相応としか思えないきらきらの指輪も、あの家も、人間の細胞が3か月ぐらいで総取っ替えになるみたいな話が本当なら栄養分だって彼のお金から来ているわけだから身体ごと彼のものだ。でも、プレゼントされたものでいえばあのゆるい部屋着が初めてで、思いがけずいちばん嬉しくて、思い出深かったのもあの服だった。そう簡単に爆破されてはたまらない。

 「落ち着いたら遊びに出よ。このビル、下のフロア2階までショッピングモールになってるから」
 「梵天の管轄なの」
 「そう。灰谷のフロント」

 上空からの景色ではいまいちわからないが、東京タワーの大きさから山手線の輪っかの中心あたりであることだけは確かだ。とんでもないところにとんでもないビルを持っているのが似合うなあとふたりの顔を思い浮かべて思った。





 同ビルにはホテルも併設されていて、わたしたち2人にあてがわれたのはそこの、2人では明らかに持て余す大きな部屋だった。無駄に8席ある大テーブルについて、会議でもするのかと聞いたら、この部屋に他人入れるわけねえだろ、だそうで。では何用なのかって話。

 ホテルという以上はお昼時に清掃が入るので、部屋はあけていないといけない。その時間は、下のショッピングモールに行くか、ホテルの喫茶店で時間をつぶす。余暇をつぶせる道具も掃除洗濯食事の準備といった家事さえ一切ないため、これは恐ろしく暇だった。最初2日ぐらいは読書を楽しめたが、目も肩も疲れて興味も持続しなくなり、積読ができただけに終わった。とはいえ、暇すぎる誰か相手して、と言えるほどわたしが置かれている事態は実際のんきなものではないようで、わたし以外目に留まる梵天構成員はひたすら忙しそうだ。蚊帳の外すぎて拗ねたいが、わたしは彼らの忙しいお仕事によって守られているわけで…。文句も言えない。

 そこで困って手を出したのが、昔懐かしのかぎ編みだった。

 手芸の一切が趣味にないわたしにとって、それはもう暇つぶしの極みで、家庭科の授業以来触ったことがなかったけれど、意外にこれが始めると面白くて熱中した。なにせ時間だけは捨てるほどある。試しに買った一玉はあっという間に消費してしまい、というか一玉では鍋敷きにも足りないぐらいの面積にしかならず、昼前にはまた材料を買い込んで、ホテル利用者のみに開かれたラウンジの一角を陣取った。目と肩が疲れるのは本と一緒だったけれど、わたしは何かを頭に入れるよりも、何も考えずに物を作るほうが性に合っていたようだ。

 それからどれくらい経ったか。

 あまりに没頭しすぎていて、ラウンジに入ってきた人の気配にも、イヤホンを引き抜かれるまで気付かなかった。

 「っひゃ、…あれ」

 片方外れて落ちたのかと思ったのに、コードは下に垂れ下がっていなかった。コードをたどって上を見上げると、「よ」と蘭さんが真上で笑っている。久しぶりの顔によりもそこまで気付かなかった自分の逃避力に驚いた。

 「お久しぶりです…すみません、声かけていただいてました?」
 「けっこー前からなー。すげぇ集中してたね」
 「失礼しました」

 嵌ったままだったもう片方のイヤホンも外すと、わたしが片づけるより先に蘭さんの長い指がジャックからイヤホンを抜き取って、くるくるときれいにまとめてしまった。手元を見ない鮮やかさになんとなく、器用そうだもんな、と納得する。竜胆さんとのやり取りや飲み散らかし方を見ているとかなりおおざっぱな印象を受けるし、実際本人の性格はそうなんだろうけど、適当にやってもなんとなく綺麗にまとめられるタイプのひとなんだろう。髪のセットとか上手そう。

 「なにかご用でした?」
 「いやー?久々に会えそーだったからのぞいただけ。元気になった?」
 「え?」
 「逃げ込んできたとき、だいぶ具合悪そうだったし」

 隣に座られ、気遣わしげにそう言われて驚く。彼にとってはよそ事だろうと思ったのに。彫刻のお人形みたいな顔の作りの良さに加えて、期待していない気遣いのギャップはさぞ多数の女を突き落としてきていそうだ。「ご心配おかけしまして」と答えながら、色々な意味で万次郎くんがいてよかったとまた変なところで感謝してしまった。

 「てかそれ何?編み物?」
 「はい」
 「へーすげー初めて見たー。それもしかして首領に?」
 「まさか、自分用ですよ。あんなブランドだらけの人に手編みのマフラーなんて面白すぎるでしょ」
 「そー?欲しがりそうじゃん」
 「まぁ本人はそうかもですけどね。少なくとも三途くんには文句言われるでしょうね、みっともねぇもんつけさすなって」

 着るものにしても食事にしても近づく人間にしても、あれほど目ざとく管理している彼のことだ。こんな初心者丸出しの作品を彼がつけようものなら、本人に文句を言えずにわたしにガミガミ怒りそうだ。バランみたいな睫毛の目が三角になるさまを思い浮かべて笑ってしまう。感覚はうるさい姑だ。万次郎くん馬鹿ぶりは見ているのだし、賛同してもらえるだろうと思っていたら、蘭さんにはさらりと否定されてしまった。

 「あれがぁ?ご内儀相手にんな恐ろしいこと言わねぇだろ」
 「いや絶対言いますよ、万次郎くんの前じゃ口が裂けても言わないでしょうけど」
 「えっ!?」
 「え?」

 なにかがよほど意外だったようで、蘭さんは背筋を伸ばして大げさに驚いてから、ゴシップを掴んだおばちゃんみたいにいたずらに目を輝かせた。骨ばったきれいな手が無遠慮にわたしの手首あたりを掴む。パーソナルスペースが狭い。

 「なになになんで?いつの間に仲良くなったワケ?」
 「いや、仲良く…ってわけでもないですよ。申し訳程度に残ってた敬意みたいなのが飛んでっちゃっただけで」
 「えっあいつオマエに敬語じゃねぇの?」
 「はい、間に誰もいなければ。ボケとかカスとか言うし」
 「マジでぇ!!?あっはっはやべえ!!三途までしつけたんかよ、さすが猛獣使い!」

 やべー竜胆に言おー、とにやにや笑いながら携帯を出して、あっという間にメッセージを打ってしまう。何度も言うがしつけてなどいないし、竜胆さんはそんなことを面白がるのか疑問だ。無視されそうだなと思ったが、彼らのツボは似通っているようで、すぐに返信が返ってきた画面を見せられた。『速報』『ヤク中もヨメちゃんのイヌ』というとんでもない文面に対して、『は』『なにそれ』『マ?』とメッセージが連投されていく。その携帯を奪って、『誤解です』と送ったら、『え?ご内儀?』『すげえ電話したいけどいまむりあとでかける』とどんどんメッセージがひらがなになり、返ってこなくなった。すごい誤解を受けたし解けなかった…。元凶のお兄さんを白い目で見つめたら、なにが面白いんだかぐすぐす笑い続けている。

 「てか色カワイーね」
 「…ありがとうございます。蘭さんが言ってくれるなら間違いないですね」

 絶対に毛糸が可愛いと思って言ったんじゃなく、適当な話題探しだ。わたしも雑に社交辞令で返すと、またそれもなにかがツボにはまったようで笑いながら長い足を組む。ツボが浅すぎて日常生活に支障をきたしていそうだ。なんにしても腹立つ。

 まともに相手をしても疲れるだけだと思い、いったんは置いた編みかけをまた手に取った。ちまちまとかぎ先で糸をすくっていると、やはりものめずらしいようで蘭さんが「へーえ」と感嘆の声をあげた。

 「そんな棒一本で編めるもんなんだ」
 「やってみます?」
 「え。…オレが?いーの?」
 「ご興味あれば」 

 食いつくか自信がなくてそう言ったのだけれど、蘭さんは意外にも好奇心旺盛で、すっとわたしに身を寄せた。指が本当に長い。なにも言わなくてもわたしの手の形を器用に真似した手に、かぎ針と毛糸を納めて、蘭さんの手に軽く手を添えて針を2、3回動かした。たったそれだけでも全貌は見えたようで、蘭さんは感心したようにフリーで正解の動きをしてみせた。

 「はー、なるほど。こう?合ってる?」
 「完璧です。さすが器用ですね」
 「マジ?ありがとー」

 少し体験したらすぐに返すだろうというわたしの予想を裏切り、蘭さんはしばらく遊んでくれた。意外に人の趣味や価値観を尊重してくれるタイプらしい。無意識に他人という他人を軽んじていそうなイメージを持っていたことに気付いて、少し申し訳なく思った。

 「てか敬語じゃなくていーよ。ホントならオレが敬語使う立場だし」
 「いやそれは……蘭さんのが年上ですし」
 「かたっくるしいの嫌いなの。名前もさん付けヤダ」
 「…じゃあ…蘭くん?」
 「ちゃんの方がいー」
 「あ、あざとい」
 「でも憎めねぇだろ?」
 「……」

 そのときの顔、声、ポーズときたら、そこらへんのアイドルでは踏みつけにされそうに魅力的で、思わず絶句した。挑発的な物言いがサマになってしまう甘いマスクに震えあがる。こんな人タラシには会ったことがない。本物だ。本物のカリスマ、これがもしホストだったとしたらこの男のせいで何人もの女が借金地獄で死んでいるだろう。そこまで妄想して、この人に出会う前に揺るがない大本命に出会えて妻におさまることができた幸運に心から感謝した。ありがとう、万次郎くん。帰ってきたら抱きしめたい。

 そんなわたしの行き過ぎた妄想など知る由もなく、あざとい蘭さんはふんふんと鼻歌を歌いながら編み上げていく。彼の編んだ列が、きちんとマフラーの一部として長さを増せたのを見て、彼は無邪気に目を輝かせた。

 「すげー、布じゃん!楽しい!ハマる!」
 「それはよかった。本当に初めてだったんだね」

 やや力が入りすぎてか、わたしが編んだところよりも少し詰まった印象のあるその部分を縦やら横やらに引っ張って、糸の間隔をゆるめる。そのわたしの指先を見つめながら、蘭さんがぼんやりと聞いてきた。

 「…フツーに生きてたらやるもん?」

 ふつう。

 その言い方が、彼に自分が普通でないことの自覚があり、さらにそれに多少の引け目があるように聞こえて、また驚いた。こんな自信家が、わたしのこの読みが外れていなくて実は繊細だったとしたら、その振る舞いはどれほど精神に負担を強いるのだろう。想像だけでも危うすぎるバランスは、どことなく万次郎くんに重なるものがある。

 「んー、どうかな。わたしは家庭科でやったけど、やらなかった?」
 「かていか………家庭科!あー、あったなそんな科目…出たことねえからしらね。やってたのかもな」
 「え、そうなの?意外」
 「へ?」

 髪の色こそ奇抜だが、彼も竜胆さんも、むやみやたらに学校をフケたりコンビニにたむろしたり、いわゆる一般的な“不良”のお作法をたどってはいなさそうに見える。もちろん皆勤の優等生になんて見えてはいないけど、なんとなく要領よくこなして、学校生活もそれなりに楽しんできたタイプなんじゃないか。と思ってそう言ったのだが、まるで見当違いだったらしい。蘭さんは全然ちげーよと笑うでもなく、ただ信じられなさそうに目をぱちぱちさせていた。

 「そんなん初めて言われた。実際出てねーし」
 「あれ?見る目なかった?」
 「うん、全然ねえわ」
 「えー…ふたりとも隠し切れないお育ちの良さみたいなのあると思ったけどなぁ。あ、そこ逆」
 「マジ?……どれ、どっから?」
 「んーと…ちょっと見せて……あ、この列の最初」
 「あ」

 ちょっと指で示しただけで、彼は自分のミスに気付いて、あっという間に糸をほどいてミスしたひとつ前の目まで戻して、さっきまでと同じようにかぎ針をひっかけた。やはり物覚えがいいし、器用だなと感心する。やっぱりそれなりに訓練を受けて慣れた思考と実行のプロセスのように思える。本当にまともに通っていなかったのかな。それとも、親御さんがよほど厳しかったのか、もともとの才能なのか。

 顔を盗み見ていたのがバレて、顔の向きはそのままに、紫の瞳だけがゆっくりと針先からわたしに流れた。目が合ったことで距離が近すぎたと気付いて、前傾した背を起こそうとしたら、引き止めるように前腕を握られる。その触り方と視線の試すような熱のこもり方に、これはだめなやつだと直感した。気付かないふりをしてはいけない。避けたら避けたで自意識過剰と言われるかもしれないが、わたしはそれぐらいでなければいけないのだ。

 「すみません、コーヒーください」
 「……」
 「…なに」
 「…ちゃんとしてんなぁと思ってー?マイキーが羨ましいよ」

 試しただけのくせによく言う。性格が悪いというよりは、疑り深すぎる。そのあたりもやはり万次郎くんに似ていて、意外にあの幹部たちは似たような人間の集まりなのかもと思った。三途くんにだって似たようなふしがあるし。

 空気を変えるだしに使ってしまったコーヒーを彼に押し付けて、自分は残ったままで冷えてしまった同じものを口に含む。自分の中の微妙な気まずさをごまかすにはちょうどいい不味さに遠慮なく顔を顰めた。「そういや真琴さ」何事か蘭ちゃんが切り出した、そのときだった。

 「誰の許可取ってオレのヨメの名前気軽に呼んでんだ」
 「「……」」

 とつぜん聞こえた地を這うような声に、わたしと蘭ちゃんはたぶんまったく同じ表情で凍った。思い起こしたのは、ついさっき一瞬だけわたしと彼の間に漂ってしまった男女の空気。きれいさっぱり流したとはいえ、たった数秒前のことだ。本当に危なかった、あれをわたしが流せていなかったら、穏やかな昼下がりのホテルラウンジが急に地獄になってしまっていたところだ。引いた血の気が戻ってこない。おっかなびっくり振り返ったら、やっぱり万次郎くんが気軽に出さないで欲しい銀色を突き付けて、真っ黒なオーラを背負って立っていた。

 今に逃げられるようにじりじりスペースを空けながらも、蘭ちゃんは引きつった笑顔でひらりと手をあげる。

 「お、お疲れー首領…」
 「……誰の」
 「待って待って違う、わたしがご内儀なんて堅苦しいからやめてって言ったの」

 なおも畳みかける低く掠れた威圧を、あわてて背中から抱き止める。人の手前くっつけないだなんて言っていられなかった。蘭ちゃんなんてあの料亭に引き続いて二度目だ、あのときに二度目はないと言ったのだから本当に万次郎くんに二度目はない。後ろから見えたシリンダーのすべての穴に実弾が込められているのが見え、一瞬気が遠くなる。諦めちゃダメだ、一生わたしのトラウマになってしまう。渾身の力で抱き着いて彼の二の腕を撫でさすり、首筋にキスまでしてようやく立ち上る殺気が少しずつ萎えてきて、最後にただシンプルに沈んだ声がちくりとわたしを責めた。

 「……浮気」
 「違います。万次郎くんだけです」

 そこまではっきり告げてやっと、ゆっくりと銃がポケットへしまわれた。ほっと溜息をついていたら、万次郎くんが見ていないのをいいことに蘭ちゃんが口パクで『さすが』と言ってきた。たしかに、これでは彼がさんざん言ってくる“猛獣使い”の名に恥じなさすぎる働きだ。それはそれでなんだか癪に障る。

 「ていうかご内儀ダメで真琴もダメじゃなんて呼べばいーの?ママとか?」
 「なんでよ…」
 「だって母ちゃんぽいじゃん。よくね?ママ。どう?マイキー」
 「……名前よりはマシかな」
 「ウソでしょ!?」

 まさかの暴君からOKが出てしまったら、わたしがどれだけ嫌だと言ったってその呼称は決定だ。彼が呼ぶなら竜胆くんだってそう呼ぶだろうし、なんだか下手したら彼らの部下にまで汚染が広がりそうな気がする。

 「産めないよこんな人タラシ…」
 「そこ?」

 決定時点で蘭ちゃんはそれを竜胆くんにラインしたようで、数分後にかかってきた彼の電話の開口一番は『ママすげーな!』だった。情報もなじむのも速過ぎる。





 そんなことがあった翌々日ぐらい。

 またラウンジで悠々とひとり編み物に興じていたら、およそ穏やかなこの空間に無粋すぎるヤクザが登場した。

 「おいボケコラァ」
 「…?…」

 三途くんのその“ボケ”がわたしを指しているのは分かっていたが、ふつうにムカついたのであたりを見渡して、はて誰だそのボケは、というふうに振舞ったら、こめかみに曲げた指の関節が勢いよくねじ込まれた。

 「いたいいたいいたい」
 「後ろ向くなテメェしかいねぇだろこのラウンジ!!」
 「心当たりないもん。なんで?わたし何かした?」
 「とぼけんな。クソ1号ありゃなんだテメェのせいだろ」
 「?…蘭ちゃん?」

 灰谷さえ抜けていたが、彼が1号2号呼ばわりするとしたらあの兄弟ぐらいしか思いつかない。一応それは当たっていたようで、苦々しい顔が2回ほど頷いてくる。それはそれとして、蘭ちゃん関係でわたしが怒られる意味がわからず、「蘭ちゃんが何」と聞いたら、さらに顔を苦くして三途くんが「コレだよコレ」と手をぐにゃぐにゃして何かのジェスチャーをした。こ、これとか言われても。

 「…え?な、何?怖い。何か呪ってる?」
 「ちっげぇよ!!!編み物!!言わせんな言うだけでも全身にトリハダ立つんだっつーの!!」
 「はあ?…え?まだ続いてるの?…っふ、あはははは!」

 聞き返しながらなんだか面白くなってきてしまって笑ってしまった。だいたい、ファンシーな見た目で中身大粗暴の三途くんが編み物とは、口走るだけでも相当面白い。性格には似合わないけど顔には似合う。しかも本人は本気で怒っているのがまたかわいい。彼が蘭ちゃんに編み物を教えたのがわたしだと踏んでブチ切れているのはもう分かっていたが、あまりにこの事態が面白くて笑いすぎて取り合ってあげられず、余計火の勢いが増してしまった。

 「やっぱテメェかよ!笑ってんな今すぐ直せ、全員気味悪がって仕事にならねぇしマジキメェし無理ああああ思い出すだけで震える」
 「ひー…つらい、おなかいたい……反社が一生懸命仕事しないっていいことじゃん、世直し世直し。机で一生懸命編み物してるぐらいでちょうどいいって」
 「ざけんなオレの仕事が3倍になってんだよ。テメェがやるか?あ?」

 高速の舌打ちと近距離ガン飛ばしを食らうも、わたしは知らないうちに相当大物になってしまったらしい。なにも怖いと思えず、むしろ意地悪心が頭をもたげ、机に置いたままだった携帯に手を伸ばす。渡されたときに改造されたスマホのエマージェンシーコール先は、万次郎くんの携帯だ。

 「…ってっめ」
 「万次郎くーーーん三途くんがーーーあ」
 「ふざけんな旦那巻き込むな静かにしろ!」

 携帯を取り上げようと躍起になる三途くんから、ひらひらとあちこちに腕を伸ばしてスマホを逃がす。本気で電話する気なんてなかったけれど、あまりに彼がマジなので手を緩めてあげたら、一瞬でスマホは奪われて彼のポケットに隠された。青い顔で息切れしているのがなんだかかわいそうになってくる。普段どんな扱いを受けてるんだか。

 「頭たたいたら元に戻るかもしれないよ?試した?」
 「昭和のテレビじゃねーんだよ…まあやってみる」

 やってみるんだ。さっき涙目になるぐらい笑ったのにまたぶり返してきて、ぐすぐす忍び笑っていたら、件の昭和のテレビ扱いされた男とその弟がラウンジの入口に現れたのが見えた。今日は千客万来だ。

 「あ、いたいた。ママー♡」
 「よ」
 「よ。どうしたの、揃って」

 パーソナルスペース激狭の人誑しは、いそいそとわたしに近づいて柔らかくハグしてくる。欧米か。見た目も欧米っぽいけど。欧米の弟もちゃんと欧米で、蘭ちゃんが離れると竜胆くんも倣ってわたしに紳士的なハグをよこして、頬同士をくっつけてくる。わたしが洋画でしか見たことないチークキスの初めての相手は日本人になった。だから欧米かって。

 その一連の流れに、まあ引くだろうと思っていたら三途くんは仰け反るほどドン引きしていて、中でも一番引いていたのは、

 「……ま、マ……ママ?ハ?」
 
 まあ、呼称だった。そりゃそうだ。

 「だってマイキーが真琴って呼んだらコロスって言うんだもーん」
 「キッショオマエも呼ばせてんなよ!!だいたいそっちのが殺されんだろが!!」
 「真琴よりはマシなんだって。わかんないよねポイントが」
 「マイキー知ってんのかよ……」

 わたしもそう思う。この反応なら、彼らがどれだけ吹聴したとしても、三途くんだけは最後までママって呼んでくることはなさそうだ。他の幹部陣は、このふたりが『マイキーの命令』とでも言えばふつうに呼んできそうだけど。やめてほしいが、やめてほしいなんて言ったら翌日には広まっているに決まっている。

 「つーか春ちゃんはなんて呼んでんの?」
 「春ちゃんって呼ぶなコロスぞ」
 「そういえば呼ばれたことないね。おいとかオマエとかボケとか?」
 「マジ?その方がマイキーキレんじゃね?」
 「つーかご内儀相手に敬語どうしちゃったんだよ春ちゃん」
 「コ!イ!ツ!が!やめろっつーから!!!」
 「万次郎くんの前ではガッチガチの敬語使うよね」
 「当たり前だろ無駄な地雷踏みたくねんだよ」
 「大丈夫だよ、わたしに敬語使うのなんて幹部のなかじゃ春ちゃんぐらいだよ」
 「春ちゃん呼ぶなっつってんだろ!」
 「カワイーからいーじゃん、なーママ?」 

 欧米の兄弟たち改め、女を篭絡させる同じ顔をしたホスト2人に、なにかの表紙かと思うようなポーズで両サイドを取られた。わたしはそんなドヤ顔はしていないのだけれど、三途くんはわたしにもまとめてイラついている。このひとたちと一緒にしないでほしいんだけどな。

 ふたりの顔を真ん中でうろうろと見上げて、はたと気付いた。 

 …もしかして使える猛獣、増えてる?



***