無敵のきみと







以下必読

いつにも増して捏造色が非常に強いです。地雷なんて今のところ出会ったことがないし、これが初めての地雷になったとしても何も言わず、そっと閉じてくださる方に向けての公開になります。どうかご自衛を徹底いただきたく思います。
・救済等 原作をオリキャラで大きく変えちゃうような展開
・妊娠とか子どもネタ
・キャラへの独自の解釈
ダメな方はここで絶対に引き返してください。

たぶん原作知識25−6巻ぐらいで書きました




***


 「ママ、ガキとか考えてねぇの?」

 急になんだと思ったら、蘭ちゃんの後ろではじめてのおつかいのCMが流れていた。デリケートな問題だし、ふつうなら言いよどむようなところを、たった数秒で切り込んでくる潔さと、一瞬で相手にプレッシャーにならない言葉を選べる能力に静かに感心した。無神経なようで彼はひとをよく見て選んでいる。

 子ども。

 結婚して1年と少し。
 
 生理と不在のとき以外はほぼ絶対にしている行為は、必ず避妊具を挟んでいる。彼がそうする理由に、わたしはなんとなくアタリをつけている。

 「ないねぇ」
 「欲しくねぇんだ」
 「ううん。わたしはいても楽しそうだなって思うよ」
 「…言わねぇの?」

 ちらりと流された目は、たぶん答えを知っている。わたしがそれに気付いているかどうかをうかがっているのだろう。分かってるくせに、の意味を込めて肩を小突くと、彼は大仰に溜息をついて天を仰いだ。「えーー…」それはどういう意味のえー、なのか。

 「あのひと自分大っ嫌いなままだし、自分の遺伝子残したくないんじゃないかなぁ。だし、その認識を正せたとしてもね、対象が自分の子どもでも、わたしが自分以外のなにかに体力を取られたりするのもムリだろうね」
 「………後者も自覚あったのかよ」
 「さすがにね」

 万次郎くんの独占欲というのか、彼が懐に入れたものに発揮される執着ははっきり言って異常だ。会社を辞めさせ突然実家から引っ越しをさせ、わたしを軟禁して厳戒態勢を解かないことだってもちろんヤバいし、春ちゃんを始めとした幹部陣や他の部下たちと接しているときなんかに、後ろから威嚇するような視線が外れないのも、そのあとにわたしにひっついて離れないのも、なかなか狂っていると思う。

 といってもそれは彼本人にも自覚があり、自分でもコントロールのつかないことに苦しんでいる。定期的にひどく追い詰められた顔で、わたしにつらくないかと恐る恐る聞き、ノータイムで全く問題ないことを伝えても、しばらく落ちてしまう。難儀なひとなのだ、とにかく。彼の不在時にわたしの護衛としてこうして幹部をつけることだって、安全を最優先にということでどうにか我慢しているが、いやでいやで仕方ないと一度だけこぼしていた。そう簡単に目移りなんてしないと言っても、そういう問題じゃない、力技でどうこうされたらどうにもならないと怒る。幹部たちを誰ひとりまともに信用していないのだ。なにがあったかいまだ知らないが、かつての東京卍會のような関係性は築かないと頑なに決めていることだけは確かだった。

 「今後もうちょっと本人に余裕ができて、一緒に大切にしようって思えるようになってそうだなって思ったら、聞いてみてもいいかな」
 「…だな」

 そんなことはおそらく起こり得ないということを分かっていて頷いてくれた彼に、ありがとう、と小さく言い添えると、大きな骨ばった手がわたしの肩に添えられた。蘭ちゃんのほうを振り返る。労しげな表情なんてし慣れていないからか、不器用に眉を下げただけの顔に少し笑い、その手をそっと肩からはずす。

 どんなでも、わたしは彼を愛している。監視があろうがなかろうが、彼といる苦しみを他の男に慰められるわけにはいかない。





 そんな話をした、ほんの数日後。先週排卵痛があったのに、月経が始まらないことに気付いた。あんな話をしたから不安になるだけだろうと、さらに数日待ったがやはり出血がない。日増しに不安が大きくなり、ついに薬局で簡単な検査薬を買った。家に持ち込むのは嫌で、デパートのトイレで使った。そうして、不安のほうが的中し、神頼みが無駄だったことを知った。どっと冷や汗をかいたし、心臓は痛いほど拍動していた。

 日中は自由に動けるとはいえ、おそらく多少の監視はついている。薬局ぐらいならごまかせるが、彼にバレないように婦人科を受診するなんてことは不可能に等しい。子どもの存在を彼に知らせたらどうなるだろう。堕胎するにしても、彼にそうしろと言われるのは嫌だった。

 考えるためにカフェにふらりと入り、メニューを見て、はて、妊婦にカフェインは大丈夫だったっけと考え、調べて、あまり推奨されないという文字をみて、温かいデカフェを頼んで席につく。そして膝掛を借りたのち、まったくの無意識にお腹の命を守ろうと動いていたと自覚して、溜息が出た。こんな精神状況で中絶なんてとても現実的ではないのに、なにを考えていたんだろう。どうしたらいいの。

 なにも考えられないまま、茫然と外を見て時間が過ぎていく。正気に戻したのは携帯の呼び出し音だった。

 「もしもし」
 『オレ。今どこ?』

 発信元は知らない携帯だったのに、声が万次郎くんでしずかに息をのんだ。慌てて腕時計をみると、時刻は4時をまわっていた。門限は日没。まだ時間はあるけど無報告の外出が長いと、そういうことだろう。

 「外苑前のカフェ」
 『ひとり?』
 「うん。なにかあった?」
 『ううん、別に。迎えに行っていい?』
 「え、来てくれるの?ありがとう」

 通話を切り、トークアプリで現在地を送る。ひとりでいられるのはあと数分だろう。どうするか考えなきゃ。産むなら産みたいと彼に相談するのが現実的だろうけど、わたしが子どもを望むことを彼が許すかが肝になる。あるいは、……逃げ出してしまうか。考えたくもないことだけど。

 そもそも自分はどうしたいんだろう。本当は、彼と一緒にこの子の誕生を喜んで、可愛がって育てたい。でも彼はそれができるだろうか?自分の憎い遺伝子が織り込まれたうえ、わたしを取り上げる自分とはべつの個体の存在を許せるのか。それが彼にできなければ、どうするのか。中絶してなにもなかったように今までと同じ生活を送るのか、それとも万次郎くんではなく、子どもを取って逃げ出すのか。

 なんにせよ言い出さなければ仕方ないけど、第一希望を叶えようと思ったら、どういう言葉選びをすればいいんだろう。

 「真琴」
 「…え、あ。…早かったね」

 あまりに考えに熱中しすぎていて、肩を叩かれるまで気付かなかった。残りが冷めきってしまったカップの取っ手を握ったままだった手に手が重なる。

 「どうした?顔暗い」
 「……なーんか、後ろ向きで。なんにもきっかけとかないんだけど…そういうこと、ない?」

 どう誤魔化していいか分からず、苦笑してそう言うと、そういうことにしておいてやるか、と言いたげな顔が「あるかもね」と雑に誤魔化されてくれた。

 「体調あんまり良くねぇんじゃねぇの。寒い?」
 「ううん、平気。帰ろ」

 コクの少ないラテを一気に飲み、膝掛を外して立ち上がる。
 すべての選択肢を思い浮かべてみて、今いちばん心にきたのは中絶だった。やっぱりまだ、言えない。





 とはいえ、離れているならともかく、同居していて隠すのは困難だった。ドラマみたいにテンプレートなつわりが、ちゃんとわたしの身体にも起きたからである。この世の終わりだと思うほど永遠に気持ち悪い。わたしの場合は煮物の匂いっていうのがピンポイントで無理で、残り香だけでも冷や汗が出てくる。そして寝ても寝てもずっと眠いし、起きていても気持ち悪くてロクに動けないから、結局ほぼ寝たきりになる。

 そんな状態のわたしを過保護代表が放っておくはずもなく、一日様子をみるなんてこともせずに医師にみせられ、あっという間に妊娠が確定、露呈した。驚く演技をする余裕はわたしにはなかった。万次郎くんは唖然としていて、できてしまってはどうにもならない「いつ」「なんで」を口走っていた。当然、歓迎しているふうではなく、直視すると傷つくので彼からは目をそらし、医師の説明を黙って聞いた。

 「…どうしたいか、言ってもいい?」
 「……」

 医師が帰ったあと、あまりに無言でなにも切り出さないから、沈黙を切ったのはわたしだった。話しかけても万次郎くんはこっちを見るどころか、体育座りがよりいっそう丸まり、殻に閉じこもっていますアピールをしてくる。

 「…あとのほうがいい?」
 「………」

 先送りになんてしてもどうしようもないと思うが、驚いたことに彼はそれで頷いてしまった。基本的に彼は決断が速いから、そんな彼が先送りにさせたいということはよっぽどショックだったんだろう。「わかった」わたしも決して万次郎くんを苦しめたいわけじゃない。待つしかないなと思い、その背中にそっとキスをして離れた。

 その“あと”は、それほど後日にもならなかった。というのは、わたしの具合があまりに悪く、少なくとも彼が家にいる間、わたしの妊娠を無視できる時間なんてなかったからだ。ポカリと炭酸水だけで繋いであからさまにやつれていくわたしに、「どうしたい?」と真っ暗な顔で聞いてきたのは、発覚から2日後のことだ。

 「産みたい」

 これまでどうやって答えるかさんざん迷ってきたくせに、いざ聞かれて出た返事はシンプルだった。わかっていたけど言われるとショックです、みたいな顔で壁にもたれる万次郎くんの両頬をはさんでこっちを向かせ、意地でもそらそうとする目線を覗き込んで訴える。

 「ふたりで嫌われるぐらい可愛がりたいし、いっぱい悩みたい。そうやって育てて、もう一回人生をなぞってみたいって思う。その相手は万次郎くんじゃなきゃ嫌」
 「……」
 「……イヤなのは、分かってるよ。でもここまで避けてたのにできたの、授かりものとしか思えないの。どうしても捨てられない。万次郎くんとわたし、半分ずつ受け継いだ命なんて、嬉しすぎて夢みたいで、……ごめん、どうしても……捨てて、って言ってほしくない」

 言っているうちに彼が望んでいない事実が悲しくなりすぎて、いくつも涙が落ちてしまった。彼は歯を噛み締めて目を閉じてしまう。そうなのだ。わたしがどれだけ泣いたって、彼が自分を嫌う心は変わらない。そんなことでは変えられない。やりきれないほど悲しかった。

 「…言った…ら、どうする」
 「………」

 そんなの、分からない。でも、分からない、わたしが迷っている、というだけでも彼は嫌がる。わたしが絶対に優先するものが彼でなければいけないし、その簡単な公式を分かっていたからわたしはこれまで彼の問いを間違えたことがないのだ。たったそれだけ。

 それを間違えるようになったら、わたしに価値はない。分かっている。分かっているのに、すてる、あなたを選ぶ、が、どうしても声にならない。

 「……少し、時間くれ」

 どのくらい、とは聞けなかった。





 それからしばらく、万次郎くんは家に近づかなかった。代わりに、誰か幹部とその部下が2人1組でかわるがわる身の回りの世話に来る。あれほどほかの男を近づけるのを嫌がっていたくせに、泊まってでも看護しろとの命令が下っているそうだ。試されているのか、自暴自棄か、なんなのか。深く考えてはいられなかった。体調が本当に良くならないから。

 「何なら食えそう?一口…最悪今日は食えなくてもいいけどさ、ずっとそんなんじゃマジで骨になっちまうし」
 「……」

 情緒不安定すぎると思うけど、竜胆くんがあまりに優しくて涙が出た。本当なら万次郎くんにそうしてほしかった、と我儘にも思う。竜胆くんはわたしが泣いたことに多少驚いてはいたけど、彼は蘭ちゃんとともに、泣きたくなるだけの事情を知っている数少ないうちのひとりなので、「大丈夫だよ」と肩を撫でて励ましてくれた。

 「ゼリーとか…なんかトマトスープとか、さっぱりしたやつならいけるかも」
 「わかった。固形物はムリ?リゾットとかさ」
 「…咀嚼がハードル」
 「マジかよ。弱りすぎ」

 笑いながらそう言って、携帯をとって部屋を出て行く。部下に買いに行かせるのだろう。この気分不快とひとりで戦っていたっておかしくなかったのだし、そう考えるとぜんぜん状況は最悪なんかではない。万次郎くんが妊娠を喜んでいないとしても、わたしを心配する気持ちがあるからこういうふうにしてくれている。でも、どれだけそう自分に言い聞かせたってその、喜ばれていない、という点だけで気持ちがどこまでも落ち込んでしまう。どうにもならなかった。

 向かい、一人掛けのソファでは、蘭ちゃんが悠々とわたしの編みかけの続きを勝手にやっていた。竜胆くんが当番のときは必ずついてきて、でも一切看病とか家事のたぐいはしない。彼ひとりと別の誰かが当番のときもそうだ。今みたいに編み物をしたり本を読んだり、わたしの声の届く範囲にずっと座ってなにかしている。

 「…最近、万次郎くんに会った?」
 「会うよ。本部にずっといるから」

 わりと残酷な事実を、なんでもないことのようにそらとぼけて彼は言う。それを分かっていて隠し通せなかったのも、付き従っているのもおまえだろう、と言いたいのだろう。おっしゃる通り。泣き言を言う資格はない。

 「どうするの、オマエ。待つの?」
 「……今は、そうね」
 「今は、ね。で?いつまで黙って待ってるつもりなわけ」

 いつになく蘭ちゃんは手厳しい。なぜか、はっきりしないわたしに苛立っている。そんなに他人のことに熱量をもつようなひとではないと思っていたんだけど、また見誤ったのかもしれない。

 「…体調よくなるまでは、どうしようもないかなって」
 「言い訳に使ってねぇって言い切れる?」
 「……言えません。使ってる」
 
 糸を弄んでいた長い指がとまり、音をたてて編み途中のマフラーとかぎ針をテーブルに置いた。「真琴」まっすぐわたしを見て、いつもみたいにママなんて呼び方で茶化してくれない。その目の真剣さに、面倒だからおろしちまえぐらい言いそうだと思っていたことを恥ずかしく思った。

 「なあ、ちんたら考えてる時間ねぇぞ。こうしてる間にもガキは育つ。まだ、絶対捨てたくないと思うか?」
 「思う」
 「佐野万次郎から逃げ回ることになっても?」
 「……」

 あけすけな物言いは彼の美点だけれど、今日という今日はしんどかった。それはわたしが、ずっと直視どころか鏡越しにも見ようとしなかったことだ。でももし本当に彼が譲らず、わたしが我を通すなら、そのどう考えても現実的に思えないことだって想定せざるを得なくなってくる。

 「…最悪は、そうかもしれないね」
 「……」
 「だけど、わたしが万次郎くんを諦めるって選択肢はないよ。説得する。どうしてもだめなら出産のあたりは逃げて、この子を人のかたちにしてから戻ってきて、また説得する、…しかない、と思う」

 考えながら話して、結論がそうして声になったとたんに、ああ、そうだったのか、とすとんと自分のなかに落とし込むことができて、どうしていいかとぐだぐだに煮詰まっていた気持ち悪さが溶けた。当たり前だ、彼とこの子に優劣なんてつけられない。ずっと昔から忘れられないほどわたしは万次郎くんに対して頭がばかだし、それと自分の掛け合わせた子どもなんて諦めろと言われたって諦められない。天秤にかけられたって天秤ごと手に入れられなきゃ、死ぬまで泣きわめくほど嫌だ。絶対に。

 蘭ちゃんは一瞬だけ目を丸くして、はっ、と苦笑した。

 「強欲〜」
 「…だって選べないし」
 「産む頃に逃げることになんの目に見えてっけどぉ、どーやって逃げるつもり?」
 「う…」

 そこを突かれると痛い。無謀は無謀だった。詳しくなんて知らないが、はたからぼんやり聞いているだけでも梵天は恐ろしく手広い。それぞれ幹部陣の得意分野が違うようなのだ。ありきたりに風俗、売春、薬物、武器関係の売買、高利貸しは聞いたし、九井さんも警察などのいわゆる公の組織の一部トップにもつながりがあるようなことを匂わせていた。そしてここにいる灰谷の二人も、片手間にごく健全なショッピングモールを経営している。上にも民間にも手が届いていたら、都会の中で逃げ回ったって庭で遊びまわっているようなものだ。万次郎くんが捕まえようと本気になったら、それこそ半日ももたないに決まっている。

 カメラのひとつもないような田舎に逃げ込むか、それとも木を隠すなら森の中理論なのか。なんにもそれらしい答えを出せないでいると、蘭ちゃんがわたしをつんつんとつついて、そのままオレは?とでも言うように自分の顔を指した。え。どういうこと。

 「……かくまってくれる、ってこと?」
 「オマエが素直に助けてって言えんならね」

 驚きすぎて声も出なかった。どう考えても彼にとってメリットがないのにどうしてそんなことを言い出してくれるんだろう。下手をすれば本人の命も、竜胆くんすら巻き込みかねない。そもそもそんな自分の我儘に、誰かを巻き込む気なんて微塵もなかった。けれども、もし蘭ちゃんが助けてくれるとしたら、彼の言うように確かに周産期数か月を逃げきることはかなり現実的になる。

 突然ぶら下げられた甘い誘惑に、即答でいいえを出すことができず、ぐっと言葉に詰まった。ここでうんと頷いてしまったら、そしてそれがバレたら、蘭ちゃんは間違いなく殺される。わたしが他の男に頼ることを許すはずがない。

 さすがにダメだと首を横に振ろうとしたとき、蘭ちゃんはわたしがそうする前に頭をがっと掴んできた。

 「いっ」
 「マイキーが妬かねぇようにって一途貫いてんのは涙ぐましいけど、誠実と無謀って同じ意味だったりすんだぜ」
 「……殺されちゃうよ」
 「バレたらな。オレがそんなヘマ踏むと思うー?」
 「……」

 いちばん欲しいことを言われて、静かに息をのんだ。茶化すような表情とは裏腹に、蘭ちゃんの瞳は逃げたくなるほど一切ぶれずにわたしの目に注がれている。しばらく続いた沈黙ののち、彼は、わたしのぐらつく気持ちをこう、だめ押しした。

 「どっちも捨てたくねぇんだよな?じゃあどうするべき?」
 「……たすけてください」
 「よくできました」

 頭から手が離れ、蘭ちゃんは元の一人掛けへと戻り、ゆったりと長い足を組んだ。どうしてそんなことを言い出してくれたのか。聞いたとしてもたぶん彼はヒマつぶし、とでも言って真意は答えてくれないだろう。そんな無駄な質問は飲み込み、「本当に必要になったら、お願い。まずは説得がんばります」と言うと、「いざって時の逃げ場があるとねぇじゃ攻め方も変わってくんだろ」と笑っていた。格好いいのもたいがいにしてほしい。





 2週間もすると体調不良のピークは過ぎて、ずいぶん身体が楽になってきた。万次郎くんが家に寄りつかないのも幹部が日替わりで世話焼きに現れるのも変わらずだったが、食事がとれるだけでも気持ちはかなり前向きになった。

 「首領に連絡してもいいか?」

 わたしがうどんを完食したのを見て、そう聞いてきたのは鶴蝶さんだった。わたしは一切会いたくないなんて言っていないのだし、許可をとられる意図がわからずきょとんとしていたら、解説してくれた。

 「食事が摂れるようになったら呼び戻せと言われてた。…ご内儀が苦しんでいるのを見ていられないと」
 「…そんなこと言ってたんですか」
 「どうしても腹の子どももそれを作った自分も憎くなるんだそうだ。オレが言ったことは内緒にしてくれ」

 情けなく眉が下がった。そんなことを聞いてしまったら、怒りも悲しみも凪いでしまう。本当にそう言ったのだとしたら、希望はあるということだ。彼も子どもを憎くなく想う気持ち、あるいは、わたしが譲れないことを尊重しようって気持ちがあるということ。

 「わたしが断る理由なんてないです。呼んでくれますか?」

 そう言うと、鶴蝶さんはわずかに微笑んだように見えた。耳で塞がれて少ししか聞こえないコール音はすぐに途切れ、万次郎くんの声の癖が耳に届く。会っていなかったのはたった2週間あまりだったのに、鼻の奥がつんとした。

 「6時には帰るそうだ」
 「ありがとう」

 時計は13時前をさしている。あと約5時間。どうやって話すか考えようかと思ったけれど、彼のスタンスが分からない以上どうしようもないのであきらめた。いろいろ言い回しを巡らせるよりも、素直に言ってしまったほうがいい。

 とはいえそれからの待ち時間はやはりそわそわしてしまった。誰かに気持ちを共有してもらって、大丈夫だと言ってほしくなり、スマホを手に取った。でも、そもそも妊娠も、結婚相手がほとんどマフィアの元締めなことも知っているのが蘭ちゃんと竜胆くんしかいない。彼らは仕事中だろうし、どんなにお互いになにもないと言っても、やはり男の人に頼るのは気が引ける。あきらめてホーム画面に戻したら、件の兄のほうから電話がかかってきて携帯を取り落としかけた。

 「えっ?なんで…もしもし?」
 『今日マイキー帰るってな。頑張れよー』
 「え、え?ちょっと」

 なんで、とか、ありがとうを言う前に、あっという間に押し付けるような通話は切れてしまう。そのツー、ツーという無機質な音に最初は戸惑いしかなかったけれど、だんだんと棒読みのような『頑張れよ』が心にしみてくる。「うわぁー……」いっぱいになってしまった情緒を発声でごまかしながら、竜胆くんに『兄弟そろって罪深い』と送ったら、一瞬で既読がついて、おやおや?と笑うクマのスタンプと一緒に『好きになっちゃった?』と返ってきた。やめてください。

 悪魔的ながらもありがたいふたりとのやり取りで気持ちを奮い立たせることができ、多少ドキドキしたものの、玄関の鍵が開く音に驚かずに立ち上がることができた。

 「おかえりなさい」
 「……ただいま」

 再会した頃ぐらいに表情筋は動きにくそうだけど、彼のばつが悪い思いはちゃんと伝わる。怒られるとわかっていながら、勇気を出して帰ってきた小学生みたいだった。手を握るか抱き着くか、出方に少し迷ったあげく、両手を差し出して抱きしめて、というジェスチャーをすると、万次郎くんは複雑そうな顔をしたのち、玄関の小さな段差を越えて抱きしめてくれた。

 「…真琴痩せたね」
 「ほんと?やったぁ」
 「…オレはすげぇ嫌なんだけど」
 「えー?ガリガリ万次郎くんに言われても。中学ぐらいまで戻ってから人のこと言ってくださーい」

 最初はおそるおそるだったのが、徐々に抱きしめる力が強くなり、「結構太ったよ」と拗ねた声で言う頃には抱きつぶされてしまいそうだった。苦しくて呻いても、なかなか離そうとしない。相変わらずの困ったちゃんである。

 苦しいと文句を言ってやっと解放してもらって、居間のソファにふたりで座った。どこかを捕まえていないと逃げ出すか誤解するかしそうな気がする。手を握るぐらいじゃ振り払われそうだし、くっついているだけでも甘い気がして、結局わたしは彼に膝枕してもらうかたちで横になった。こんなことをしたのは初めてで、万次郎くんはわたしの珍しい甘えぶりに少し驚いているようだ。

 「わたしから話していい?」
 「…うん」

 うん、と言いつつも顔が逃げかけたのが分かり、下から顎をつかんで自分のほうへ向けた。彼はますます驚いていた。戸惑って揺れる瞳を見ていたら、ここ数週間の寂しさがじわじわと不満に変わり、その目をまずはぎゅっと睨む。

 「寂しかった!」
 「え。……あ、…ごめん」
 「そうだよね?お世話する人用意してくれても、わたしがつらいときに傍にいちばんいてほしいのお世話係じゃなくてあなただからね!」

 なにを当たり前のことに驚いて、勢いで謝ってくれちゃっているのか。反応が余計に腹立たしくて、勝手に口がへの字に曲がっていくのを、「ごめん、悪かった」と慌てて取り繕われてようやく少し留飲が下がる。

 「…いいよ。ちゃんと帰ってきて今話聞いてくれてるし、整理する時間が必要だったんでしょ。…連絡ぐらいしてくれてもいいと思うけど!」
 「ごめんって」
 「もうやめてよ?」
 「……」
 「返事」
 「…はい」

 これは絶対に自信のない“はい”だなと思ったけど、今そこまで求めても仕方がない。そこは諦めて溜息をつく。横になったままでは勢いが保てなさそうだなと思い、結局起き上がって膝枕ではなく手を握って拘束した。

 「どうして万次郎くんが嫌なのか、なんとなくこうかなーって思ってることがあるんだけど」
 「……」
 「当たってなかったらごめんね。万次郎くん、自分嫌い?」

 聞いた途端、あからさまに身体がびくっと震えた。これほど丸出しにしておいて、それでも本当は知れたくはなかったのかもしれない。逃げ出しそうだと思い、その膝のうえに跨って立ち上がれないように全体重で押さえて、両手をさらに強く握った。

 「わたしは好き。めちゃくちゃ強引なのも、我儘なとこも、怒ったら手つけらんないところも。しょうがないなって思うけど、ずっと好きなんだろうなって思う」
 「………オマエは知らねぇから」
 「見せてから言ってよ。見せもしないでばかにしないで」
 「見せられるわけねぇだろ!」
 「じゃあわたしのために変わるって言ってよ!!」

 正直、初めて聞いた万次郎くんの本気の怒鳴りに一瞬身体は怯んだ。でも、かろうじて怒りのほうが勝って、ほぼ反射的に怒鳴る。綱渡りのような不安定な精神状態で、じぶんでも目がくらくらしたし、勝手に指先が震えて息が切れる。

 「万次郎くんの子ども、こんなに嬉しいのに捨てられるわけないでしょ!万次郎くんもわたしのこと捨てられないって思ってくれるんなら、嫌でも頑張ってよ、子どもと一緒にいられる自分になって。努力する過程でミスったって結局ダメだっていいよ、それぐらいカバーさせてよ、ひとりで抱えてムリだなんて言わないで!」

 このひとに足りないのは、弱音を吐ける相手だ。強すぎるから、勝手にひとがついていってしまうから、それを守らなきゃならない支柱の彼は、困っていることさえ誰にも言えない。もちろん、わたしにも。かつて欠片を出したことはあったけど、やはり結婚してからはひとつもそれを漏らしていないのだ。ずっと苦しんでいるくせに。

 「……」

 彼は答えない。なにを考えているのか、まるで読めない。というか、当初からそうだ。彼は一回も自分のことが嫌いだなんて申告していないし、もしかしたら最初からまるで見当違いのことを言っているかもしれない。やおら不安になってきて、どう沈黙を切るか悩んでいたら、万次郎くんがするりとポケットに手を突っ込んで、掌ぐらいのサイズのなにかを差し出した。

 銃だった。

 「条件がある」
 「……」
 「殺してもいい。ちゃんと止めろ。オマエに傷つけたらどっちにしろ生きてられねぇから」

 なんて極端。なんて不器用なんだろう。脅しも試しも兼ねているんだろうなと、その持っているだけでも犯罪になるようなものを前にして、わたしは不思議と落ち着いていて、ただ、そうしなきゃならないんだなと思った。「できねぇなら」というセリフを遮り、小さな銃を受け取る。

 言葉にして助けてなんて言えないこのひとがわたしに求められる精一杯。約束しない理由はない。

 「急所は教えておいてね。避けなきゃいけないし」
 「……狙うんだよ、バカ」
 「とりあえずお互い死なない方向を試したいもん」

 ところが、わたしがあっさり呑んでしまったことがよっぽど嫌だったようだ。彼はそれから一緒に夕食を摂るときも、お風呂に入るときもずっと浮かない顔をして、わたしを見ては「はーぁ」と溜息をつきまくっていた。似たような喧嘩をさんざんこれまでもふっかけてきて毎回負けているんだから、いい加減わたしの万次郎バカぶりを分かってもいいと思うのに。ひとのせいにしないでほしい。

 厭味ったらしく「頑張ろうね♡」と言ったら、それまででいちばん絶望した顔をして、「…あーあ、しんど」と天を仰いでいた。しょうがないお父ちゃんビギナー。





 『マジでぇ???』

 一応OKが出たことをビデオ通話で報告したら、蘭ちゃんはあんぐりと口を開けて、立派そうな黒革の背もたれに寄り掛かった。竜胆くんらしい声が『どしたの』と向こうから聞こえてきて、『ママ、マイキー説得したって』『マジでぇ!!?!?』と続いて忍び笑う。

 『なんだって?産んでいいって言ったの?』
 「条件つきでね」
 『どういう』
 「暴走したら殺してでも止めろって」

 預かったままのハンドガンをカメラに見せると、彼らはドン引きして言葉も出さなかった。まあ、そうだよね。異常です。徹頭徹尾。

 「以上、ご報告までに。看病と激励のお礼でした」
 『どーいたしまして。ま、なんもしてねぇけど』
 『兄貴マジで座ってただけだしな』
 「してたって言ったほうがお得かもよ」
 『今更?……ハ?』

 せせら笑う彼らに、タブレットを持ち上げて後ろのリクライニングに転がっている万次郎くんを見せる。まさか首領が背後で聞いているなんて思っていないふたりは、お手本のように顔をひきつらせ、『このアマ…』と唸った。怖いものナシのような顔をしている彼らにも、ちゃんと無敵の首領は厄介なようだ。

 ここまで通話になんて興味がなさそうだった万次郎くんだったが、蘭ちゃんの『このアマ』発言でか、ぎらりと視線を飛ばしてきたのがカメラ越しに画面に映った。

 「蘭」
 『すんません。…じゃあなママ、身体大事にしろよ』
 「ありがとう。またね」

 穏やかな挨拶だが、やられて黙っている蘭ちゃんではなかった。万次郎くんの目がそれた隙に笑顔で長い中指を突き立て、通話が切れる。意外な子どもっぽい一面に噴き出してしまった。これだけ見れば、とてもコワい人には思えない。

 そろそろ嫉妬する頃かもと思ってタブレットを置き、隣のチェアの端に座る。やっぱりぶすくれていたから、「かわいー」と茶化したら、「うるせ」と怒られる。ご機嫌ななめが少し緩和されたのを察して、本当は一人掛けのリクライニングに一緒に横になった。

 「……自分で言ったの?」
 「それがね、あのふたり、初めての当番の日にグレープフルーツと炭酸水持ってきたの。つわり対策じゃんって思ってわたしが『聞いたの?』って言っちゃって、そしたら『やっぱな』って」

 あれは見事なカマかけだった。ことがことで誰にも話せないけれど、それでも本当はすごく誰かに聞いてほしかったから、少し話し始めたらもう止まらなかった。聞き上手な彼らに絶妙な相槌を打たれて、ものの5分ぐらいでわたしはここまでと思っていたボーダーも越えてすべて吐き出してしまい、ダメ押しで竜胆くんに『ひとりでつらかっただろ』と言われて泣いてしまった。

 「とにかく体調戻せって励ましてくれたよ。でも、味方はできねぇ、聞くだけだって線引きはきっちり」
 「……だから怒んなって言いてえの?」
 「バレたか。でも本当に助かったんだもん、誰かさんはひとのこと不安にさせっぱなしで連絡もしてくれないしさぁ」

 そこをつつけばお互い様だ。「むしろヨメのアフターケアを代わってくれて感謝してもいいところでは」と追い打ちをかけると、イライラと首のあたりを掻きむしって舌打ちをする。ムカつきはするけど納得せざるを得ないってところだろう。ありがとうの意味を込めて短くキスすると、咬みつき返された。丸出しの束縛もこうなってしまえばなかなかかわいい。





 彼はことのほかしっかり約束を守り続けてくれていた。

 子どもに関わることはすべて嫌がるかと思っていたのに、案外真顔は崩さずに、検診に付き合ってくれる。食事の嗜好の変化に合わせてくれる。ひとりの身体じゃねぇんだから、も、普通に口にして、身体を労わってくれる。一度はあれほど無理だと怒ったことだし、その変化は不自然だ。そう思っても、無理してるんじゃない、と言ってしまうと、彼のプライドどころか精神をすべて突き崩してしまいそうで、なにも口に出せなかった。自分が我儘を貫いた罪悪感もあってか、妊娠する以前よりもよりいっそう、万次郎くんが考えていることが分かりにくくなったように思う。

 健康状態は、母子ともに良好。順調すぎるほど順調に、体重なり検査値なりもずっと適性を保っている。子どもの存在に案外わたしの体調が振り回されないでいるから、万次郎くんが少なくとも見た目上は安定を貫けている、というのはありそうな気がする。ちなみに男女は分かる時期になっても聞かなかった。わたしはどっちでも嬉しいし楽しみにしていたかったし、それに一喜一憂するさまを見せるのはなんとなく、彼の精神によろしくなさそうな気がしたからだ。

 健康にも夫婦仲にも何事も起きないまま、時間はあっという間に流れ、臨月になった。

 お腹は限界まで重く大きくなっていて足元も見られず、歩くのさえだいぶ危なっかしくなっていた。外出は付き添い絶対、ときつく言い含められていたのだけれど、ある日、美容院を予約していたのを出発ギリギリまで忘れていて、とても付き添いを呼ぶ時間がなく飛び出したことがあった。帰りもひとりで行ってあとからバレたら面倒だなと思って、髪を切ってもらってから電話したら、『マジでさぁ……』と過保護のうんざり声が迎える。重ねて謝ると、帰り連絡できただけマシだ、迎えに行くからそこを動くな、と静かに言い渡されて、商店街で時間をつぶす羽目になった。

 季節がら汗ばむ陽気で、少し動き回るだけでもなかなか疲れる。どこか店に入って涼んでいようか悩んでいたら、声をかけられた。

 「大丈夫ですか?」
 「あ、はい、すみません……えっ?」 
 「え?…あ!?」

 これが本題。心配して声をかけてくれたのが、龍宮寺くんだった、って話だ。相変わらずの長身、迫力。というか、彼はあの頃に完成されすぎだ。どことなく表情は大人びたかもしれないし、金髪は黒髪になっていたけど、全然変わっていなかった。

 「ビビった、久しぶりだな…つーか、なんにしても大丈夫か?ウチの店そこだけど、休んでく?」
 「ううん、あとちょっとで迎え来るから大丈夫。ありがとう」
 「いや、ちょっとっつったってなんか腹と身体がアンバランスすぎて不安になんだけど…マジで平気?何か月?」
 「臨月。もうすぐ会えるよ」
 「すげー…」
 「触ってみる?」

 恐縮しきる彼がそっとお腹を触ったとき、サービス精神旺盛の子がぽこんと腹を蹴る。龍宮寺くんは大げさなぐらい驚いて飛びのき、命すげぇ、って壮大なコメントとお祝いを満面の笑顔で贈ってくれた。それはかつての万次郎くんそっくりで、どうしてこの子の父親が万次郎くんだってことを知らないのか不思議に思うと同時に、ふいに苦しくなる。

 「いつ結婚したんだよ」
 「2年ぐらい前かな」
 「相手は?」

 佐野くん、と、喉まで出かかった。でも、言ってどうするんだ、って話だ。彼らになにがあったかさえわたしは聞かされていない。

 「…元同級生、みたいな」

 でも、常々思う。傍にいるのが似合うのは、彼が傍にいて楽しそうだったのは、わたしなんかより東卍のひとたちだった。こうして会ってしまうと、その席を奪ったような心地になる。

 そんなわたしの心境なんて知る余地もない龍宮寺くんは、「みたいなってなんだよ」と笑っている。言い出してしまおうか、ぐるぐる悩む気持ちをばちっと切るように、携帯が震える。

 『アーケードのとこついた。今どこ?』
 「あ…」

 伝えられた場所は、目と鼻の先だ。龍宮寺くんも目に入るようなところ。ばくばくと心臓が鳴る。どうなるんだろう、会わせないほうがいいのかな。どうなの。慌ててアーケードのほうに目をやると、確かに万次郎くんがいて、ちょうど顔をこっちに向けたところだった。

 今、絶対に龍宮寺くんと目が合った。

 『…みつけた。来れる?』
 「…うん」

 なにごともなかったような声でそう言って、先に踵を返して車のほうへ行ってしまう。ちらりと龍宮寺くんを見ると、驚き、動揺がまるまま出た顔が、向こうとわたしを行き来している。でも、さっきの反応から、本心はどちらにせよ万次郎くんにとっては、今会うことは不都合のほうが大きそうだ。

 「…龍宮寺くん、ありがとう。またね」
 「……あ…おう」

 たぶん彼も、わたしにあれがマイキーなのかって聞くかどうかを、ぎりぎりまで迷っていた。勝手だけど、聞いてほしい、彼が勝手に作ったバリケードを飛び越えてきてほしいと思う反面、万次郎くんが追い詰められてしまうなら聞かずにいてほしいとも思う。どっちが正解なのか分からないまま、結局わたしは彼を離れて、梵天の車に乗る。

 絶対に気付いていたはずなのに、万次郎くんはなにも言わなかった。





 ここまで何もコメントしてこなかった万次郎くんだったが、話を聞くなり無痛分娩を即答したので、日程を先に決めて入院して、陣痛を誘発させて計画出産することになった。麻酔も陣痛も痛くはあったが耐えられないほどでもなく、お産は順調に進んで、約6時間で長男が誕生した。

 「抱っこしてあげてください」
 「え」

 その場に同席した父親な以上、話を振られるのは当たり前のことなのに、彼はほやほやの生き物を前にぎょっとしていた。さすがにハードルが高すぎるかしら。でも、意外にその体温で自覚できることもあるかもしれないしと、成り行きに任せていると、意外に抱っこは上手で、どうしていいか分からないという顔をしながらも据わりよく抱えてやっていた。数秒で困ったようにわたしにパスしてきたけど、歩み寄ってくれたことが嬉しかった。

 自分が母親になった実感がわいたのは、翌日、ひとりで彼を抱いていたときだ。黒くて大きな瞳は、万次郎くんにそっくりだった。無垢にうるうるした目と、さらさらのきめ細かな肌、丸いおでこ、全部が愛おしくて愛おしくてたまらなくなった。

 早くも髪の毛がふさふさだったので、退院するときにかつての万次郎くんみたいに前髪をつまんでポンパドール風にして、「ミニ万次郎くん」とオリジナルに見せたら、きょとんとされた。

 「え?真琴じゃねぇ?」
 「え?目とかまんま万次郎くんじゃん」
 「まぁ目はアレだけどこのへんとか」

 どこがどっちに似てる、ああだこうだと不毛な論争をして、途中でばかばかしくなって笑い合った。その平和な空気に流されてか、ミニを怖がりまくっていたオリジナル自ら、白くてまるいほっぺをちまちまと2回つついていた。可愛かった。

 「ちっっちゃ!!命こえぇえ」

 筋骨隆々の図体をしておいて、赤ん坊をいちばん怖がったのは竜胆くんだった。おっかなびっくりで抱っこするから安定しなくてギャン泣きされ、自分のほうが泣きそうな顔をしてわたしに返してくる。蘭ちゃんは器用に抱っこするふうを装っていたが、目を合わせて2秒で「しんどい、むり」と返してきた。生まれたての命を前にすると、反社も等しくなにかと身につまされてしまうようだ。

 「チビ、名前きまった?」
 「うん。伊織っていうの」
 「…へぇ。かっけーじゃん」

 名付けは真琴が気に入ったやつにしな、とぜんぜん積極的にならなかったから、わたしが候補を3つまで絞り、強制的に選ばせて、こうなった。戦国時代から武士がよく使っていた名前なんだそうだ。なんでこれにしたのかは聞いてもなんとなくとしか答えてくれなかったが、彼の血の繋がっていないお兄さんの名前の響きに似せたのかもしれないとわたしは思っている。蘭ちゃんたちも同じことを思ったのか、「伊織ねぇ、伊織。いおりー」なんども転がすように名前を呼び、さっきまで怖がっていた存在が拒否しないことを知ると、積極的に触っていた。小さな手に指を握られて、あの蘭ちゃんまでもが悩殺された顔になっていて面白かった。

 「お宮参り何色がいいかな!?」

 急に父親ヅラで真顔で聞かれて、余計に笑ってしまう。ふたりにしてみれば大真面目らしく、「笑ってねえでさ」「大事なことだろ」と詰められる。笑いすぎて返事もできないわたしのかわりに、万次郎くんがついに口を開いた。

 「なんでオマエらが口出しすんだよ」
 「そりゃパパがぜんぜん積極的じゃねぇからだろー。なー伊織?」
 「あ?」
 「オレらが連れてってやろっか?ママも着物選ぼうぜー」

 ふたりは楽しそうに万次郎くんを挑発して笑う。それはこれまでの距離感とはまったく違い、語弊を恐れずに言えば、愛情の込められたからかいで、とても驚いた。本気で怒るなんてカッコ悪くて絶対できないその挑発に、言葉のかわりに足技で応戦する万次郎くんの表情も、どことなく子どもっぽい。やり合っているのは武闘派の竜胆くんと万次郎くんなので、それをよそに「暴力はんたーい」と涼しい顔で言う蘭ちゃんと、一瞬だけ目が合う。

 「…気にすんな。ちょっとした罪滅ぼしみてぇなもん」
 「え」

 それ以上は聞くなと、全身が言っていた。手がかりが少なすぎて、それがどういうことなのかは考えるだけムダだと思い、考えることをやめた。

 「…蘭ちゃんってお兄ちゃんだったんだね」
 「どーゆーイミ?」

 お宮参りの衣装は、ファッションモンスターの圧が強かったので、灰谷兄弟の意見がなかば9割を占めた。





 「…何」
 「あう」
 「見過ぎだよチビ」

 日本語で文句を言われたって意味が分からないはずの伊織だが、たまに会話の流れが不思議と分かっているように思えた。奇跡的なタイミングで「あうあうあー!」とか怒っているようなニュアンスの声を出し、それに対して万次郎くんが「あ?文句あんの?」と真面目に売られてもない喧嘩を買おうとする。

 「なんか成り立ってるね」
 「このガキぜってぇナメてる」
 「そんなことないよ。パパ好きだもんねー?」
 「めー?」

 伊織と万次郎くんは、ずっと不思議な距離感だった。やはり苦手意識は薄れないようで、万次郎くんは積極的には伊織と関わろうとしない。対して伊織は、このたまに恐る恐る可愛がってくる男は誰なんだ、というかんじでじぃっと他人行儀に父親を眺める。わりに、抱っこに関しては満足しているようで、彼が抱っこするとどれだけ号泣していてもすぐに泣き止む。

 お互いの存在にちゃんと慣れたのは、伊織が8か月になる頃だったと思う。朝、わたし以外かけないはずの掃除機の音が聞こえて、なんだと飛び起きたら、万次郎くんが伊織を片腕に抱えて掃除機をかけていた。衝撃映像すぎて腰を抜かしそうだった。

 「めずらしい!」
 「…この這いまわる生き物がなんか口に入れそうで怖ぇの。あげる」

 無遠慮にわたしに伊織を押し付け、ぎこちなくあちこちに掃除機をかける。伊織はこのときばかりはパパの腕がよかったようで、不満そうに「あー!」とその背中に呼び掛けていて、「あーあとでな」とすげなくされていた。その何とも言えず微笑ましい光景に、産後も続いていた心配や不安が、なんだか全部が大丈夫な気がしてきて、ずっと心配してきたことがほどけていくのを感じた。万次郎くんの心配しすぎだった、彼が自分で思っているより強いし、普通だったのだと、心底安心した。





 こんな感じで、あの説得から約1年9か月、伊織が1歳になるまで、なんの事件もなく均衡は保たれた。と、いうからには、このころから崩れ始めたってことだ。

 なんとなくはっきりした音を発するようになった伊織は、オウム返しができるようになっていた。前歯が少し顔を出して、柔らかい離乳食を手づかみでもりもり食べる。つかまり立ちができるようになり、座ったりこけたりを繰り返してわんわん泣く。力が強くなってきて起こす事故が派手になり、今までよりいっそう目が離せない。わたしに小さな怪我が増える。ひとつ傷を負うごとに、万次郎くんは丁寧に経緯を聞いてくる。それが、毎日になる。ひとつが治らないうちに繰り返されると、その表情は徐々に陰りを増していった。

 加えて、この少し前ごろから夜泣きがひどくなっていた。これまでも多少はあったけど、少しぐずって泣くぐらいだったのが、全身を使って耳をふさぎたくなるほどの音量で泣くのだ。わたしが飛び起きてどれだけ急いで部屋の外に連れ出しても、眠りの浅い万次郎くんはすぐに気付く。どちらも眠れず、体力が削られる。それは数か月毎晩続いて、いったいいつまで続くんだとわたしですら笑えなくなってきた。

 一度、わたしが身体を起こすよりも早く、万次郎くんがとんでもないバネで起きたことがある。

 そのときの彼の目ときたら、それはもう怖くて、実子に向けていい目なんかでは決してなくて、慌てて「寝てて」と声をかけて伊織を屋上へ連れ出した。わたしも怖がったことを察してだろう、ベッドに戻ったときに「悪い」と小さく謝られた。彼がどれだけ伊織に慣れようと無理してくれていたか。のうのうと2年近くを過ごしてしまったことを申し訳なく思い、「ありがとう」と伝えて抱きしめた。遣る瀬無さそうな顔が切なかった。

 それでもかろうじて一線を越えることはなく、不穏なまま時間は過ぎる。わたしたちを試すような決定的な事件は、ちょうど1歳半の頃に起きた。万次郎くんが出張で1泊空けることになり、朝から蘭ちゃんが来る予定になっていて、ちょうど蘭ちゃんが到着する直前、運悪く家にわたしと伊織しかいなかった、その時。

 「まーま」
 「…んー、なぁに」

 床でうとうとしかけて、目を閉じっぱなしだったわたしが悪かった。気がついたときにはオイルヒーターが自分の頭めがけて倒れ込んでくるところで、まったく逃げられないまま脳が激しい衝撃に揺さぶられた。轟音、流血に驚いて泣き叫ぶ伊織をなだめたくても、目が回ってそこまでたどりつかない。キャスターで可動式のオイルヒーターは、伊織がよく押して遊んでいて、それが運悪く引っかかって倒れたのだろう。不運な事故だった。

 「はぁ!?」
 「あ、蘭ちゃん」

 こんなタイミングで到着した彼は、わたしにとっては神様だったが、彼はさぞ嫌だっただろう。絶対に傷つけるなと言われているボスの奥方は大怪我、息子はギャン泣き。どこから手をつければいいんだか分からない。

 とにかく頭部外傷でなにかあってはまずいということで、往診は待たずに梵天の息のかかった救急にかかった。額の傷は9針に及び、さすがに腫れあがって黒いナイロンで縫われた傷は生々しくグロかった。でも見た目の派手さに反して、CT上は問題なく、経過観察入院1日でおそらく十分だろう、との結論で落ち着く。

 「あーーークッソビビった……」

 個室に入ったのち、蘭ちゃんはどっかりとソファに座って天を仰いだ。それはご迷惑をおかけしてしまった。この2時間に満たない短時間で、彼はわたしを病院に担ぎ込み、あらゆる手続きを踏み、処置中ずっと泣きつづけて話にならない伊織をあやし続けてくれていた。壊れたスピーカーのようになっていた伊織はここにきて疲れきって突然シャットダウン。わたしがあやせる状態になった今になって、泣き疲れて爆睡している。

 「ごめんね、ほんとに助かった」
 「……大事じゃねぇからまだいいけど……これからまだ嫌なの抱えてんだよなーー」
 「万次郎くんに連絡?」
 「それ」
 「わたしするって」
 「いやそれはダメ、オレが電話しなきゃ何してたんだって話になるし」

 ぶつくさ言いつつ、スマホで通話画面を呼び出す。あとはもうワンプッシュで繋がる、というときになって、はたと蘭ちゃんがわたしを振り返った。

 「つーか、……怪我の原因、チビって言ったらヤバくねぇ?」
 「……うーん…どうだろ……」

 それは妊娠初期からずっと警戒し続け、奇跡的にも回避できてきたことだった。万次郎くんが出産に反対した理由もおそらく、一番大きいところはそこ。他者に自分のものが傷つけられる、この場合は、伊織にわたしが傷つけられるかもしれない、ってことだ。こんなことは子育てをしていたら大なり小なり起きることだけど、彼はそこを仕方ないと思えない。“守る”が行き過ぎてしまう。万次郎くんにとって伊織がすでに守る対象になっていればいいが、最近の伊織に接する態度だけではそう断言はできなかった。

 「原因、聞かれたら電話替わって」 
 「……分かった」

 格好つけてそんなことを言ったはいいものの、どうしよう。あははやられちゃったーなんて調子で言ってもだめだろうし、本気で怒らないでねと言い添えたってたぶん火に油。なんて言おうか答えは出ないうちに、電話はつながる。

 「もしもし?悪い、奥方に怪我させた。……額9針、意識もCTも問題ねぇよ。一応経過観察で一晩入院だけど。……今替わっていい?原因……は?え?ちょっ」

 途中まで冷静に状況を話していた蘭ちゃんだったけど、突然慌て始めて、わたしと顔を見合わせた。その顔は明らかに状況が悪いことをわたしに伝えていた。おそらく一方的に通話を切られ、「おいやべぇぞ」と向き直る。

 「なんて?」
 「めっちゃキレてる、今すぐ帰ってくるって。伊織、誰かに預けといたほうがいいかも。原因なんか聞いてこねぇ、たぶんチビしかねぇって思ってる」
 「……」

 最近の伊織と万次郎くんを思い浮かべる。昨日も昨日で夜泣きで起こされて不機嫌だったけど、それでもコントロールできないような殺意はかけらも感じなかった。そして朝になれば、「うるせーよチビ」と言いながら、食べこぼしまくる伊織の口回りを拭いてやっていた。ただ冷たいだけじゃなかった。それに、これまでのわたしの小さな怪我や寝不足にだって、ずっと苛立ちを感じていながら、どこにも当たり散らしていない。

 「…信じてみる。大丈夫」
 「……忠告はしたからな」

 本当はウソだろ、やめろ、と言いたかったのかもしれない。なにかと飲み込んだような間をもって、蘭ちゃんは低くわたしに言う。まだ眠る伊織が目に入った。たしかにこれは危険な賭けではある。わたしのアテが外れたら、被害がくるのはわたしではなく伊織だから。たぶん最悪を想定している蘭ちゃんは、そのあとほぼ一言も発さなかった。

 それから数時間、空が赤くなってきた頃に、ばたばたと足音が廊下から向かって来て、勢いを殺さずにスライドドアが跳ね返る勢いで開いた。

 「…っ」

 頭が包帯でぐるぐるのわたしと目が合い、息をのみ、彼の目が、なんというか、無になった。感情を全部落っことしてしまったような。いくら普段から表情が薄いとはいえ、明らかに異常だと分かる。かつて説得したあの日の、万次郎くんのセリフが頭を過ぎった。

 ――オマエは知らねぇから

 このことだったのだ。彼がずっと抑えよう抑えようとコントロールに苦しんでいた、衝動的な怒り。その矛先が自分でなくても、ぞっと凍ってしまうような威圧感。伊織。伊織。殺されるかも。初めて自分のなかで現実味を帯びたその“かも”に絶句する。助けなきゃ。伊織。

 伊織は、異常な空気にさすがに目を覚ました。そして最初に父親をみつけて、その空気を発しているのが彼だとは気付かずにぱたぱたと不器用に歩いて行ってしまう。わたしも蘭ちゃんも、思わず立ち上がって「伊織」と呼びかけたそのときだった。

 「ぱーぱ」

 これまではわたしの言葉をなぞり、パパでしょって言ったら、ぱぱ、と音で発していただけだったのが、初めてなんのリードもなしに彼をパパと認識して、そう呼んだ。重圧のなかで異物感の強い舌ったらずな幼児の言葉が、むなしく消えたりせずに、ちゃんと対象の耳に届いたのが分かる。

 今に蹴りを炸裂させそうだった万次郎くんの足が、ゆっくりと折られた。支えなしでは数歩が限界の息子の歩みが、ちょうど自分のところで崩れたのをしっかり受け止める。顔を見る。母親の流血に動揺して、伊織が自分でぶつけて作った額の傷の大きな絆創膏を、そっと撫でた。

 「ぱーぱ」
 「…オマエも怪我したの」

 ――ああ、

 あまり音にならないように、脱力して深く息をつく。大丈夫だった。よかった。そう思ったのはたぶん蘭ちゃんも同様で、胸を撫でおろしていた。部屋中を一瞬で支配していたはずのまがまがしい空気が、まるで幻覚かなにかだったようにさえ感じる。

 「わたしが怪我したからびっくりしたみたい。立ち上がろうとしてテーブルにぶつけて余計泣いちゃって」
 「…なんだったの?原因」

 自分で自分の感情の緩急に置いてけぼりを食らっていそうな万次郎くんの喋りは、疲れきっているときのように呂律が回っていなかった。ベッドを降りて、座り込んだままの彼のかたわらにしゃがみ、ことの経緯をすべて話した。彼は「こいつに動かせるようなモンは全部しまわねぇとダメだったね」と、ふつうの親のようにわたしたちの反省をして、わたしの包帯を撫でて「ごめんな」と謝ってくれた。「わたしも目離して、心配かけてごめんね」と答えて、約束を守り切ってくれた彼を抱きしめた。

 正直言えば、わたしだって、伊織が殴られる可能性のほうが高いと思ってしまっていた。でも、そうなったとしても、これはふたりにとって越えなければならない壁だと思った。結果的に伊織が殴られずにパパに無事を喜ばれ、抱きしめられたのは決して幸運などではない。他でもなくここまでじっと我慢して、結局あまりわたしに頼らずにひとり自分を変え続けた、他でもない万次郎くんの努力の甲斐だ。

 「今日のMVPは蘭ちゃんだよ。わたしを救急に連れてきて、ギャン泣きのチビのこと2時間ぐらい宥めててくれて」
 「マジ心折れるかと思った。母は偉大だわ」
 「え、蘭ちゃんが折れそうになったの?伊織大物だねぇ」
 「クソ親バカ〜」

 伊織を撫でまわすわたしの頭を、蘭ちゃんが指で軽く小突く。怒りそうなものだった万次郎くんはあまり動じていなくて、ふつうに蘭ちゃんを見上げて、「助かった、蘭」と言った。いきなり変わりすぎじゃないか。わたしは目が飛び出るほど驚いたけど、蘭ちゃんはなぜか穏やかだった。

 「どーいたしまして。今度メシでも奢ってよ」
 「…うるせぇのが着いてきていいならね」

 うるせぇの、と言いながら、伊織のむちむちのほっぺたをつまむ。「いやぁ」絶対に分かって言ってない音が、またちょうど意味の噛み合うように発されて、わたしと蘭ちゃんが笑い、万次郎くんは「ヤじゃねぇだろむちむち」と今度は両ほっぺをいじめていた。

 それからすぐ蘭ちゃんが帰って、万次郎くんと伊織が面会時間ぎりぎりまで病室に残っていてくれた。8時になり、帰らざるを得なくなったふたりを見送りに正面玄関まで出る。

 「ありがとな」

 なんの脈絡もなくそう言われて、ぽかんとしてしまう。何かしたかしらと最近のことを思い巡らせていると、微笑んだ万次郎くんが、

 「伊織産んでくれて」

 と、言った。頭が理解するよりはやく、涙がわっと両目からあふれて落ちる。長く彼を苦しめたものを、伊織がついに解いた。やっと万次郎くんはあの頃に落としたものをひとつ拾えたのだ。たぶん。

 「生まれて来てくれたのは、伊織だよ」
 「……じゃあ、ふたりのおかげだ」

 自分の幸せを噛み締めた笑いは、とても不器用だった。





 「ただいま!…いってきまーす!」

 最初から最後までドアと足音のバタバタでよく聞こえないまま、音源が遠くなる。文句なんて言いたくても追いつかないなと思って諦めていたら、万次郎くんが「待て!」と怒鳴って、ジタバタが止んだ。

 「げぇ親父いたの」
 「げぇじゃねえよ。どこ行って何時に帰ってくんのか言ってから出てけっつってんだろ。あと鞄散らかすな」
 
 全然関係ないけど、声変わりした伊織は万次郎くんの声を受け継ぎすぎて、2人が喋っていると1人で別人格を演じ分けているみたいで、遠くに聞いていると頭がバグる。顔も性格もそっくりだし、わたしが産んだんじゃなくて知らないうちに分裂したのかも、とさえ思うほど。基本的に仲はいいけど、たまに同族嫌悪的にものすごく許せないところがあるようで、数週間に1回ぐらいの頻度で大規模の喧嘩を繰り広げている。

 「ドラケンくんの店!7時!」
 「メシは」
 「家で食います!」
 「了解。行ってら」
 「行ってきまーす!」

 話をつけてキッチンに戻ってきた万次郎くんは、「マジクソガキ」とボヤいていた。そっくりだよ〜なんて言ったらお皿を洗ってもらえなくなるので黙っておいた。

 顔も性格も、そして何も教えていないのに趣味も似通ってしまった伊織は、今はバイクいじりに夢中だ。紹介もしていないのに龍宮寺くんの店を探り当て、入り浸っている。わたしは一度母親として挨拶に行ったから、別に明言はしていなくともたぶん彼は伊織が万次郎くんの息子だとわかった上で、伊織を可愛がって面倒を見てくれている。いまだ東卍の総長、副総長の再会は果たされていないけれど、いつかそうなったらいいと思う。伊織を橋にして。

 違ったもの、落としてきたものを少しずつ、回収していくのだ。これからも。



***










【懺悔】
願望詰め合わせでした。いつもより数段キモい仕上がりですみません。
三途春千夜を出してどうにかしたかったのですがきっとそれは原作でどうにかなる し なんかもう彼についてはまず、マイ推しをやめられていない時点で申し訳がなくて登場させることさえできませんでした。

衝動云々については、ひたすら解釈が分かれるところだと思います。それを乗り越えてお読みいただいた方、いらっしゃいましたら感謝申し上げます。ありがとうございました。