空気を読んでたら苗字が今牛になってた話





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 第一印象は怖いに尽きた。

 長身、白い特攻服に白髪、ド迫力のバイク。威圧しまくる大音響の魔改造エンジン音と、一斉に頭を下げる特攻服たちを背景に現れたたった一人は、遠目に見ただけでも近寄ったらまずいと分かった。基本的にうちのガソスタはセルフだから、あえてわたしたちスタッフが絡む必要はないんだけど、万が一機械の不具合があったり、向こうがいちゃもんをつけてきたりしたらヤバい。彼らが入ってきた時点でその時シフトに入っていたわたしを含めた3人には激しい緊張が走り、授業であてられたくない小学生みたいに一斉に離れたところでどうでもいい仕事を始めたのをよく覚えている。当時は暴走族が流行っていた時代だったこともあって、全員ともに多少ガラの悪いのには免疫があったはずなんだけど、それぐらい彼は別格だったということだ。マジで怖かった。

 ある時を境に、彼らはよく現れるようになった。それを恐れたスタッフたちはは夜のシフトを避けたり辞めたりしたけど、わたしはこの頃中学生だったので、年齢をごまかして雇ってくれるバイト先がここぐらいしかなかったのと、3回ほど彼らの来店に居合わせても何も被害がなかったってことで、何の対策も打たなかった。そしてもはやあのエンジン音がしても物販レジ裏でぼけーっとしていられるほどにわたしが彼らの存在に慣れてしまった頃になって、突然その白い男は店内に入ってきたのであった。

 正直死ぬかと思った。

 「いつもいるよね」
 「そ…ですね…」
 「大変?」
 「…いえ、ヒマなんで。ラクですね」

 何がって、声優かってぐらい低くて甘くていい声だったので、話しかけてきたことやわたしの存在にこの男が気付いていたことなどよりもそっちに驚いていた。そしてレジに缶コーヒーを持ってきた顔が、そこらへんの芸能人なんか目じゃない整い方をしていることにこのとき初めて気付いた。遠巻きでもあれほど目をひいたのは、白い服と髪というよりは面差しのせいだったのかもしれない。美形というのは女っぽいピアスでさえこんなに似合うのだと、怖かったことも忘れて無遠慮に見送ったっけ。

 といっても、ドラマじゃないのでそこから何かが始まったわけでもないし、店に来るたび彼がレジに寄ってくれたわけでもない。たまにこっちがクーポンを渡しに行ったり、頼まれて空気圧を見たりとか、その程度。そのたびに目と耳の保養だなとは思ったけど、やっぱりわたしと彼は店員と客以上の何物でもなかった。この時点では。

 初めて見てからおそらく約1年たたないぐらい、わたしが高校に入ったばかりの頃に事件は起きた。それはガソスタの深夜バイト中じゃなくて、下校中のことだった。横断歩道をわたろうとしていたら、わたしの一歩前を出て行った赤いランドセルの女の子が、車にはねられかけて尻もちをついた。明らかに重傷ではなかったけど、彼女はびっくりしすぎて声が出なくなってしまっていて、たまたま歩行者に大人がいなかったから、わたしが面倒をみた。駆け付けた警察官に事情を話して、憔悴している運転手から連絡先を受け取って、女の子を近所のクリニックに連れて行った。だいたい1時間半ぐらいか、それぐらい経つとその子も落ち着いてきて話せるようになってきて、佐野エマちゃんという小学校1年生だってことが分かった。とても人懐っこいかわいい子で、手のひらの擦り傷と軽い打撲だけってことが分かってクリニックを出る頃には、手を繋いでさっき事故ったとは思えないほどにこにこして色々教えてくれた。11歳離れたお兄ちゃんがいることとか、家が空手の道場をしてるとか、そういうことまで。

 「あっ!シンニイだ!!」

 エマちゃんをおうちまで送る途中、コンビニでいきなり繋いでいた手が離れた。ぱたぱたと走っていく先に不良の溜まり場が見えてぞっとして、「ちょっと待って!!」と追っかけてわたしがそのランドセルを捕まえたのと、エマちゃんが“シンニイ”に飛びついたのはほぼ同時で、エマちゃんを挟んで当時初対面の真一郎と、お互い、え?誰?みたいな空気になる。その気まずい空気をとりなしてくれたのは、サンドされたエマちゃんだった。

 「えりちゃん、このヒトがウチのお兄ちゃん!」
 「えっ?あ、そ、そうなの?」
 「そうなのー!ニイ、えりちゃん!車にひかれたんだけど、たすけてくれたの!」
 「はあ……ひかれたあ!!?!?」

 不良のど真ん中にいるリーゼントにしてはずいぶん優しげな面差しの彼は、妹の爛漫な報告にワンテンポ遅れて悲鳴をあげた。そりゃそうだろう。色々なツッコミどころは置いておいて、簡単に事情を話すと、手を握って120度ぐらい頭を下げられた。

 「マジでありがとう、助かった」
 「いえ…何もなくてよかったです」
 「お礼言っても言い足りねぇわ。なんか奢らして」
 「いやいいですいいです!本当に!!」

 ここからひたすら押し問答が続いた。せめて名前だけでもと懇願されて、自己紹介をし合ったら同い年で、しかも同じ高校ってことが分かった。その名前がちらほら聞いていた有名人なのもあとから気付いた。だって言われてもにわかには信じられなかったのだ。ふわっとした雰囲気のあんな優男が、関東の不良を取りまとめた暴走族連合の“総長”だなんて。

 と、こんな流れでわたしは真一郎と知り合った。お互い真面目な高校生とは言い難かったけど、一応同じ高校に通ってはいて動線がカブっていたこともあり、顔を合わせる機会が多くて、自然と仲良くなっていった。家も近所だったから、付き合いはお互いの身近な人間も包んだ関係になっていく。真一郎はわたしの弟とも母とも仲良くなって買い物を手伝うレベルだったし、わたしもエマちゃんと真一郎くんに挟まれたもう一人の兄弟、マイキーこと万次郎と面識ができ、コンビニで会うたびに何かをたかられたし、そんなこんなで当時真一郎の右腕だか左腕だかと言われた男を紹介されるにも時間はかからなかったのである。

 「ワカ。美人だろー?」
 「「あ」」

 ここでようやく話が、冒頭の白い男に戻る。紹介された今牛若狭その人こそ、まさにそのガソスタに現れる白い男だった。真一郎に取り持たれてようやくお互いの名前と年齢を知り、わたしは静かに衝撃を受けた。初めて会った時点ではこの男も同じ中学生だったことにだ。あんなに怖かったのに。

 それから彼らは揃って深夜のガソスタによく現れるようになり、一緒にいる時間が少し増えた。それまでは会ったら話す程度だったのが、肉まんを買って一緒に食べ終わるまで喋るようになり、何で気が合ったんだか、時折ファミレスで待ち合わせて一緒に夕飯をとるようになった。その頃のワカへの印象は、ご飯を一緒に食べていても何をしていても顔がいいなとばっかり思ってて、いちいち彼の言動から生活臭を感じるたび、この男もそんな感覚を持ってるんだ、と地味に驚いていたような気がする。ペットボトルを捨てるのが面倒くさくて死ぬほど部屋に溜まるとか、鼻かみすぎて鼻の下が痛いとかそんなのでさえ、ペットボトルなんか飲むんだとか、鼻水なんか出るんだとかそのレベルで驚いた。同じ人間だと思ってなかったと言ってもいいかもしれない。

 当然あんな顔面だし、意外に母性本能をくすぐるようなダメなところも多いせいで、わたしが知る限り女が絶えてたことなんて15分とない。笑えるぐらいPHSがよく鳴ってたし、道で一緒に歩いていて恋人を自称する女同士が喧嘩したこともあって、わたしと真一郎はよく『120股の男』だの『平成のドンファン』だのと揶揄していた。当人は慣れたものでいちいち反応もしなかった。一度電話がかかってきたときなどは舌打ちして出るなり「かけんなっつったろウゼェ」って切っていたのを見て、この男に恋した女に心から同情し、自分は絶対に同じ轍を踏んじゃいけないと思った。その暗示は、わたしたちが初めてキスしたときも強固にかかって外れなかった。まあそれだってワカの携帯が例によって鳴ってたからなんだけど、一応早くから自分で『この男だけはダメ』と認識してたことは大きいと思うので自分を褒め称えたい。

 忘れもしない、無事高校を卒業して、ロクに通ってもいないくせに卒業パーティをしようとワカの一人暮らしの家で飲んだ日だ。真一郎も武臣も、わたしのガソスタ仲間の由紀も徹も、まだ身体に慣れないアルコールに泥酔している中で、わたしとワカだけが当初から耐性があってわりと正気だった。狭い1Kの小さなシンクで洗い物を片づけるわたしに、追加の洗い物を持ってきたワカが、すぐ部屋に戻るかと思ったのに何をするでもなくわたしを見ながら壁に寄っかかっていた。

 「戻んないの?」
 「…寂しいかと思って?」

 キッチンのある廊下は電気をつけてなくて暗くて、騒がしい一間とドア一枚を隔てていやに静かで、その心細さを埋めるような言い方に、ああ、こうやってこのひとは女を突き落とすのだと知った。付き合いが長くなければ――その端末にどれだけ、沼にはまった女たちからのメッセージが絶え間なく送られてきてるかを知らなければ、きっと簡単に好きになってしまうだろう。それをワカが分かってやっているかどうかは置いておくとして。

 水を止めてワカを見ると、何も思っていなさそうにもとれるし、どこか熱を帯びたようにもとれる目線は、まっすぐにわたしに向けられていた。これだけ何回も見ていてもやっぱりカッコよくて、手に入ることなんかなくても、1回ぐらいいいかな、と思った。わたしがバイトを辞めて専門学校に進んでしまえば、この人も就職してしまえば、間をつなぐ真一郎が仕事で忙しくなってしまえば、もうこんなこともないかもしれない。“高校を卒業した”という、それなりの人生の区切りに舞い上がっていたともいえる。身体をそっちに向けかけただけで、わたしのOKを見抜いたワカは、あっという間にわたしの濡れたままの手を引いて唇を奪った。

 どく、と心臓が鳴って、言いようのない高揚がそこから身体中に沸いた。信じられなかった。ずっとテレビとか雑誌とか、メディア越しに見ていたような気持ちでいた男とキスをしてること。厳密に言うとこのときわたしには自然消滅しかかった彼氏もどきがいたわけだけど、そんなのはわたしにとってもおそらくワカにとっても、興奮を煽るスパイスでしかなかった。

 キスが深くなりすぎる前に、ワカは「止めらんなくなるから待って」とくらくらするようなことを言ってわたしを離し、部屋に戻ってつぶれた人間たちを追い出しにかかった。もっと手こずりそうなものだったのに、今思えばたぶん武臣が察して協力したんだと思うけど、あっという間に4人をアパートから追い出し、ドアの鍵を閉じたとたんにキスを再開されて気付けば丸裸で夢心地だった。

 「好きって言って、えり」

 中に入った状態で、キスの合間にそう言われたとき、ときめくなんて通り越して腹が立った。簡単に『かけてくんなウゼェ』なんて言える人が、そんなふうに言うなんてずるすぎる。意地でも言いたくなかったけど、ワカはこの時点でいやになるほど女を蕩けさせる行為が上手くて、「言って。おねがい」と何度も懇願するように奥を突き上げて、知らなかった吐きそうなほどの快楽に大バカになったわたしは言われるまま「好き」と何度も繰り返した。それは心からではなく、うわ言にねだられてなぞったセリフだった。それなのに口に出してしまうと頭はかんたんに自分が彼を好きだと勘違いして、より一層満たされた。だからこの遊び人は好きだなんて言わせるんだなと冷静な頭が分析した。たった18年ではあるけど、それまで過ごした生涯で間違いなく一番幸せな時間だった。

 翌朝目が覚めて、あーーやっちまった、って思いながら天井を見た。PHSにちょうど自然消滅しかかった男から連絡がほしいとメッセージが来ていたけど、あんなの知ったら到底戻る気になんてならない。身体を起こそうとすると、後ろから細いくせに筋肉質な腕に拘束された。ドキっとするよりも、セフレにサービスがいいなと思った。

 「何時…」

 嫌味なほどにいい声に「6時半」と伝えると、「早ぇよ」となぜか怒られた。酒が抜けてしまうと、背中に触れていたむき出しの胸板が昨日よりもリアルに感じられて、昨日こんなのとえっちしたのかと信じられない気持ちになったし、首筋に当たる規則的な寝息がなんだか恥ずかしくて一人赤くなった。

 結局この日、昼前までワカはわたしを捕まえたまま起きてくれなかった。やっと離れてジャマ扱いされないうちに帰ろうとしたら、一緒に出て来て近所の蕎麦やさんに入ることになり、だらだら喋って買い出しまで付き合った。夕方にはわたしに約束があるからと解散したけど、それがなかったらもう1泊していくぐらいの空気で、まあ本当にサービスがいいなと思った。変わらずワカのPHSがよく鳴ってたのがいいストッパーになってくれていたと思う。あれでもし全然鳴ってくれていなかったら、優しくされてるだけだったら、めちゃめちゃ苦しい恋が始まっていたはずだ。

 で。

 当分連絡もなかろうと期待もしていなかった翌日、普通にメッセージが来た時はどうしようかと思った。こうやってハマらせておいて『かけてくんなウゼェ』(※このイメージしかない)はあまりに罪深い。暇ならメシいこ、という誘いに、だいぶ迷ったけど嫌いなわけでもないし…と結局応じて、近所の安居酒屋で待ち合わせた。

 「よ。なにしてた」
 「引きこもってマンガ読んでた。ワカは?」
 「似たようなもん。何飲む?」
 「お茶割り」

 先にワカが座ってたのは安居酒屋ならではの2人しか座れない細いテーブルで、このあと誰か来るかもしれないって可能性もつぶれた。まあ、別に気まずいわけでもないからそれはそれでいいんだけど、店を出るときに2人でいたらまた流されそうで嫌で、ペースを上げないように気を付けようと誓った。

 話すのは楽しかった。どちらも決して口数が多いほうじゃないのに、次の話題どうしようってムリに頭を回さなくても、なんとなく自然にどちらかがふと思いついたことを喋って話して、ちょっと笑って、次の話へ。今まで二人になった男のなかでダントツに居心地がいい、と思うと同時に、ぞっと怖くなった。ワカと関わった女がみんなそう思ったから携帯が鳴りやまないのだ。わたしみたいに芸能人を見るような心地で彼を見ていて、でも寝てしまったら親近感が湧いて、こうして話したら居心地がよくて、このひとも人間だったんだって気付いたら恋心が止まらない…なんて陳腐すぎて歌詞にもならない。

 「来るだろ?」

 店を出て当然のようにそう言われて、もう、本当に断ろうと思った。きれいな一回限りの記念として、あの夜をとっておきたかった。だからちゃんと、「明日早番なんだ」と言った。なのに、

 「ヤだ。ウチから行けよ」

 と拗ねた顔で言われてしまった。大前提としてこの男、道行く人が振り返るほど美人である。そんなのの拗ねた顔なんて、そこらへんの男が束になってマジ顔したって足元どころか、足の裏の皮膚1枚にも及ばないほど攻撃力があった。女が何百人いてもおかしくないと分かっていながらたったこれだけでぐらついてしまう。持てる少ない理性で「起きらんないからムリ」とポーズをとったものの、結局各種アメニティをコンビニで買われてあれよあれよという間にワカの部屋に来てしまっていた。ダメ女。死のう。ちなみにユニットバスでアホかってほど女ものの化粧水とか歯ブラシが、まるでカッコウが卵を落とすようにスペースの取り合いをしてたのが、このときのストッパーだ。

 こんなことが、そこから週2−3のペースで続いた。わたしから決して誘うことはなかったにも関わらず、だ。最初こそいちいち好きにならないように気を付けよう!と警戒していたが、これほどハイペースでは3か月もするとさすがのわたしも今牛若狭という刺激に慣れてしまい、何かときめくようなことがあっても「うわっ顔が良すぎてびっくりした」だの「耳が妊娠する」だのと逆にネタにできるようになった。そのうち飽きるだろうし、顔も居心地もいいので誘いにはすべて応じていたんだけど、ワカはこのあたりから不満を訴えるようになってきた。内容は、

 「たまにはオマエから誘って来いよ」

 のたぐいである。ふざけないでほしい。オマエの『かけてくんなウゼェ』がどれだけトラウマになってると思ってるんだ。とは言えないので、

 「連絡しようと思うとワカがしてきてくれるからさぁ」

 と無難に避けた。ら、その後1週間連絡が途絶え、飽きたかと思ったらその翌日に電話が鳴って「連絡は?」って拗ねまくった声で言われて笑った。まるで本当にわたしを求めているみたいな演出だ。サービスの良さはさすがとしか言いようがない。結局半年以上、このペースは崩れなかった。

 ようやくおかしいな、と気付いたのは、自分の誕生日の一か月前になってだ。

 「来月誕生日だよな?」
 「え?…よく覚えてたねそんなの」
 「は?バカにしてんの?」
 「や、べつにしてないけど……なんで。何かしてくれんの?」
 「沖縄行かねぇ?3泊ぐらいで」

 この申し出だ。箱根とかそこらへんならまだしも、沖縄?しかも3泊?さすがに1セフレにサービスが過剰すぎて、あれ、もしかして何も言われてないけどこれは付き合ってるのかな、とこの時に初めて疑った。いやいや、そんなはずはない。ユニットバスは相変わらず小さいアメニティの使いかけであふれているのだ。ちょこちょこ捨てられたり、残っていたのが減っていたりもする。彼女だとしたらそんなに堂々と浮気するか?

 結局わたしは、意外にワカが小金持ちで、サービスがものすごくいいのだと結論して、旅行の誘いを受けた。沖縄旅行は楽しかった。テレビで見るようなオーシャンビューのきれいなホテルに、未成年がずいぶん無理をしたレストランに、なにもかもが初めてでたくさん笑った。彼女かどうかなんてこんなに楽しいならもうどうでもいい。

 なんてね。

 本当にそう思っていたのだ、何もなかったときは。ずいぶん自分の執着心を低く見積もったものだと思う。

 旅行の最後の夜のことだ。一緒に寝ていた深夜、ワカの携帯が鳴った。誰かといる時は基本的に番号だけ見て無視することが多いから、油断してた。

 「……なに?……どうした」


 予想に反し、かけてきた番号を確認するなりワカはそれに出た。その声は明らかに真一郎などの男に向ける無遠慮なトーンではなく、様子の問い方もやわらかくて、しかもわたしに聞こえないようにわざわざ部屋を出て廊下に出て行った。息ができないんじゃないかってほど傷ついた。やってしまった、と、初めてワカと寝た日以上に後悔した。あれほど警戒してるつもりだったのに、知らないうちにちゃんと懐に入れてしまっていた。

 「悪い、起こした?」
 「…ん?…ううん」

 戻ってきた声に、我ながらへたくそに、眠たそうな演技をした。執着心をかけらでも気付かれたら、面倒事が嫌いなワカとの関係は断たれる。それを恐れている時点でもう負けなのもわかっていたけど、これほど負けていてはリセットも図れない。これまで腐るほど見てきた女たちと同じ。夢みたいな茶番が続くように、バカなフリ、面倒じゃないフリ、それをずっと続けていくしかないことに絶望した。眠れなかった。

 東京に戻ってから、会う頻度は少し下がった。この時期はワカと出会ってから一番苦しかった。自分から連絡なんて絶対にできない。来ない連絡を待つあいだは、こんなに消耗することはもうやめよう、と依存した薬をやめるような離脱症状に苦しみながら自分に言い聞かせるくせに、連絡が来たとたんに正気をなくして天に昇るほど喜ぶ。でも本人の前ではつとめて今まで通りを装い、装いきれていないんじゃないかと不安になり、別れるともう会えないんじゃないかといちいち泣く。ある朝普通に家で一人で目が覚めたときに、何も起きていないのに涙が出て、このままでは本当に病気になると危機感がわいて、とっさに由紀(元ガソスタのバイト仲間)に連絡し、誰か紹介してほしいと頼んで、頼もしい友人によりその日のうちに寄せ集めの合コンが開催される運びとなった。

 古今東西、世の遊んでる男っていうのはこういう、自分の所持物が檻から出そうな気配に敏感だ。頻度を下げていたくせにこういうときばかり連絡してくる。つまりワカも例に漏れず、わたしが気持ちを切り替えて家を出ようとしたそのときに、普通に玄関の前にいて、喜びと絶望という正反対の情緒をいっぺんに味わい、爆発するかと思った。

 「あ?出かけんの?」
 「あ…うん。用だった?」
 「メシ行こうかと思ったんだけど。……何?ずいぶん可愛いカッコしてんじゃん」

 無遠慮な目線が全身を2往復して、恥ずかしかったしなぜかばつも悪かった。浮気を見つかったような気分、とは少し違うかもしれない。夜遊びを父親に見つかった感じの気まずさというか。ワカの前で狙いすぎた服をあまり着ていなかったのもあって、身体のラインをぴったり拾うミニスカワンピもむき出しの足も、本当に恥ずかしかった。

 「どこ行くの?」
 「…渋谷」
 「誰と?」
 「ユキ」
 「だけ?」
 「……と、ユキの友達」

 顔を見るまでは万が一ワカに会っても、合コンに行って彼氏を探すとでも言ってやろうと思っていたのに、いざこうなってしまうと喉が閉じて、合コンのごの字も言えなかった。といっても、わたしの恰好で丸出しではあったので、ワカは不機嫌そうに溜息をついたのち、低く聞いてきた。

 「男いんの?」
 「…いるとおもう」

 ごまかしてもダメだろうと思ったの半分、あとは、ふっかける気持ちも半分あった。ほんの少しは焦ってくれたりしないかなっていう、どうしようもない甘い期待。まあ、「あっそ」って、もちろん冷たく蹴散らされるわけだけど。

 「行ってきます」

 さすがにそうまで興味がなさげだと苦しくて、明るくは装えなかった。弱弱しくそう言って、その隣を抜ける。手を掴まないでほしいって気持ちと、掴んでほしいって気持ちがまたいっぺんにくる。結局ワカはわたしを引き止めなかったんだけど、それが本当にきつくて、結局掴んでほしかった気持ちのほうがはるかに大きかったのを無駄に実感しただけに終わった。

 そんな状態で挑んだ合コンに、大した収穫なんてあるはずもない。やけくそで忘れたいあまりに、酒豪キャラになって恋愛対象から外れるリスクなんかどうでもよく、ひたすら酒をかっ食らって解散した。残念ながら自分が酒に強すぎて正気を失うには程遠く、ただ気持ちが悪いだけだった。少しは嫉妬したり心配したりしたワカから電話が鳴るとかそういう甘々な妄想もしたけどかかってなんかこないから、期待をするだけ苦しくて電源をつけたり切ったりして、結局ついに、自分からかけた。

 『終わった?』

 通話口越しの声を聞いたとき、ああ、本当にやらかしたなと思った。自分でワカに電話をかけて存在価値をなくすなんてバカな女たちだくらいに思っていたのに、ついに自分も多くの先人がたどった道に乗ったわけだ。最悪。なにを喋っていいかもわからず、黙ったままもはや切ろうかと迷った。間違いでした、が今ならいけるかなと思って。そうしたら、

 『…どうした?喋れねぇほど具合悪いの?』

 わずかに心配げな声がして、とてもじゃないけど切れなかった。失いたくないあまりに泣いた。泣いているのを悟ってほしくもあったし、悟られたくなくもあった。

 「悪くないよ。ごめん、声聞きたくなっただけ」
 『…今どこ』
 「わかんなーい、渋谷のどっか?もー帰るからへーき」
 『ふざけんな。駅で待ってろ』
 「なんでよ、別にいいじゃん」
 『んなフラフラ一人で歩かれてたまるか。電話切ったら殺す』

 もっと冷たくされるかと思ったのに、愛されてると勘違いしそうな怒りを食らって驚いた。そういえば初めてわたしから電話した。1回ぐらいはサービスしてくれるのかもしれない。

 酔っぱらっていないつもりだったのに、ワカの声を聞いて気がゆるんだのか、駅に向かって歩く道でようやく気持ちがふわふわし始めた。あるいは心配してほしいだけでフリじゃなく本気で酔っぱらえるほど浅ましい、のほうが正解かもしれない。スクランブルが見える頃にはわたしはめちゃくちゃ陽気だった。

 「ほんっとーーに顔がいいよねワカは」
 『はいはいありがとな聞き飽きた。まっすぐ歩けよオマエ』
 「歩いてるよちゃんと!はーー電話してるだけで幸せー!めっちゃ混んでるけどこの中で絶対一番イケメンと喋ってる自信あるわ」
 『…飲みすぎ』
 「彼女は幸せもんだね」
 『新しいタイプの自慢だな』
 「自慢?してなーい。…なんで?」
 『幸せもんはオマエってことだろ』
 「…ん?」

 その意味をかみくだくのに、酔った頭はだいぶ時間がかかった。彼女が幸せもんで、幸せもんがお前?というと、彼女イコールわたし?

 気付いたとき、携帯を落とすかと思った。

 「……え?」
 『なに?なんかあった?変なモン近づくなよ』
 「……あ……いや…うん、大丈夫」

 いやいや、そんなはずがない。わたしがワカの彼女だって根拠なんか1個もないけど、本命でない根拠ならいくらでもあるのだ。アメニティとかあの電話とか。そう。…いくらでも。

 「あのさ、旅行…のときのさ、最後の夜にさ?」
 『うん』
 「電話かかってきたじゃん」
 『…そうだっけ?……あー。千咒か、あったな。それがどうした?』
 「せ???んじゅちゃん????」
 『そーだけど。言わなかったっけ』

 武臣のまだ小さい妹の名前を出されて、目が点になる。女は女でもそっち?まさかのそっち?わたしの質問の真意なんて伝わっていないワカは、なんかあの時間に目が覚めたら家に誰もいなくて不安になってかけてきた、と普通に言い訳にしてはずいぶん完成度の高い、あり得ることを説明してくる。あれほどわたしはあの夜傷ついたっていうのに、まるでそれじゃわたしが大バカだ。

 いや、まだある、まだ。あの雪肌精とか資生堂の赤い小瓶が増えたり減ったりしてるのを、わたしは知っている。

 「……あのさ関係ないんだけど、洗面所の散らかったの、アレ使ってんの?」
 『オレは使わねぇよ。シンちゃんが気に入ってっから捨てらんねぇの。汚ぇからヤなんだけど動かすとキレんだよ』
 「………」
 『てか何?急に。なんの話?』

 ちょっと待って。ヤバい。

 「……付き合った記念日とかちゃんと覚えるタイプ?」
 『3月20日?だからマジで何?酔ってんなオマエ』

 残念ながらその酔いはとっくに吹っ飛んだ。スクランブルの人混みをちゃんと抜ける気力も湧かず、わたしは横断歩道のわきで頭を抱えて立ち止まってしまった。待って待って本当についていけない。わたし、マジでこのひとの彼女だったの???

 いくらでもあると思っていたワカが遊び人の根拠が、結局2つしか出てこなくて、わたしはついに黙った。こっちの気持ちを知ってか知らずか、今度はワカが畳みかけてくる。

 『つーかなんなんだよ今日のは。なんか怒ってんの?』
 「…なんで?」
 『突然出かけるとか言ってオレも見たことねえカッコして、なんか元気ねぇし、珍しく電話してきたと思ったら黙るし泣いてるし』
 「エッ」
 『気付くわフツーに。明らか声おかしいだろが。…あー見つけた』

 見つけた、が肉声とかぶる。顔を上げたら、いつしか見慣れた白髪の美形が、やっぱり衆目を集めながら横断歩道を渡ってきた。

 「何そのカオ」

 ほっぺたをつままれる。痛い。頼んでもないのに夢じゃないのを教えられてしまって逃げ場がない。

 「……最近連絡…少なかったよーな……」
 「は?しばらくシンちゃんの手伝いで手取られててオレからあんま連絡できねぇけど、電話は取れるからオマエが連絡しろっつったろ」
 「…え?そんなん言ってたっけ?」

 まるで心当たりがなく、ぽかんと聞き返すと、ワカはあーー、とうんざりした顔で天を仰いだ。そんな顔をされても覚えていないものは覚えていないし、と記憶をたどると、たしかに先月くらいに真一郎も混ぜて飲んだ日、バイク屋を開業するから忙しくなるだのなんだのって話があったような気がしてきた。久しぶりの再会に酒が入って楽しくなっちゃっていて、あーいいよいいよぜんぜんこまんなーい☆みたいなようなことを、口走った、ような、気も…。

 「…思い出しました。すみません」
 「……で今日のソレはそーいうこと?連絡ねぇからキレて男と遊んだってワケ?」
 「いやっべつにそういうわけじゃないんだけど…」
 「つーかこの際だから言わせてもらうけど、オマエ基本オレの話聞いてねえよな?顔がいいだの声がいいだの言ってまともに取り合ってねぇ自覚ある?ねえな?」
 「えっちょっと待って待ってなんでそんな」

 急に早口でキレ出したワカに慌ててストップをかけた。そんなつもりで顔がいいだのなんだのとは言っていない、シンプルにのめり込みすぎないようにというバリアだ。まあ伝わらないワカは怒っていた。というか、言われてみればたしかに、そう取られても仕方がない、かもしれない。ワカがこれまで向けてくれていたのがセフレへのリップサービスではなく、本当に愛情だったとしたら、これはもう結構、相当な、死んで詫びるレベルの失礼ではある。

 「…いや、待って?」
 「何」

 違うな。そうじゃない。思い込みが激しい自分が悪いってここまで思ってしまったが、元凶はこの男だ。あれだけ死ぬほどモテる様を見せつけておいて、しかもアメニティも紛らわしく片づけないで、誰ともはっきり言わずに女からの電話に出ながら聞こえないように廊下に出るなんて。だいたい、

 「わたし一回も好きとか付き合おうとか言われてないんですけど……」

 そう、スタートがアレで、誰が付き合ったと思う!?って話だ。本当にあの夜から付き合っていたのだとしたら約10か月にわたり誤解してきたことになるので、申し訳なくて悟らせないようにここまで多少誤魔化そうとしていたのをついに放り投げた。ら、ワカは、彼ほどの美形でもこんなに崩れるんだってほど、信じられねぇ、ありえねぇを全力で押し出したとんでもない顔になった。

 「おっ……まえ…………うっそだろ…ハァ?なんだと思ってたの?」
 「セフレ」
 「ふざけんな、だとしたらサービス良すぎだろ」
 「だからサービスが良すぎるなって思っていつ終了すんのかなって思ったよ?そりゃ話まともに聞きませんよ言われてないんだもんなんにも!」
 「………ハァ……マジかお前……」
 「だってめちゃめちゃ電話かかってくるし洗面所にあんなアメニティあったらいくらでも女いるなって自然に思わない!?」
 「だったら聞けよ少しはこれは誰のだとか片づけろとか。電話はだいたい昔のチームのヤツだよ、なんで何も聞かねぇの?だから今まで自分から電話してきたこともなかったわけな?もーーいい、めんっどくせぇ」

 声を荒げることこそなかったけど、どんどん低温早口になったかと思うと、がっと後頭部を掴まれた。なにかと思ったらそのまま乱暴にキスをひとつ押し付けられる。

 「結婚すんぞ」
 「は!?」
 「言葉にしたって今度はウソだっつって信じなさそうだから法律に頼んだよ。いいよな?顔好きだろ?」

 ありえないほど乱暴なプロポーズだったが、顔好きだろ、と言われたとき、言うべき指摘が頭から溶けた。

「……好きです……」

 ずっとずっと『かけてくんなウゼェ』を恐れていたっていうのに、『めんどくせぇ結婚すんぞ』を浴びることになるとは、夢にも思わなかった。顔はまあ、めっちゃ好きですね。


***