続き





***



 きっかけが何だったかっつったら、手だったと思う。

 何にも塗ってない、すっぴんの細い指が焼き鳥の櫛をつまむところが、その日はいやに目についた。えりの指なんてそれまでだって死ぬほど見てきた、それこそスタンドで空気圧を見させたときだって、一緒に何か立ち食いしてたときだって。今考えるとどうでもいいヤツの指なんか記憶しないから、サブリミナルで刷り込まれすぎたか、最初からどこかで別枠には数えてたかもしれない。なんにせよその日は衝動を煽る要素が多かった。酒とか、狭い家のなかで普段より近づいてくっついた肩とか足とか、えりが酒に浮かされて口走った、当時あいつが付き合ってた元客の男の愚痴とか。ムラついてるとこにえりが不用意にキッチンに一人になったりするから、衝動的に追いかけた。

 「戻んないの?」

 暗い廊下でそう聞いてきたときはたぶんまだ、オレにそんな気があるのを疑ってなかったと思う。やたらモテ男とかなんとか囃すくせに、えりは一度もオレを男として見たことがなかった。男女らしいことが何もなく数年来も付き合えた女なんてここまでいなかったなとこの時気付いて一瞬もったいないかも、とも思った。でも結局それさえむしろ、この女がどんな顔をするか見たいって煽りになって、その細い手を掴んで引いた。洗い物してたから濡れてて冷たくて、給湯器つけろぐらい言えよって思ったけど、こいつの性格を考えたら雰囲気を邪魔しないように言い出さなかったんだろうし、この時はその空気を読みすぎる性格がけなげでたまらなく可愛く思えて止められなかった。自覚した数時間後にヤったことにはなるし、もうちょっと温めてから落とせと言われれば反論のしようはない。それは認める。

 にしても。

 「これ全部捨てるから」
 「ハ?なんで?ヤダ」
 「ダメ、今回は絶っ対捨てる。要るモンは詰めて持って帰れ」

 えりが1年近く誤解した元凶を散らかした男にビニールを突き出すと、真一郎は目をぱちぱちさせて、オレと散らかった基礎化粧品類と、後ろで気まずそうに首をすくめているえりを見比べた。事情なんか察する前に片づけてほしいのに、この空気に耐えられなくて手がかりを吐きだしたのはえりだった。

 「あの…本当に真一郎なのわかったから、置いといていいよ……」
 「あ?えっ?…アッハッハマジで!!?!?ワカ浮気だと思われたの!!?!?」
 「……えり?」
 「だ、だって……ごめん……」

 理解するなり人を指さして爆笑しだした真一郎に蹴り入れる気も湧かず、いらねえヒントを出したえりを睨むと、えりはさらに縮んで壁の向こうに引っ込んでいった。狭いユニットバスに爆笑が響く。泣くまで笑うかフツー。元凶のくせに。

 「っひ、くるしい、マジウケる、しぬ」
 「死ね。手伝おうか?」
 「怒んなってもう、おもしれぇから……あ?つーか今更じゃん、ずっとあったろこんなの」
 「……」
 「……え?ウソ」

 普段は死ぬほど鈍いくせにこんなときばかり聡い。何も言い返せないオレに真一郎はさすがに笑うを通り越して、深い同情のフリをしたぬるい笑顔を向けてくる。

 「あー?つまり?ずっと本命って伝わってなかったってコト?」
 「うるっせぇな」
 「……まぁ自業自得ってヤツよ、気にすんな。オマエ顔いいからそーゆー誤解もあるってぇ」

 責めてんのか慰めてんのかはっきりしてほしい。真一郎はそういうことならと、これまでどんなに言っても捨ててこなかった小物を片っ端からビニールに突っ込んでいった。棚の上にはえりが使っている3本とオレのワックスだけが残って、たったこれだけでずいぶん清潔感が出る。

 自業自得、と言われればまあ、否定はできない。今片付いたゴチャゴチャは、一部シンちゃんが買い足したものもあるけど、もともとは確かにこの家に泊まっていった女たちのものだ。捨てる前にこの男が『おっ新作』とか言って使っては、『肌荒れ消えた!!』とか『この匂いめっちゃ好き』とか言って気に入って捨てさせてくれなかったからあんな山になりこの家の普通の背景になり、それが女の痕だってことさえ忘れていた。言われてみれば疑って当然の所業だったが、これまでにないほど、というか初めて尽くしたつもりでいた相手だったから、そのへんの引っ込みがつかなくて一度も謝ってはいない。つーか聞けよ。

 「オレらにはフツーに彼女っつってたのになー?本人に言い忘れるとはなぁ?」
 「…もし言ってたとしてもコレで多分信じてねぇよ。シンちゃんのせい」
 「おーい責任押し付けんなよ。ちゃんと言ってねぇの誰?」
 「……」
 「謝ったー?」
 「……自分は謝る相手もいねぇくせに」
 「がっ、図星だからって人エグんのやめろ!!」

 騒ぐ恋愛弱者を置いて部屋に戻ると、そんなのは聞こえようもないベランダでえりが誰かと電話していた。こっちからだとその顔は見えなくて、相手の想像はつかない。弟か、友達か。じっと見てたら、後ろから鼻で笑われた。

 「心配しなくても男じゃねえだろ」
 「そっ……ちげぇから!」
 「だははは!!あのワカがヤキモチ!!えりすげぇー!!」
 「ちげぇっつってんだろうるせぇな!!」

 何も違わない。相手が誰か気になる理由なんてそれしかなかった。こんな鈍男に自分でも認識できてなかったことを指摘されて気付くなんて、さすがに自分が情けなくなる。なかったことにしたくてその頭を壁にめり込ませてたら、カラカラと音を立てて窓が開く。

 「はいはい、じゃあね。…何してんの」

 電話を切りながら入ってきたえりが怪訝な顔をした。「あのなワカがな」余計なことを言う前に尻に一発蹴りを入れて転がし、「なんでもねぇから」と言うと、「そう?」と肩をすくめる。その一連の流れを床から見上げるシンちゃんが、なぜかうんざりした顔になった。

 「オマエそーゆーとこォ」
 「…何」
 「そーやってカッコつけてなんも言わねえからえりも聞けなかったんじゃないの。なぁえり?」
 「え?」
 「今の電話だーれ?ってワカが気にしてたぜ」
 「だっ余計なこと」
 「ユキ。なんか仕事辞めたいんだって。今日飲み行くことになったんだけど、ふたりヒマだったりしない?」

 「「……行く」」

 わざとかってほど一瞬焦ったところを拾わずに、えりは「じゃあ言っとく。ベンケイくんにも声かけてみよっかな」などと言って再び携帯をぽちぽちいじり出した。真一郎がウソだろみたいな顔してこっちを見上げてくる。そんなのこっちだって言いたい。恋愛弱者にしてはさっきの指摘はあながち間違ってはなかったと思うけど、それを上回ってこの女がニブいって話なんだよ今回は。

 「言っとくけど相当愛情表現してるから。そのうえでのアレな」
 「……んじゃもう手はひとつしかねぇな」
 「なに?」
 「えりが『もういい!』っつーまでゲロ甘に接する」
 「……それなりに甘いと思うんだけど」
 「それなりじゃダメなんだよ。月9ぐらい、いや、もうなんかアレだな、イタリア人とかに習ってこいよ。結婚して結局信じてもらえねぇの嫌だろ」
 「………」

 イタリア人って。どこから突っ込めばいいかわからない提案も、これだけ長い勘違いを生んだ手前ボロカスには言えなくて黙った。

 ベンケイは捕まったらしい。えりは電話しながら「ほんと!?」と顔を明るくしている。今日のメインはユキの愚痴なんだろうけど、落ち着いた頃についでに連中に報告もできそうだ。

 *

 「すんません、待ち合わせの…」
 「ああ、明司様ですね!どうぞ」

 店員の案内に先に行けと、一歩下がってえりの背中を押す。えりはふつうにそれに従って、愛想のいい店員に従って店の奥へと歩きだす。それにシンちゃんが「へーぇ」と謎のリアクションを取った。

 「なんだよ」
 「店員にはオマエが声かけてえり先に入れてやんのなーって。いつも?」
 「……まァ」

 最近は何も考えないでできるようになってたけど、当初は意識してやってたことだった。それをわざわざ見られて改めて指摘されるのが微妙にハズくて目をそらす。こいつらとメシ行くときはだいたい武臣に行かせてあとはゾロゾロついてくばっかりだったし、えりと付き合う前に3人でメシ行ってた頃にはなかった習慣だ。シンちゃんはべつにそれをからかうでもなく「フーン」って言っただけだけど、なんか据わりの悪い気分にはなる。今日ってもしかして、連中に結婚するとか言っちゃったらこういうのずっと拾われんのかな。えりが歩く後ろ姿を見ながら余計に照れくさくなってきた。言うの最後にしよかな。

 「お待たせ」
 「あっ来たあ!!」

 簡易的に区切られた半個室に入ると、ユキがえりにすぐに飛びついて、そんなに会うのが久々でもないくせにふたりは楽しそうに抱擁を交わしていた。女ってよくこんな会うだけでテンション上がるよなと思いながらぼけっと盛り上がりが引くのを待ってたら、えりに抱き着いたままのユキがオレを見てじとりとあからさまな敵意を持って睨んでくる。げ、なんで?フツーに怖くて一歩引いたら、小声で「クズ」と吐き捨てられた。とたんにすでに座っていた武臣もベンケイもすぐ後ろにいたシンちゃんも、ばっと腕で顔を隠してぐすぐす肩を震わせ出す。ムカついたからとりあえず足の届く範囲の真一郎だけ蹴って、奥の安全な席に着いたままのクソどもも今にこうしてやるという意味を込めて威圧すると、笑いすぎて微妙に涙目になりながらかろうじて震えなくなった。

 「えりもシンちゃんも来てくれてありがとー!……」
 「……」

 あからさまにオレにだけもうひと睨みよこしたユキに、えりが慌てて「もうその話は済んだから」と言い含めたが、「あたしの中では終わってないもん」とまた睨まれた。それでようやく察しがつく。えりが誤解しきっていた頃は、ユキがすべての相談を引き受けていたんだろう。解決したと本人に報告されても、自分の親友をここまで苦しめたクズを許せない。そういうことならその怒りは甘んじて受けなきゃならない。

 オレから遠ざけるように庇っていたユキからえりを取り返して、今にキレだしそうだったユキに、間髪入れずに頭を下げた。

 「悪かった。はっきり言ってなかったオレが全部悪い。オマエにも迷惑かけた」
 「……あたしに謝られても」

 ユキは驚きに目を見開いたあと、ややばつが悪そうに目線を横に流す。直球で来られるとは思ってなかったんだろう。予想外の特攻に怯んでいる間が勝負だから、自分のプライドとか照れとかはいったん全部投げ飛ばしてしっかり詫びを入れる。

 「えりにはこっから時間かけて埋め合わせる。こいつのケアしてくれててありがとな」
 「………」

 なぞに男どもの「…オー」と微妙に感心したような声が静かに揃う。だまってろ刺激すんなと全員の脛を蹴って回りたいが、頭を下げたまま黙って待つと、ユキの長い溜息が聞こえた。降参の合図だ。勝った。とりあえず長引かなかったことにひっそり安堵の溜息が出る。

 「これだから若狭くんはイヤなんだよ、結局怒れないんだもん…」
 「それねぇ」

 なぜかえりもそれに同調して、眉を下げて苦笑していた。べつにオマエの出鼻くじいたことなんかないし、なんならキレてきたことすらないくせによく言う。

 そこからはもうフツーに飲み会。えりが言っていたように、ユキが今の仕事が死ぬほど嫌で、次の職種は完全に違う世界にしたい、みたいな愚痴と相談とか、普通にシンちゃんがふられた最新話とか、一応オレらが結婚する報告とか。メンツが揃うのが久しぶりすぎたせいで全部がやたらに盛り上がってずっと笑ってて、雰囲気に酔ったってやつか、店員に音量をしこたま注意される頃にはほぼ全員が前後不覚になっていた。

 「おかね…」

 驚いたのは、オレと同じでわりと正気を保つ方のえりが相当出来上がってたこと。便所に立ち上がって帰ってきたら、突然ふらふらになっていてぎょっとした。

 「いつの間にそんな飲んだんだよ」
 「そんなでもないよ〜」

 いやいやいやいや。

 連中の手前いきなり連れて帰るわけにいかなくて、とりあえずえりが座れるように奥に詰めるしかないオレの足を、テーブルの下で誰かが蹴る。向かいを見るとシンちゃんが、「だからそういうとこォ」とべろべろのくせに無駄に正論を打ってくる。うるさすぎる。天を仰いだらまた3回ぐらい蹴られた。

 「あーもーうるせぇな…何」
 「もーみんな酔ってんだから。オマエが今ここでどんだけあまっあまにえりを甘やかしたところで忘れっから。ダイジョーブだから。そーゆーことしねぇからこんな長いこと誤解されんだろぉー?」
 「………」
 「ユキだってさぁ、オマエがちゃんと露骨にかわいがってんのみねぇと安心できねぇじゃん」
 「……………」

 話題の張本人は、真隣の会話さえ耳に入っていない様子でふわふわといまさらメニューを眺めていた。文字が追えなさすぎてか、飲み物の名前を上から指でなぞる奇行に走っている。その人差し指に、最初の最初に手を出したあのきっかけを思い出して、とっさのその指を掴んだ。

 「はえ」
 「…ノンアル」
 「えー?なんで?たのしいからいいよ」
 「余計バカになってる」
 「え、ひど……いまの聞いた?しんいちろーこのひと口悪いの」
 「聞いた聞いた。ひっでぇなー、オマエほんとに結婚すんの?」
 「どうしよう……だいじょうぶかな……」
 「おい」

 酔っぱらいの戯言とはいえ、今の舌ったらずの大丈夫かな、は妙に深刻そうで、そう言うやえりはこくこくと船を濃いでテーブルに頭をぶつけそうになっていた。落ちきる前に捕まえて背もたれにもどしたら、今度は壁に頭をぶつけそうだったから結局肩に引き受ける。遠慮のない体重のかけ方は本当に落ちきっていた。店を出るまでになんて起き得ないだろうなとやや諦めの心境で、ずり落ちないように抱え直したら、反対隣から「わぁー」と声が上がった。ユキだった。こっちも相当に出来上がっている。

 「なんだよ」
 「今のこれ、これはかっこよかった。いーーなぁえり、顔面国宝のかれし」

 これ、と言いながらオレが今抱え直した仕草らしきものをマネしてくる。なにがツボにはまったかもわからない動作だからどうリアクションしていいかわからなくて、「はあ」と流したら、「塩」と文句を言われて首を掴まれる。ひでえ酔っ払い。なんでこう自分の限界が分かってねえ飲み方ばっかすんのかなと言いたくても、この場にいる誰にも理性が残っていないから共感してくれる相手もいない。普段ならその同調役を引き受けているはずのえりが死んだから。なんで今日に限ってオレを一人にすんのよと小突いてみても起きないし。

 「えりさあ、あんまりさあ、欲しいっていわないでしょ」
 「……なにを?」

 酔っぱらいその2が人の首を掴んだまま、まともなトーンで喋り出す。離してから喋れと言いたかったけど、その言い出した内容に引っかかりがあったせいで言い出せなかった。

 「しつれんばっかしたんだって。すきなひとはぜったいふりかえってくれないって。ふつーそれ脈あるとか思っちゃうようなのも、ぜんぶないって言うの。ワカくんのこともさあ、ずっとちがうって言って……ひといちばい、期待しないようにしてた、たぶん」
 「……」
 「りょこうのときさ、よるさ、ワカくんかかってきた電話とったでしょ。まあせんじゅちゃんだったけど、えり、それ、てっきりワカくんの本命だと思って、めっちゃくちゃショック受けててやばくてさ、話したらって言ってもぜったいいやって言ってバイトとかめっちゃつめてってさ、みててすごい痛かった。そういうやつなの。ねえ、ちゃんと好きっていってね、このひとかってに諦めてわけわかんないとこで失望して離れたりするの」

 鎖骨で頭が静かに呼吸とともに上下する。鈍い鈍いとこの女のせいにばかりしてきたけど、そう言われるとあの日、あの短い服で出て行かれた時に短絡的に腹を立てた自分を反省した。たしかに言わなかった。それは別に誤魔化したかったとか逃げとかじゃなくて、直球にダサく言ってしまえば、こっちだって探ってたから。半年もすれば他に男の影がないことぐらいは分かってたけど、そこまできてしまってあえて言葉にするのも照れくさかった。けど、他にいないと確信してたこっちに対して、えりにしてみればあの洗面所のこまごましたゴミだの電話だので確信できるはずもない。あまりに動揺をみせないから誤解しきっていた、というか、まあ、言い訳にしていたというかなんというか。

 「必要以上に言ってあげて。えりはワカくんのことめっちゃ好きだけど、この人は自分のことそんなに好きじゃなくて自信もないの」

 いつの間にか首から手は離れて、手を握られていた。熱くて強い。仲がいいとは思ってたけど、ユキのえりへの思いやりをここまで実感したことはなくて新鮮だった。互いのために喧嘩して流血していたような自分たちに比べて、多少ライトな友情には感じていたのかもしれない。考えてみればそんなことが友情の指標になんてべつになり得ないのに、無意識に見下していた、に感覚は近い。強く絡む指をそっと握り返す。

 「…分かった。ありがとな、ユキ」
 「……うん」

 ふいにえりから「ん」と寝ぼけた声が飛び出す。ガチで疲れて寝てるときの音で、オレもユキも噴き出した。





 「たてる」
 「そう?」

 本人が強く主張するし、どうあっても謎に頑固でもたれようともしてこないので、諦めてひとりで立たせた。ヒールだったら首根っこ掴んででも離さなかっただろうけど、足元が安定感抜群のオレのビルケンだったってのもある。で、オレがえりに続いて席を立って、その奥のユキが立とうとして、派手にテーブルにぶつかる音がした。

 「あ?…大丈夫?」
 「大丈夫大丈夫!恥ずかしいから見ないで」

 よっぽど恥ずかしかったらしく、見るなと手で払われたけど、その足元がおぼつかなさすぎてさすがにその腕を掴んだ。可動性のない長椅子とテーブルの間から引きずりだすまでを手伝って、広いスペースまで出たとたんによろけるのを引き戻す。「ごめん、ごめんね」連発する間も相当危なっかしいのを、シンちゃんが見かねて身体ごと引き受けて、外へ誘導していった。あっちもあっちで酔っぱらってるから微妙に心もとないけど、みすみすすっ転ばせるようなことはないだろうとユキのことはシンちゃんに任せて、えりを振り返って、凍った。

 「…どうした?」

 初めて見た、露骨に傷ついたみたいな顔に動揺して、なにも気の利かないセリフを言ってしまった。なんとなく後ろに逃げそうな気がして、離れないうちに手首を引く。なにもなければ無抵抗に引かれるままになるはずが、わずかにだがあきらかに警戒して力が入って、もたれてこない。なに、なんで?まともなつもりでいるけど、アルコールでぼけた頭が原因の焦点を絞れない。酒なんて害でしかないなと改めて思った。

 「…ごめん、なんでもない」
 「なんでもなくねぇだろ。気持ち悪い?どうした」
 「ううん、本当に何も」
 「えり」
 「ちがうの」

 酔っ払い同士の会話でらちが明かない。このまま店内でもめて無駄に連中を待たせていても仕方ないから、あとは解散してからにしようとえりの手を引いた。同じ意見ではあったようで、妙に態度をぎくしゃくさせながらもおずおずとついてくる。なんとなくその手に力がないような気がして、握る力を強くした。

 店外に出ると、わりと引く様相の地獄絵図だった。武臣が二次会のカラオケを連呼しながら真一郎に絡むのをベンケイがひたすらなだめてて、ユキはユキで限界だから排水溝に吐きかねない体勢で頭をグラグラさせてて、どこから回収していいかもわからない。こっちだって暇じゃないってのに。振り返ると、ちょうどこっちを見ていたえりとばちっと目が合った。えりははっとしたようにオレの手をほどいて、排水溝の前でぐったりしているユキのほうへ走って行く。オレはオレでベンケイの加勢にいこうとしたら、背後から急に腕が回って首がしまった。シンちゃんだ。

 「ワカ〜〜〜」
 「なに…今急いでんだけど」
 「何急ぎ?えり?」
 「…そうだけど」
 「わかったァ!」

 でっかい声でそう言ったかと思ったら、「ユキ!」とそのボリュームのままユキとえりのほうに向かって行く。唖然とそれを見てたら、ユキの介抱を引き受けてえりをこっちによこしてくれた。あの鈍感王の異常な気の利き度合いに驚いて、えりを捕まえてからシンちゃんのほうを見たら、早く行けとあの屈託ない笑い方で追い払われる。

 「ユキ大丈夫かな」
 「シンちゃんもあれで意外としっかりしてっから。帰んぞ」

 シンちゃんの応援とユキのさっきの助言に背中をおされて、えりの腰を引き寄せて歩く。普段こんなことはふたりのときぐらいしかしないから、一瞬戸惑った顔はしていたけど、有無を言わせずに歩いてしまえば仕方なさそうに頬を肩にくっつけてきた。

 しばらく歩いて商店街を抜け、慣れた住宅街に差し掛かる。深夜すぎてもう誰の声も聞こえなかった。

 「で?」
 「…なに?」
 「さっき、店んなかのヤツ。なんだったの?」

 その話に戻るとは思っていなかったようで、眉がぴく、と動く。ばつが悪そうな顔が目をうろうろ泳がせて、「聞かないでよ…」と弱弱しく頭突きされる。もう頑固の壁は崩れそうだ。髪を撫でついでに耳の裏あたりをくすぐると、両肩がびくっと上がって逃げようとするから離れないように肩を捕まえた。
 
 「や、くすぐったい!やだ、ばか」
 「言えよ」
 「…ワカには関係ないもん」
 「……ふーん?」
 「やだ!!!!……っバカ」

 くすぐったすぎてか、えりの喉からボリュームの壊れた悲鳴が飛び出し、静かな住宅街にやたらに響いた。あわてて口を押さえて引っぱたいてくるのがちょっとかわいくて笑えた。別に悪いなんて思ってないけど、ごめんとなだめる意味を込めて頭を寄せて撫でる。

 「で?関係なくていいから何?」
 「……しつこいなもう…」
 「知ってんだろそんなこと。言うまでずっと聞くから」
 「諦めて」
 「誰に言ってんの?」

 このあともさんざん詰めに詰めて、えりが諦めたのは自宅についてからだった。玄関に上がってドアを閉めてキスを一つして、「で?」と重ねたところでようやく、長い溜息が出る。

 「……ユキにさわるから」
 「……ハ?」

 言い出したことが突飛すぎて、ぜんぜん頭に入ってこなかった。さっきあんなに傷ついた顔をした理由とまるで結びつかない。ユキに?さわる?だれが。オレが?…それで?え?何?……嫉妬!?こいつが!?

 「ちょ」
 「忘れて!」

 頭が空転しているうちに、えりが捕まえようとするオレの手を避けて部屋のほうに逃げていく。いやいやいや忘れられるかそもそも処理できてもねえんだって!!

 「ちょっと待て!」
 「待たない寝る!」

 捕まえた顔は真っ赤だった。こうなってみて初めて気付いた。さっきの傷ついた顔だってそうだ。そもそもオレは自分のせいでこうやって情緒を乱すえり自体、まず見たことがなかった。いつもどこかリアクションがまるで他人事で、どれだけ近くにいたって手に入ってないように感じていた。でもそれはオレだって同じことで、自分ばかり動揺するのが悔しくて、えりの前ではなにも見せてこなかった。もしかしてオレらものすごい似た者同士だったんじゃねえの。自分たちの間抜けぶりに笑えて、今まで感じてきた塵みたいな不安がぜんぶ溶けだしていくような気持ちになる。

 真っ赤の片頬を手で覆う。心配になるほどかんかんに熱かった。

 「確認だけどそれどっち?オレに?ユキに?」
 「……ばかじゃないのほんとに」

 答えなんて聞くまでもないけど、引き出したいことだってある。抱きしめて、「言ってよ」と頼んで、ようやく「ワカ取られそうでいやだった」を言わせて、これが自分でも引くぐらい嬉しかった。恥ずかしそうな悔しそうな顔の唇に何度も甘噛みして、もう一度抱きしめる。

 「オマエってオレのこと好きだったんだね」
 「言ってるじゃんそんなの前から…何言ってるの?」
 「それこの前のオレの気持ち。わかった?」
 「……」

 服でつぶれてくぐもった、ごめん、が身体に響く。呼気で熱い。なにも考えていないうちに「好きだよ」と自然に言っていて、そういえばこれさえ初めて言ったなと気付いた。ごめん。オレにしてみれば当たり前すぎて言ってなかっただけなんだけど、そんなの言い訳にもなんないから、せめて今後はなるべく毎日言うよ。……なるべくね、なるべく。







***


*おまけ ツイッターでワンドロであげたやつだけど結婚後ホヤホヤとかだとおもってください


 家に住む人間が多ければ多いほど、生活のルールってごちゃごちゃになる。最初から一緒に住んでる実家とかならまだ統合されてきているかもしれないけど、他人同士の寄り集まったほやほやの同居なんて、ぶち当たる壁はとても多い。そう、たとえば洗濯物の分別とか。

 「…ちょっと!!!!」

 普通にぶちこまれていたカラーシャツをオシャレ着洗いに分別しようとして、見慣れないから何の気もなくタグを見ただけだった。が、あまりに激しく息をのみすぎてむせそうなほど驚いた。だってそこに"Givenchy"とかいう文字がしれっと並んでたから。初めて見たややタバコ臭いくたびれた白いシャツだが、わたしのものじゃない以上持ち主はこの家に住む唯一の他人、ワカしかいない。

 たまらずにその高級品を握り締めて居間に駆け込むと、のんきにソファで爪を切っている大馬鹿者がぽけんとわたしを振り返った。

 「なに、すげえ声出して」
 「なにじゃないから!なんでこんな10万越えみたいなの無神経に洗濯機にぶち込んじゃうの!?わたしが間違って普通に、てかタオルと一緒に乾燥機でもかけてたらどうするの」

 自分で言いながら恐ろしくて血の気が引く。手触り的に乾燥機をかけたら一発で縮み上がりそうな生地だったから。わたしには今手に持ったこのクタクタの布が、使い古された諭吉にしか見えない。といってもまあこんな危機感は怒鳴ったって伝わらないだろうと思ったら案の定で、ワカはわたしから受け取ったシャツをしげしげ眺めて真顔で言い放った。

 「フツーに洗濯機でガラガラ洗ってたケド」
 「キャーー!!!」

 ばかみたいな悲鳴が条件反射で飛び出た。洗濯機で??ガラガラ??10万を?????
 生活水準ではさほど離れていないだろうと思っていたのに、意外と気軽にドブに投げるようなマネをするタイプなんだと知った。付き合いだけでいえば5年以上になるのに、まだまだ知らない顔は多いようだ。

 「…こういうタグがついてるものは紙袋に入れてクリーニング用によけてください」
 「金もったいねえじゃん。いいよめんどくせえし」
 「10万の布の責任をうちの洗濯機に負わせないで!着れなくなるほうが高くつくでしょ」
 「それ17万」
 「キャーーー!!!!」

 目算よりはるか高くてゴキブリでも触ったかのようにワカに投げつけてしまった。価格がからかいなのか本当なのか知らないが、ワカはわたしのテンパりぶりに声を上げて笑っている。

 「もう嫌…こんな思いすると思ってなかった」
 「こんな男とは暮らしてけねぇって?」
 「次やったら出て行く」
 「そんなに?」

 もちろんそんなつもりはないけど、この焦っているのにさらに価格で焦らされた恨みで「そんなに。…嫌い」とぼそりと文句を言ったら、ワカがせせら笑うのをぴたりとやめてわたしを見つめた。…見つめた。真面目な顔で。この整いまくった顔面で、澄んだ瞳で、だ。

 「……ほんとに?」
 「……顔は好きだけど」
 「顔だけ?」

 その顔を使ってくる感じは最近本当に嫌いだ。なんでこんな顔にしちゃったの?こんな性格の男にいちばんぶら下げちゃいけないスペックだ。神様。

 「性格は最近ちょっと嫌い」
 「マジで?じゃクリーニング出すワ」
 「……」
 「点数稼ぎんなった?」

 だからそういうとこ。

* 





ありがとうございました♡