灰谷蘭とありふれ 前








***




 女は好きだ。

 いい匂いするし、触ってて気持ちいいってのは言うまでもない。けどたぶんオレはそっちよりも、最初の探り合いの駆け引きとか、そこから表に出ている顔からは想像もつかない表情を引き出して、最終的には大バカに引きずり下ろしていく過程が好きなんだと思う。突発的に悲劇のヒロイン発症したりとか、ウソつきとかよく文句言ってくるけどその文句の8割がブーメランなとことか、そういう面倒なところだってうまく使えばただカワイイだけで済む。それがワンパターンになったり度が過ぎてきたりして、可愛いがめんどくせえに変わったらサヨーナラって、わりと筋が通ってると思うんだけど、ヤツらに言わせると極悪人とか非道だそうで。わかんねー。おまえらだっていい顔しといてすぐ切ったりするじゃん。なんなら被害者ヅラしがちなだけ女のが罪深いとオレは思うけどね。

 突然なんでこんな自分の恋愛観を振り返ってるかって、そうやって生きてきて初めて、マジで痛い目を見たからだ。

 「おはよー」
 「おは…はぁ!?何それ!?」

 竜胆の顔芸はおもしろかった。一応挨拶を始めながら眉をひそめ、頭のてっぺんからつま先まで視線を動かしてじわじわぎょっとして、最終的には歌舞伎の面ぐらい変なカオを作って一歩退く。包帯でぐるぐる巻きの左手をわざとその近くに寄せてひらひら振ると、机に半ケツ乗っけてまで顔がさらに逃げた。毒じゃねえんだからさ。

 「なんで?闇討ち?」
 「ちげーよ、…あー名前なんだっけ?一回竜胆会わせたじゃん。医者のさ」
 「医者…?…えっ?帝大のお嬢様!?」
 「そーそー。メスってマジ切れ味いいのな、オレ覚えちゃったよ。11番って形スゲェの、尖っててさ。医療行為で使うモンじゃねーだろって」

 それどころじゃなさそうな竜胆に画像検索でメスの替刃の形を見せたら、それはそれでちゃんと反応して青くなってくれた。自分の弟ながらマジでいいやつだと思う。

 その11番メスが昨夜オレの左掌をさくっと貫通した、および、テレビの長いリモコンで頬をぶっ叩かれた昨日の事件の発端は、約3か月前に遡る。

 竜胆の言った通り、相手は帝大卒のお嬢様で、女医だ。オレの2こ下、医師としては研修医込みで3年目。両親ふたりとも帝大卒の医師、父親に至っては麻酔科の教授だったか、そんな感じのスーパーエリート家系の娘とはミッドタウンの近くのクラブで会った。喋り方こそバカそうに装っていたけど、そんなのじゃごまかせないほど地頭のいいのもいいとこ育ちなのも丸わかりだった。本人にそう指摘したら、向こうには多少驚かれたあと、その“お嬢様”の殻を破りに来てるんだから放っておいてと怒られた。聞けば学生時代から5年あまり付き合ってきた医学部の男とその2日前に喧嘩別れしたのだという。一緒にいてもつまんねぇという捨て台詞を突き付けられて腹が立ったあまりの、初クラブ参戦だったそうで。そんな箱入りにしてみればさぞ大冒険なんだろうなと思うと、その日のオレにはまあ可愛く見えたのである。顔も可愛かったしね。

 その先は言わずもがな。言ってほしいだろうけど自覚もしていなさそうな言葉を選んで餌にして、自分はクズだけどそれでもいいの?と聞いて、蘭がいい、の言質を取って、ああ、名前思い出した。薔子だ。薔薇に子で“しょうこ”。すげぇそれっぽい名前って思ったし、花の名前お揃いだねとか鳥肌立つようなことも言った。で、その薔子と寝て、気まぐれにこっちから連絡したり、向こうが沈んでそうな連絡してきたら会ったりしていたわけだ。薔子がオレを恋人に欲しがってるのは明らかだったけど、言ったら会えなくなるとでも思っていたのか、関係についてや将来的なことなんかは口にしたことがなかった。これまで欲しいと望めばいくらでも愛情を注がれてきたお嬢にしてみれば、3か月程度が限界だったんだろう。欲しがる顔に気付いていないフリをするオレへの怒りと、何より、我慢した自分への哀れみと愛おしさ。人間って定期的に自分をカワイソウがりたいものだ。実際オレもその気持ちは分かる。他人のそんなもんに共感しようとはまったく思わないだけで。

 それで昨日なにかをきっかけに限界を迎えた女は、ついにオレに聞いたわけだ。「あたしのこと少しは欲しいって思わないの?」って。返答にはちょっと悩んだ。飽きかけてたし、実際最近身近に居心地のいいのがいるせいもあって、薔子への興味は持続していなかった。けど、顔はそこそこ、部屋は広ければくれるもののセンスは良し、舌が肥えているだけあって正しく評価するから食わせ甲斐もあるし、わざわざ嫌われることを言ってまで手放すかというとそこまででもない――と、まぁこんなようなことを考えて数秒止まった、のが悪かった。桐箱入りのお嬢様はオレが思っていたよりもはるかに鋭いトゲのある薔薇だったようで、メスの替刃だけを突然出したかと思ったらオレの左掌を貫通させたのち、もっともらしく謝って、「警察、呼ぶね?」と仄暗く笑った。こっちが警察に被害者側としてでも連れて行かれたくないことを理解しきっている顔だった。正直薔子の知っている表情でいちばんきれいで興奮したけど、実際手は痛いし出血はひどいし相手はエモノを持ったままだしでどうしようもなく、命からがら逃げだしてきた、と、そんな流れの負傷である。

 「いやーちゃんと見誤ったよな。お見それしました。武勇伝にでもしてくれりゃいーんだけど」
 「コッワ…マジ手ぇ出す女選べよな……」
 「あんなだと思わねぇじゃん?いやー学んだ学んだー」

 包帯の下は多少動かすだけでも、深部に響くような痛み方をする。ひらひら見せびらかすのはやめて、そっと机に置いた。

 刺したときの薔子の顔を思い出す。驚いたか、とでも言いたげな、満足げで歪んだ笑み。こんな痛みでオレが学ぶことなんて、おまえみたいなのに手を出さないようにしよう、ぐらいだよ。バーカ。

 「相手の生き方変えようなんてよく思えるよな。変わるわけねぇだろ」
 「……まぁ…恋愛ってお互い変わって変えてーの責任とってくもんらしいし…」
 「…ハ?」

 弟がおよそ頭を打ったようなことを言うので、思わず魂を抜かれた気分で顔を見てしまう。らしくないことを口走った自覚はあるらしく、よそに視線を逃がしながらばつが悪そうにぶつぶつ言っていた。なんだなんだ面白くなってきたじゃん。一度は座った椅子から立ち上がり、竜胆が逃げないように首を拘束する。

 「なになになーにりんどー彼女できたのぉー?」
 「ちげーよ!ママの受け売り!!」
 「あ?……んだよツマンネー」

 実際の出典を聞いてしまうと一瞬で冷めた。ママ、ってのはマイキーの嫁だ。中学の同級生で、十年ぶりに再会して別人みたいになってたあの男の時間を巻き戻したとんでもない女。真琴なら確かにシラフでそれを言えるだろう。だって今もあのマイキー相手に、お互いを変え合い、責任を取り続ける、の実演をし続けてるわけだから。

 あんなのとまともに恋愛ができてる時点で、マイキーの性根はやっぱり“こっち側”じゃない。あんなに正しく愛を教えられてきたような女、オレなら絶対無理だ。自分がまともじゃなさすぎて死にたくなる。まあ、あの男だって同じことは思うだろうし、そこらへんは同情するけどさ。

 「…りんどー」
 「なに?」
 「ママに怪我の原因チクったら殺すからなー」

 女の恨みを買って刺されたなんて、あの女は聞いても別に引かない。お人よしの眉をさげて、気をつけなよ、きれいな手なんだから、とか無関心に言うぐらい。言いそう。それが嫌だ。いちいち世界が違いすぎることなんて念を押さなくていい。しらける。

 なんでとか聞いてくるかなって思ったのに、竜胆に「言わねぇよ」とさらっと流されてムカついた。なに知ったような顔しちゃってんの竜胆のくせに。殴りたかったけどそこで殴ったらガキ過ぎるから我慢した。次男だったら我慢できなかったと思う。

 その昼。

 竜胆に「包帯換えてー」って頼みに行ったら、ちょうど事務所に真琴がいて目をむいた。本部になんて避難でしか来たことがなかったのに、まさか誰がいるなんて思う。目があってから頬のデカい痣と包帯ぐるぐる巻きの手を隠したって遅い。オレがなんでいるんだと聞く前に、真琴が「何その顔と手!?」と目を丸くした。あーもう。

 「なんでいんの…」
 「10分だけここで待ってろって万次郎くんが。お邪魔してます。そうじゃなくてその怪我は?」
 「……」
 「…ママごめん、兄貴の包帯換えてやってくんない?」
 「わかった」

 げ、なんて言う間もなく、真琴は竜胆のとつぜんの振りを快諾してしまった。「サンキュ、助かる」しれっと真琴の頬にキスして、真琴が驚いているあいだにちらりと挑戦的にオレを見る。バレてんだよな。マジ腹たつ。竜胆のくせに。

 勘違いだと言ってやりたいけど、オレが真琴を好きだってことは否定したほうがダサいほど事実だった。ママってのは、そんな自覚なんてまるでなかったころ、それでも逃避本能が無意識に選んだあだ名だ。ダサすぎて爆発しそう。

 「みせて」
 「……けっこーグロいけど平気?」
 「うん、たぶん。手だし…首とかお腹だとアレかもしれないけど」

 一縷の望みはかんたんに弾かれて、柔い手がオレの左手を拾った。たったそれだけの接触で心臓が跳ねて、ピュアかよ、って自分で泣けた。なんでこんなの好きになっちゃったかな、つーかこんなの相手にしてるからピュアがうつってんじゃねぇの。ダサ。

 「痛かったら言ってね」
 「うん」
 「……あれ、思ったより小さい」
 「貫通してんの」
 「えっ!!?!?やだ!なんで!?」

 ワードだけで想像した真琴が悲鳴をあげて、自分が泣きそうな顔をした。驚いてもオレの手の支えは震えも外されもしない。裏返しゃいいのに、自分が首を傾げて手の甲側を覗き込み、さらに眉を情けなく下げる。

 「誰にやられたの、こんなの…。仕事?」
 「あれ、意外。やられたって思うんだ」
 「だって明らかに刺し傷だもん。自分でうっかり刺しちゃうようなこと、蘭ちゃんはしないでしょ」
 「…まーぁね。聞きたい?」
 「うん」
 「え」

 詮索はしないけど、とか、聞いてもしょうがないから聞かない、とかだと思ってたから、あまりにはっきり聞きたいと断言されて驚いた。「聞いてどうすんの」と聞いたら、「それは聞かないとわからない」だって。だからオレみたいなのを懐に入れるなって話なんだよな。まっとうすぎる。でもそれを嫌だと思えず、むしろ勝手にじわじわこみ上げる幸福感が悔しかった。

 「…女にやられたの♡」
 「え!?なんでそんな危ない女に手出したの!」
 「え、そこ?」
 
 何したんだ女の敵、ぐらいのことを言われようと思ってこんな言い方で茶化したのに、また全然意図しない方向で怒られた。本当に狙った方向に流れてくれない。自業自得って自分でも思ってたし、人にそう言われることにも慣れすぎていて、ふつうに向けられた心配が居心地悪かった。いや、悪いっていうか、悪くないけど、くすぐったい?そう、くすぐったい。

 「やたら洞察力あるくせに、地雷だって分かんなかったの?ちょっと危ないかもとは思ったでしょ?」
 「いやぜーんぜん。女医だしお嬢様だし、人刺す度胸なんか絶対ねぇと思ってた。すげぇ外したわ」
 「……恋が盲目すぎたとか?」
 「ハ?」

 妙に気遣わしげな顔でとんちんかんなことを聞かれ、自分でもクソマヌケな顔になったと思う。真琴はそれを見るや失言だったと顔をしかめて、にやにやし始めたオレをなかったことにしろと言わんばかりに押し返した。

 「そうだったのかもなぁ♡なぐさめてママ♡」
 「呆れた、絶対ウソ。だったらシンプルに見誤ってるじゃん。気をつけなよ」
 「…オレが刺されるよーなことしたとは言わねぇのね」
 「え?したの?」
 「さぁね。向こう的にはそーだったんじゃない」
 「……もしかして付き合ってない?」
 「うん」

 オレがそう言ったら、真琴は絶望した顔をした。意外だった。正しく愛し愛され、をやってきただろうと思っていたのに、そういう関係の絶望に心当たりがあるらしい。

 「でた!!もう怖いよ、そんな距離感の?まともそうな人が?刺すほど理性なくして好きになるってなに!?」
 「あっちが夢見がちなだけ」
 「…夢見させちゃってるじゃん、沼に落としちゃってるじゃん。人タラシこわすぎ」
 「それママに言う資格あると思ってんの?マイキーとヤク中オトしといて?」
 「してないし。蘭ちゃんとはレベルがちがうよ」

 タチの悪さでいうとオレの比でさえないくせに、真琴はオレにばかじゃないのみたいな顔を向けてくる。こっちこそそう返したいのに、この女が心の底から今の自分のセリフを疑っていないせいで、今何を言っても絶対にこっちがズレている扱いだ。ツッコミが欲しい。竜胆帰ってこい。

 真琴は恐る恐る傷の痂疲をピンセットで剥がしている。真剣な顔。緊張に力が入った指。短い睫毛。どこがこんなにツボにはまってんだかじろじろ探していたら、真琴の目線がちらりとオレの顔に上がる。びびった。

 「あんまり顔見ないでよ、気が散るでしょ。間違って刺しちゃうよ」
 「なーにママ照れてんのー?」
 「照れるよ、嫌だもん。美形の耐性ないって言ってるでしょ」

 言っているうちに恥ずかしくなったのか、みるみる耳まで赤くなる。溜息出るぐらいかわいかった。オレが内心そうやってウダウダやってる間に、真琴はさっさと消毒して軟膏を塗って、傷にガーゼを当て終えてしまう。

 「おわり。もうからかわないでね」
 「からかったことなんかねぇよ」
 「ウソばっかり」

 たしかにそれは嘘だけど、最近のはそのからかいに本気が8割だって言ったらどうするんだろう。意外に何も言わないかもしれない。他人の機微には、自分への好意も含めて敏感なほうの女だ。気付いてほしそうならそのようにコメントするだろうし、気付いてほしくなさそうなら、…。バレてるような気がしてきた。

 「…ねぇママ」
 「なあに」
 「5秒身体貸して」
 「へ」

 きょとんとした顔からは目をそらして、無防備な手を引いた。つんのめるように倒れてきた身体を引き寄せて抱きしめる。マイキーより少し低い真琴は物足りないぐらい細くて小さくて、首を曲げてようやく顎が頭にくっつく。一瞬緊張して強張ってたけど、それでも余計なことを聞かずにそっとオレに両腕を回して、いつか見た、本人がまだ小さい息子にするのと同じようにそっと背中に手を添えてきた。たったそれだけでばかに満たされて、意外とオレ寂しかったのかも、と思った。何がだか知らないけど。

 「…麻薬だね」

 おぼれないうちに自分でそう言って、腕をほどいて真琴を押し戻した。麻薬って表現に真琴は驚いていなくて、通常営業のぼんやりした顔でオレを見上げて、また眉を下げて笑う。ああ、そう、これ。この顔が好きなんだ。仕方ないなぁ、って、真綿で包むような。

 「麻薬みたいなひとに言われた」
 「オマエのがタチ悪いよ」
 「蘭ちゃんはわたしを誤解してるよ」

 それもそっちのほうが誤解してる。オマエがマイキーに向けてる気持ちみたいなのを、オレがオマエに持ってると思ってるだろうけど、全然そうじゃない。マイキーには事故死でもなんでもしてもらって、どん底のオマエを篭絡して、オレしか見えないようにしてやりたい。毎夜毎晩抱き殺したいし抱きしめて甘やかしてほしい。オレ、オマエになら飼い馴らされてもいいよ。本当にそう思う。でも自分で手を下そうとは思わない卑怯さを、オマエなら美化して愛してくれるだろ。





 医療器具なだけあって、メスの切り口の傷は思ったより塞がるのが速かった。救急にいた医者も、切り口がきれいだから縫いやすいとかなんとか言っていたっけ。1週間で抜糸したら、触って多少ぴりぴりするから掌の裏表に絆創膏を貼る程度で、傷自体に支障なんてなかったが、その絆創膏を見るたびに、真琴に手当を受けたあの10分足らずの時間の、やわく締め付けてくるような感覚が鮮烈に戻ってくる。女々しくてウケる。いやウケない。刺してきた女よりたった一度手当した女のほうが記憶に残るなんて薔子も浮かばれねぇよな、と自分にも薔子にも嘲笑が出る。

 動かすから貼り換えてもすぐはがれてくる絆創膏の端の粘着力を無理やり復活させようとしていたら、ちょうど出勤してきた部下が目をまるくした。

 「治り早いですね。もうそんな絆創膏でいいんですか?」
 「若ぇだろー?」
 「意外ですぅ」

 しれっと失礼なことを言った頭を、そのへんの雑誌を丸めて引っぱたいた。「痛っ」痛みというよりは音と衝撃からの反射のような悲鳴をあげたあと、「やーいアラサー」と本永はきゃっきゃと笑って自分の机に逃げていく。本永梢。そういう自分だってそのアラサーど真ん中のこいつは、半年ぐらい前にラウンジから引き抜いた。まともに計算ができるかわりに、妙なところで頭のねじを落としてきてしまった女だ。今は九井に狂ってる。今は。ついこの前までソシャゲーのキャラに人生を捧げていた。余談だが、推しがいるタイプの人間が全人類でいちばん幸せだってのは、この女に出会って初めて知った。

 「あそうだ、出してない領収書あります?今から九井さんのとこ行くので、あれば一緒に持っていきますよ」
 「あーある、クソほどある。待って」

 口実に使われてるのは分かってたけど、実際溜め込みすぎてヤバかったから、引き出しの一番上の段を引っ張り開けた。開いたとたんに破裂するように圧迫された紙の山が膨れ、数枚がひらひらと床に落ちる。だる…。ずっと見て見ぬふりをし続けてきた山を久々に直視したせいでちょっと気が滅入った。

 「ウワッなんですかこの量!?」
 「…ダリーから引き出しごと持ってけ」
 「嫌ですよ、こんなに持ってったら九井さんに嫌われるじゃないですか」
 「いいじゃん、オレのことダシに使っていいよ。クソ上司なんです〜🥺とか言えば仲良くなれんじゃね」
 「…せ、専務、あなた…天才ですね」
 「天才でも神でも優しさの化身でもなんでもいいから持ってけー」
 「自己肯定マックスなところも今は大好きです!ありがとうございます!」

 引き出しを全部出す過程で、凝縮された紙の山はさらに何枚も舞ったが、今のこいつにはその紙が雑務どころか紙幣より価値がある。床に落ちたすべてを拾い、上手く全部押さえて走って行った。その2分後に九井から『地獄に落ちろ』ってメッセージが飛んできて笑って無視した。

 「専務!!!」
 「おーどうだったー?」

 聞くまでもないほど本永の顔は輝いてて、戻ってくるなりオレの手を両手で握って何度も振り回す。刺されたほうだって分かっててやってたら殺すけど、まあ、この感じだと喜びすぎて忘れてるから目を瞑ってやった。

 「5分も話せたぁぁああ」
 「ほーよかったじゃん。…で?」
 「え?………えっと、話しました」
 「ハ?……は?…ウソだろ、何、どういうこと?喋っただけ?」
 「………だってぇ」
 「ふざけんなよ人ダシにしといて、最低でもメシの約束ぐらいしろよ。今度クソ上司の愚痴聞いてくださいぐらい言えんだろ」
 「無理無理無理!!5分話しただけで爆発しそうで帰ってきてるのに飲みなんて何分かかるんですか!!?絶対無理です!!」
 「…今日ほどオマエを使えねぇと思ったことねぇわ。マジ幼稚園からやり直せよ」
 「なんでそんなボロカス言えるんですか!?話すのも苦しいぐらいのガチ恋したことないんですか!!?」
 「ありそうに見える?」
 「………」

 言わなきゃよかった、って顔をして、本永は勝手に握ってた人の手を振り払って机に戻っていった。ま、恐ろしいことにたぶん最近経験したんだけどね、それ。


***視点がかわります 以下から夢主になります


 今まで半年一緒に仕事をしてきて、それなりにポカもやったのに、いちばん使えねえって言われたのが自分の恋愛スキルだった。泣きたい。おまえみたいなのにわかるわけないだろと思う。ビジュアルだけで財を成せそうな上司の後ろ姿に心の中でだけひっそり毒づく。

 同年代のこの上司は、女とっかえひっかえとかそういうレベルじゃない。バカみたいにモテる。バカみたいに。顔と身長と声と金とセンスもとんでもないレベルだけど、それはなんかもう当たり前に備えているものって感じで、そんなことより何よりヤバいのはそのコミュ力だ。絶対人のことを人だと思ってないのが分かるから、初対面は絶対みんな警戒するのに、2、3言話すと転がされてしまう。そんなところ気付けるんだ、この人、みたいな。なんていうの?同じラインに降りてくるのがうまくて、さっきまで怖いスターだと思ってた人と同じ視点を持ってたなんてわたしって意外とすごい存在?とか思っちゃったりして、褒めたりなんかしないくせに一緒にいる人間を調子よく、気分よくさせちゃうのだ。そして調子に乗らせて、いけるんじゃない?なーんて身を預けちゃったらやっぱり第一印象が正解で人間扱いしてくれてませんでした、みたいな。

 自分も例に漏れずに、働いてたラウンジでスカウトを受けたときあたりは大変だった。あのまま拗らせていたら自殺してたかもしれない。それ関係で絶望してた頃に、九井さんに『あんまリスペクトしすぎんなよ。よく考えろ、あいつ普通にクソ人間だろ』と言われてすんなりと担降りし、かわりにその洗脳を解いた九井さんに流れた。だってわたしが苦しんでる内容を瞬時に見抜いて、たった一言で楽にしてくれるなんて頭の回転早すぎて格好良すぎだし優しいし非の打ちどころがない。そうして目移りしてしまえば、梵天の莫大な資金力をひとり操る彼の頭脳、度胸、実力、…もう語彙が足りないや。とにかくそれらすべてがあまりに男らしく魅力的に感じて、あっという間に好きになった。惚れっぽいのは昔から。好きになったらアプローチではなく推し活をしてしまうのも昔から。人の懐柔が呼吸より上手い灰谷専務には理解されないけど、彼はことあるごとにわたしを『世界一幸せそう』だと言う。皮肉でしょうか。皮肉だな。皮肉だわ。

 その世界一幸せそうなわたしを、彼はわりと応援してくれる。たとえば少し前、ソシャゲーのキャラにバカハマりしていた頃なんて、機嫌をとるのにGooglePlayカードを1万円分よこしてくれた。その時は専務本人にキレていたのだが、タイミングが推しの誕生日だったこともあって怒りなんてすっ飛んで彼のためにコーヒーを入れた。他にも、イベント開催日時に帰りたいとこぼせば帰らせてくれたり、抜けられない仕事だったとしても10分で一通りプレイしてこいって抜けさせてくれたり、などなど。なんでもオタ活をするようなヤツが彼の周囲にいなかったから新鮮で面白いのだそうだ。でも、わたしが実在の九井さんを推し始めたときは、わたしのストーカーじみた推し活を彼は支援しなかった。さっきの領収書のくだりのように、まっとうに関わらせる方向に、つまりキューピッド的に動こうとしてくる。最初は求めている以上の供給で飽和して苦しいから迷惑だったけれども、実際に関わってみるとやっぱり生身との関わり合い最高だな…に切り替わってしまって、自分から会いに行く度胸なんて身に着けてしまった。まだ大丈夫だけど、いつしか推しが本当の恋慕に変わりそうで怖い。やっぱりやめてほしくなってきた。

 「あの、専務…」

 それを言い出そうとしたとき、扉がひどい勢いで蹴られて部屋が揺れ、一瞬ぎょっと身を固めた。専務は眉だけぴくりと動かし、「るせーよ」と不機嫌な声を出す。

 ヒンジが折れてズレたドアの向こうにいたのは、わたしの推し、九井さんだった。なんで考えてるときに来るの。とたんに心臓が跳ねて浮足立ってしまう。

 「ふざけんな。そういう文句はまともに生きてから言え」
 「なーにココちー珍しいじゃーん?なんか用?」
 「キメェ呼び方すんな殺すぞ。領収書の但し書きが軒並みクソだから全部突っ返しにきたんだよ」

 彼が手に持っていたのは、さっきわたしが持って行った引き出しそのままだった。多少紙のかさは減っていたから、いったんは目を通そうと努力したんだろう。わたしもさっき持って行っている最中にいくつか見えたけど、ふつうに美容院の領収書とか、目が飛び出るほどの宿泊費なんかも入り混じっていた。彼のことだから経費で落ちるかどうかなどで分けたりせず、私用でもなんでも自分が使った額はすべて領収書を出させて適当に突っ込み続けたんじゃないかと思う。正直そうかなと思って途中で引き返そうか悩んだりもしたけど、付き合いの長い幹部陣のじゃれ合いかもしれないと思ってそのまま持って行ったのが間違いだった。

 「すみません九井さん…そうかなとも思ったんですけど…」
 「本永に非ねぇから気にすんな。悪いのはテメェだよ、金欲しけりゃ分別しろクズ」
 「下りそうなヤツわかんねーもん。適正に金使うのも経理の仕事だろー?やって♡」
 「やるか。全額諦めろ」

 どんと音を立てて引き出しが元いた机の天板に叩きつけられ、また色とりどりの小さな紙が舞う。九井さんはわりと本気で苛立っているが、その矛先の専務はどこ吹く風で、ちょっと目線を左上に飛ばして考え込み、はっとしたようにわたしを見て胡散臭いほど屈託のない笑顔になった。

 「梢」
 「へ」

 急な下の名前の呼び捨てにさすがにドキッとして固まる。引き抜かれた頃の専務へのときめきが少し戻ってしまい、違う違う、今好きなのは隣の人だと頭を振った。

 「なんですか」
 「分類。よろしく♡九井が納得いく感じにまとめてできるだけ多く金引き出して♡」
 「は!!?」
 「外回りはオレが代わってやっからさ。あとよろー」
 「えっちょっ、ちょっと」

 外回りのほうが明らかに面倒くさいし、どう考えても専務がわたしと九井さんをふたりにしようとしているのは明らかだった。それを察したうえで引き止めようとしているのに、彼はまるで足を止めてくれず、そそくさと「じゃーな」と部屋を出て行ってしまう。伸ばした手がむなしく空を掴んだ。

 「……あんなのが上司で大丈夫かオマエ」

 微妙に気まずく落ちた沈黙に、九井さんがあきれ交じりの同情顔でわたしを見る。大丈夫かって言われたら、そりゃ、

 「いや、普通にぜんぜん大丈夫じゃないですけど…」
 「…だよな。悪い、愚問すぎた」

 そう、大丈夫ではないことが多い。目的も知らされないまま知らないおじさんだらけの社交場に飛び込まされてハニトラまがいをさせられた挙句、相手が目の前で銃殺されたこともあるし、安全な贈りものだから普通に持っていけと言われて実はそれが爆弾だったこともあるし、パワハラセクハラ、なんてレベルではない。けれども。

 「…まあ、たまーに、優しいときもあるので」
 「…マジで?死ぬほど鈍ってるだけじゃねぇ?」
 「そうかも」
 「そうだよ。洗脳されきる前に元職戻るか異動申し出ろ」

 あまりにはっきり彼がそう言うので、そうなのかしら、と専務を信じてきた心が少し揺らいだけど、引っかかりが残った。もし九井さんの言うとおりこれが洗脳なのだとしたら、もう手遅れかもしれない。「たしかに、検討します」と言いながら、専務の下から離れるって選択肢はまったく現実的になっていなかった。推しに言われたのにね。

 そんななか、携帯がぶぶ、と机の上で震える。ひっくり返したら、専務からラインが入っていた。なにかの画像と、『九井に見せろ』のメッセージ。なんだと思って開いたら、それは見るからに美味しそうな色つやの焼肉だった。

 「えっ?」
 「?どうした」
 「あ、いえ……」

 まったく意図が分からなくて疑問がそのまま声で飛び出し、あわてて手で押さえる。そんなわたしをまるでどこかから監視しているように、『ボケ』『友達から送られてきたって言え』『うらやましいとかなんとか言えトンマ』と爆速で送られてきて、これでデートに誘う口実にしろと言っているのだと分かり、泣いていいんだか笑っていいんだか分からなかった。鬼コーチの優しさがすごい。

 言われた通りわたしはそれが誰から送られてきたか見えないようにして、九井さんに見せた。とんでもない値段がしそうだけど絶対に美味しいこの飯テロ画像に、彼は「うわ、うまそ」とちょっと本気のダメージを食らった顔をした。

 「友達から急に送られてきて。おいしそうだなって」
 「あーー…最近食ってねぇな……」
 「わたしもです。お好きですか?」
 「わりと。食い行くか?」
 「えっ!?」
 
 目玉が飛び出るかと思った。信じられない。なにあの人、恋愛アドバイザーか何か??めちゃくちゃうれしいのはうれしいけど、専務のアドバイスに従って1分以内にこんなトントン拍子で決まってしまった事実がふつうに恐ろしい。いや、うれしいんだけど。感情が渋滞する。

 「今日あいてる?」
 「めちゃくちゃあいてます!!本当にいいんですか!?」
 「灰谷兄の下で苦労してんだろ。誰かが労わねぇで使えるヤツが辞めたらオレも困る」

 ……。 

 ああ、神様仏様、灰谷蘭様。わたし、推しとの焼肉デートが決まりました。しかも使えるヤツだなんて言ってもらえてしまいました、言葉も出ません。専務、いえ専務と書いて神様、今わたしはちょっと感謝のあまり泣きそうです。

 その約1時間後。
 
 専務改め、神、および恋愛スペシャリスト鬼コーチは、弟さんを連れて部屋に帰ってくるや、彼を巻き込んでわたしを仕上げた――つまり、わたしの服から髪からぜんぶを整えた。雑に結んだだけの髪は解かれて緩く巻かれ、ゆるゆるのニットワンピはどこかに捨てられて身体のラインを拾うセットアップに変わり、ボロボロのスニーカーと靴下も同様に見当たらなくなってストッキングとパンプスに変わり、当たり障りのないマットなブラウンベースのメイクは、細かいゴールドのラメやピンクを散らされて瞬く間に華やかになった。ちなみに靴に差し掛かったときのファッションモンスターたちときたら死ぬほどドン引きしていて、ものすごく冷たく「捨てろ」と吐き捨てられた。そんな低い声出たんだとビビった。

 さらに、15分前行動をしようとするわたしを制して、「2分前に走って行け。『準備に手間取って』とかなんとか言え、申し訳なさそうにしろ」と指示。さらに、デート中こそ指示は飛んでこなかったものの、行く前に会話に困ったらこれを聞けと送られたリストに従って会話したら、見たことのない推しの笑顔をたくさん引き出してしまい、結果人生でいちばん盛り上がったデートになってしまった。マンションのエントランスまで送ってもらって、家に入って鍵を閉めて息をついたとき、みちみちた幸福感と充足感に心震えて完全に浮足立ち、初めて私用で専務の番号をすぐに呼び出した。この素晴らしい時間はほとんど彼が作り上げてくれたようなものだし、お礼を言わなければと思って、だ。

 けれども、コールは10回鳴ったのち、留守電に繋がってしまう。ふわついた気持ちはそれでやっと少し正気を取り戻した。なんだか彼が電話を持って報告を待ってくれているようにさえ無意識に思ってしまっていた。専務がそんな人に優しい種族じゃないってことぐらい、痛いほど知っているはずなのに。

 「…お疲れ様です。おかげさまで楽しく過ごせました。取り急ぎお礼だけと思いまして、夜分遅く失礼しました。また明日よろしくお願いします。失礼します」

 我ながらこれは、うまくいった報告をする声ではなかった。沈んでしまう原因は自分の強欲だ。推しと食事のデートに行けただけでは満足しないで、イケメン上司にまで余すところなく特別に可愛がられないと満足しないなんて、まったく呆れるほど欲深い。

 ところが翌朝出勤してみて、わたしはたった一瞬で勘違いに気付いてしまった。

 「よ。どうだった」

 甘い甘い、流し目と微笑。弟以外誰も人間だと思っていないからこそできる、飛びつきたくなるほど優しい顔。

 いったいどうしてこうなっちゃうまで気付かなかったんだろう。

 担降りなんかできてない。洗脳は解けていない。気付いたときにはもう遅いのだ。知ってたくせに。…いや、違う?わからない。昨日までは本気で九井さんを好きでいて、欲深すぎるから彼が振り返りそうになったらどうでもよくなっちゃって、どう見ても手に入らないこんな男を今度は追いかけ始めてしまったのかもしれない。なんにせよ、推してるなんかではなくて、絶望的なほどにわたしが灰谷蘭に落っこちてしまっているってことは、間違いなく事実だった。

 「…それが最高だったんですよ!!!」

 専務が見て楽しんでいるのは、わたしが気が狂ったようになにかを追いかけているところだ。やってもらった分期待に応えたら、きっと面白がってくれる。なんて、一瞬でイヌみたいな結論を出して笑いを取りに行った、ら。

 「へったくそ。なに?ふられた?」
 「……え」

 よほど大根演技だったのか知らないが、それにしても一秒たりとも彼は騙されてくれず、さっきまでの胡散臭いぐらい優しい顔が消えて、真顔になる。
 最悪だ、この人タラシ。本当に最悪。たちが悪すぎる。そう思いたいのに、気付かれたことが嬉しい。ここに誰もいなければ、もしこれが電話だったなら、床に膝をついて頭を抱えていたかもしれない。それぐらいやるせない気持ちになった。
 
 「いや違います、ほんとにうまくいったんです。おかげさまで」
 「…そー?まぁいいや、んじゃ引き続き頑張れよ。ついでに領収書もよろしくー」

  納得はいっていなさそうだったけれど、どうも時間がないらしい。わたしに雑に業務を押し付けて、彼は珍しく少し大きい鞄を下げてドアの方へ向かって行く。

 「お出かけですか?」
 「そ、急に名古屋。明後日帰るわ」
 「そうだったんですか。お気をつけて」

 正直ほっとした。たった2日の猶予だろうが、好きだと自覚してしまってからずっと付き従って同じ部屋で仕事するのはどう考えても苦しい。その時間でどうにか整理したい。いいタイミングだ。誰だか知らないが、彼に出張を要請した人に心から感謝した。

 車寄せまで一緒に出て、その背中を見送っているときにはたと借りたままだったものたちの存在を思い出した。

 「あっ待って専務、お借りしたものって」
 「あーあれ?やるよ。二度とあのゴミ履くなよー」
 「……」

 本当にやめてほしい。そんなの、宝物にしてしまうに決まっている。



***




 気楽そのものだった専務の出張期間は、瞬く間に終わってしまった。我ながら熱しやすく冷めやすいなと思うけど、あれほど九井さんに傾倒していた頭が、寝ても覚めても胡散臭い選手権優勝の灰谷蘭にどっぷり沈んでいる。ここまでの負け戦にどうして本気になっちゃったのかって言ったら、距離が近すぎたせいだ。冷静に考えたら髪のセットをしてもらうなんて気が狂いかねない体験をどうして正気でされるがままになれたんだか不思議だ。しかもそれが、彼がわたしと他のひととの恋路を応援するためだっていうんだから、最初から地獄である。たった2日間の不在のあいだに頭の整理をしろなんていうほうが土台無理な話だった。少なくとも2か月ぐらいは隔離させてほしい。久しぶりに思い出したけど、人間ってガチ恋するとめちゃくちゃ疲弊する。ちょっとしたことで舞い上がり、逆にちょっとしたことで泣くほど絶望する。こと対象が近くにいると余計に、本当に。

 帰ってきてくれて嬉しいんだか苦しいんだか、どちらかというと後者9割の日々に、癒しを提供してくれたのはまさかのこれまでのわたしの情緒を甘やかに苦しめてきた九井さんだった。休憩室で魂が抜けたみたいにぼけーっとしていたら声をかけてくれて、何かあったことを察して、お酒に誘ってくれたのだ。ちょっと前だったら奇跡みたいに嬉しかっただろう。

 「絶対叶わないようなひとを好きになっちゃうこととかあるじゃないですか」

 ハーパーの揮発したアルコールにまとわりつくような甘さで、理性はかんたんに崩れて、ストレート2杯で苦しみの原因を口走ってしまった。九井さんはばかにしたりしないで、ふ、と溜息のように笑う。「あるな」かつては彼もそういう恋をしたんだと思った。

 「どうしたらいいですかね」
 「…時間だろうな。まあ、そいつが楽しそうだったらいっか、ってとこまで昇華できれば。マインドだけでコントロールできんならそもそも落ちてねぇよ」

 整然とした彼の言葉で、“コントロールできない”を肯定されて、泣きたくなるほど救われた。いや、ふつうに泣いた。我ながら酔いすぎだし、追い詰められすぎていると思った。これだから恋愛はいやなんだ。陰から推していたいってあんなに言ったのに。

 「不倫?」
 「いえ。…平たく言うとクズで」
 「ふっ」
 「人のことをそもそも好きにならないタイプです」
 「そりゃきついな」

 理性は絶対に不可能だと分かっているのに、自分をきっかけに彼が変わって好きになってくれる、みたいな、どうしようもなく甘い期待が止められない。ありえないのに。ひとりでいてありえないなってちゃんと結論して出勤したら、人でなしのはずの彼が一緒にいてわたしの言動に驚いたり笑ったり、まるでそういう気持ちを分かるようなことを口走ったりして、また一段毒にはまる。

 「行きたきゃ行っとけ、下手に抑えようとするから苦しいんだし」
 「…傷つきたくないんですよぉ……」
 「今の苦しみがズルズル続いてあとで後悔すんのと、グサッといってやるだけやったなって思うのどっちがいい?」
 「……あぁぁぁぁあああ」

 最悪時間が解決すっから、と言った彼は、時間に解決してもらったのだろうか。どれだけ前のことか知らないが、話す横顔はまだ解決なんてされていなさそうに見えた。





 「ん?……ちょっと止めて」

 助手席でずっと携帯をいじっていた専務が、急に制止の合図を出した。あたりには公園と電話ボックスしかない場所で、なんだろうと思いながら車を路肩へ寄せると、彼はすぐに助手席を出て行ってしまい、ベンチに座っていた2、3歳ぐらいの小さな男の子を連れたお母さんらしい小柄な女性のもとへ走って行ってしまう。まさか人助けかと唖然と見守っていたら、どうも知り合いだったようで、いくつか話して彼らふたりともを連れて車に戻ってきた。

 「すみません、お仕事中の車に…」
 「いえ、あの…えっと」

 専務が明けた後部座席のドアから入ってきたその女性は、とても申し訳なさそうにわたしに頭を下げた。どういう経緯なのかも分からないので、困ってあとから助手席に戻ってきた専務を見ると、なんでもないことのように爆弾を落としてきた。

 「首領の奥方と息子。見たことあんだろ」
 「ひぇっ!!?!?しゅ、首領の!?」

 梵天首領なんてもはや都市伝説なのではないかというほど、わたしたち下々の中では伝説級の男だった。ラウンジで働いていた頃はこの灰谷専務だって会いたくないSクラスの化け物だったのに、さらにその上、そんな化け物を何人も束ねてたった数年で組織を巨大化させたカリスマの塊。の、奥様、と息子。…とは、とても思えないほど、彼らのいでたちは庶民的だし、奥方なんてどう見ても何があっても絶対にいじわるなはずがない、優しい顔だった。混乱。本当に怖いのは隣にいても怖いと思えない存在だとかよく言うけどそういうやつなのか。

 突然の試されている(?)シチュエーションに凍るわたしの肩に、専務が大きな手を乗せた。

 「外苑東通り通ってって。こいつら送んねぇとだから」
 「ほんとにすみません、近くまで行ったら自力で行くので」
 「ダメー。エントランスまででーす」
 「……蘭ちゃん」
 「何言われてもムリなもんはムリ。バレたら佐野万次郎に殺される」

 久しぶりにそのフルネームを聞いた。奥様らしい彼女は、その名前を聞いてなぜかイライラしたように視線を向こうへ泳がせる。その様子に息子さんが「ママおこってる?」と無邪気に聞いていて、「…パパにね。伊織にじゃないよ」と小さな頭を撫でまわして答えていた。息子さんはそれを聞くと「やなことあったねえ〜よしよし」と舌ったらずに言ってママに抱き着いて頭を撫でようとがんばって手を伸ばしていて、悶絶するほど可愛かった。いつも何か嫌なことがあったら、きっとそうやってあやされているんだろうとすぐにわかる。

 「なんだ、家出ー?旦那とケンカでもした?」

 一瞬癒されて忘れていそうだった穏やかな顔が、専務にそう聞かれるなり再び剣呑に変わった。おだやかそうな彼女には似合わない、というか慣れていなさそうなその顔に、初対面のわたしだけでなく、よく知った専務も振り返るほど驚いていた。

 「今あの男の話しないで」
 「ハ?…なんで?ウソだろ?オマエってそんなキレることあんの?」
 「……そう、わたしが悪いの。ああいう人間だって分かってて一緒にいるくせに今更怒ってるの」

 彼女はよっぽど頭にきているらしく、今の専務のコメントにまでわずかに咬みついた。普段の彼なら面白がりそうなものなのに、専務は意外にも、うわ、地雷踏んだ最悪、みたいな顔をして自己嫌悪するような溜息をつき、すぐに取り繕った。

 「待て、オマエが悪いとは言ってねぇから。意外っつっただけ。そういうの全部飲み込むっつーか感じてねぇ超人だと思ってた、オレが悪かったからオレにまでキレんな」
 「……」

 口を挟める環境じゃないから声を出さなかったけれど、わたしは彼のこの態度で、運転をミスりそうなほどショックを受けた。ものの数分で、好きかどうかはさておき、彼にとって奥方が特別だということ、というか、自分が彼にとってまるで特別なんかではないことが分かってしまったからだ。彼が八つ当たりに対してまったく茶化さず、しかもそんなに非もないのにこんな光の速さで謝ったのは、ご主人たる首領を怖がっているとかではない。立場など関係なく彼自身が、彼女の心を損ねたくないのだ。

 奥方は専務の言葉をうけて、複雑そうな顔をした。怒る気持ちは継続しているが、自分が八つ当たりしたことを悪いとも思っているようだ。

 「………蘭ちゃんのくせに完璧な謝罪しないで」

 少しの沈黙のあとの声は、可愛らしく拗ねていた。あからさまに隣のひとが安堵したのが伝わり、また無駄に心が抉られる。もう聞かないほうがいいと運転に集中していたけど、次の最初の一発があまりにストレートアタックで、集中なんかまったくできずにちゃんとダメージを食らってしまった。

 「機嫌悪〜〜。なーに離婚してオレにするう?」
 「今本気にしかねないからやめて。本当に怒ってるの」
 「いいよ本気にしても。伊織が腹にいるときオレが言ったの覚えてんだろ?」
 「………」

 プロポーズまがいのからかいをする間、逆かも、からかいに見せかけたプロポーズをする間、専務は彼女のほうではなくフロントガラスのほうを向いて、バックミラーで表情の確認さえしていないようだった。少し投げやりにも聞こえるおさえた声は、本気を隠しきれていない。

 「どーすんの」

 一転してからかい100の声色で、彼は奥方を振り返る。彼女は大きく溜息をついて、息子さんを抱きしめて仕方なさそうに笑った。

 「……仲直りの後押しありがとう」
 「残念♡」

 それから先は耳に毒な会話はなかった。専務が上手に、言うつもりはなかったらしい奥方からずるずるとケンカのエピソードを引っ張り出して愚痴大会になった。聞けば聞くほど家庭では佐野万次郎というレジェンドはどうしようもない夫で父で、たぶん普通ならとっくに離婚されているけど、彼女は愛想をつけられないしだからこそ家を飛び出すほど怒っていたのだと分かった。大好きなんだろう。でも今はムカついてる、そんな感じ。専務には申し訳ないけど、彼女が彼女の夫から絶対に離れないと分かってくると、さっきので抉られたダメージはわずかながらに修復していった。

 けれども。

 通りから一本入ったところにある自宅のエントランスに着くと、あーあ、着いちゃった、とばかりに奥方が溜息をついた。その様子をバックミラーで見た専務が、シートベルトを外してしまう。「先戻ってて」あ、いなくなっちゃう。さっき修復したばかりの部分が、ふたたび深手を負う。

 ドア越しに聞こえた会話で、自分の表情が消えるのがわかった。

 「もうちょい付き合ってやろっか?」
 「……一杯だけいい?」
 「めずらし。ガチギレじゃん。いーよ」

 伊織くんを自ら抱き上げ、恋人にするようなエスコートで彼女の腰を抱こうとして、ふつうに突っぱねられて彼は笑っていた。

 ぜんぜん人を好きにならなくなんてない。彼はとっくに本気の恋を知っている。わたしではなく、別の相手によって。






 帰ってぜんぶ忘れたい、そんなときに限って、オフィスに残ってなきゃならなくなった。しかも積まれた雑用があるとかじゃない。ただ先方の会議と編集が終わるのをヒマしながら待って、それをわたしが仲介して転送したら終わりっていうだけの、誰がやっても家でやってもいいようなくだらない仕事だ。でも漏れたら終わりな重要度ではあるから家ではできず、代わりも効かないから、わたしが待つしかない。普段だったらなんでもないけど、ムダに暇な時間は今とても身体に悪くて、仕方なく転送する文面だけは作り上げ、あとは添付して送るだけの状態にして、こっそり9%の安酒を啜っている。

 ――オレが悪かったから

 ほんとやだ。なにも見たくない。誰とセックスしてようが遊んでいようが構わないけど、あんな顔ができることは教えないでほしかった。この際だから悲しみにどっぷり浸かろうと失恋を描いた漫画を読み漁って号泣しながらそう思う。さっき読んでいた話にあった、『もう夜中の2時を待たずに眠れる』という文言が恐ろしいほど心を抉り、肩が震えるほどしゃくりあげてまた人工甘味料のきついアルコールを呷った。

 一冊読み終えて、パソコンを向き直り、新着メールを逃していないか確認して、入っていないからまたスマホの漫画アプリに戻る、と、突然着信画面に切り替わった。発信元は専務だった。

 「はい」
 
 シラフだったら、声が泣いているからとかもう少しためらって電話に出たと思うけど、酔っぱらいすぎて思考が鈍り切った頭は、迷いなく電話に出た。向こうから『あ?』と怪訝な声がする。

 『…会議終わった?』
 「まだです。待ってます」
 『オマエ大丈夫?酔ってんだろ』
 「大丈夫ですよ」

 大丈夫かと身を案じられたのが、仕事のためなのは分かっていても嬉しかった。垂れてきた鼻水をすすると泣いているのがバレそうだからとティッシュで押さえていたら、『大丈夫じゃねぇじゃんクソ泣いてっし』と言われる。まあ、そうですよね。相手は灰谷蘭ですから。

 「本当に大丈夫です、すみません」
 『…今何飲んでんの?』
 「ストゼロです」
 『そ。分かった』

 そんな中途半端なところで通話は切れた。酔っぱらいのぼやぼや頭は、ほらやっぱり、全然奥方と扱いが違うじゃん、と当たり前の格差を嘆いて、また新しい缶に手を伸ばした。たとえば奥方がこうやって泣いてたとしたらあの人はどうするんだろう。待ってろ、とか言ってすぐ来てくれるのかな。羨ましい。わたしもああいうふうになりたかった。そう思うと惨めすぎてまた涙が出た。

 それから20分ぐらい、うっかり灰谷さんが事務所に現れる都合のいい妄想をしたりもしたけどそうはならずに、次にドアを叩いたのは編集を終えてデータを持ってきてくれた男だった。

 「お待たせしてすみません。…大丈夫ですか?」
 「すみません、いろいろあって、大丈夫です。お預かりします」

 何にも大丈夫そうには見えないだろう。さすがに申し訳なく思った。一応機密情報を扱うのにこんな真っ赤に号泣した酔っ払いを咬ませるのは、まともな社会組織じゃないとはいえアウトだ。本来ならわたしがデータを確認してから圧縮して一部を送信後、メモリスティックを取引先に持っていくという手はずだったが、わたしの監視下にファイル展開、圧縮、添付までやってくれるというので、彼にデスクに座ってもらった。

 「すみません、本当に」
 「いえ。そういうときもありますよね」

 優しい。九井さんといい、やっぱりこういう惨めな気持ちってみんな通ってるんだな、生きるのつらいな、なんて思った。そんな庶民の苦しみとは無縁そうなあの灰谷蘭でさえ、世界中探しても唯一ぐらいの頭が上がらない相手の奥様にこんな思いをしたんだろうか。いいなあ。思われたい、わたしだって。

 ぜんぜんまともじゃない自覚はあったから、展開されたデータの確認は無意味だと判断し、最低限の宛先だけは厚意で付き添ってくれた彼と一緒に声出しで3回確認して、メールに添付してもらった。そのほか何かと彼には関係のない雑務をこなしてもらい、事務所の出口まで見送りに立つ。

 「ほんとにすみませんでした。助かりました」
 「とんでもないです。というか、本当に大丈夫ですか?家まで送りましょうか」
 「……」

 送られてしまおうかなと、一瞬魔が差した。ぼけぼけしすぎてちゃんと認識していなかったけど、必要以上に距離は近くて、支えるふりをして腰を抱く手は熱くべったりとくっついている。OKさえしてしまえば、今夜隣で寝てくれる相手が手に入るだろう。そうしちゃってもいいかも、と、本気で迷いはじめたときだった。

 「遊びは仕事マトモにやってからにしろー?」
 「……」

 うそ、と声にならない息が出る。

 「灰谷専務!?」

 声でわかってはいたものの、振り返って本当に専務の顔があって、膝から落ちるかと思った。自分でも嬉しいのか苦しいのか判断がつかないけど、鳥肌が立つほど情緒が波立って視界が潤む。

 あの灰谷蘭の登場に彼はすぐにわたしから手を離し、千鳥足のわたしはぐらりと傾いて、よく知った香水と煙草の匂いに受け止められる。役得。酔いからさめたほうがいい、もったいないよ、と理性的なわたしが叫んだところで、アルコールが抜けなくて残念だった。

 「遅ぇよ仕事が。何時にオレの部下使ってんだテメェんとこは。あ?」
 「申し訳ありませんでした。今後は絶対にないよう気を付けます。失礼いたします」

 誘ってきた男は恐ろしく小物で、逃げ足がめちゃくちゃ早かった。あっという間にいなくなって、こんな場所にふたりきりになってしまう。

 なにかと仕事でやらかした自覚もあるから、うつむいたまま顔を見られずにいたら、大きな骨ばった手がわたしの両頬を挟んで無理やり引き上げ、異様に整った顔が間近に迫った。心臓がしたことのない動きでよじれる。いたい。

 「飲みすぎ。どんだけやったらこーなんだよ」
 「……」
 「…今度こそフラれた?」
 「…相手いたみたいで」
 「げ。そっちか…」

 男女の機微にやたらに敏感なのも、彼が恋愛気質だからじゃなくて、数多人を転がしてきたからだと思っていた。でもそうじゃない。美化しすぎていた。この人だって恋愛するし、失恋だってする。

 「悪い、リサーチ不足。あいつ仕事しかしてねぇし家女っ気ゼロだし、勝手にいるはずねぇと思ってた」
 「いえ…専務のせいじゃないです、全然。ありがとうございました」

 相手が九井さんだという誤解は、こうなってみるととても都合がよかった。わたしが大騒ぎしていたのは事実だし、だいたいこの人に、オマエごときが?オレに?なんて思われたら軽く死ねる。

 他の男に失恋して泣いていると油断している専務は、よしよしとわたしの頭を撫でた。向けられているのが同情ではなく愛情だったらどんなによかったか。アルコールも手伝ってまたぼろぼろと涙が出て、灰谷さんはちょっと感心したようにわたしを見つめた。

 「そんな好きだったのなオマエ」
 「すっごい好きです、めちゃくちゃ好き。大好きです」
 「……」

 恥ずかしい本音を、仮面をかぶって本人にぶつけると、いくぶんかストレス発散にはなった。でも余計に好きになってしまって、手に入らないことがあまりに苦しくて悲しくて、涙が止まらなかった。

 「…すげーな。オレ無理な相手に好きってひとりで呟くだけでもダメージ食らうけど」
 「食らってますよ!食らってるけど、だからって言わないでいても、…ばくはつ、しそうで」
 「……わかるよ」

 わからないで。そんな気持ち知らないでいて。そういう人でいてよ。そうじゃないと。

 「寂しい?」
 「…寂しいですっ、…選ばれないような自分が、死ぬほど惨めです…っ」

 いい年してこんなにも人に溺れるなんて思ってなかった。こういう激情的なことはふつう、思春期とかもっと若いうちに終わらせるものなんじゃないの?知らないけど、そう聞く。若ければ微笑ましいことだって、この年齢では痛々しい。惨めだ。何が悲しくていちばん惨めな顔を、いちばん見せたくない人に見せているんだか。どれだけ自己嫌悪したって、感情の渦のコントロールができなくて余計に苦しい。

 「なあ、今別の男引きはがしといてなんだけどさ」
 「…え?」
 「……つけこんでいい?」

 なにに、が声にならないうちに、なぜか失恋し続けているはずの相手からキスを受けた。鼻腔いっぱいに充満する香水と煙草。冷たい唇。対照的に熱い舌。頭の芯がとろけるような、甘い甘い。



***








つづきます