***
「すっごい好きです、めちゃくちゃ好き。大好きです」
「……」
泣き方はクソみっともなかったし泣き顔も笑えないほどブスだったけど、少なくともこの女はこんなに惨めになってまで好きだと何度もはっきり言えるだけの胆力がある。どこの誰にも言えもしないで、本人には察させて甘やかされただけの人間は、口が裂けてもこの女にダサいなんて言えない。
「…すげーな。オレふられた相手に好きってひとりで呟くだけでもダメージ食らうけど」
「食らってますよ!食らってるけど、だからって言わないでいても、…ばくはつ、しそうで」
「……わかるよ」
寝ても覚めても、相手のことを考える。寝たかな起きたかな、何食ってんのかな、うまいもの食ったらこれ食わせたらどういう反応すんのかなとか、同じ趣味のものは見せたら喜ぶかなとか、ここまできれいにまとめすぎたけど人にはとても言えない妄想だってある。ただオレの場合、その溜まったものを声に出して発散させると爆発より死にたくなるし、余計痛くなってどつぼにはまるから言わないだけ。酒で気持ちの輪郭をぼかすのが常だ。だから人前では泥酔しないように細心の注意を払う。したら絶対口走るから。
自分が口走ったわかるよ、のせいで、本永の喉が引き攣れそうな泣き声にずるずると気持ちが引きずられる。あーオレわかっちゃうんだ、こんなばかみたいに泣く気持ちが。恋愛なんて全部勘違いと幻想だって偉そうに真琴に講釈垂れた口で。ふーん。まあ、涙とか出ないけど。目ぇカラカラ。真琴なら泣くかもな。ぽろって、一粒零すように。
不思議とそれは想像に難くなく、泣く真琴の顔がかんたんに頭に浮かんだ。そしたら鼻の奥がつんとした。ずいぶん久しぶりで、懐かしさのほうに気をとられそうな涙の気配だった。
「寂しい?」
「…寂しいですっ、…選ばれないような自分が、死ぬほど惨めです…っ」
ああ、嫌だ。黙れよ。まるで自分がそのクソダサいことを言っているようにさえ錯覚して、胸が悪くなる。黙ってくれ、頼むから。もうこれ以上、自分で自分を余計に惨めに追いやるのはやめろ。
どうやってもその本音が格好つけた言葉にできず、泣き続ける顎をひっつかんだ。
「なあ、今別の男引きはがしといてなんだけどさ」
「…え?」
「……つけこんでいい?」
真琴に向けるような、優しく可愛く思いやる気持ちなんてない。驚きに目を見開いた本永の顔に抱いたのは、純度100の汚したいって気持ちだけだ。いびつでクソで、意地の悪い。でも、顎を掴んだその感覚で思い出した。恋愛ってこういう感じだったなって。
返事は待たない。驚いた顔がすでにこの時点で縋る方向に傾いてたから、余計なことばかり言う口を覆って、言葉を飲み下させた。
*
くっついていた体温が離れ、シーツが引っ張られて、うすく意識が持ち上がる。目を開けたら、本永がいったんは起き上がりかけたものの、たぶん二日酔いがひどすぎて結局枕につぶれていた。ベッドサイドのペットボトルを取って口に含み、オレが起きているのに気付いて振り返ったその唇に、ぬるい水を少しずつ口移ししてやった。
「…っん、」
「オハヨ♡」
仰向けで飲み込んで誤嚥して咳き込む背中を撫でる。いつも服にしっかり隠れている部分をむき出しで見るのはやっぱり嫌いじゃない。するっとした滑らかな肌についでに唇をつけると、びく、と身体が反応して面白かった。
「もうちょい水いるー?」
「……ほしい…」
「また飲ませてやろっか」
「……」
最悪の顔色で複雑そうな顔をして、オレが持ったままだったペットボトルを奪い、自分で飲んでいた。よっぽど脱水だったらしい。口移しのちょっとずつなんて待っていられなかったんだろう。カラカラに乾いた土が水を吸い込むように一気にボトルを空にして、ふたたびベッドに落ちていく。
あのあと結局、泥酔状態の本永を自社ホテルに連れ込んで抱いた。1分もかかっていない手続きの間にさえ人にもたれて立ったまま寝そうだった女相手だったからまあお粗末だったけど。最初盛り上がってもすぐ疲れて、尻すぼみで出すもん出したら用済み、飲み会あとでよくある駄作感のあるセックスというか。
ただ、
『忘れられない人、いますか』
今に入れるってときになって、焦点の定まっていない目でそう言われて、わりと戸惑った。言われて素直に頭の裏には真琴の顔が浮かんだけど、こんなところに似つかわしくないからすぐに消した。
『聞いてどうすんのそんなの』
『…いまだけ、わたしのこと…その人だと思ってほしくて』
『……ふーん。オレは九井役なんてごめんだけど、それでもいい?』
『…はい』
まあ、九井相手に失恋したばかりなのを一方的に知られているのがフェアじゃないからとか、ワンナイト扱いより恋人みたいに優しく接してほしいとか、そういう理由だったんだと思う。腰を進めて中に入って、声を漏らした素肌を抱きしめて目を閉じる。これが真琴だったら?
『…大丈夫?痛くねぇ?』
ついこの間抱きしめた髪の匂い、感触を思い出す。柔そうなあの耳に吹き込むつもりで、唇を寄せる。トレースはいやになるほど簡単で、そう思い込んでいいのだと思うと腹の奥からぞくぞくと興奮してくるのがおぞましかった。
『…う、ん、いたくない』
『ありがと。愛してるよ』
実際に万が一そんなことになったとして、そんな格好つけて言えるはずがないことを囁いて、耳にリップ音を響かせるように口づけた。そうできる自分を夢見たと言ってもいい。
こういうとまるで映画のような美しいセックスをしたようにとれるけど、このあとはもうグダグダだった。途中で酔いすぎた本永がそれどころじゃなくなったし、オレもオレで持って行った飲み慣れない安酒で悪酔いして中折れするかと思うぐらい吐きそうだったからだ。実際そのあと二人とも吐いた。
「あー頭痛……死にてぇヤツが飲む酒だな。二度と飲まねー」
「……お口に合わないものをすみません」
「オマエだって合ってねぇじゃん。そんなに消したかった?」
自分のことは思いっきり棚に上げてそう聞くと、まだ立ち直っていないどころか、むしろ傷にアイスピックでもグリグリされたような顔で本永が枕に突っ伏した。「言わないで……」大ダメージを食らったか細い声がつぶれて聞こえる。さすがにかわいそうになって、その後頭部を撫でてやった。
「別のオトコ見つけるか、見つかんなくても時間経てば忘れんだろ」
「……それ九井さんにもう言われたし……」
「うわごめーん。無神経で」
悪びれずにそう言ったら、むき出しの足が横から蹴りを入れてきた。足癖悪いな。今のは可愛かった。微妙にツボにはまって、悲しみに突っ伏したままの身体にさらにちょっかいをかける。
「まーまーそんなにへこむなって、傷心癒えるまでオレ使ってもいいからさ♡」
「……えぇぇ…」
「なんで。嫌?あんなんでオワリって思われんのヤだからリベンジしてぇんだけど」
その気に流すつもりで、肩甲骨のまわりの溝から頸椎へ、順番に上っていくようにキスを落とす。太ももから尻、腰のラインに手を沿わせて、逃がさないように腹を抱く。意外に根性があって、身体をわずかな緊張に固めながらも起き上がらない。完全にのしかかって耳元で「なぁんで」とぐずってみせると、少しの間のあと、自分を嘆くような溜息をついて半分だけ寝がえりをうち、恨みがましそうな顔が見上げてくる。
「…相手が専務じゃ、こうやって甘えちゃったの仕事中まで忘れられないじゃないですか…」
「そんな理由?じゃあ1回しちゃったらもう変わんねぇじゃん。…ダメ?」
「……」
強情だった顔がじわじわと複雑そうに、でも確実に絆されていく。流されるのが不本意って顔。それも可愛いよ、単純で。女たちそれぞれどんな性格でも、母性本能って相当そぎ落としにくい部分らしくて、だいたい無駄にカッコつけるより、駄々をこねてぐずる顔に弱かったりするのだ。
「仕事中でもずっと考えてりゃいいじゃん」
「…そんな頭の中まっピンクじゃないんですけど」
「そ?」
そんなに胸を張って否定できるほど、煩悩がないヤツなんていない。反論はまともに受けずにせせら笑い、唇を覆って足の間に指を忍ばせる。言うほど抵抗する気はないらしく、自分で足を開きこそしなかったものの、その足は力んでオレの手を弾いたりはしなかった。
中に指をさし入れて、しっかり湿り始めていたそこに笑い、わざと音を立ててやった。真っ赤になってもう殺してくれって顔もなかなかいい。
「フツーにやらしくねぇ?」
「……性格わる…」
「んな褒めんなよ♡」
かわいいじゃん。こんな状況になってまであきらめが悪いのも、たぶん九井とか仕事とかそういう雑音を忘れられてなくて悔しいのが丸わかりなところも。その雑念を引きはがしてこっちしか向けないようにしたくなる。
「梢」
「え、な…なんですか」
「集中。あと専務はしらけるから名前で呼べよ」
うだうだの返事は聞かずに、また唇をふさぐ。あー楽しい。気持ちいい。最高。やっぱこうじゃねえと調子狂う。自分のペースに他人を巻き込んで、抵抗する顔を見て遊ぶ。脳裏にちらりと浮かんだ後ろ姿は、無駄に直視してもがっくりくるだけだから見ないフリをした。
*視点交替 ↑蘭 ↓梢
『今日何時ぐらいですか』
悩んで悩んで、結局送ってしまった。こういう躊躇ったものを送ってしまうと、なぜか携帯をパッと放り投げてむだに別の仕事を始めかけてしまうのってなんなんだろう。それでちっとも進まない作業を平行しながらチラチラ携帯を見て、マナーモードも切って、通知音があるんだから気付かないはずないのにたまに拾って、なんの反応もないことに小さく絶望しながらまたもとのように携帯を伏せる、までセット。
さっきわたしが意を決して控えめにお誘いしたのは、専務改め、蘭さんだ。あの日のあとの関係は、なんというか、お察しください、ってかんじである。
早朝から2回ほど、二日酔いの酒の抜けないままに怠惰に身体を重ねたあとは、どちらから何とも言わずにばらばらに出勤して、オフィス内では完全に元通りの関係に戻ることができた。けれども、例えば九井さんがオフィスに尋ねてきたり、あるいはきつかった外回りの仕事が終わったりしたときに、あえて目を合わせずにほんの少しだけ手を重ねてきて、なしくずしのように部屋に連れられて、抱かれる。晩も朝も一緒に食事をとったりはしないし、細やかに連絡を取り合うこともない。上司であってフレンドではないのでこの表現は正確じゃないけど、要はセフレと内容はおなじだ。
最初はそれでもいいかと思った。好きだし、気持ちに応えてもらえなかろうと、一緒に眠れることが幸せだと感じたから。だが、これを2回、3回と経験すると、ずぶずぶとさらに彼にハマってしまう。たぶん蘭さんがなにも意識しないで発している適当な言葉にいちいち意味を見出して自分に脈があるのではと勘ぐってみたり、逆に必要以上に落ちたりする。あとはとにかく離れていて連絡も取っていない時間が加速度的に苦しくなっていくので、ひとりでいるとずっと携帯を持って、メッセージを作りかけたり消したり、発信しかけたりやめたり、電源を切ったりつけたりと、もう始末に負えない。今もそうだけど、ちらっとでも話せないかなとオフィスにいる時間を引き延ばしてみたりもする。もしこんな気持ちがバレたら死にたいから、そんなに派手にはしないけど。
ちょうどコピー機に立ったとき、てろん、とスマホが鳴った。
「うわっ」
慌てすぎてカーペットにヒールを引っかけ、蹴つまづきながら携帯を拾ってメッセージを見て、深い溜息が出た。ぜんぜん待っていたひとなんかではなく、化粧品の広告だった。わりと使うブランドなのに腹が立って、勢いでブロックする。どうせあとで解除するけど、いらんときに送ってこないでほしい。
…って。いやいやいや、ちがうでしょう。
「だめだ」
自分に言い聞かせるためにはっきり声に出して、そう言った。だめだ。今自分にとって本当に有用だったのは、蘭さんからの中毒性のあるメッセージではなく、将来の自己投資ともいえる美容液の広告のはずだ。たった今自分でやった広告のブロックを解除して、ふだん使っているのよりも一段も二段も高い美容液をカートに突っ込み、躊躇わないうちに決済する。そして、本当はとっくに終わっているのに一目でも顔を見るためだけにむだに引き延ばしていた雑務のエクセルを閉じて、パソコンを落とし、鞄を掴んだ。帰ろう。自分を励ますようななにかを買って、いいお酒とお惣菜を買って、映画でも見ながら寝てしまおう。
これ以上自分を軽蔑したくない。きっかけなんかいらない、自分で強制終了させてやる。息まいて廊下に出たら、ばったりと九井さんに会った。
「うお」
「あ、すみません。お疲れ様です」
「お疲れ。なんだ、急ぎか?」
「いえ、ただ物欲が爆発してて絶対に買い物に行きたいだけです」
「はっ、なんだそれ。何買うの」
「悩んでます。今50万ぐらいかっとばしたい気分なんですけど、おすすめないですか?」
わたしの尋常でない気合と無鉄砲ぶりに、九井さんは声をあげて笑った。たぶんわたしの失恋も分かってくれているのだろう。無駄に止めたり、呆れたりせずに、50万円ぐらいを使う相談に真面目に乗ってくれた。
「ベタだけど美容関係は?」
「わりと課金しちゃってて今満足なんですよね……」
「じゃあ今困ってること」
「うーん…暇つぶし?」
「パーソナル契約するとか」
「身体鍛えるのはつらい…」
「楽器買う」
「楽しそう!……でも防音がない」
「じゃあペットでも飼えば?」
「それだ!!!」
あまりに百点満点の回答がさらりととつぜん飛び出したので、わたしはおもわず両人差し指を彼に指して、ゲッツのポーズを取ってしまった。そうだった、どうして忘れていたんだろう。あまりに一人暮らしがヒマで孤独だから、仕事の忙しいのがある程度ひと段落したら飼ってしまおうと思ってずっとずっとマンチカンかラグドールを検索していたのをすっかり忘れていた。
「この時間に飛び込めるようなペットショップなんて知らないですよねぇ」
「あー、下北に3軒ぐらいねえっけ?ちょっと距離あっけど車なら15分そこらで着くだろ」
「感謝です九井さん!ありがとうございます行ってきます!!」
ひとの頭はほかに打ち込めそうなものさえあれば、意外に簡単に情熱の矛先を入れ替えられる。私用の小さい車に乗り込み、地下駐車場から発進させた。途中無意識に蘭さんのマカンが戻ってきてやしないかときょろきょろしてしまったが、結局戻ってきてはいなくて、わたしは悠々と自由な街に解放されて、九井さんに指示された通りの下北沢を目指した。
1軒目、XJランド。「こんにちは…」と緊張ぎみに中に入ると、「いらっしゃいませ」と黒髪の美青年が愛想よく振り返った。
「なにかお探しですか?」
「あの…猫ちゃんを新しく飼いたいなって思ってて。その、もしいい子がいたら、今日連れて帰ることって、現実的だったりしますか」
「検診とかの関係でみんなそうってわけじゃないんですけど、中には連れて帰れる子もいますよ。種類は考えてます?」
「マンチカンとか、ラグドールとか…初心者向けの懐っこい子だと嬉しいです」
「あ、そしたら」
話はとてもスムーズに進んだ。松野って名札をかけている彼が店長さんらしい。動物が本当に好きなんだなと思う。こんなに可愛くて疚しさがなくて、動物への愛情で成り立っている仕事を目前に、ちょっと自分の後ろ暗すぎる生き方が情けなくて心にささった。
「ラグドールって抱っこされるのが好きなんですけど、この子は特にその気が強くて、すげぇ甘えんぼなんすよ。しつけしやすいし騒いだりもしないですよ。ちょーっとお値段は張っちゃいますけど」
その説明は実際ほぼ聞こえていなかった。そのほわほわの小さな物体があまりにも可愛くて、触ったらもう絶対に連れて帰るってぐらい心奪われてしまったからだ。値段はたしかにそれなりだったけど、もはやいまの荒んだ心を癒すためと思えば安い。ケージや餌、必要な物品はぜんぶ店長さんに言われるまま従って購入し、予定を少々超えた支払いを即決で終えた。
「荷物、どうしますか?送りましょうか」
「大丈夫、車で来てるので。横づけしていいですか?」
「いいですよ」
松野さんともうひとりのこちらもまたイケメンの店員さんは、ふたりしてめちゃめちゃ優しかった。ラグドールを愛情深く抱えたまま狭い路地に車を横づけするのも、ケージやらなにやらを積み込むのもすべて付き合ってくれた。
「抱っこしながら帰ってもこの子大丈夫でしょうか…」
お散歩用のバッグにしまわれた猫をいよいよ積むところになって、松野さんにそう聞いてみた。彼はちょっと驚いたように目をまるくして、「たぶん大丈夫ですけど、毛…」と言いよどみ、わたしの車体をひかえめに見渡す。小型とはいえ一応イタリア車だからと気を遣ってくれたのだろう。汚れまくった経費ごまかしで買ってもらった車に大した愛着はない。「いいんです」とことわったわたしが豪気なセレブに見えていないといいな、と思いながら、生後3か月のやわい個体を受け取った。ほわほわの長毛の奥の、小さくてあつくて柔らかい子猫が、自分の胸にたよりなさそうにすがるその仕草に心臓をぎゅむぎゅむに掴まれて天を仰ぐ。
「「かっっ…わいい………」」
わたしと松野さんの呻くような声が同時に発されて、おもわず笑ってしまった。「かぶりましたね」「かわいいですもんね」と笑い合い、荒んだ心がみるみる修復していくのがわかった。ここにしてよかった、と心から思う。
「名前どうしよっかなぁ…お店でつけてたりしました?」
「いえ。だいたいすぐ別れることになっちゃうんで、名前はなるべくつけないようにしてるんです。いい名前つけてあげてください」
「どうしよっかなぁ。白いからユキちゃん?フユちゃん?安直すぎかな」
「フユいいじゃん」
ここまで黙って手伝ってくれていた、もうひとりの金髪メッシュのほうの店員さんが、名案!みたいな顔で松野さんを見た。「ちょっと」となぜか窘める彼らの意図がつかめなくて、ふたりの顔を交互に見ていたら、金髪のほうが松野さんを指さして言う。
「コイツ千冬っていうんだよ」
「えっ?そうなんですか!?」
「一虎君敬語。…そうなんすよ、女子みたいでしょ」
そんなことない。すてきな名前だ。まつのちふゆ、たしかに少女漫画のヒロインにでもいそうな名前だけど、愛嬌があってやさしくて、心から動物を愛しているかんじの彼にとても似合っている。
「決定だね、フユちゃん。よろしくね」
「マジすか?後悔しません?」
「絶対しないです。今日ここにきてほんとによかった。ありがとうございました」
「こちらこそ。トリミングも承ってるんで、いつでもお待ちしてます」
最後までさわやかで感じのいい挨拶に会釈を返し、窓を閉める。さあ、帰ろう。そういえば猫に気をとられてお酒を買うのを忘れたけど、家にいただきものがあった気がするし、夕飯は出前でいいかな。フユの準備で忙しいし。
明るい気持ちで車を走らせ始めると、助手席に投げ出したままだった携帯が鳴り始める。一瞬心臓が冷えて、ちらりと横眼で見ると、もはや見慣れかかった『灰谷蘭』の文字が見えた。舞い上がって引き戻されかける心を、変わった信号と、胸元でうごめく小さな命が繋ぎ止め、約10コール、どうにか手を伸ばさずに聞き終えることができた。
画面が暗く戻っている。ばくばくと心臓が鳴っていた。運転にしろフユにかまうことにしろ、これだけやることが多くなかったらきっと取ってしまっていただろう。
「…ありがと、フユちゃん」
たらたらの未練を断ち切るためなんていう、大ダメな目的で買われてしまうような子じゃないのに、申し訳なくも思った。本当に人懐こく、すり寄ってくる小さな頭を撫でて、せめてこれからは彼の幸せをいちばんに考えて尽くそうと心に誓った。
*
「…出ねぇし」
そうなってみて気付いたけど、梢相手には5コールも待たされたことがなかった。きっちりした部下だったなあ、と失ってもないのに考え、ホーム画面にもどして、携帯を空のボトルホルダーに突っ込む。
「誰?」
運転席の竜胆がべつに興味もなさそうに聞く。「梢」と正直に答えると、「あー本永ね」と合点がいったように薄く頷いていた、が、少し間をおいてぎょっとしたようにこっちを見てきた。
「……え?」
「なに」
「……名前で呼んでたっけ?」
「あ。……察して♡」
べつに付き合ってるわけでもないから、梢とのことは竜胆に言っていなかった。…いや、ちがう、ちょっと後ろ暗かった。取引相手とかのハニトラまがいならまだしも、自分のところの部下。しかも竜胆もわりあいよく送迎なり雑務なりで使っている梢だ。変に気まずくなったりしたら弟の自分まで気まずいじゃん、っていう非難がぜったいくるって無意識に分かってたから黙ってた。予想通り竜胆は大げさな溜息をついて「もー」とぶーたれている。
「マジで相手選べっつってんじゃんいつ聞くの??ねえ」
「だって九井にフラれて寂しそうだったんだもーん」
「え?あれガチだったの?」
「一応」
自分がやったなんて分からないように陰から支える、といえば聞こえは健気でまるでいいように聞こえるが、やっていたことはその実八割ストーカーだ。恋というよりはジャニタレ追っかけるヤラカシに近い。そんな姿をよく知っている竜胆は、「えー…?」と腑に落ちなさそうな声を出しながら穏やかに片手でハンドルをさばく。
自分から今日何時終わりかなんて連絡してきたくせに、携帯に折り返しはない。どうでもいいけど、と切り捨てたかったが、なにせ付き合いも愛着もそれなりなせいで気にかかる。通信エラーさえ疑って一度機内モードにしたりアプリを再起動したりしてみたが、やはり携帯は正常に働いていた。『なんかあった?』連絡も入れてみたが既読もつかず。
「…生意気」
「なに?」
「返事こない」
「九井となんかあったんじゃね」
「えー」
「いいじゃんそれはそれで」
「なんか面白くねぇ。…は?オレとヤっといて???まだ??九井????梢がぁ???」
「どういう対抗?」
そのツッコミのほうが絶対正解で、普通に遊ぶつもりで誘った自分がその独占欲を発揮することに正直自分でだってついていけていなかった。でもとにかく面白くない。それなりにこっちに転がせている手ごたえは感じていたのに、九井が振り返っただけで当然みたいにそっちに釣られてるってことが。それじゃまるで、
「オレが九井に負けてるみたいじゃん!」
「……兄ちゃん、別に点数制じゃねえからソコ」
まともな恋愛論を言い出した弟についに目をむいた。どう考えても真琴に感化されすぎている。それでも暴力団かよ、まるでまともな一般人だ。まあもともと性根の素直な弟だから、そういう環境で育てばそう染まるだろうなっていうのは昔から思ってたけど、証明してくれなくたっていいのに。
信号で車が停まる。ちょうど路肩が近い。後続2台にタクシーを見つけ、シートベルトを外した。
「ハ?……えっちょっと兄貴!?」
「ちょっと行ってくる。先帰ってろよ〜」
行先はとりあえず本部、いなければ誰か捕まえて、九井の居所をたどればいい。呆気にとられた竜胆は放置で、絶妙な位置にとめていたタクシーに乗り換える。
で。
「……なんで?」
「ハ?」
着いてみたら着いてみたで、最初に会ったのがたどる予定だった目的の男で首を傾げた。いや目的の男っていうか、それだってサブだけど。梢単品を追うより目立つから楽だろうと思ったのに、アテが外れた。
「…すっげーダメ元で聞くけど、ウチの部下知らねぇ?」
「本永か?」
「そ」
素直に聞いたら、目線が真上、のようでほんの少し左に流れて、絶対なんか知ってるけどとぼけようとしていると分かる。金策に長けてるってことは交渉だって心理だって得意分野なウチの経理サマだが、意外にも身内の咄嗟な質問にはちょろっと機微が出るのだ。本人が自覚してるかどうかは知らないが。
「なんか用があるとかでバタバタ帰ってったぜ。仕事なら電話しろよ、出んだろ」
「出ねえんだよアイツ生意気にさー。ココちゃん電話してくんね?」
「嫌われてんじゃねえの。ほっといてやれば」
「なーにウチの子に優しくねぇ?好きなの?」
「別に嫌いじゃねえよ」
「…マジ?」
フラれたんじゃなかったかと記憶をたどり、そういえば相手がいたと泣いていたことを思い出した。でもこれは、そう脈ナシでもなさそうな反応に見える。それを見誤っているのか。恋愛偏差値が引くほど低いあの女のことだからありえなくはないかもしれないが、微妙に違和感はある。
って言ったって、わざわざすれ違ってますよと言ってやる義理はない。ちょっと前ならそう言って背中を押して恩のひとつでも売ってやっただろうが、今はそんなにくっついてほしいわけじゃないし。というか。
「九井」
「あ?」
「ウチのに手ェ出すなよ」
「……それはそちらさんの管理次第だな?」
挑発してくる目はわりあいマジで、こうなってくると余計に梢の鈍感ぶりに笑えた。こんなじゃなんであんなに泣いたかわかんねぇな?まあ、教えて喜ばせてなんか絶対やらないが。
結局そのあと梢から折り返しも既読もなく、翌朝になって思いっきり寝不足ですという顔をして出勤してきた本人と直接会うことになった。
「で?」
「え?………あ。…すみません専務、連絡しておいて……大した用事じゃなかったので、だい、大丈夫です」
だいじょうぶ、のところで大あくびしながら、梢は目を擦り擦りオレの横をすり抜けていく。その態度に普通に腹が立った。ほー、相手ができたら用ナシってことね?オレにね???ふーん。と。
腹立つ後ろ姿にどう出るか少し悩む。あえての放置か、あえて切り込むか。今の梢のこの態度は、なにかを意図した演技ではないだろう。ってことは、
「ココちゃんじゃなかったわけ?」
切り込んだほうがまだ話が進む。
聞かれた梢は、コーヒーを誤嚥して派手にむせていた。だったらまあ、ここまでは正解ということで。
「なん、なんでですか、急に…」
「連絡つかねー理由なんてそれぐらいかなーと思ったらフツーに九井に会ったから。昨日何してたの?」
「な……なんだっていいでしょ、普通に帰って寝落ちしただけですし」
「そんな眠そうで?」
「……寝すぎてみたいな……」
一般人でも珍しいぐらいの嘘の下手さが逆にかわいそうになってきた。「ふーーーーーん」いかにも納得していません感を露骨に出してやると、梢は数秒オロオロしたのち、諦めた。
「…前に、ちょっといいなって思ってた人が連絡くれて」
「そんで?ヤったの?」
「そっ…こまで進んではないですけど」
「なに」
「…一緒に住もうかなって……」
藪から棒、青天霹靂、そんな感じ。九井とコソコソ牽制し合っている間に、ワケのわかんねえ馬の骨みたいなぽっと出に掻っ攫われたってこと?ダサすぎる。だいたい付き合うとか電撃婚約ぐらいまでは想定していたオレも、まさか一緒に住む、というワードをチョイスされるとは思わず、度肝を抜かれて言葉が出ない。
自分でも突拍子もないことを言っていると分かっているのか、恥ずかしそうに目を伏せる梢は、ここにきて妙にいじらしくて可愛い。こうなってみて初めて気付いたけど、真琴しかり、もしかしてオレって実は人のものを好きになりやすいのかもしれない。NTRだかNTLだか、たしかにこれまでの履歴を考えてみると、彼氏持ち旦那持ちのほうが多かっ……。
「……よかったじゃん。応援してやるよ」
あとになって考えてみれば、そこまで聞いたんだったらいつもなら『どんなヤツ』『何しててどこに住んでる』『どこで出会った』ぐらいのプロフィールは引き出していただろうに、三十路越えて自分の性癖を自覚するっていう衝撃クソダサエピソードでオレの心は折れていたと言っていい。そうして色々と見落としたワケ。
「あ…りがとう、ございます」
この丸出しの、梢の動揺さえも。
*視点交替 ↑梢 ↓蘭
*そして半年後
半年なんて経ってしまうと、フユはものすごく育った。あんなに小さくて頼りない毛玉だったのが、今や美人な白いお猫様のかたちに成長した。うちでいちばん偉いのを彼は分かっているらしく、短い足で尊大な態度をとり、気まぐれに人の身体を椅子やベッドにしては、わたしが構いはじめると気分によっては“遊ばせてやろう”と構ってくれるが、たいていそでにされる。彼が素直に言うことを聞くとしたら、iPadのお猫様用ゲームアプリぐらい。でもどれだけ彼がわたしに大して塩だとしても、わたしは完全にメロメロ、骨抜きであった。だってバカがつくほどかわいいから。
「出張なんです……」
そんな彼を都内に一人置き去りにしていかなければならないその旅程をさっき電話でクソ上司に宣告された。フユをサマーカットにしにきたついでに、わたしは松野店長に愚痴っていた。
「何泊ですか?」
「2泊……」
「あらら。どっかに預けないとですね。場所は?」
「新潟です」
「お!メシ美味いし、いいとこじゃないスか。…まあなんかあったら帰ってこられる距離だし、元気出して」
そう、確かにそれは仰る通り。国内なので何かあったらすぐにでも帰れる距離ではあるが、48時間近く目を離しているのが寂しい。たった半年の付き合いとは思えないし、なんならその前どうやって生きていたかさえ思い出せない。そういう激情型なのだ。推し活してるときだってそうだった。
「どっかいいホテル知りません?素人になんて絶対任せられないし」
「猫ちゃんだったら1件いいとこ知ってますよ。値段高めっすけど」
「ああ、ぜんぜん安いです」
「まだ値段言ってないです」
松野店長が教えてくれたのは赤坂という一等地に構えたペットホテルで、たしかに価格帯としては猫としてはお高め設定なのかもしれなかった。でもその価格帯で提供できるという自信が、今のフユに目が眩んだわたしにはむしろ素晴らしいことに思え、個室だのビデオ通話だののオプションもトッピングしてその場で即決した。実際に見学まで行っていないことは少し気がかりではあったが、なによりもこのフユの名前をいただいた店長のおすすめだし、ホームページの写真の宿泊中の猫ちゃんたちもみんな幸せそうで、愛を感じたから。こういう直感は信じて大丈夫だと、自分で根拠のない自信があった。
「欲張りセット……」
わたしの電話している様を横で聞き終えて、店長はビビりながらも泣くほど笑っていた。娘を嫁にやった父親が、こいつに預けてよかった、みたいな心境なのかなと思う。そうだとしたら子だくさんで心が大変そうだ。
「ほんと即決型っすね。この子買って行かれたときもそうだったし」
「おかげさまで。運命でした」
「この店最短記録ですもん。当分破られないと思いますよ」
そう言われて久しぶりに、購入当時のことを思い返した。そうなってみて、はっとした。フユと一緒に暮らし始めて半年なら、あれからも半年たっていることになる。あんなに苦しい思いをしたのに、フユがあまりにも大物すぎて、思い返すヒマすら与えないほど専務を頭の隅に追いやってしまったということだ。
「おっ、仕上がったみたいですよ」
「かぁぁわいい〜〜〜〜」
一瞬思い出していた美形の顔は、フユのサマーカットとの対面でぷーんと吹っ飛んで行った。失恋の傷は新しい恋でしか癒せないっていうのが本当なら、もはやわたしはフユに恋しているといってもいいのではないか。一虎さんの腕に抱えられてトリミングゾーンから出てきたフユを受け取る。2時間ぶりぐらいのいいにおいの彼を抱きしめて思いっきり吸ったら、鼻がくすぐられてくしゃみが出て、店長たちに笑われた。
「大丈夫かよ」
「だから敬語。吸っちゃいますよね、分かるわ」
「かわいい〜〜〜」
微妙に鼻声で声は出しづらいままだけど、存分に可愛がって、お会計をして店を出た。見えなくなるまで手を振ってくれるふたりに頭を下げて、駐車場に向かう。真昼の下北沢は人が多くて、勢いでフユを買いに来たあの夜とはぜんぜん景色も受ける印象も違う。そしてわたしの精神状態も。
「ま、熱しやすく冷めやすいということで…。あっ、フユには絶対飽きたりしないからね」
「?」
そういえば最近は仕事中もいかに早く帰るかで頭がいっぱいで、専務の顔も九井さんもまともに見ていないかもしれない。最近会ったっけとさえ思ったが、よく考えたらついさっき電話を受けたばかりだった。我ながら自分の切り替えの潔さが怖い。このまま忘れ去っていくんだろうなあ、ワンシーズンの良い人生経験だった。ほろり。
なーんて思っていたその翌週。
この宣告された出張に向かう東京駅の新幹線乗換口で、遠くからでもアホほど目立つ長身を見つけ、わたしは膝から崩れ落ちるかと思った。
「……き、聞いてないです」
「ああそう?じゃあ今言った。オレも行く」
絶望。フユ。ついさっき赤坂へ置き去りにしてきた白い恋人に早くも死ぬほど会いたくなって内心で泣いた。普段のすれ違いながらの仕事と、この長時間をふたりになるのではレベルがちがう。なんの消化もしないままに強引に捨てたつもりになっている恋が復活しやしないかと、すでに恐ろしかった。
新幹線の切符は頭を下げ倒して、専務をグランクラスのとんでもない席に乗せ、自分は根っからの庶民でなにも落ち着かないからなんなら自由席にしてくれと言い、移動だけは物理的に最大の距離をとることに成功した。が、さすがに取引先との会食を共にしないわけにもいかず、またそのホテルへの帰りもわざわざ離れるわけにいかず、以下は少々ほろ酔いでの帰りのタクシー内の会話である。
「最近どう?」
「変わりないでーす。専務は?」
「まあオレも。なんか微妙にフラれたぐらい」
「へー珍しい。見る目のある女性ですねぇ」
「だろー?ところであんまナメてると深めに眠らすからなー」
「うふふ、殺すぞって言わないとこはステキですよ」
「だけ?それ以外は?」
「顔?」
「と?」
「スタイル」
「と」
「ファッション…痛い痛い痛い!!!パワハラ!!」
「見た目以外で言えっつってんだわーオレ物分かり悪い部下きらーい」
「いい人そう!いい人そう!」
「友達の彼氏のコメントに困るときのやつじゃん。そうってなによ、そうって」
「だって実際いい人ではないですし…」
「…まあそりゃそーだな」
「あれ?…フラれてちゃんと落ちちゃったんですか?」
「は?フラれてねーから」
「さっき自分で言ったんじゃないですか……」
「…明後日一杯付き合えよ」
「えー?今ならいいですけど東京帰ったら門限あるんで」
「そーいうのイヤじゃねえの?」
「そこが可愛いんですよー」
「…わっかんねー」
「あはは、そういう制限嫌いそうですもんね」
「マジムリ。フツー嫌だろ」
「まぁフツー嫌ですよね」
「……」
「あ、今からビデオ通話しますけど見ます?」
「一人でやれ。今やったらマジで両耳の穴繋げっからな」
「えー…?かわいいのに」
心底ほっとした。微妙にお酒の力を借りてはいるが、それでも、専務を意識するより前、九井さんを推していたぐらいの頃の距離感に、ちゃんと戻れていた。密室のタクシー20分でこれなら絶対に大丈夫だと確信を持てて、しばらくわたしたちはいい加減な言い合いを続け、ホテルに到着した。最上階のスイートまで送り届け、中に引きずり込まれることもなく、頭を下げたままドアが閉じて、わたしは自分の成長にしずかにガッツポーズを取ったほど。フユ、松野店長、一虎さん。わたし、やりました。おかげさまで思い出にできたようです。ありがとう。
そしてその翌日の会議も食事も、思ったよりずっと仕事の密度がぎゅっとしていて、とても色恋なんて考えていられる余裕はなかった。こちらが反社ということは向こうもそうなわけで、何をするにも食うか食われるかの駆け引きが続いていて、常にフルで頭を使っていなきゃいけなかったからだ。翌々日、午前中だった帰宅予定を大幅に後ろ倒しにして、夕方にやっとの思いで新幹線に乗り込む頃には、わたしもさすがの灰谷蘭も疲労困憊だった。
「アーーーーくっそ疲れた………」
「頭が……」
張りぼてで頭のキレそうな反社の女幹部を演じるには、相当の精神力が要る。微妙に混雑したグリーン車にふたりで並んで座ってしまってから、席を分け忘れたことに気付いたけど、もう今更だ。専務にもそれに突っ込んでいる余裕などなかったようで、なにも言われなかった。
疲れすぎていて眠れもせず、入っていかないビールをちびちび舐めて、リクライニングをマックスまで倒して、だらだら喋りながら東京へ向かう。アルプスを抜ける長いトンネルの暗闇で、ようやくうとうと意識を飛ばし、東京に着くころにはわたしは恐れ多くもあの灰谷蘭の肩を使って爆睡していた。
「オイ」
「はっ!……え!?うわっすみません!」
グッチによだれでも垂らしているんじゃないかと心配で、あわてて飛び起きて肩まわりをまじまじ見てしまった。一応目につくような汚れやシミはなさそうでほっと息をついてから、怒られると思っておそるおそる顔をうかがう。でも専務からは特に何のお咎めもなく、さっさと降りる準備を進めていて、ちょっと面食らった。
まあでもそんなことよりも、東京についたならとにかくまずはフユのお迎えだ。頭を切り替え、スマホを見る。延長を快諾してくれる旨のメールをざっと流し読み、ここから赤坂までの最短ルートをマップアプリで追う。
先に申告していた予定は、土壇場で5時間近く遅らせてしまった。延長料金なんてどうでもいいけど、今後もフユを預けるかもしれない大切なサービスに失礼を働いたことが心配だった。これがきっかけで預かってもらえなくなんてなろうものなら、わたしはこの組織から逃げ出すしかなくなってしまう。とにかく急がなきゃならないので、わたしは専務への挨拶もそこそこに「急ぎなのですみません!」とホームを離れようとして、首根っこを掴まれた。
「まだ7時半だぞ。甘やかしすぎ」
「いやっもう絶対お迎え行かなきゃいけないんで!本当にすみません!」
「は?迎え?バカじゃねえの自力で帰らせろよ」
「自力??猫が自力でホテルから自宅まで帰れるなら預けてませんけど!!?」
「猫ォ!!?」
そんな声初めて聞いた。なんでこんなに驚いてんだろ今更、と思ってからやっと、自分が半年前にこのひとについた嘘を思い出す。
『一緒に住もうかなって…』
言った。そうだった。なんで忘れていたんだか、この人からの魔の誘いを断るために強制的な言い訳としてフユを買って、この人には同棲中の恋人っていうことにしていたのだ。猫を飼っているなんて知るはずがない。こんなことを忘れていた自分に一瞬絶望したが、でも今は反省より先にやることがあった。
「とにかくホテル、待たせてるので早くしないと、すみませんがお先に失礼します!お疲れさまでした!」
「待て。それ彼氏に行かせらんねーの」
「だからその彼氏が猫ですってば!!」
「………そうきたか……」
焦りのあまりごまかせるところさえ自分で落としてしまったが、それも後の祭りだし、何より今はお迎え。早く解放してもらわないと困る。なにかに放心しているまま、わたしの襟首を離してくれない指をなんとかほどこうともがいていると、長い溜息が出た。溜息つきたいのはこっちだ。
「なんですか!?」
「…わかったから……車出してやるよ、八重洲に止めてっから」
「え。…あ、ありがとうございます…?」
うんざり顔のまま彼はわたしから手を離して、今度はわたしを置いてさっさと歩きだしてしまう。コンパスが長すぎて追いつかなかった。普段そんなことを感じたことがなかったから、今の専務はもしかして物凄く素なのかも、と思う。
にしてもこの気まぐれな優しさは、どういうことだろう。セフレまがいだった頃にいちいち動揺するわたしで遊ぶためのようだったそれとは違う、なんというか、純粋な思いやりに近いものを感じた。もっと恩着せがましく言いそうなものなのに。
「なんでまた急に送ってくれるなんて言い出したんですか?」
「別にー…彼氏に会ってみようかなって」
「えっ!興味持ってくれたんですか!超かわいいですよ!!嬉しい!!行きましょう!!」
「…ちょっと手ぇ出るかもしんないけど」
「ハ?殺しますよ」
「うるせーよ猫狂い。ホテルどこ」
「赤坂です」
「ハ?猫のくせに?1泊いくらだよ」
「8000円ぐらいですかね」
「バッッカじゃねぇの」
「会えばわかりますから!!絶対!!」
「絶対無理」
そう言った20分後、フユを抱いた泣く子も黙る元六本木のカリスマは、掌を返した。グルングルンだった。
*
自分の車の運転なんてあっさりわたしに明け渡し、グッチのスーツが白い毛だるまになるのもいとわない。意外にも猫派だったらしい。高級な細い犬とかのほうが断然似合いそうだけど、専務はずっとフユを胸に抱いて構いまくっていた。
「白くて雪っぽいからフユってこと?安直〜。頭がシンプルな飼い主でかわいそうなヤツだなオマエ。うち来る?…来るって梢、行先ウチにして」
「全部一人で完結するのやめてもらえません?それわたしの特技なんですけど」
「え、マジ?やば。うつったわ、キモ」
「なんで一言でそこまで人をイラつかせられるんですか!!?」
何に腹が立つって、フユがおとなしく懐いていることだ。わたしがやったってそんなに長いこと同じ場所にはいてくれないのに、フユは安心したように悪人の胸に頭を預けてうとうとしている。嫉妬で気が狂いそうだ。高級車のレザーハンドルに爪痕がつきそうなほど握って、このままガリガリにひっかいてやろうかと本気で迷う。
「その子売ってくれたお店の店長さんの名前からもらってるんです」
「へー。店長女なんだ」
オレも行ってみよっかなーなどと笑う男に、ちょっとした仕返しを思いつき、わたしは信号で止まったタイミングでにやりとそっちを向いた。
「いえ?男性ですよ。千冬って言うんですって、素敵な名前でしょ」
「……」
期待通りのげんなり顔になった横顔に、こっそりガッツポーズを握る。やった。女好きの期待を裏切れてせめて多少留飲が下がり、心から店長に感謝した。こんなエピソードは正直に言えないけど、おかげさまでクソ上司の鼻を軽く明かせたことだけは伝えようと思う。
満足して正面に顔を戻し、信号が変わるのを待つ。
「梢」
「はい?」
ふいに助手席を向いたら、顔が迫っていた。動けないうちに一瞬で、唇に乾いた温い唇がぶつかる。
「……え」
「信号」
「あ……すいません」
未練がましく恋心は残っていたようで、どういうこと、何がきっかけ?と戸惑う気持ちもありつつも、結局わたしはこの気まぐれを軽蔑できず、どうしても嬉しかった。でもそれでもかろうじて、というか、意外にも、わたしは舞い上がらずに落ち着けていた。この人はそうやって他人をけむに巻くタイプだし、それでも他人に期待して愛して失恋する、普通の人間だってことが分かるようになっていたからだと思う。彼の考えていることなんて分からないけど、わたしはもうあのときみたいに正気を失わないだろうし、これだけ穏やかに好きだと認められるのなら、なにがあっても大丈夫な気がした。
家について、彼はフユを抱いたままふつうに上がり込んできて、さんざんフユと遊んで疲れてそのまま寝て帰って行った。セックスはしなかった。でもなぜか、朝目が覚めて油断しきった寝顔を見たら、寝ていたときなどよりもはるかに彼を手に入れたような気がした。いや、手に入ってなんてないと思うけど。近づいた?そんな感じ。
まあ、もういいか。なるようになる。
*視点交替 ↑梢 ↓蘭
築17年ぐらいだったか。メンテ不足で多少がたつくエレベーターで、3階に上がる。ふと、自分がこのボタンを押すのが何回目なのか気になった。少なくとも、両手両足の指の数じゃ足りないだろうとは思う。まあ、ずっと来るんだろうし、そんなのは何回だっていいか。
もはや自分の家の鍵より使用頻度が高い鍵は、微妙にぎょっとした顔をしていたところからなかば強引に奪った。断れないだろうと思っていたらやっぱり梢は断れなかった。その理由がどこから来てるのかは聞いていない。玄関を開けると、所帯じみたクリームシチューの匂いと一緒に、短い廊下の向こうから白い美形の毛玉が走ってくる。
「ただいま〜ユキ元気にしてたか」
「フユですけどね!」
キッチンから声だけのツッコミが聞こえて忍び笑う。こんな鳥肌のたつスベったホームドラマみたいなやり取り、自分がするとは思ってなかったし、昔の自分が見たらドン引きするだろうけど、やってみたらやってみたで悪いものでもなかった。つまるところ、六本木のカリスマとかなんとか呼ばれてたヤツもつるんで生きたいフツーの人間だったってことだ。
由来が別の男の名前っていうクソ腹立たしいこの猫は、まあとにかく顔と触り心地だけはいい。笑えるほど短足で歩いているだけで面白い毛玉を持ち上げ、狭いワンルームに入る。梢は髪をまとめてエプロンでトマトを切っていて、シチューと炊飯器の蒸気ごときで部屋の湿度も温度も上がってて、自分はそんなの経験したこともないくせに、妙にノスタルジックな気持ちになった。こういうのを実家みたいな安心感ってのかね。知らねえけど。
「ただいま梢ちゃん」
「はいはいおかえりなさい」
むき出しのうなじにキスをしようが、もう梢は騙されてなんてくれない。塩対応でこっちには目もくれずに雑にハグに応えて、さっさと料理に戻っていく。昔九井にやってたみたいにオレを推してたりしたら、絶対面白い反応だったのになーと多少残念には思うけど、フユ、間違えた。ユキがこの家に来ちゃってからはその愛情はぜんぶこの毛玉が独占してるから、どうにもならない。今推されてるのは九井でもオレでもなく、この毛玉だ。かわいいけど名前が本当に気に食わないんだよな。
小皿で味見して、微妙だったのか首を傾げている。何を言ったらあの鍋から視線がこっちに来るかちょっと考えて、一度は床に放ったユキを抱き上げた。
「はーつめた。恋人が帰ってきたっつーのにこの塩っぷりどう思う?元カレのユキくーん?」
「元カレじゃないです、今………は?」
かかった。
心の中でだけほくそ笑んで、べつに何も言ってませんけどのていで毛玉をかわいがる。これで動揺するなら十分に及第点だ。梢はあぜんとした顔で、ついに鍋の火まで消してオレに振り返った。
「ちょっと待って、今なんて?」
「元カレの?」
「その前」
「どう思う?」
「もっと前」
「はーつめた」
「戻りすぎ!!」
「めんどくせー」
ユキはまた床におろして、立ち上がる。さっきまでは食って掛かる勢いだったのが、オレが立ち上がるとしゅんと勢いをなくして、一歩下がる。シンクにぶつかる。そうそう、この溺れるのが怖い、みたいな顔。猫だのチフユだのの登場でやたらに遠回りさせられたぶんだけ、やっと届きつつある結末にじわじわと高揚した。
「恋人。違うの?」
シンクに追い詰めてそう聞くと、梢はほんの一瞬だけ驚いて喜んだように見えた。が、すぐに目を泳がせ、苦い顔をつくる。
「……そういう……オレと付き合えんだからいいじゃんみたいな感じどーかと思いますけど」
「そんなヤツに鍵まで渡しちゃってるオマエもどーかと思いますけど?」
「なんも言ってくれてなかったくせに今更」
「じゃあ今言った。好きだよ」
ドラマになるような瞬間なんてひとつもない。嘘のない言葉も少なかったと思うし、気持ちなんてお互いコロコロ変わっちゃって今結局なんでこう落ち着いてるかもよくわかんないし、実際命を懸けるほど熱烈に愛してだっていないんだろうと思う。絶対に裏切らないとも言えないしね。でも、なんのメリットもなくても、今いちばん一緒に過ごしたいってそれだけあれば、とりあえず上々だと思う。ありふれた関係のはじまりとしては。
「…フユがいなかったら別にこの部屋来てないくせに…」
「え?………」
唇をはなしたとたんに、恨みがましくそうぼやかれる。ちらりと猫を見やる。短い足でタオルケットをふみふみしながら、満足そうにうごめく毛玉。
「まあそれはちょっと否めねえけど」
「否めてくださいよ!!!ちょっと日本語わかんないけど!!!」
「にゃんこ込みのオマエってことでどう?」
「納得するわけないでしょ!?口説き方一からやり直してきてください!!」
ありふれた話 完
***おまけ
「ユキー蘭ちゃんのお帰りだぞー♡」
「あっまだわたしが吸ってるのに!!」
「オマエ鼻炎じゃん。ザコ鼻はあっち行ってろー?」
「そのザコが飼い主なんですけど!!」
「ユキはオレのほうがご主人様だと思ってるもんなー?」
「思ってないもんフユはわたしも蘭さんも奴隷だとしか思ってないもん!!」
「ちげーよ、オレとユキの奴隷が梢なの」
「カーストバランスおかしいじゃあん」
「泣くなよ梢ちゃん♡ほんとかわいーねオマエ」
「返してぇぇ」
「かわりにオレいじってていいから」
「フユいたら振り返ってもくれないくせに……」
「それはゴメン」
「猫目当てに付き合われてる」
「否めねぇわ」
「クソ」
「言葉きたねぇぞ梢」
「誰のせい」
「誰だろーなーりんどーかなー」
「きらい」
「あ?…おい冗談でもそれはナシっつったろ。梢ー?籠城やめろ。オレが悪かったから出てこい」
***
安定のクソ長いの ありがとうございました