刺青が怖い





***

 新宿から地下鉄3駅。好アクセスな都心の病院は、日中は概ね平和に、ふつうの患者で溢れ、ふつうの業務に皆が奔走している。けれども、ひとたび外来が終わり、夜間当直帯の時間になると、その立地を意識せざるを得なくなる。日本三大歓楽街に数えられ、眠らない街と称される――新宿は歌舞伎町がほど近いということが、どういう治安なのか、ということを。

 「先生、ウォークインで銃創です!」

 ジュウソウ、あまりに耳慣れず一瞬変換ができなかった。でも、報告に来てくれたナースの慌てぶりと、全身を使ったジェスチャーとともに告げられた「こっからここまで刺青!ほっそい!」という追加の情報で、ようやくその音節が“銃創”と結びつく。結びついたって、改めて絶句するばかりだけれども。

 この病院に長く務める上級医はといえば、まったく慌ててはいないものの、顔がこれでもかというほど嫌がっていた。

 「えー。俺やったことないよ。教科書どこだっけ?」
 「えっ?きょうか…えぇー…?教科書…」
 「仕方ねぇじゃん知らないんだから。教科書ってのはなんでも書いてあるのよ?」

 主には学生の書物をおっさんが見る、しかも見ながら実際の処置という絵面が、病院勤務歴半年そこらの自分には大変にシュールに感じたのだけれど、実際にそう珍しいことでもないようだ。のんきに教科書を探すドクターを相手に、ナースさんは一切驚いてもツッコミを入れようともせず、「金先生がみてくれてますけど早くしてくださいね!」と初動の遅さに定評のある上級医に念押しして、シャッとカーテンを閉めた。…と思ったらすぐに開いた。

 「乃木先生、廊下に付き添いいるから同意書各種!」
 「はいっすみません!」

 すぐに立ち上がり、スリープ画面のコンピューターのエンターを連打する。救急患者一覧が開くまでのあいだに、各種同意書のひな型をファイルからさらった。

 「なんか珍しい名前の…なんだっけ、今、今…」
 「今牛?さん?」
 「ああそうそれ!よろしく」

 いまうしわかさ。上も下も珍しい名前だ。前情報は全身刺青っていうんだし、偽造した戸籍かなにかで適当な偽名なのだろうか。平和そのものな出生では、どうにも現実味にかけた妄想しかできない。画質の荒い、処置室の監視カメラの映像を見ると、明らかに異質な出で立ちの細身長髪の男が、ふつうに歩いて入ってきて促されるまま、ストレッチャーに横になるところだった。なんだ、元気じゃん。と目をそらしかけて、彼の歩いてきた床にこの遠目でもありありと創部から滴った血痕がわかり、ぎょっとする。

 「すげー、普通に歩いてんね。撃たれ慣れてんだな」
 「エッそんなことあります?」
 「知らんけど」

 無責任な予想をほっぽらかして、先生は医局を出て行った。机にさっきまで読んでいた教科書が置き去りになっている。さすがに持ち込むんじゃなくて、内容を頭に入れて行ったらしい。まあ、意識のないのが相手ならまだしも、意識はあるうえに見た目まであんなな患者では、教科書を読みながらちんたら処置なんてしようものなら同じ怪我を負わされそうだし、至極真っ当な判断といえる。

 必要な書類はCT、入院あたりだろうか。身体拘束の同意書なんて、念のためと言ったってぶん殴られそうだなと思い、そっとファイルに戻した。

 *

 「今牛様のお付き添いの方ー…」

 ヤクザの付き添いなんてぜったいにヤクザだと思って超低姿勢、小声で廊下に呼び掛けると、予想に反してそこにはガラの悪い吹き溜まりはなく、ひらりと手を挙げたのは、黒髪短髪の、

 「あ、オレ」
 「えっ?さ、佐野さん?」

 顔見知り、この病院のヘルパーさんだった。緊張が一気に解けて、肩がだらんと落ちる。私のあからさまな安堵を彼は快活に笑い飛ばす。

 「アイツ見た目いかついっすもんね」
 「そりゃあ怖いですよ、ぜんぶスミ入ってるし…え?アイツって?え?」
 「オレの友達が世話んなります、乃木せんせー」
 「エッ…」

 友達、意外。としか言いようがなかった。たしかに彼は、交友関係の広そうな、人当たりのいい人ではある。でもそれにしたって、服装にしても立ち居振る舞いにしても、あの患者さんとは接点の想像がつかない。戸惑いまくる私から入院にあたっての同意書一式を奪い、勝手に書き込みながら、佐野さんは今牛さんとの関係を教えてくれた。

 「昔チームやってたんすよ。その時つるんでたヤツ」
 「ちーむ」
 「…んー、平たく言うと、暴走族?」
 「えっ」
 「オレが総長で」
 「えぇえ!?」

 あまりの情報に勝手に口から大音量が飛び出し、慌てて押さえた。ばかみたいな私の反応にくつくつと喉で笑いながら、ボードにボールペンを走らせていく。今牛若狭、代筆、佐野真一郎、続柄、友人。驚くところがありすぎて全ての情報がぼけーっと流れていき、ばかな頭はあれは偽名じゃなかったのか、というところだけかろうじて拾った。

 「そんな意外っすか?」
 「…とても……ご友人のほうは、まぁ、分かるんですけど」
 「見た目アレだけど中身けっこうフツーなんで、そんなビビんなくて大丈夫っすよ」
 「……」

 ふつうのひとは間違ってもそうそう銃で撃たれない、と喉まで出かかったが、言えなかった。


 *


 佐野真一郎さんと一介の研修医でしかない私に、さほどの接点はない。でも彼はこの病院、ことこの救命科では有名人だから、一方的にはよく知っている。なぜかっていうと、この病院で5本の指に入る有名な患者さんのうちの1人の、お兄さんだからだ。

 当時病院にいない私はカルテで遡ることしかできないが、およそ4年前、ここに搬送されてきた当時9歳の彼の弟は、頭部外傷、頸椎損傷からそのまま植物状態となり、以来救命科の慢性期病棟に入院し続けている。それになるべく長く付き添うために、ヘルパーとしてここに勤務しているのが佐野さんだ。事情から書くと悲劇の渦中だけれども、年数が経っていること、また人前では佐野さんがわりあい明るく穏やかなこともあり、腫れもののようには扱われていない。ふたりが庭を散歩していると、顔見知りのスタッフはどちらにも挨拶する。万次郎くん、調子はどうかな。天気がいいね、顔色がいいね、などなど。応答を前提としていないその声かけを、実際お兄さんの彼がどんな思いで聞いているのかは分からないが、とにかく佐野さんはこの病院では“人当たりが良く、仕事の速いヘルパー”であり、“悲劇の兄弟”ではない。だから、その事情をゴシップ好きの師長から聞いたときは驚いた。彼らが血縁だということさえ知らなかったからだ。

 そしてさらに今日、佐野さんのプロフィールに新たな情報が加わった。“元暴走族の総長”で、“ヤクザの友達がいる”。

 「ディープ…」
 「なんて?」

 今牛若狭の身体を輪切りにした画像をシャーカステンにさしながら、先生が雑に聞き返してくる。目線が画像では何を言っても雑音にしかならないだろうと思い、「わあ弾丸」といくつか見えた弾丸の破片らしき高信号域にコメントすると、彼は「オペだな」とテンション高くどこかへ走って行った。派手な画像とは裏腹に、検査室に横たわるガラス越しの今牛若狭はやはりわりあい元気そうだった。

 「痛み大丈夫ですか?」

 本人に聞いたら、多少血の気は引いているも表情に余裕のある彼は、つんつんと指先で点滴を指しながら、「…コレよく効くね」とコメントした。その落ち着いた応答で、さっきの佐野さんの言った、『中身けっこうフツー』が頭を過ぎる。たしかに、そうかも。見た目よりは。

 いつの間にか戻ってきた先生が、だいぶ言葉を選ばず、手っ取り早く病状告知をはじめた。

 「今牛さん、画像見たらまだ弾丸身体に残っちゃってるんで、摘出しないとだめなんですよね。これからすぐ手術しないと命の危険があります」
 「お願いします」

 …肝の据わり方は、だいぶフツーじゃないようだ。

 「お腹開かないとだから、コレ、痕残るかもしれないんですけど」

 刺青と明言はせずに指したその身体の柄に関しても、「別に気になんないんで」と彼の反応はクールなものだった。いちばんのハードルと予想された患者同意があっけなく取れてしまったので、逆に手術室の準備が追いつかず、謎に廊下で私とストレッチャーの今牛さんが二人きりで待つはめになった。

 「…コレって何時間ぐらいかかんの?」

 本当に気になっているのではなく、しんと静まり返ったこの沈黙をつぶすために気を遣った質問のように思えた。にしてもその質問は回答が難しくて、応えられないことがとたんに申し訳なくなる。

 「…すみません、なんとも予想がつきにくくて…一応手術申し込みは3時間で提出したんですけど」
 「状態で大幅に前後するってことね」
 「そうなります、すみません」
 「別に、アンタが謝ることじゃない。あー…真、付き添いの男に伝言できる?」
 「はい、大丈夫です」
 「帰って寝ろって言っといて。起きたら電話するからって」
 「……」

 たぶん、今牛さんは佐野さんの弟さんのことを知っている。そう言わなければ佐野さんが弟の病室で横になり、雑な仮眠をとって明日の勤務に入ることを確信した言い方だった。自分の身体がこんな状況なのに、どうしてそんな思いやりが発揮できるんだろう。

 返事もできずに呆気に取られているあいだに、オペ室看護師と麻酔科が迎えに現れ、慌てて入室手続きに入った。数分で読み合わせを終えて見送るとき、再度今牛さんに「頼んだから」と伝言の念を押され、今度こそ「はい、伝えます」と答えて、オペ室の扉が閉まるまで頭を下げた。

 あの刺青、銃創、どこをとっても私にとってまるで別世界の住人だ。明らかに恐ろしげな世界に身を置いているだろうに、その実ヘタをしたら私の周りにいる誰より、思いやりがあるのでは、とさえ思える。いや、まあ、映画のジャイアン急にいいヤツ現象なんだろうけど。