三途春千夜の主人に勝てない恋人





***



 真っ暗な部屋で、小さな液晶のブルーライトが浮かび上がる。ああ、またか――と、認識するよりもはやく、すべてをぶつんと中断して唇が離れ、着信音の一音目も鳴るか鳴らないかのうちに、細い指がひったくるように携帯を拾った。

 「はい」

 声色で分かる。真剣さのなかに隠し切れない、強い憧憬と心酔。電話の向こうはこの男のなかで、世界がひっくり返ったって最優先の、彼の上司にあたる男だ。「はい」どうも本格的な呼び出しらしいことを目の動きで悟り、邪魔をしないようにすっと後ろに下がると、わたしには目もくれずに春千夜は電話を続けながら、脱ぎ散らかした衣服をさっさと身に着けていく。

 「はい、5分後に。……おい、出る」
 「行ってらっしゃい」

 何も思わないわけじゃない。人並みに寂しいし、自分を優先してほしいとも思うけど、諦めというか、わたしは彼の最優先が動かないことを理解している。疑問も不満も持つぐらいなら離れたほうがいいし、こちらにも春千夜から離れる選択肢を持てないのだから、送り出すしかないのだ。

 呼ばれたときの身支度はいつだってとんでもなく早い。服のパーツも多いし、時間がなかろうときっちり着込むくせに数秒程度だ。瞬きをしたらネクタイが締まってるぐらいの体感。

 「行ってらっしゃい」
 「……」

 ひらひらと手を振ると、まったく申し訳なさそうではないけれども、出て行く間際に一瞥だけはよこしてくれる。たったそれだけを、わたしはものすごく好意的に、“ごめんな”という意味で受け取っている。そのぐらいじゃないとやっていけないのだ。三途春千夜の相手なんていうのは。

 遮音性の高いドアがぴっちりと閉まって、外界と遮断されてしまって、耳に痛いほどの沈黙が嫌ですぐに備え付けの受話器を拾った。

 「ラフロイグをロックで」

 注文を終えてから、暇つぶしで見飽きるほど見たルームサービスのメニューを眺める。最初の頃は、どうせ払わないし、頼んでも文句も言われないからともったいない精神で、味わってみたいものは片っ端から頼んだ。でも回数を重ねるうちに飽きて、オニオングラタンスープかラフロイグしか頼まなくなった。のに、もっと気分に合うものがあるんじゃないかって何度も見てしまう不思議。

 時計は夜9時半。電車もまだまだふつうにどこまででも動く時間だし、窓の外の街は煌々としていて、飲んでいる人なんて解散などかけらも考えない時間なのだから、用件が済んでしまったんなら別に帰ってしまってもいい。そうしたって春千夜も特別怒らないだろう。でも、わたしは帰らない。帰れるほど賢くなれない。バカな自分を直視したくないから、ひとりで酒を飲んで、朝になって彼がチェックアウトのためにだけ戻ってくるのを待つのである。おばかさん。





 再会は、お互いスーツを着て、初対面の取引相手として名刺を交換してお辞儀をして、二三言交わしたら次の挨拶へ、そういうせわしい大人の会場だった。妙に目力の強いのがじろじろ見てくるなあと思いながら、でもその時は後がつかえていたから何も言わずに次の人へ頭を下げて、ひと段落するころにはじろじろ見てきたそんなヤツのことなんて頭から消えてしまって、普通に立食していたわたしの隣に、三途春千夜は戻ってきた。最初はなんて言ったんだっけな。「久しぶりだな」だったか、「なんでこんなトコいんだよ」だったか、詳しいことは忘れたけど、なんにせよさっきまで「三途と申します」だなんてにこやかに言っていたのがいきなり低音になったから、わたしはびっくりして固まった。何も返事できないでいたら、わたしが覚えていないと悟って目をまん丸にされた。でっかい目をさらにくりくりにして、ドン引きしたように、

 「覚えてねえの?」

 と。まったくもって心当たりのないわたしは、それでもいつか会ったのだと記憶をひっくり返しにひっくり返し、かろうじて“春千夜”という珍しい名前になぜか覚えた懐かしさを頭のなかで何度も転がしてようやく、やたら顔の整った華奢な坊主頭を思い出したのだった。小学校2だか3だか、それぐらい昔に同じクラスだったことが1度だけあった子だった。今考えても、忘れたからってそこまでドン引きされるような接点の濃さではない。

 と、思うんだけど、彼はわたしを一見してすぐにかつての同級生だと分かったんだそうだ。記憶力がいいねと言ったら、彼の中では「1年同じ空間に通ってて忘れるほうがおかしい」らしい。すごい人だなと思うのと同時に、大変だなと思った。人間の忘れる機能って感情とかの余白を保つためにあると常日頃思っているたちなので、そんな必要のなさそうなことまで消去できないんじゃ生きづらそうにしか思えなかった。

 立場は、向こうが新興したばかりのベンチャー企業の監査役で、こっちは会を共催したうち一社の執行役員の秘書。起業なんて凄いねと言ったけど、向こうはなぜかアーとかなんとか濁して詳細を教えてくれていない。その後春千夜を探して戻ってきた向こうの代表取締役が彼をからかっていた様子から、役員同士はよっぽど不仲で監査なんて春千夜的に不本意な立場なのだろうと察したが、じゃあいったいなんで起業に至ったんだか、まったく分からない。そういうことは全然教えてくれないので、ピンク頭に激しいピアスも刺青も、許されている理由は謎のままである。ちなみに代表取締役のほうも紫のツーブロックとだいぶ攻めている。社風なんでしょうかね。

 不本意な会社を代表してパーティに参加した彼と、直属の上司が帰ってしまって用無しになった秘書がどちらも自由になったのは夜も早く18時のことで、拍子抜けと不完全燃焼で顔を見合わせたわたしたちは、そのまま特別思い入れもない再会を祝して近所の洋食屋で飲み直すことにした。

 喋った内容は、履歴書に書くようなお互いの経歴とか、住んでいる場所のこととか、そういう当たり障りのないことと、共通項になる小学校の頃の話だった。驚いたのは彼の記憶が恐ろしく細かく、担任の名前どころか利き手が左だったことや口癖まで覚えていたことだ。最初わたしを覚えていただけだって結構なことだと思うのに、まるで去年のことのようにすらすら述べてくるのが怖いほどで、酔った勢いもあってわたしは素直にそれを彼に言ってしまった。

 「そんな細かく覚えてて…大変じゃない?」
 「ア?なんで」
 「頭休まらなさそう。メモリいっぱいすぎて」
 「…オマエのしょっぼいスペックと一緒にすんなよ。別にフツーだわ」

 返してきた言葉は憎まれ口メインではあったけど、奴自身にも心当たりがあったんじゃないかと思う。なんというか、さっきまで頭だけですらすら喋れていたのが、感情のせいで詰まったように見えた。動揺を隠すようにわずかに逸らされた目線と、グラスの残りを呷った多めの一口を見逃せなかった。図星の弱みを目の当たりにして固まったわたしに、春千夜はわりとすぐ隠すのを諦めて溜息をつき、テーブルに乗せていたわたしの手を握って、男として優位に立ちにかかった、というのが始まりだ。

 ド潔癖のこの男、無意識に粘膜接触を避けているのか、耳だの首だの手首だの、乾いた皮膚によくキスをする。これがまあ、本当に嫌なことで、され慣れていないところばかりキスされると、なんだかまるで丁重に扱われているみたいで、愛されていると錯覚しやすい。弱みを見せられて大事に愛されて、たった一晩でひとたまりもなく骨を抜かれた。我ながらちょろい。ちょろ子。ちょろ子はかわいそうにそのまま告白も将来の話もされることなく互いの家にもいかず、なんならセックスの最中に放り出されたりするのに、いまだ呼び出されたら行っているのである。

 これでも最初は、まっとうにやろうとしたのだ。言質を取ろうとしてふっかけたこともある。でも早々に諦めざるを得なかった。どれだけ優先順位を上げようとしたって、三途春千夜の中の一位が絶対的に揺るがないってことは、3回も会えば分かった。相手が女性でないのがかろうじて救いといえば救いだし、逆に敗北感も激しい複雑なところではある。

 一位について、私は芸能人的感覚で一方的に知っている。こちらも接点のうすい小学校の同級生。名前はマイキーくんといって、当時通っていた生徒ならみんな覚えているだろう存在感の子だった。当時ほぼ喋ったこともなかった春千夜が記憶に引っかかっていたのは、このマイキーくんという人と近しい存在だったということが大きい。身体は小さいのに気が強くて飄々としていて、男子たちの憧れの的で、決まった人としかつるんでいなかったから、そのうちの一人だった春千夜も自動的に目立っていた。

 目立っていた幼馴染の絆は思っていたよりも深く、ふたりは一緒に起業したらしい。一緒に、というか、私から見るとなんとなく春千夜が勝手についていった形なんじゃないかと思っている。なにせ春千夜のマイキーくん愛と言ったら異常なほど重い。かつてはフラットな間柄に見えたが今春千夜は徹底的に敬語だし、親の死に目にだって彼に焼きそばパン買ってこいと言われたらデパ地下かいいパン屋へ飛んでいきそうなほど。実際わたしは最中に放り出されております。魅力が足りないと言われたらそれまでですが。

 自虐はともあれ、とにかく三途春千夜という男にとって、1にマイキー2にマイキー、34がなくて5にマイキーくん状態で、そこに入り込む余地はない。そしてはたから見ているぶんには、だが、マイキーくんは比較的春千夜に塩対応なので、報われない恋をしている激重男――または、なんだか春千夜を結局好きでいてしまう自分を見ているようで、ちょっと切なくなる。奴が報われない恋を諦めてこっちを向いてくれたら全解決なのにって大雑把に考えてしまうときもあるけど、どうやっても現実的でないその妄想をするたび、自分の頭を鼻で笑ってしまうのだ。でっきるわけないじゃーん。

 ――ピンポーン。

 インターホンが鳴る。ドキッとしてソファから起き上がって、ルームサービスを頼んでいたのを思い出し、慌てて身なりを直しながらドアを開けに行った。

 「お飲み物をお持ちいたしました」

 グラスたったひとつの注文が、わざわざクロスのかかった大きなカートで運ばれてくるのはいつもなんだか申し訳ない。ここでいいですよと配膳とお絞りを遠慮してグラスだけ受け取り、ドアを閉めるなり口に運ぶ。いつもの独特の薬っぽい匂いで、ひとと一瞬話した緊張がゆるみ、深く息をつく。

 大きな窓枠に座ると、新宿の夜景が見える。駅前はあれだけゴミゴミしてるのに、少し離れると意外に自然が多いのがこのあたりだ。いくつか大きな公園があり、その間に都庁やNTTの高層ビル群のライトがぽつぽつしているのはわりと絵になるので、いいお酒のアテになる。どれだけ状況が寂しくても、贅沢を感じられて気がまぎれる、というのが正しいか。うわ、寂しっ。

 ぶぶ、と携帯が震える。一瞬期待して、いや、最愛のところに向かっているヤツから連絡なんか来るはずがないとその期待をつぶし、通知をみたら春千夜で驚いて声が出た。「えっ?」でっかい空間にひとりで消えた声が無駄に恥ずかしくて、落ち着けるのに一回酒を口に含んでからアプリを開く。

 『寝た?』

 小さなイレギュラーに気持ちが浮足立つ。返事代わりに夜景をバックに飲みかけのロックグラスを撮って送ると、しばらく返事が空いた。なんなの。無駄に期待させてくるなよと遠くのベッドに携帯を放り、グラスの残りを一気に終わらせる。また頼むのも面倒だし、あとはミニバーの中身でいいや。薄味のアメリカのビール缶に変えて、また同じ窓枠でダラダラ飲みながら、まんじりとも変わらない夜景を眺めていたら飽きて、いつのまにか寝てしまった。



 冷たいなにか、壁のようなものにもたれていた。窓だと思っていたのに、それはいつの間にか、かつて実家であったアパートの階段の手すりに変わっていた。手の小ささと袖と靴下で、なぜか今自分が小学生だとすぐにわかった。

 「なにしてんの」

 向こうから子どもらしい無神経なトーンの声がして、いじっていた指先から目線を上げると、ピンクの坊主頭が敷地外からこっちを覗いていた。春千夜だ。子どものときの。おかしいなあ、もう大人のはずなのに。明らかにひっかからなければならないはずの違和感を、なぜか意識が素通りして「お母さん待ってるの」と状況を答える。

 「いつ帰って来んの?」
 「さぁ…電話つながらなくて」
 「どっか入ってた方がいいんじゃない。寒いから」

 今よりだいぶ口調も性格も優しくて穏やかな春千夜が、ふつうにとなりに座ってくる。たったそれだけの動作に引きずられるように、当時の記憶が紐解けていく。そうだった。この人はマイキーくんと仲がいいのが意外なほど、まじめでちょっと控えめな生徒だった。名前も思い出した。三途じゃなくて、明司だ。明司くん。そしてこれは、遠い記憶の夢。話したこともないクラスメイトがアパートの玄関でひとり座っているのを放っておけずにマフラーを貸してくれた明司くんと、それに甘えた私の話だ。

 「どっかって?」
 「マックとか」
 「お金ないもん」
 「オレあるよ、行こ」

 結果的に行かなかった。それで一緒に立ち上がったころに、母が帰ってきたから。しきりに礼を言う母親を前に、春千夜はちょっと恐縮していた。大人になって事情を聞いた今ならわかる。母親のいなかった彼にとって、人の家の母親というのはまるで別次元の生き物だったのだろう。

 「もしよかったら晩ご飯食べていったら」

 私の記憶の精度が低いからか、このあたりは会話があやふやで聞こえにくかったけど、母のこの誘いは恐縮しきった春千夜がつたない敬語で断っていた。心細かったところに声をかけてくれて感謝していた私も一緒になって、そうだ、「ハンバーグおいしいから、食べようよ」と誘った。「好きなの?」と聞かれて、「いちばん好き!」と答えた。

 とつぜん、夢のなからしい支離滅裂さで場面がいれかわる。瞬きしたらなぜか朝になっていて、教室をバックにした明司くんが、唇の両端に大きな絆創膏を貼って立っていた。

 「どうしたの!?それ」
 「……なんでも」

 怪我を負った理由は、決して教えてくれなかった。子ども心にも、なにかショックなことがあったんだと思った。「話しづらそう」とか当たり前のことを言うのが精一杯で、気の利いた踏み込みはできなかった。

 そういえばこの頃を境に、ぱたりとマイキーくんとは話さなくなったような気がする。わりあい柔らかかった雰囲気は一気にとげとげしくなり、近づきにくくなってしまったので、この後再会するまで私たちが会話することはなかった。

 またぐるぐると場面が変わる。歩き続けていたら、私の服が変わった。あの日、春千夜と再会したときのドレスになり、校舎のドアを押したはずが、パーティ会場のホテルを出たときの景色が広がった。

 「飲み直すか」
 「お酒より食べ物ほしい。ぜんぜん食べられなかったもん」
 「食い気かよ」

 店選びに繁華街を歩こうとしたけど、パンプスの細すぎるヒールが排水溝だの段差だのに引っかかりまくり、とても長く歩ける様相じゃなかった。二人の二次会会場は、そんな私の状況を見かねた春千夜が、適当に近場から選んだのだと思っていた。

 「あれは?好きだろ」

 示された店はハンバーグが有名な洋食屋さんで、大好物の変わらない私は嬉しかったけど、何も言っていないのに肉が好きだろ、と断定されることのほうに危機感を覚え、「えっ、そんなに肉好きそうな顔してる?」と聞いた。デブって遠回しに言われたのかと思った。でもそうじゃない。驚異的な春千夜の記憶力は、あんな一瞬のことさえとどめていたのだ。すごいね。そりゃ私にあんな顔で『覚えてねえの』って言うだろうし、一度憧れてしまったひとのことなんて、褪せずにずっと大好きでいるだろう。

 急に地面がとけてなくなり、がくんと身体が重心を失う。心臓にダイレクトにくる落下の恐怖からコンマ数秒の落下ののち、身体がなにかに受け止められる。助かった。やっぱりこのシーン転換にも、目を開けたら春千夜がいた。

 「あっぶな。何やってんだボケ、帰ってきてなかったら死んでんぞテメェ」
 「……言葉遣い…」
 「ハ?」
 「明司くんはそんなじゃなかったでしょ」
 「……」

 落ちないようにしっかりと首筋に抱き着くと、首筋のシャツから、香水で消しきれない硝煙と、ラフロイグみたいな薬っぽい匂いがする。やっぱりカタギなんかじゃなかったんだなと薄く思う。

 「…やっと思い出したんかよ」

 だからそれは、覚えてるほうがおかしいんだって。でも、そういう他人のどうでもいいことを、当事者よりも大事にメモリにとっておいてしまうところが、どうも私は好きらしい。春千夜にその機能がある限り、私がマイキーくんより優先されることはないけど、それでいいのだ。そういう不器用な春千夜だから、

 「おかえり。大好き」
 「……悪かったな。出て」
 「いいよ」

 そんな春千夜が信じてくれていれば、それを裏切らない自分になろうと思える。この人と一緒にいる自分のことは、好きでいられる。それがわかっていれば、もういいか。もう。





 やたら暑い。いつの間に布団をこんなにかけたっけ。頭がぼんやりする。何か大事なことを忘れてるような。

 重苦しいばかりの布団をどけようとして、腕も足もあがらないことに気付いて目を開けて、間近に合った嫌味みたいなどっさりまつ毛に驚いて悲鳴が出た。ゲジゲジかと思った。

 「うわ!」
 「……せぇよ」

 相手は掠れきった息の音みたいな声で罵倒して、眉間に深い皺を寄せて布団に潜った。いつの間に戻ってきたんだろう。ぼけた記憶を叩き起こすも、この人が帰ってきた記憶も、なんなら昨夜ベッドに入った記憶すらどうしても見当たらない。重たくてあつい腕のなかでぐるぐる考える。よく考えたら、私が起きるより早く戻ってきたことはあっても、こうして同じベッドで寝ているなんて初めてのことだ。意外に早く用事が済んだのだろうか。

 「…ねぇねぇ」
 「……」
 「もしかして、窓から運んでくれた?」
 「…クッソ重かったよ…」
 「全っ然気付かなかった…何時に帰ってきた?」
 「……12時ぐらいじゃねぇの…つか、マジでうるせぇ、寝ろよ」

 状況とか、もうちょっと色々聞きたかった。窓の桟で冷え切っていようが放置しそうなのに拾ってくれた理由とか、ずいぶん戻りが早かった理由とか、叩き起こさなかった理由とか。でも本気で眠くて鬱陶しそうな顔に胸元に沈められて聞けなかった。

 一度はじっとしようとしたけど、もう目が冴えてしまって閉じていられない。あまりに暑いのでうごうごしながら重たい腕を布団ごとはずし、冷えたベッドの空きスペースに逃げようとしたら、細い腕と足が後ろからふたたび拘束してくる。ええーなにこの人。普段には絶対にないくっつき虫ぶりに、動揺よりも疑念が勝った。

 「暑いんだけど」
 「……」
 「……ええ…無視…?」

 寒いなら布団にすればいいのに、布団は払い落としてしまっている。抱き枕派だったのかな。首の後ろに落ち着きすぎた寝息が蒸し暑い。それでも布団で保温されていたときよりはまだ涼しくて寝苦しさがマシにはなり、寝息のゆったりしたピッチにつられて私にも眠気が戻ってくる。諦めて目を閉じようとした矢先、眼前の部屋の違和感に気付く。

 散らかっている服のパーツが少ない。というか、ソファにジャケットしかない。普段なら潔癖男、ジャケットなんて部屋に入るなり脱いでハンガーにかけるのに、それがソファにほっぽらかされていて、しかもその他のベストだのベルトだのすら見当たらない。それを認識してから、自分を抱きしめている腕が、部屋着ではなくシャツだと気付いて、さらに静かに仰天した。潔癖すぎて外で着てきた衣服をシーツにつけることも、髪を洗わずに枕につけることも嫌うのに。

 「…服、いいの?」

 返事してくれなさそうだなとは思いながら、気になりすぎて疑問を口に出すと、寝息がとまり、なぜかイライラした空気を出したかと思ったら首筋に表在性の激痛が走った。「いった!!」噛まれた。噛む?ふつう。手足を動かすのが億劫だからって最小限の動きで済む歯でやったんだ、この人。性格が悪い。

 「痛い、ひどい!」
 「うるせぇっつってんのにしゃべっからだろ」
 「だって」
 「オレだって服着替えようとしたわ、クソ寝ぼけた誰かさんが離さなかったんだよ」
 「…うそぉ?」
 「窓から落ちようとしてっから上着もかけらんねぇしよ」
 「うそ。寝相わる」
 「自覚ねぇのかよ」

 噛むだけとはいえ筋力を使ったせいか、やっと眠気がとれてきたらしい。起き抜けにかすれてはいるものの、だんだんと語調がはっきりしてくる。ずっしり重く力が抜けていた腕がやっとどけられたので、そっち側に寝がえりを打った。

 「意外。殴ってでも着替え優先しそうなのに」

 眉間をグリグリする手がとまり、隙間から冷たい目力が飛んでくる。いつもならもうちょっと怖いけど、寝起きの乾いた目ではそれほどの迫力はなかった。

 「素直に礼とか言えよ」
 「ありがとう」
 「おせえ」
 「だって春千夜そういうの気にするじゃん」
 「…ラインがあんだよ。オマエはもういい」
 「ライン?」
 「……」

 私が食いついたら、春千夜はみごとに、だっる、という顔を隠さなかった。さっきとは逆に、彼のほうが反対側へ寝がえりを打ってしまう。「ねえ」それを追いかけて身体にのしかかると、面倒くさそう8割、照れくさい2割(※ポジティブ解釈)みたいな顔が私を睨む。

 「だっる。女ってなんでそういうの気にすんの?」
 「好きな人に必要ですって言われたいから」
 「……わかんだろそんなん言わなくたってよお」
 「わかんないから聞いてるんじゃん」
 「……」
 「全然答えてくれないし」

 もっと状況は絶望的だと思っていた。好かれていないとは思っていなかったけど、たとえばマイキーくんであったり、強い潔癖であったりという、春千夜の根本みたいなところに入り込むことはできないと思っていた。でも意外にも、ちょろ子の地道な頑張りは通用していたようだ。一晩の着替えぐらい諦めて一緒に寝てやろう、ぐらいのパーソナルスペースには、入り込めていたらしい。好意的な解釈だけは死ぬほど鍛えられてきたので、本人から明確な回答がなくとも私はこのように理解した。

 「じゃあそのラインに入ってる人って何人?」
 「……」

 長い長い間をおいて、やっぱり無理かな、と諦めかけたころに、謎にやさぐれたような顔で春千夜がつぶやいた。

 「……アナタひとりなんじゃないですかァ」
 「えっ」

 この人と一緒にいて、初めて自分の甘い期待よりも甘いことを言われたかもしれない。びっくりして逆に固まってしまう。なんてなそんなわけねえだろ、とか言うかなと恐る恐る顔をのぞくも、鬱陶しそうな顔は何も言わない。鍛えられたポジティブはこんな対応でテンションが天まで跳ね上がった。


 つまり、つまりそれって。

 「それってマイキーくんより優先されるってこと!?」
 「それはナイ絶対ない。無理」
 「……」

 失恋しちまえ。



***