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数か月もの間寝たきりだった私の体は重力に負けてしまいそうなほどに弱っていた。しかし降谷さんを始め、いろんな人々に支えられやっと以前のような生活が送れるようになった。
降谷さんと寝食を共にしていたマンションは私の意識がどこかに行っている間に引き払ってしまったようで退院してからは新たな住処で腰を落ち着けることとなった。
以前とは違い、晴れて正式に降谷さんの彼女になったのでダブルベットで仲良く朝を迎えている。不思議なことに何年も私を悩ませてきた睡眠障害と摂食障害は改善しつつあり、それはもう穏やかな日々を過ごしている。
前述では“仲良く朝を迎えて…”とあるが悲しいことにそれでは語弊がある。組織瓦解に成功し、潜入捜査から足を洗ったとはいえ彼は今でも仕事がとても忙しく私が目を覚ます頃には庁舎で書類とにらめっこをしている。

私と言えば、例の一件の前に話していた成長促進剤の投与が現状では始められないということで自宅での療養を余儀なくされている。日中は一人になることもあるが、風見さんが様子を見に来てくれるのでその度に一般常識や私の不得意な敬語など、一人の大人として生きていけるよう教育してくれている。
以前と全く異なるがそれなりにやることの多い日々を過ごしていた。
そして彼はほぼ毎日忙しい朝を迎えているにもかかわらず、必ず私の食事と置手紙をテーブルに残していく。朝こそ早いものの夕方には帰宅し私のリハビリと言う名の筋力トレーニングに付き合ってくれた。
…それはもう体育課且つ運動部顧問の教師顔負けのスパルタ指導で。




「はいあと一セット、気合い入れて。」
「いや…っもうむりです。」
「無理じゃない、出来る。気合。」




ワイドスクワット三十回、三セットは正気の沙汰じゃない。人生初の筋力トレーニング、ましてや超ハードトレーニングに翌日立ち上がれなくなったのは言うまでもない。思い出すだけで膝が笑う。トレーニング中の降谷さんだけはきらいだ。
今日も相変わらず筋肉痛に悶えている。毎日続けていても筋肉痛が起きなかったことはないし、見た目には一向に変化が見られない。かなり努力しているつもりだが、頑張りが足りなかったのだろうかと少し不安になる。
呼び鈴が落ち着いたメロディーを奏でる。先に話題にあがった風見さんの到着だ。彼は合い鍵を持っているが無断で部屋に入ってくることはなく必ず入室前にインターホンを鳴らす。昨日のプランクで痛めた腹を押さえながら小走りで玄関へと向かった。

「はーい。風見さ…ん、ははっあ、なにそれっ!」

扉の前に立っていたのは私のよく知る風見裕也ではなく、降谷さんの仮面を付けた大男だった。思いもしない素っ頓狂な訪問の仕方に笑いが止まらず痛みに悶えた。

「こんにちは、名前さん。今回は腹筋を痛めているとお聞きしたので。」
「降谷さんの入れ知恵か…!もう、本当に痛いんですから。」
「すみません。それにしても笑っていただけてよかったです。」

紙素材の降谷さんの顔面を外し出てきた顔はいつもより眉の下がった風見さん。変な空気になったらどうしようかと思っていたらしい。彼は見かけによらず茶目っ気があるようだ。
私は食事を摂ることが得意ではないので使うこともないが火と包丁の利用は降谷さんから禁止されている。とはいえ作って、と懇願されてもその気はさらさらない。いつも通り手土産を受け取り、キッチンで唯一触れることを許されている機械でコーヒーを淹れる。

「…あ、」
「どうかしましたか?」
「ごめんなさい。中身を見る前に淹れ始めちゃいました…。」

本日のおみやは北海道に本店があるよしかわのおはぎだった。綺麗に整列した葡萄茶色のあんこと卵色のきなこおばぎは最近食事を摂れるようになった身としても実に食欲をそそった。

「大丈夫ですよ。…でもこのおはぎは是非緑茶で召しあがって頂きたいので僭越ながら私が淹れさせていただきますね。どうぞ、選んでいてください。」
「ありがとうございます。」

お言葉に甘え、広げた箱の中を凝視する。
中身は成人と言えど、内臓は少女なのだからこしあん、つぶあん、きなこと三つ胃袋に収めることは出来ないだろう。究極の選択を迫られ風見さんが戻ってくるまで決めることが出来なかった。

「決まりましたか?」
「こんなの決められないです。全部おいしそう。」

組織というストレスから解放され、愛する人と穏やか且つ幸せな毎日を過ごしていると自然と私の味覚は戻ってきた。未だ繊細な味はわからないが、これまでの日々が嘘のように私は食べることが好きになっていた。

「では、全部半分こしましょうか。」
「いいの?ぁ、いいんですか?」

風見さんは私に優しく微笑みかけ、三つのおはぎを丁寧に切り分けてくれた。

「んんー!おいしい!お茶とも合う〜。」
「ぜひこのペアリングを味わっていただきたくて…。」

半分にしたおはぎをもう一度半分にして口に運ぶ。普段の硬い表情とは打って変わっておはぎを一口含むと風見さんは眦を綻ばせておいしいと思っていることが表情に滲み出てしまっている。

「風見さんってかわいいですね。」
「…三十路の男にそれはないです。」

彼はむっとしながら新たなおはぎを口に入れた。ゆっくりと咀嚼しお茶で口の中をリセットさせるとメガネをくいっと上げ、真面目な表情になった。軽口を叩いたせいで怒らせてしまったか、私も皿を置き居直した。

「訂正します。年齢は関係ありません。」

風見さんと多くの時間を共有してきたが故に降谷さんよりも考えていることが分かるようになった気がする。

「…降谷さんもかわいいですよね。」
「わかっていただけますか。先日仮眠室でクマのマスコットと一緒に寝ているところをお見かけしましてそれがとても可愛らしくてですね…。」

私と一歳違いとは思えないほどに若々しく、もちろん男の私から見ても格好良いのですが…などと私を置き去りに彼は回想に耽っていた。

「そうなんですか!見たかった…っていうか多分それ犬です。」
「白クマかと…もしや…。」

「そう、あれは名前が羊毛で作ったものだ。まさか見られていたとはな。」
「…っすみません。」

会話に集中していて全く気付かなかったが、背後から彼の声がして驚くとともに自然と笑みがこぼれた。風見さんは顔面蒼白で小さく震えている、可哀想だ。きっと先程のべた褒めも聞かれていたのだろう。凄みのある笑みを浮かべてはいるが少しだけ嬉しそうだ。

「降谷さんおかえりなさい。今日は早いんですね。」
「そろそろ宮野さんのところに行こうかと思ってね。」
「ついに…!」
「そうついに。」