一部の日本人にとっては一年の中で一番過ごしやすいと言っても過言ではない季節。現代病ともいわれる花粉症に罹患してない僕にとっても好きな季節の一つだ。
我らが日本警察のシンボルマーク、旭日章は桜の大門とも呼ばれる。そのせいか桜という植物に人一倍愛着がある。
思えば彼女と出会ったのも桜がきっかけだったと紋章を見て思い出す。
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何日も庁舎に缶詰だった僕は身なりに気を使う余裕がない程に疲れていた。さすがに運転は憚られたので徒歩でアパートへと向かっていた。
風格のある洋館に負けない存在感を放つ一樹の桜の木、ぼぅっとそれを見上げていると耳触りのいい声音が聞こえ目を向けた。
「あの、ここは私有地ですので自殺は困りますよ」
「自死はしませんのでご心配なく」
声のした方へ居直り軽く頭を下げ足早にその場を立ち去った。情けないことに一般人への対応を疎かにしてしまうほどに限界だったのだ。
自室に到着し、倒れるように意識を飛ばし惰眠を貪った。数時間後すっかり冴えた頭でやはり今一度謝罪をするべきだと思い直し翌日例の洋館へ足を運ぶことを決めた。
「こんにちは。今日はお元気そうですね」
「昨日は失礼な態度をとった挙句碌な謝罪もせず申し訳ありませんでした」
言い訳がましいとは思いつつ仕事が大変なこと、その帰り道に桜を見つけ見惚れてしまったことを説明し手土産を渡した。
「まぁ。そんなに気に入っていただけた何て、祖父も喜びます」
「こちらにはおじい様とお二人で?」
「以前はそうでしたが今は私一人です」
「…立ち入った話をお聞きしてしまってすみません」
「いえ、私が言い始めたことですので」
つばの広い帽子を外すと陽に照らされ白い肌が一層輝いて見えた。風になびくワンピースも背の高い彼女によく似合っている。背景の洋館も相まってどこかのお姫様のようだった。
「そう言えばまだ名乗っていませんでしたね。みょうじなまえと申します」
「僕はあむ…降谷零と申します」
「では降谷さん。お茶でもいかがですか?」
これが僕と彼女の出会い。
僕が何日も缶詰だったこと、彼女の家の桜の木を見ていたことまた、後日再び会いにいったことも全て偶然だった。
しかし二度あることは三度あるとはよく言ったもので偶然を複数回重ねた僕の前に最大の偶然が降ってきた。
あの彼女が公安の協力者として姿を現したのだ。しかも上官の。
預かっている合鍵で家に入り彼女のいる書斎へ向かう。
ノックをしても返答がないのはいつものことで、大体集中していて気付かなかったのごめんね。なんて柔和な笑みを向けてくるんだ。
いつものように大丈夫ですよと返す準備をしてドアノブに手を掛けた。
「なまえさん、入りますよ…!」
目に映る光景に一瞬息が止まった。僕の思い描いていた彼女はおらず床に倒れている女性の姿がそこにはあった。戸惑いは一瞬に留め現状把握に努めた。見たところ外傷はない。心臓か、脳か。弱いが呼吸もきちんとしている。
「なまえさん!なまえさん聞えますか?」
慎重に抱き起し意識確認を試みると眉間に皺を寄せゆっくりと瞼が開かれた。
「…降谷さん?」
「はぁ、よかった。どうしたんですか?」
「いや、ちょっと仕事を」
思ったより状況は深刻でないようだ。ゆっくりと体を起こし壁のカレンダーに視線を向けた。その直後ぐぉ〜ともしも恐竜が生きていたらそんな鳴き声のものもいそうだと思う位に盛大な音を立て腹を鳴らした。
「…何日食べていないんですか?」
「三日くらいかな…」
「わかりました。僕が用意してきますので楽な体勢で待っていてください」
上司の言っていたことはこれだったのか、と一人納得した。昇格した上司に換わり彼女の家を訪れるようになって初めての出来事だった。
そして今
「仕事に集中するのは良いですが寝食を疎かにしていては元も子もありませんよ」
「面目次第も御座いません」
彼女と出会ってから二年ほど経過した今も彼女の集中癖は治っていない。
「それを食べたら少し外に出ませんか?どうせひきこもっていたんでしょう?」
「だって桜がなければ出ても意味がないんですもの」
渋っている彼女の細い腕を引き庭へ出た。
「なまえさんは桜以外興味がないようですがこちらも綺麗でしょう?」
色とりどりの花たちは彼女の家を訪れる度にコツコツ植えていたものだ。引きこもりがちで普段から裏口を使う彼女は気付いていなかったようだ。
「なまえさん?」
「…綺麗」
桜を見て笑顔を浮かべていたあの日のなまえさんがそこにはいた。繋いだままの手をもう片方の小さな手で包みこまれた。
「ありがとう降谷さん。とっても素敵」
「い、いえ。これからも僕が手入れしますのでご心配なく」
真っ直ぐ自分に向けられた笑みに柄にもなく照れてしまった僕は咄嗟に明後日の方向を向き逃げた。繋いだ手が熱い。手を取ったのは自分であるが彼女がそれを解こうとしないのが不思議だった。
「…je vous aime bien.」
「僕が分からないとでも思っているんですか?」
「いいえ。勉強しているのを知っていますから。だから問題ついでに」
小さな声で呟かれた彼女の商売道具のフランス語。彼女の仕事を知りたくて僕も勉強をした。学んでいなくとも有名な愛の言葉は理解するのに時間はかからなかった。
「…僕が言いたかったです」
「まぁまぁ。それで御返事は?」
「…je taime.愛していますなまえさん」
花びらが舞う季節に出会い恋に落ちた。新緑の香りに包まれて僕達は恋人になった。