まどろみ、薄れゆく世界

「中在家先輩」


静かな図書室に凛とした声が響く。今は授業が全て終わった放課後で、かつ夕餉の時間は当の昔に終了し空はもうほとんど紺色に支配されていた。
図書室は私語厳禁でありその図書室に委員長である中在家長次がいる限り、それはもう暗黙の了解だった。
とはいえ大事な用は声を出さずには伝えられない、後ろの本棚と格闘している級友と後輩の視線をちらちらと受けながら声を掛けた張本人、斉藤大河は振り向いた長次に返却カードを差し出した。


「七松先輩のカードですが」
「……」
「もう半年近く返ってきておりません」
「………」
「私は貴方の級友で、尚且つ長屋が同室だと記憶しておりますが」


無表情同士が淡々と(とはいえ片方は喋っていないが)話し合う姿がこれほどまでに恐ろしいとは誰が思ったか。
ひっ。と引きつったような声が怪士丸の喉から漏れたが、すぐさまその両脇に立っていたきり丸と久作に声を封じられる。
そろそろと振り返って向き合っている二人を見てみたが気にしてはいなかったらしい。三人は安堵の息を吐き出した。

親指と人差し指でしっかりと持たれている返却カードにはでかでかと「七松小平太」とお世辞にも綺麗とは言えない字で書かれている。
本を返却しない者には容赦無く縄標やら返却カードを投げる貴方が、同室の者を躾出来ないとは何事ですか。少し苛ついたような大河の声に下級生に続いて雷蔵の頬がひくひくと引きつった。


「ちょ、ちょっと大河…躾だなんて」
「…すまない」
「中在家先輩も謝らなくていいですよ。級友に甘くなってしまうのは当然の事ですし」
「いや…大河の、言う通りだ。…きつく、灸を据えておく…」


そう言って返却カードを受け取った長次に納得したのか大河は本を抱えるとさっさと本棚に向かってしまう。
それを慌てて追いかけて、極力小さな声でぼそりと眉を八の字にさせながら雷蔵が呟く。


「大河だって三郎が借りてた本、返却期限が切れてるから殴っただけで済ましたでしょ?」
「…殴っただけ、とはなんだ。私が普段から酷い扱いをしているような言い草は」
「え、だってこの前、八が本を返さないからって追いかけ回してたじゃないか」
「……」


けろりと言ってのける雷蔵に大河は声を詰まらせると同時に、雷蔵ほど恐ろしい者はないと思ってしまう。
一体それをいつから見ていたのか。いや、何よりも何故その行為を止めなかったのか聞こうとして諦めた。
雷蔵が天然腹黒だと知ったのはもう結構前のことだ。

話もそこそこに作業を開始すると窓の外から荒い息遣いと地面に倒れこむような声が聞こえて、雷蔵の集中力は削がれて窓の外へと向く。
そこには今まで走り回っていたのだろう、泥だらけ木の葉まみれ傷まみれの体育委員が地面に転がって空を仰いでる。いつの間にか月は真上にまで移動していた。


「よーっし!次は塹壕掘りで今のコースだ!」
「ま、待って下さい七松先輩…っ!」


うわあ。と憐れみの篭った声が長次と大河以外から上がる。
あれはあれで不運委員会ではないだろうか。久作は心中呟いた。


「おっ、ちょっと待っているんだぞ、滝夜叉丸」
「ちょっと…何処に行くんですか!図書委員の邪魔をしては駄目ですよ!」
「え…ちょ、こっちに…」


どうした。と本棚からやっと目を逸らしながら呟いた大河の声が雷蔵の耳に届くのと、小平太が泥を撒き散らしながら勢い良く窓から入ってきて大河に突っ込んで来たのはどちらが早かったのだろうか。
容赦無く飛び掛ってきた小平太からの抱擁をすっかり油断していた大河が避けきれる訳もなく、振り返ったと同時に首に巻きつけられた腕と掛けられた全体重に身動きを取れず、大河は小平太と共に大きな音を立てて壁へ叩きつけられた。

後頭部と壁が当たったのであろう、鈍く勢いのあった音にぎゅうと目を瞑った雷蔵が恐る恐る目を開ければ、そこには頭から血を流した大河とそれに子犬のように擦り寄る小平太の姿が確認出来た。
一体何が起きたのか大河は判断出来ていないらしく、だらだらと血を流しながら隻眼をぱちぱちと何度も瞬かせる。


「大河!お前も私と一緒にバレーしよう!」
「…ななまつ、せんぱい…」
「そうだ、図書室の灯りが点いていたから大河も長次も居るだろうと思ってな!」
「いえ、わたしは、ほんの、せいりが、ありまして」
「そんなものいつだって出来るだろう!私と勝負だ!いけいけどんどーんっ!」


ぎゅうぎゅうと血が足りなくなってきている大河を抱きしめる音も間接の軋む音が混じっているような気がする。五人の心は見事に一致した。
大河は意識が朦朧としているのか顔は青白く、普段から想像出来ないほど舌はたどたどしい。

いつの間にか小平太に近付いていた長次がそっと大河から小平太を引き剥がし、雷蔵たちに目で言葉を寄越すとわあわあと四人が大河に群がって保健室だ保健室だと一気に図書室内が珍しく騒々しくなった。
どうした大河!血が流れているぞ!指を指しながら言い放った小平太に対して、笑顔な長次の縄標が飛んだのはそのすぐ後の話だ。




***




ごす、と見事腹に何か重りがめり込んで大河は弾かれるように上半身をベットから起こす。
そこには昨夜確かに横に眠ったはずの小平太がダイブしたように大河の腹の上でぐうぐうと寝息を立てていた。
大河の横ではまったく被害を受けていない長次が生きているのかすら分かりにくいほど、ゆったりと静かに息をしている。


「き、貴様という奴は…!」


怒りに拳を震わせて小平太の身体の下へと手を滑り込ませるとそのまま上へと押し上げ、軽々と吹っ飛ばすと、べちんっ、と壁に激突してずるずるとフローリングの床へとずり落ちた。
荒い息を繰り返す大河を余所に、小平太は相変わらず気持ちよさそうに寝息を立てていて頭痛で痛む頭を押さえていると、隣で寝ていた長次がのったりと起き上がった。


「すまない、起こしてしまったか」
「………、おはよう」
「嗚呼、おはよう」
「また、小平太、か」
「だから奴を私の家に泊まらせるのは嫌なんだ」


肩にかかる程の長さの金茶の髪を結わえながら忌々しいと言わんばかりに小平太を睨み付けるが、本人は未だ夢の中だ。
時折へらりと笑みを浮かべながら大河や長次の名を呼ぶものだから、はぁ。とため息をつきながら掛け布団を小平太へと被せてやる。


「長次はまだ寝ていて構わない」
「、いや、俺は」
「私は朝飯の準備もあるしな。コイツは起きたときに誰かおらんと五月蝿い、お前に任せた」
「…わかった」


なんだかんだ言って大河は小平太にも長次にも甘い。日も昇り始めた時間帯だと言うのに朝から食欲旺盛な小平太の為に大量の朝ごはんを用意するため、大河は部屋を出て行った。
うぅ、大河〜…。と名残惜しそうに寝ぼけながら腕を宙に伸ばした小平太を見て、長次はいそいそと布団の中に潜り始める。

一方、洗面所で顔を洗い終わった大河は水の滴った顔を拭かずにじっと目の前にある鏡を見つめていた。
黒い瞳、標準より少し長いであろう金茶色の髪。
これはこんなにも短かっただろうか、と心の中で問うてみた。


「…、これ以上伸ばした覚えも無いな」


やっとタオルで顔を拭いて、また鏡を見る。
いやでも、この髪がもっと腰以上に長かったような気になるのは何故か。自問自答した結果、思い出せない夢が脳裏を掠めた。
己を呼ぶ声。誰かを呼ぶ己の声。いつかわからない、ただ確かに現代ではないいつかの時代。
わかるのはそれぐらいで、でもそれすらも曖昧で。だが何処か落ち着く、そんな夢。

夢とは元より曖昧な存在で現実に無いものすら見せてくる。そう分かっていてもあの夢だけは何故か違う気がしてならない。
疲れているのだろうかとそれを振り払うように頭を数回振って、その思考を叩き出した。


「内容を覚えていないなら、対したことでも無いんだろう」


顔を拭ったタオルを洗濯機の中に放り込み、大河はキッチンに入ると冷蔵庫を開けてここがほぼ空になるのかと思うと重い重いため息を吐いた。





まどろみ、薄れゆく世界






(大河ー!腹が減った!)(……、)(嗚呼、長次も腹が減ったか)(あ、大河!おはよう!)(小平太、抱きつくのは止めろ。暑苦しい)(、)(…長次、お前まで何をしている)(大河〜…)(…っいい加減にしろ貴様ら。飯を食うのか、食わんのか)(食う!)(、食う…)(なら私から離れて、席に着きなさい)(はーい)



title:彼女の為に泣いた

なんでもないの