stardust

星の降りそうな夜でした。波間でたゆたう光を散らして海中から顔を出したマルガレータは、瞳に飛び込んできた空の宝石に丸い瞳を眩しそうに細めます。くるりと身を翻すと、水面を跳ねた尾ひれがきらりきらりと輝きました。彼女の細くまろやかな腹から下は、海を溶かしたような碧い鱗に覆われています。
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「やあ」と真夜中の静寂をやぶって届いた声にマルガレータはぱっと顔を輝かせました。「シャルル」といつの間にか岩場に立っていた青年の名前を呼びます。くすんだ灰褐色の髪は星空の下ではまるで月光のように輝いていて、纏った黒いコートは彼の周りだけ真っ暗な夜が口を開けているようでした。
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「久しぶりだね」「ええ、本当に」あなた、ちっとも顔を見せてくれないんだもの。と、わざと意地悪に続けた言葉にシャルルは困ったように眉を下げます。「悪かった」と何だか本当に悲しそうに項垂れるので、マルガレータはぱしゃりと一度円を描いて岩場に近づくと俯く彼に向けて悪戯っぽく笑いました。
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「そうね。それじゃあ、今夜はたくさんお話してくれる?あなたの旅の話、私、とっても楽しみにしてたのよ」マルガレータの言葉に、漸くシャルルも微かな笑みを浮かべます。「勿論だよ」そうして岩場に腰を下ろした彼に合わせるように、頬杖をついた彼女は、滔々と夜を打つ声音に耳を傾けました。
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「ああ、夜がやって来る!夜がやって来る!」「あの陰気な吸血鬼がまたやって来るよ!白い闇を連れたサンソンが!」彼の訪れは、いつも鳥や魚たちが教えてくれます。ぎゃあぎゃあとかしましく嘴を鳴らしていた白いカモメたちの噂話は、何年、もしかしたら何十年ぶりのことだったかもしれません。
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千年の時を生きる彼らにとって日が昇りまた沈む、一日一日は瞬き一つのように短いものでしたが、そんな彼らにとってもこの逢瀬は随分と久しぶりのものだったのです。世界中を旅しているシャルルの話は色や匂い、地上で生きる「人間」の生活と息遣いに溢れていました。
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マルガレータはまだ「人間」に会ったことはありません。彼らの話に特に瞳を輝かせると、シャルルはふっと小さく笑いました。彼が笑うと、薄い唇からちらりと尖った八重歯が覗きます。それはとてもチャーミングだとマルガレータは思いました。「そうだ、今夜は君にプレゼントを持ってきたんだ」
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シャルルはコートのポケットから取り出したものをマルガレータに差し出します。それはコルクで蓋をされた透明な硝子瓶で、中には白や黄色、桃色の小さな欠片が入っていました。「これはなぁに?」「金平糖という、人間の作る砂糖菓子だよ。口に含むととても『甘い』んだ」
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「『甘い』……『ケーキ』や『フルーツ』と、同じね」人魚のマルガレータは、他の生き物のように食事を必要としません。だから彼女には「甘い」は想像することしかできませんでしたが、小瓶に詰められたその小さな欠片は、ひどく彼女の心を惹き付けました。「綺麗……まるで星屑を集めたようだわ」
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夜空に掲げた瓶の中で砂糖菓子の欠片が一粒、ころんと転がります。ほんとうに、あの空から落ちた星を拾い集めたようでした。きらきら、きらきら、遠く近くで瞬く光にマルガレータは瞳を眇めます。「ありがとう。とても素敵な贈り物だわ」蕩けた笑みを浮かべるとシャルルもまた、幸せそうに笑いました。
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それからもたくさんの話をして、夜が明ける前にシャルルは帰っていきました。次の日も、その次の日も、満天の星が輝くと彼はマルガレータに会いにきました。空が白むまでの僅かな時間が、この友人たちのおしゃべりを楽しめる時間でした。そうして、七日目の夜、シャルルの出発の日がやって来ました。
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「やっぱりお別れのキスをしてはだめ?」名残惜しそうなマルガレータに、膝をついたシャルルは宥めるような口調で言います。「君を傷つけるわけにはいかないだろう?」彼ら地上の生き物の体温は人魚であるマルガレータのものよりもずっと高く、触れればたちまち火傷させてしまうのです。
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例えそれが頬へ軽く触れるだけの口付けであったとしても彼女の唇は赤く腫れてしまうでしょう。出会ってどのくらいになるのかも忘れてしまうくらい永い永い時を過ごしてきたのに、彼に触れたことも、そしてまた彼がマルガレータに触れてくれたことも、一度だってないのです。
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けれどそれは仕方のないことでした。マルガレータに二本の脚がないように、あるいは、シャルルが夜明けの光を浴びることができないのと同じように。二人はほんの少し寂しそうに笑いあって、それから互いに距離を取りました。マルガレータは指先を唇に当てると、シャルルに向かって投げかけます。
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「さようなら、シャルル。あなたの旅の無事と幸福を祈るわ」「さようなら、マルガレータ。君の毎日が穏やかでありますように」交わした祈りは星屑の瞬く夜に溶けていきました。サンソンの周りにとぷりととろけるような密の闇が広がって、やがて彼を呑みこんでいきます。
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溶けていく月光色を、マルガレータはじっと見つめていました。いつまでもいつまでも、見つめていました。
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