「マルガレータ?」
 冷えた夜を震わせて、彼女の名を呼ぶ。低く落ち着いた声音に、真夜中に揺蕩う心がほっと息をつくのがわかった。無意識にショールを掴んでいた指先が雪解けの春を迎えたようにほどけていく。悴んだはずの爪先もどうしてだかじわりとあたたかい。
 現し世に焼き付いた影法師。泡沫の夢は目を閉じずとも続くのに、休息を求める身体は生者と同じく眠りを求めるらしい。寝付けない苦しさはサーヴァントになっても変わらず、部屋を抜け出して雪山の天文台をどのくらい歩いただろう。
 暗闇も静寂も、嫌いではない。地上を覗いても世界はけぶるばかりで、ひたりと落ちる静けさにやがてごうごうと流れる己の血潮の音だけが鼓膜を震わせる。
 気ままにさ迷っていたその足が、いつのまにか酒気の香る食堂でも寝ずの番をしている管制室でもなくこの場所に向かっていたのは、彼がいると知っていたからかもしれない。暗がりの向こうにぽつりと洩れた白い光を見たとき、こぼした吐息は確かに安堵していた。
「……ごめんなさい、なんだか寝付けなくて」
 室内灯の明かりが差すなか、仰いだサンソンの顔。始めこそ驚いた表情を浮かべていたものの、凍てついた冬の空のような薄氷の瞳はすぐに眦をゆるやかにした。
「構わないよ。どうぞ入って」
 一歩引いた細い体躯が、マタ・ハリを招き入れる。白を基調とした殺風景な場所。染みついた消毒液のにおいが、鼻の奥をツンとさす。
 カルデアの一角を占める医療室は入ってすぐの診察室を抜けると、宿直用の休憩スペースにつながっている。促されるまま寝台に腰かけたマタ・ハリを残して、青年の背中は衝立の向こうに消えていった。室内には狭いながら洗い場や簡単な調理器具も揃っており、小鍋か薬缶を用意しているのだろう、カチャカチャと金属質な音が耳朶を叩く。
 別の部屋ではサンソン以外のスタッフも作業をしているはずで、そうでなくても宵っ張りのサーヴァントたちが騒ぐ気配は時折ここまで届いてくる。けれど、こうしてコンロに火が点けられる微かな音や彼が何かをかき混ぜるとぷとぷと漣のような音だけを聞いていると、彼女たち以外みんな眠りについてしまったようで、ふたりだけ、ひどく穏やかな夜の底に沈んでいるような気がした。
 揺蕩う思考のまま、視線を巡らせた室内はさほど広くない。寝台の横のサイドテーブルに、デスクと椅子が一式、壁沿いに置かれた本棚には分厚い専門書が並んでいる。そのうちの何冊かは、主のいなくなった机の上に無造作に広げられていた。
「……お邪魔してしまったかしら」
 ミルクの煮立った甘い匂いが鼻をくすぐり、マグカップを二つ手にして戻ってきたサンソンにそう告げれば、視線の先に気づいた彼は淡く笑う。
「いいんだ。ちょうど話し相手がほしいと思っていたから」
 眠気覚ましに付き合ってくれると助かるよ。
 そう言って、白いシャツの腰を机に預けてカップを傾ける彼に、渦巻く湯気の向こうで気づかれないよう苦笑する。異性を甘やかすのは得意なくせに、逆に甘やかされてしまう感覚は、未だに少し面映ゆかった。
 沈黙をうめるように一口飲んだホットミルクは仄かに甘い。舌の上に広がる芳香に、ほうと小さく息を吐く。
「……おいしい」
「よかった。ブランデーを少し足しているんだ」
 ああ、だから。と、ミルクのやさしい甘さの中の果実のような香りにひとつ頷いた。こくりと嚥下した喉、カップを包む指先からぬくもりが伝わってくる。こぼした吐息は白い夜に溶けて、自然彼女の口を滑らかにした。
 交わす会話は他愛ない。ぽつぽつと春のやわい雨が樋を叩くような、囁きに似た声が鼓膜を揺らす。例えば、少し前にふたりで観た古い映画の話。彼に借りた詩集の一節。明日の朝は何が食べたいだとか。開きっぱなしの本の中身は彼女にはとても難しくて、それが妙に可笑しかったりもした。
 こうして交わした言葉の、どのくらいを迎える朝まで覚えているのだろう。
 泡沫の夢の中でもう一度、夢を見ているような。取りこぼしたものが何かもわからないまま、けれど降り積もったそれがあるからこそこの穏やかな夜があるのだと思う。
「……眠れそうかい?」
 とうに空になってしまったマグカップをサイドテーブルに置く音に、気配を察したサンソンが視線を上げた。壁に掛けられた時計の短針は彼女が訪れたときから一つ数字を増やしていて、夜明けにはまだ遠くとも深く落ちた夜の帳に、瞼には確かに心地よい重さがある。
「このままここにいても構わないけれど」
「……甘やかしすぎではなくて?」
「お互い様だろう」
 くすりと薄い口の端を上げる。暗闇が口を開けたような、冷たい廊下を歩いて部屋に戻ることを思うと確かに些かの名残惜しさはあって、そんなふうに逡巡しているうちに立ち上がったサンソンが室内の照明を落としてしまった。
「……シャルル」
 薄墨に浮かぶ広い背。ただひとつ灯された机上のランプに照らされて、その輪郭が朧に浮かび上がる。振り向いた白磁の顔の眉尻はやわらかく下がり、歩み寄った彼は寝台に腰かける。
「子守唄が必要かな」
「ふふ、そこまで子どもじゃないけれど。少し、聞いてみたい気もするわね」
 囁くような笑声が溶けて滲んだ。かさついた武骨な指先があやすように前髪に触れて、マタ・ハリは瞼を閉じる。伝わるぬくもりは凍てついた冬の日に、ふと触れた陽だまりの温度に似ていた。
「……あなたの言葉も触れる温度も、まるで魔法のようだわ」
 そのぬくもりに額を擦り寄せる。微かに震えた喉は、彼女がそうと自覚する前に言葉をこぼしていた。
 例えば辺り一面の雪が、降り注ぐ陽光にきらきらと輝くような。向ける信頼や慈しみが、同じだけ返される。
 ──それは、なんて幸福なことだろう。
「……もしもそうなら」
 閉じた瞼の向こうから聞こえるサンソンの声音は優しかった。この声が彼女の名を呼ぶ。凍てつく夜を震わせて。冬の陽だまりの温度をのせて。
 暗闇も静寂も、孤独も、彼女は怖くなかったけれど。
「君が、いい夢を見られますように」
 祈りと同じ声音で彼が彼女の名を呼ぶなら、迎える明日もきっと、ささやかな幸福に満ちている。