白々と空が明けていく。何もかも白に覆われた世界に、彼女はいた。夕焼けを溶かしたようなベール、薄衣が流れる華奢な体躯が、ぽつんと咲いた花のようで藤丸立香は瞳を眇める。
「……あら」
 ゆうるりと、あどけない顔(かんばせ)が振り向いて、小さな蕾が綻ぶように微かに笑った。
「見つかっちゃった」
「……探さないほうがよかった?」
「ふふ。いいえ?」
 別段隠す気もなかった足音は、立香の存在を雄弁に彼女に伝えただろう。歩み寄る立香を見つめる表情に驚きの色はなく、歩幅一つ分、空けて立ち止まった少女は首を傾げる。
「眠れなかったの?」
「……そうね。さすがに今日は、眠れば夢にあなたを呼びそうで」
「呼んでくれたらよかったのに。夢の中でもどこでも、会いに行くよ」
 返した言葉にマタ・ハリは瞳を瞬かせ、それから不意に弾けるような笑声をあげた。
「まあ、マスターったら。どこでそんな殺し文句を覚えたのかしら」
「本気だもん」
「ええ、ふふ。ありがとう」
 くすくすと喉を鳴らすマタ・ハリの姿は吐き出した白い息の向こうに霞む。地上に覗いたこのエリアは人気もなく、室温調整も必要最低限しかされていない。ひやりと頬を撫でる空気は、本来なら秋も深まるこの時期の寒さによく似ていた。
 薄衣から透ける細い肩がいやに寒々しく見えて、サーヴァントとはいえ冷えるだろうと寝巻きの上に羽織っていたストールをマタ・ハリにもかければ、眉尻を下げた彼女は大人しく隣に寄り添った。僅かに空いていた距離が消える。触れあった肩からぬくもりを分かち合う。
「やっぱり冷えてる」
「サーヴァントだもの、このくらい平気よ」
「だめ」
 むう、と唇をとがらせれば、見上げたあどけない面差しはゆるむ頬を堪えるように小さく笑った。二人一緒にくるまれたストールの裾を、細い指先が掴む。
「……マスター」
「うん」
「もう、夜が明けるわ」
 うん、ともう一度少女は頷く。常は激しい吹雪に覆われている窓外の空は、今日は随分穏やかだった。雪山の上には鈍色の雲が重く立ちこめて、雪花がちらちらと舞っている。引き延ばしたように薄くなった雲の端だけが仄白く輝いていて、夜明けの太陽は確かにあの向こうにあるのだろう。
 十月十五日の、朝が来る。
「……怖い?」
 こぼすつもりのなかった言葉が、なぜかするりと口をついて出た。空を見つめていたマタ・ハリの視線が、再び立香に向けられる。
 丸く、宝石のような瞳は一見すると薄墨のようでいて、覗きこめば深い青の色をしている。
 そう気づいたのはいつだったか。
 朝焼けの色。あるいは、夕暮れの端から染まる薄暮の色。
 どちらにしても、その双眸はひどく美しいと、思う。
「……ちっとも」
 答えた彼女の声は穏やかだった。ブルネットの髪が艶やかに揺れる。柘榴の花飾りの赤の朝露に濡れたような瑞々しさに目が眩んで、ほんの少し、息を呑む。
「私は、マタ・ハリという女の人生を、演じきったもの」
 やわらかな輪郭が線を描くそのあどけない面立ちが、静かに微笑んでいたから。
「……それなら、私にはマルガレータを、くれる?」
 唇から落ちた言葉は、今度こそ形をもって空気を震わせた。初めてマタ・ハリの顔に驚きの色が浮かんで、見開かれた瞳に立香の顔が映る。
 きっと少し欲が出たのだ。彼女だけを特別に選ぶことも、彼女だけの特別になることもできないくせに、その瞳が、面立ちが、細い肩が。
 ぜんぶ、いとおしかったから。
「私が代わりに差し出せるものはきっと……今、あなたの隣にいることくらいしか、ないけれど」
 その傲慢さをわかっていてもなお、それでもと願う立香にほんの少し見上げた先の彼女は、空に滲むような泡沫の息を吐く。眇められた瞳の中で、燃え盛るような夕焼けが薄暮に滲んでいた。色を濃くした青が揺らいで星を散らす。
「十分よ。……立香」
 答えた彼女の唇は、微かに震えていた。
「マルガレータ」
「……ええ」
 彼女の名を呼ぶ。嘘ばかりの彼女が、たった一つ、あなたにだけと教えてくれた名前を呼んで(愛して)と、立香に願うから。
「今日は、何して過ごそうか」
「あら、一緒にいてくれるの?」
「もちろん」
「そうね、それじゃあ」
 おひさまが高くなるまで、あたたかくてふかふかのベッドで、眠っていたいわ。
 紡ぐ言葉は軽快に互いの耳朶を揺らして、いたずらっぽく微笑むマルガレータに虚を突かれたようにまばたきをひとつ。次いで立香も、愉快そうに口角を上げる。
「不健全だね」
「きっと誰かが起こしに来るでしょうから、そうしたら、食堂でおいしいごはんを食べましょう」
「うん」
 くすくすと喉を震わせる笑声は鈴の音色のようで、顔を見合わせたマルガレータに手を差し伸べる。
「帰ろう」
 繋いだ手のひらはもう冷たくはなかった。立香とあまり変わらない、小さくて綺麗な、少女の手だ。
 少しだけ背の高い彼女と歩調が並ぶ。夕焼け色の薄衣がひらりと舞って、白い世界に花弁のように影を散らした。