クレマチスの花が咲いている。
 トレリスに長く蔓を伸ばし、すずなりに咲いた白い花がシャルル=アンリ・サンソンの凪いだ面差しに淡く影を落としていた。競い合うように絡みつくつるバラはまだ青々とした葉だけを繁らせている。
 殊更ゆるりとまたたいた睫毛の先で、降り注ぐ光が粒になって舞い上がった。一歩踏み出した足先を、艶やかに咲くエリカが撫でる。
 芳しい香りに満ちた温室の空気はここが吹雪に閉ざされた山深くにあることを忘れさせた。鉢植えから覗くスイートピーの淡い桃色と、ベゴニアの鮮やかな朱(あか)。チューリップの蕾はふくらと丸く、まもなく花を咲かせるだろう。
 乳白色の花に手を伸ばす。黒いコートの裾が揺れて、石畳の上を影が踊った。
 一足早い小さな春の訪れは、彼の胸中に一抹の感傷を呼び起こす。
「……マリー」
 ──無性に、妻に会いたかった。
 俯く花びらに触れた左手はむなしく、ただ甘い芳香を移ろわせて、惹かれるまま、空っぽの薬指に唇を寄せる。
「なぁに?」
 やわらかく耳朶を打った声音に、サンソンは驚いて顔を上げた。その声色が脳裏に思い描いていた女(ひと)と重なったからではない。むしろ正反対の──鈴の音が転がるような華やかなその声が、誰のものかはすぐに見当がついた。
「まあ。やっぱり、あなただったのね」
 ご機嫌よう、とさんざめく花のように微笑んだマリー・アントワネットは、軽やかな足取りで彼の元に近づいた。ジャクリーヌ・デュ・プレの大輪の花の向こうから、覗いた銀糸の髪が揺れる。春の淡い空を溶かした瞳が彼の姿を映したのを見て、心臓がワルツを踊る子犬のように小さく跳ねた。
「……やあ、マリー。ひとりかい?」
「ええ、そうなの。あなたもお散歩?」
 小首を傾げるマリーに小さく頷き返す。隣に並んだ彼女はクレマチスを仰ぐと、どこか眩しそうに瞳を眇めた。
「外はあんなに寒いのに、もう春が来たみたい」
「そうだね。季節の移ろいを感じられるのはいいことだ……例え一時でも」
 返す言葉に合わせて、そっと手を差し伸べる。王妃を立たせたまま話すわけにもいくまい。すぐ傍に据えられたベンチまでそのたおやかな手を引くと、白雪の頬を薄紅に染めた少女は優雅な所作で腰を下ろした。
 ほんの一拍躊躇うように間をあけて、しかしそろりと隣に腰かけたサンソンにマリーは無邪気な面もちで口を開く。
「ねえ。あれは、わたしを呼んだのではないのでしょう?」
 向けられた問いに虚を突かれたように瞳をまたたかせ、それから、これまでとは違う意味で青年はほんのりと目元に朱を滲ませた。それでも素直に口を開いたのは、それが彼にとってかけがえのない意味を持っていたからだ。
「……妻を」
 今日は、彼女の誕生日だから。
 続けた言葉にぱっと白百合の顔(かんばせ)が輝く。宝石の瞳からぱちぱちと星が弾けて、うっとりと傾げられた頬をやわらかな手が包んだ。
「まあ、まあ! やっぱり、そうなのね。あなたの声があんまり優しかったから、そうじゃないかと思っていたの!」
 きっととても素敵なひとね。と、こぼされた台詞にサンソンの顔にははにかんだ笑みが浮かぶ。彼女の足元で咲くビオラが小さく揺れて、不意に朧なはずの記憶が瞼の裏に浮かんだ。あるはずもないのに、頬を風が撫でた気がする。
 濃い緑の匂い。春の、土の香り。
「……野に咲く花のような。控えめで、けれど芯の強い、ひとでした」
 ありふれた時間が降り積もる、ささやかな幸福。
 記録にあっても記憶には遠い、それらのほとんどはもう曖昧なものとなっているのに。
「愛しているのね」
 白百合の王妃から返された言葉に顔を上げる。手を伸ばせば届く距離に陽の下で燦めく花のような笑みがあった。やわらかな睫毛が頬に薄墨の影を落とす。下げられた眦が淡く染まる。けれど春空の瞳に映る、己の相貌がどんな表情(かお)をしているのか──気づいた途端、息が詰まって。
「……マリー。どうか」
 許してほしい。と、絞り出した声音は微かに震えていた。縋るようなその声は同じ音を紡いでも慕情とは程遠い。目尻の熱に視界が揺れるのは、許しを乞うこの口が何よりおそろしいからだ。
 真白な花の向こうに、微笑む小さな野花の影に、妻の面影を思い出す。記憶の中の控えめなその笑みをいとおしいと思う。会いたいと、焦がれてしまう。
 今日という日に彼女の前でそう願うことの残酷さをわかっているのに、それでも。
「……そんな顔しないで」
 サンソンに呼びかけた王妃の顔は変わらず微笑んだまま、下げられた眉尻にただ慈しみを見て、とうとう彼は白磁の顔をくしゃりと歪めた。
「あなたがどれほどわたしたちを敬い、あのひとを悼んでくれたのか。今のわたしは、知っているもの」
「それは、」
 どこまでも澄んだその声に、反射的に開きかけた口に小さな手が伸びる。白い手袋を嵌めた細い指先が、吐き出しかけた言葉を遮るように唇に触れる。噎せ返るような花の香りがして、サンソンは小さく息を呑んだ。
 覆いつぶされるような、春の匂い。
「歓びも悲しみも、いつだってわたしたちの隣にあるの。誰かにとっての悲劇の日が、別の誰かにはかけがえのない日であるように」
 艶めく濃い緑の中で、大輪の花が綻ぶように少女は笑う。小さな肩の向こうでシンビジウムが眩しいくらい鮮やかに咲いていた。
 その言葉が、声音が、小さな光になってまたたくような。そんな刹那の幻を見て、サンソンは唇を噛みしめる。
 ──きっと故国の誰もが、こうして彼女に、恋をしたのだ。
「今日という日が、あなたたちにとって素晴らしいものとなりますように。ね、よかったら、もっとたくさん話してくださる? あなたと、あなたの奥さまのこと」
「……君がそう望むなら、喜んで」
 小首を傾げるマリーを前に、漸く彼もその顔に微かな笑みを浮かべた。
 脳裏に思い描いた最愛のひととの記憶を辿って、何から話そうかと紡いだ言葉は淡い光に滲む。
 本物の春の訪れはまだ遠く、それでも確かに色鮮やかな季節の足音が、彼らの耳に届いていた。