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あの日は雨が降っていた。
窓際で頬杖を突きながら何をするわけでもなく、雨脚の軌跡を眺めていたら、囁くように何かが流れ出した。
側にあるキーボード。スマートフォン。ビルのスピーカー。どれもだんまりを決め込んでいて音を流しているものは何もない。
しとしとと雨音だけが充満する空間に流れ込むのは、先ほどまで私が練習していたRe:valeのメロディーだ。
なんだ。音を醸し出しているのは、私自身じゃないか。
先ほどまで飽きるほど奏でていたメロディーだというのに、もっと続けてと言わんばかりに脳内のスピーカーがリピート再生をする。
それがなんだかおかしくなって、お腹の底から立ち昇るように笑みが込み上げて浮かんだ。
私はほとほと呆れるほど、音楽に毒されているのだ。
「君はなぜ、音楽が生まれたんだと思う?」
耳を疑った。
私は確かに「おはようございます」と挨拶をしたはずだ。ビジネスマナーに疎い私でも、出社をした際には朝の挨拶を交わすのが常識だという事は知っている。
けれどラウンジで遭遇したユキさんは開口一番、哲学みたいな質問を投げかけてきた。
理解が追い付かずやっとの思いで出た声は、我ながら気の抜けた「はあ?」という、疑問と疑心が入り混じったものだった。
「……っていうセリフがあるんだよ。森の音にね。知ってる?」
「森の音って、ユキさんが出てるあのドラマの?」
「そう。正確に言うと、次の森の音のセリフなんだけど」
『森の音(もりのね)』――……ピアノの調律師である主人公の、さまざまな人たちとの出会いや別れを描く、ヒューマンドラマ。
ユキさんが主演を務め、絶妙な心理表現が美しいと評判になった話題作だ。
収まらない人気の声に応え、長期休暇に備えた特番の制作が決定したとモモちゃんから聞いたのは、記憶に新しい。
「君はプロの演奏家だ。アドバイスしてあげるといいよ。きっと参考になるだろうから」
「……ユキさん、全然話が見えないんですけど。ちゃんと説明してください!アドバイスって誰にですか?」
「誰にって、決まってるじゃない。君の大好きな一織くんだよ」
「一織に?」
「次の特番に一織くんが出演するからだよ。昨日言っただろ」
「……聞いてません」
ユキさんは思い返す様に目を泳がせた後、再びこちらを見据えて言った。
「今、言ったよ」
テレビで見るような爽やかなアイドルスマイルが映った。「これでいいだろう?」と言う文字が透けて重なって見えている。
本当、ユキさんは私の扱いが雑過ぎると思う。
文句の1つでも言いたいところだけど今日はまだ始まったばかりだし、ここは受け流すことにしよう。
「一織が出演かあ。ピアニスト役ですよね?森の音って選曲もいいから楽しみです!きっと素敵な演奏が聴けるんだろうなあ」
「何を他人事みたいに。君が弾くかもしれないのに」
「……はい?」
・・・。点が三つ浮かぶ。
顔を見合わせたまま生まれた空白には、互いの口から漏れ出たクエスチョンマークが泳いでいた。
「ポチを吹き替え奏者として推薦してあげたんだよ。監督が気に入ってくれたら採用してくれるって。大好きな一織くんと共演のチャンスだ。やったね」
にっこりと。先ほどよりも煌びやかなアイドルスマイル2が届いた。
晴れ晴れとした笑顔につられ、思わずこちらの口角が上がっていく。
……前言撤回だ。
「ユキさんのバカー!!なんでいっつもそうなんですかー!!」
まるで犬みたいにキャンキャンと吠える私を、ユキさんは余裕綽々な涼し気な笑顔であしらう。その態度は火に油を注いだも同然だった。更に騒ぎ出した私を、どこからともなく駆け付けたモモちゃんが必死に鎮めようとするも、勢いは止まらない。
ため息交じりに怖い顔をして近寄る岡崎さんを目にして、ようやく私は我に返るのだった。
そんなこんなで期せずして一織の吹き替え奏者候補として名を挙げた私は、一昔前と同じようにクラシック曲と向き合う事となった。
毎日鍵盤に触れてはいるとはいえキーボードがメインになっている今、一刻も早くピアノの感覚を取り戻さなければならない。
「ということで一織、音楽室に行こう!」
「ということで、じゃないですよ。なんですかいきなり」
昼休み開始のチャイムと同時に一織の元へと駆け寄ると、呆れた声と目が返ってきた。
筆記用具と教科書の引き換えに顔を出したのはお弁当だった。
私の誘いなんてなかった事みたいにして、平然と包みを開こうとしている。
「一緒に音楽室で食べようよ!一織も練習しなきゃでしょ!」
「だからと言って急すぎます。あなた、事前のアポイントの重要性がわかったと、前に言っていたでしょう」
「いいじゃん!幼馴染なんだから!」
「親しき中にも礼儀ありという言葉、ご存じですか?」
「ふふっ。本当にお2人は仲良しですね」
降って湧いたように別の声が混じり、私たちは止まった。
声の方を見やると、ニコニコと穏やかな笑顔が目に入った。
「おはようございます、碓氷さん。今日は撮影のはずでは……」
「おはようございます、一織くん。思いのほか早く終わり時間が出来たので、登校する事にしたのですよ」
「そうですか。お疲れ様です」
碓氷紫――……『PaSTELLA』というグループに所属するアイドル。
気品のある佇まいと恵まれたルックスは多くの女性を虜にしている。
そんな彼はアイドルでもあり、私のクラスメイトでもあった。
そして『PaSTELLA』は、私の恩人である京歌さんがマネージャーを務めているアイドルグループでもある。
碓氷くんとはすごく仲が良いわけではないけれど、京歌さん繋がりという事で秘かに親近感を抱いていた。
そんなに頻繁に話すわけでもないから、一方的に、なんだけれど。
「これからお2人で音楽室に行かれるのですか?」
「そう!私、近々ピアノを弾く機会があるの。だから練習したくって」
「行くとは一言も言ってないんですけど」
「いいでしょ!たまには私のお願い聞いてくれたって!それにピアノにたくさん触れた方が一織のためにもなるんだし!」
「あの……よろしければ僕もご一緒させていただいてもよろしいですか?」
突然の申し出に目を真ん丸くして固まっていたら、「無理にとは言わないのですが……」と碓氷くんが付け足した。
この間を否定的なものと思ったらしい。
「構いませんよ」
先ほどまで難色を示していたというのに、一織は一呼吸おいてから承諾し、お弁当を片手に颯爽と教室を後にした。
あまりの変わり身の早さに理解が追い付かず固まっていると「橘さん、どうかしたのですか?」と碓氷くんが不思議そうにこちらを覗き込んでいた。
「う、ううん。ちょっとびっくりしただけ。行こっか!」
「はい!橘さんのピアノ、1度生で聴いてみたかったんです。京歌さんから聞いていたので」
「京歌さんから?」
「ええ。とても素敵な演奏をされると」
京歌さんがそんな風に言っていてくれたなんて知らなかった。
褒めてくれていた事が嬉しくて、つい頬が緩んでしまう。
碓氷くんと他愛もない言葉を交わしながら昼休み独特の喧騒が広がる廊下をかき分けていくと、ようやく一織に追いつく事が出来た。
「ねえ、なんで急に行く気になったの?」
横並びについて問いただす。こちらを一瞥したあと、何かを考えるように間を置いた。
数回咳ばらいを払った横顔は、ほんのり赤らんで見えた。
「ちょうどいい機会でしょう。お互いにね」
「お互い?」
含みのある言い方が引っかかった。
一織は小首をかしげてこちらを向き、「聞いてないんですか?」と言う。
聞いてない?何を聞いてないというのだろう。
「森の音に一織が出るんでしょ。その吹き替え奏者候補にユキさんが推薦してくれたって聞いたよ。監督に気に入ってもらったら使ってもらえるって。違うの?」
「そうですが、肝心な説明が抜けています」
「肝心な説明?」
「私の出演は、まだ確定ではありません」
「え!?どういう事!?」
目の前を紫色のシルエットが横切って、私たちの会話を遮った。
追い越した碓氷くんが音楽室の前に立ち、にっこりと、まるで王子様さながらな柔らかい笑顔を浮かべ、エスコートするみたいにこちらを待ち構えた。
「橘さん次第、なのですよ」
扉が遠慮がちに鳴いた。
太陽の光を受けて鈍く光るピアノが少しずつ顔を出す。
ドクンと心臓が大きく跳ねた。
「先ほどのお話を補足しますと、実はもう1人候補者がいるのです。橘さんの演奏と聴き比べて、どちらを起用するかを決めるそうですよ」
「オーディションって事かあ。でも、なんで一織の出演が私次第になるの?関係なくない?」
「なんでもその候補者が起用された場合、吹き替え奏者は不要なんだそうで」
「演技も演奏も出来るって事?すごいなあ。一体どんな人が……」
1つの既視感が、音楽室に踏み入れようとした私の足を止めた。
それは視線だった。
蘇芳色の瞳が私を捉え、静かにこちらを覗いている。
碓氷くんとは高校が初対面で、決して幼い頃に出会っていたわけではない。
けれど体が覚えている。煽るようなそれに、ゾクゾクと武者震いが走る。
そうか、彼は――……、
「碓氷くんなんだね、もう1人の候補者」
一見柔らかそうに見える眼差しの奥に潜むのは、紛れもない闘争心。
その闘志ともいえる熱い思いは、真っ直ぐに私へと届いた。
これは紛れもない、ピアニストの目だ。
「……はい。改めまして、この度オーディションを受ける事となりました、PaSTELLAの碓氷紫です。橘さんと競えるなんて、大変光栄です」
口調も仕草も柔らかいというのに、内に秘めるものはそんな生易しいものではないように思えた。
コンクールさながらの剝き出しのプライドに私の心は逸っていく。
私達を差した黒い反射光は、まるで挑戦者を照らすスポットライトのようだった。