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スマートフォンに浮かぶ時計の数字を何度も見ながら、とある商店街を足早で突き進む人物がいた。
細い路地に入り突き当りまで進むと、暗がりにぼんやりと灯る立て提灯と反射されて光る花色の暖簾に足を止めた。伺っていた情報と一致したそれを見て、少し乱れた息を整えると意を決して扉に手をかける。
引き戸は勢いよく引かれたというのに、行動とは裏腹にその顔には不安が入り混じっていた。答え合わせをするようにぐるりと店内を見回しながら後ろ手に戸を戻すと、ピシャリと閉まる音に重なって飛び込んできたものがあった。声だ。
「三月、待ってたよ!急に呼んでごめんね!こっちこっち!」
笑顔で手招きをする百を認め、三月は小さく安堵のため息を落とした。
案内されたテーブルの上には空のグラスや食べ掛けの器がいくつか並んでいて、飲み始めて数時間は経っている事が伺える。
軽く会釈をして、空いている座席へと腰かけた。
「こんばんは。すんません、遅くなって。ちょっと道に迷っちゃって」
「いいよいいよ!ここ、道は単純だけど少し奥まった場所にあるから迷っちゃうよね。そこがお忍びにはもってこいって感じで良くはあるんだけどさ!」
お絞りで手を拭きながら苦笑いを浮かべた。差し出されたメニュー表を一瞥する事もなく、「とりあえずビールで」と早口で注文をする。(せっかくURLを送ってもらっていたというのに自分の直感を頼りに突き進んだら遅れてしまった……とは言い出せなかった)
「申し訳ございません!私がお迎えに伺えばよかったのに気が回らず……」
「そんなのいいですって!月詠さんも今はプライベートなんですから変な気を使わないでくださいよ。それにしても噂通り本当に良いとこっすね!『花守』!」
三月の白い歯が光る笑顔に、向かいに座る月詠京歌の心苦しそうな表情に僅かな明るさが灯った。「ありがとうございます」と控えめなお礼を添えて小さく頭を下げる。
まるで自分が褒められたかのような態度に三月は親近感を抱いた。きっと自分でいう、実家を褒められた時と近い感覚なのだろう。
『花守』は京歌の祖父母が営む創作料理屋だった。カウンター越しには噂通り、京歌の面影が映る祖父母が爽やかな笑顔をこちらに向けてきて、その雰囲気にはどことなく六弥ナギを彷彿させるものがあった。
「急に呼んでごめんね、三月くん。今日も撮影だったんだろう?忙しいのに悪いね」
「いえ!むしろいいんですか?百さん千さんだけならまだしも、月詠さんもいるところにオレなんかが割り込んじゃって」
「水臭いなあ!オレ達、いつからそんな遠慮する仲になっちゃったわけ!?モモちゃん結構ショックなんだけど!」
「じゃあこれからも遠慮なく行かせていただきます!お疲れ様です!」
ビールジョッキを気持ちよく打つ。数回喉を鳴らし、とても晴れやかな笑顔で「うめーっ!」と泡髭をつけて三月は言った。鼻歌交じりに箸を取りお通しの作りを摘まむと、仕切り直す様に千が口を開いた。
「三月くんは聞いてる?『森の音』の話」
「一織と紫のどっちかが今度の特番に出演するってやつですか?一織に決まった場合は、吹き替え奏者に沙也がなるっていう」
「そう。さすが耳が早いね」
三月の大きな瞳を覗き込むような素振りで、身を乗り出して千は続けた。
「三月くんはどっちが選ばれると思う?」
思わずじっくりと味わおうとしていたお浸しを飲み込んでしまった。反射で体が後ろへ傾く。じりじりと押し寄せる圧力が三月をそうさせたのだ。しかもそれは1方向からではない。2方向だ。
「もちろん、ポチだよね?三月くんはよくわかってるだろう?あの子の魅力をさ」
「いえ、わかりませんよね?紫だって選ばれる可能性があると思いませんか!?」
「2人とも素敵な事に変わりはないけど、僕としてはポチを推すよ。なんたってあの子は”Re:vale”のキーボードだから」
「おっしゃる通り沙也ちゃんはRe:valeの曲をより一層素敵に魅せてくれます。けれど紫にもまた違う魅力があります。紫にもチャンスが十分……いえ、無尽蔵にあります!!!」
「2人とも落ち着いて!!ほら、三月も困ってるよ!?」
(なるほど。それでオレが呼ばれたのか……)
救いを求めるような百の目配せに三月は半笑いになった。
互いにアルコールが回って感情的になっているらしい。いつものような冷静さや仲睦まじさは何処へやら、まるで小学生の言い合いのような痴話喧嘩が広げられていた。
「ずっとこの調子でお互い引かないの。この場を収めるには沙也と紫、どっちも知る三月が適任だと思って……!ごめん!」
百が三月にこっそり耳打ちをする。
千と京歌は一頻り睨み合った後、火花が弾け飛ぶように顔を逸らした。
口になどしなくとも「フン!」という吹き出しが互いの口から漏れ出ている。
「まあー、オレとしては監督が気の毒っすね。どっちかを選ぶなんて無理だもん。沙也も紫も心に訴えかける演奏をしてくるんで」
数秒間をおいて、言葉を丁寧に選んで、けれど飾り気ない態度で言う。
そんな三月の言葉に双方の瞳が揺れた。
わかってる!とでも言いたげな、食い気味な顔である。
「オレも何度も同じような事、言ったよね……?」
百の寂しそうな声がテーブルの下へと隠れるように落ちていった。
「幼馴染の沙也も、後輩の紫も、どっちが選ばれても嬉しいです!どっちが選ばれても恨みっこなし!まあ、幼馴染としてはオレだけが共演できないってのはちょっと残念ですけど……」
ビールジョッキを片手に嘆く三月の頬は赤らみ始めていた。たった数口のアルコール。けれどそれは三月にとって、十分な影響を与える事が可能な量だった。
「やっぱり一織くんじゃなくて自分が選ばれたかったんだ?」
「そりゃあ、残念な気持ちがないって言ったら嘘になりますよ。だって、あいつがピアノを始めたきっかけはオレですし!」
「その節はどうも、大変お世話になりました。おかげさまでRe:valeは安泰です」
千が悪ノリをして頭を下げる。つられて三月も頭を下げた。
「でも、一織の方が適任なんですよね。オレよりも沙也のピアノと触れ合ってきたのはあいつだから……」
懐かしむように目を細め、グラスの中の泡が立ち昇る様を三月はしばらく見つめていた。吹っ切る様にグラスを煽り、気持ちよさそうに細く息をついて笑う。
「沙也も紫も、きっといい演奏を披露してくれます!オレ、すっげー楽しみ!」
眩しいほどの輝かしい笑顔につられ千も京歌も顔が緩み、くすぐったそうな表情で見つめ合った。温かく穏やかな空気が辺りを覆い、先ほどの緊迫したムードはすっかりと消え失せる。
(あっけなくこの場が収まっちゃった……オレ、不甲斐なくない?)
ただ1人、百だけが複雑な面持ちでちびちびとお酒を啜っていた。
まあ、場が収まるならいいか……。そう自分に言い聞かせ、別の話題を切り出そうとした時だった。
「でも実際、選ばれるのはポチだよね。なんたってこの僕が推薦したんだから」
百は引き攣った顔で思い出した。
目の前のダーリンにはアルコールの手が回っていて、その隣もまたしかりで、互いに冷静な判断を欠いてしまいやすい状態だという事を。
「それはいくら千斗さんでも聞き捨てなりません!」
召喚された助っ人はたった数口のビールで思考が鈍り始めたらしく、「どっちも違ってどっちもいい」などと言いながらうんうんと相槌を打っている。
何度目かわからない挑発と暴発した返しのやり取りに、百は深いため息をついて頭を抱え込むのだった。
何かを懐かしむ様に暖かいのに、切なくて。
偶然の出会いを喜ぶ様に、キラキラと煌めいて。
隠しきれずはっきりと輪郭が描かれていたものは"憧れ"の感情。
まるである日の一場面を切り取った様に、大切にしたためた思い出の風景が映る。
碓氷くんの音は、そんな音。
物語が透けて見える様に、語る音。
私にもこんな素敵な武器はあるのかな。
こんなにも心を打つ演奏が出来ているのかな。
そんな柄にもない事を考えた。
慣れない事はするものじゃない。
おかげで頭の中は色んな物でごちゃごちゃに溢れ返っている。
頭も心も酷く重たくて、パンクしそうだ。
「ずっと浮かない顔をして、どうしたんですか?」
事務所で練習を終えた私を送ってくれている最中、見かねた岡崎さんが横目で伺いながら言った。
赤信号に倣って車が停車する。エンジンが収まった車内にふと降りた沈黙は、私のため息混じりな弱音をよく響かせた。
「……自分の良さってなんだろうって、考えてたんです」
静寂を打ち消す様に飛び出たのは、盛大に吐き出す音。
予期せぬリアクションにショックを受けた。なんと、事もあろうことに岡崎さんは肩を揺らして笑っているではないか。あの優しい(けど怒るととっても怖い)岡崎さんが!!
「岡崎さん!青になりました!」
恥ずかしさでついムキになり、自然と口調が荒々しくなる。
「すみません。突然就活生みたいな事を言い出したものですから、つい……」と岡崎さんはうっすら涙を浮かべてアクセルを踏み込んだ。
数時間前、バンドメンバー達からもとてもよく似たリアクションを受け、私の心は荒んでいた。
こっちが真面目に悩んでいるというのに、なんて失礼な人たちなのだろう!
「沙也さん、お腹空いたでしょう。今日は特別にちょっとだけ寄り道しましょうか」
岡崎さんとは思えない珍しい提案に本能が食らいついた。
いつもなら過保護全開で、寄り道なんてもってのほかと言わんばかりにわき見もせず、事務所から最短ルートで自宅へと真っ直ぐ送り届けてくれる岡崎さんが何処かに寄ろうと言い出すなど、初めての事だ。
「行く!!お腹、ぺこぺこです!!」
心の尻尾が全力で揺れる。
こちらの返事を合図に滑らかな手つきでギアがチェンジされ、車は見慣れない道へ進んだ。いつもと違う風景が流れるように去っていく様に胸が小さく躍り、しばらく夢中で眺め続けていた。
そんな私の意識を引き戻したのは、いつのまにか車内に溢れたメロディー。
聞き覚えのあるそれは、Re:valeのライブ音源――……ゼロアリーナのこけら落としで披露された『Dis one.』だった。
Re:valeのキーボードとして初めてステージに立った、思い出の曲。
改めて聞くと私の音はずいぶんと不細工だった。
いびつで、粗削りで、ちぐはぐで。
当時を振り返ればこれが最善の音。出せる全力を注いだ音だったのだけれど、ずいぶんと未熟な音だと辟易してしまうのは、成長した証だと捉えるべきなのだろうか。
「……ユキさんは私のどこを気に入ってくれたんだろう」
「そうね。強いて言えば飼いやすそうだったから。癖はありそうだったけどね」
頬杖をついてこちらを見やるユキさんの頬赤らんでいる。これは珍しく酔いが回っているなあ、と呑気な感想が浮かび、泡のように弾けて消えた。
「……これ、本当のユキさん?」
「変な子。飽きる程僕の事見てきた癖に。ほら、黒子の位置、ちゃんと正しいところにあるだろう?正規版の千だよ」
この少しずれた返答は間違いない、正真正銘のユキさんだ。
いや、私が言いたいのはそうじゃなくって!!
「ここ、どこ!?」
先ほどまで岡崎さんの車の中にいたはずなのに、気が付けば全く身に覚えのない場所にいた。
作りからどこかのお店のお座席であることは間違いなさそうで、体には誰かのコートがかけられている。
「沙也ちゃん、おはよう!よく眠れた?」
「京歌さん!?」
ひょっこりと顔を覗かせたのは京歌さん。いつもより緩んだ表情でニコニコと笑いかけるその頬は、目の前のユキさんと同じように赤らんで見えた。
「ここは私の祖父母が営む『花守』ってお店なんだ。沙也ちゃん、ここについたと同時に眠っちゃったんだって」
「あ、なるほど……道理で記憶がかみ合わないと思いました……」
「三月さんがここまで運んでくれたんだよ」
「王子様みたいだったよ」と嬉しそうな笑顔で京歌さんが耳打ちをする。アルコールに入り混じった甘い蜂蜜の香りが鼻先をくすぐって、思わずドキリとした。向かいのユキさんからは決して好意的ではない視線がこちらにグサグサと突き刺さってくる、けれど。
「沙也、起きたのか!起きたなら起きたって言えよー!」
続いて現れたのはみっちゃんだった。それを皮切りにモモちゃん、岡崎さん――……京歌さんの面影のあるおじいさん、おばあさんもこちらに顔を出して来て、寝起きの頭にはヘビーな情報量が一気に舞い込んでくる。
整理する間もなく「はい!キヨさん特性、スペシャルチャージお茶漬けだよ!」とモモちゃんが我が物顔で料理を運んできて、「キヨさんの料理めっちゃ旨いから沙也も早く食べろよ!ほら口開けて!」といつの間にか横に着いたみっちゃんが子供に食べさせるように蓮華を私の口へと突っ込んだ。
1つ理解したのは、周りは酔っぱらいだらけという事だ。(岡崎さんとおじいさん、おばあさんを覗いて)
「…………おいひい」
「だろ!キヨさんの料理は本当最高だよなあ!」
みっちゃんがかき回す様に私の頭を撫でる。ぼさぼさになった髪を見て向かいのユキさんが白目をむいて吹き出した。酔っぱらいは不思議なもので、生まれた1つの笑いがどんどん連鎖して辺り一面に広がっていくのだ。
笑い方や程度の違いはあれど、ここにいる酔っぱらいの人達は皆、私の頭を見てお腹を抱えている。
……もう、どうでもいいや。
髪を直す事無く、黙々と目の前のお茶漬けを味わう。
あまりのおいしさに舌が唸った。練習でヘトヘトだったからか、尚の事おいしいく感じる。
こんなにおいしいお茶漬け、初めて食べたかもしれない。
「そういうところ」
ぽつりと、落とされたのは声。
穏やかな顔をしたユキさんが、こちらを見ている。
「おいしいときはおいしそうな顔をして、楽しい時は誰よりも楽しそうに笑う。君はそういう子だ。自分の思いをありったけの”君”を使って表現しようともがいてる。そういうところが気に入ったんだよ」
ユキさんのバカ。
普段はこんな事、口が裂けても言わない癖に。
酔っぱらってるってわかってるのにあまりにも真っ直ぐな目をして言うんだもの。
耳を疑う言葉ばかり並べるんだもの。
私、真に受けちゃうよ。
「僕を楽しませ続けてごらん。大丈夫。君になら出来るはずだから」
いつもの私だったら話半分で聞いてただろうけど、今日は信じてみたいって思った。
お守りみたいに心強く背中を押してくれたのは、確かだったから。
「今だってこうして僕を…………ブフッ」
再び白目を向けて大きく吹き出したユキさんの唾がかかり、思わず数秒前の自分に同情した。
純情をもてあそばれたやり場のないこの気持ちは、目の前のお茶漬けと共に飲み干してしまう事にしよう。
空になった器を見たら、ちょびっとだけスッキリとした気がした。