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ユキさんの言葉のおかげでカチコチに固まっていた肩の荷が下りた。難しい事は考えなくていいんだ。私は私らしく、私の音楽をただ表現すればいいんだ。
来たるオーディションの日に備えて、今はじっくりピアノに向かい合おう。

そう、決意を新たにした翌日の事だった。



「……なんていいました?」
「だから、事態が変わったんだ。予想だにしていない方向に、急激に、ね」

ユキさんはいつもよりも無表情に、淡々とした口調で言う。
私が聞き間違えていなければ、こう言ったはずだ。

「監督が変更になった?」
「そう。監督、階段から落ちて骨折したんだって。だから監督が別の人に代わったんだ。音楽の”お”の字もわからないような、気の合わないやつさ。当然、オーディションの話も白紙」
「嘘!?なんで!?」
「言っただろう。音楽の”お”の字も知らないようなやつだからさ。誰が弾いたって一緒だろうって、決定権を放棄したんだよ」

目の前が真っ白になった。意気消沈。
あれだけ気合を入れていたというのに、この仕打ちはあんまりじゃないだろうか。
私、碓氷くんと演奏バトルまがいの事までしたのですが。
いい感じに士気があがってきている最中だったのですが。

「こらポチ。勝手に自分の世界に入るのはやめなさい。ここからが本題だ。そんなわけで、決定権は僕に委ねられた」
「……へ?」
「バカな監督だよ。僕の方が音楽に詳しいだろうから、適当にいい人を見繕えだと。まったくいいご身分だよ。ポチもそう思わない?」
「辛辣な物言いもラブリー!だけどダーリン。もうちょっと説明してあげて。沙也、ついていけないって顔してるから」

会話に割って入ったモモちゃんが慌てて仲裁する。

「代打の猪俣監督はさ、悪い人じゃないんだ。過去、大ヒットのドラマを何本も書き上げてる。ここ最近だと『voice』とか、『最後の夏休み』とか、沙也も聞いたことあるでしょ?ただ、話づくりに傾倒しやすい人ってだけなんだよね。脚本、結構白紙状態だったらしいし……集中したいだけなんだと思う」
「え、でもユキさんが次の特番でこういうセリフが出るって言って……」
「うん。そのセリフ以外はほぼ白紙だったらしいよ。監督、よほど切羽詰まってたんだろうね」

制作の裏側を垣間見る、というよりだいぶ覗き見してしまった気がする。
耳を疑うような話だけど2人は至って取り乱すことなく話すので、これはきっとよくある話、という事なんだろう。

「ということで、ポチ。僕がキミを奏者に指名すれば一織くんとの共演が叶うということになったわけだけど……どうしようか?」
「どうしようかって……私が決められるんですか?」
「ああ、構わないよ。君が本当に望むなら、ね」

ユキさんの鋭い視線が私を捉えた途端、張り詰めたような空気が漂った。
その瞳はこちらを舐めまわすように私の上から下までを見やった。

「ユキさん、そういうのいいです。いちいち回りくどいことしないで。わかってるから」

こんな棚ぼたみたいな展開を望むわけがない。
そんな事ユキさんだってわかってるくせに、相変わらず意地が悪い。

「猪俣監督に見せつけてやりたいです。なぜ音楽が生まれたのか。その意味を、考えさせるきっかけを作りたい。音楽家の意地、見せつけてやる!」

ユキさんは「ええ、そうね」といつもみたいな口調で言う。
相変わらずのポーカーフェイスに浮かんだ些細な笑みは、いつもよりほんの少し嬉しそうなものに見えた気がした。










期せずして奏者の決定権を委ねられたユキさんからの提案はこうだった。

「僕と橘さんで連弾、ですか?」
「うん!ユキさんがセッティングするから、そこで披露したらどうかって。私たちの演奏を聞いたら監督も考えを改めるんじゃないかって」
「なるほど。ですが、なんで連弾なんでしょうか。演奏を聴いてもらうだけなら、当初の予定通り1人ずつ弾けばよい気もしますが」
「時間が限られてるからだって!一気に弾いた方が効率いいって言ってた!」
「身も蓋もない理由ですね」

碓氷くんは困ったように笑った。隣にいた一織は笑うことなく、眉間に皺を寄せて呆れ顔を浮かべている。
事情説明と、ユキさん・モモちゃんが練ってくれた作戦を伝えるために2人を音楽室へ呼び出したはいいが、期待していたよりも微妙な反応にこの作戦の遂行が危ぶまれた気がした。

「ほ、ほら!連弾ってなかなか聞く機会ないと思うし、猪俣監督にはインパクトでかいんじゃないかな!?私はすごいいい作戦だなって思った!」
「確かに一理あります。興味のない人に単調な演奏を聴かせるより、連弾のダイナミックな演奏を聴かせた方が響きやすいでしょう。しかし、素人が連弾を聞いて各々の力量を判断できるとは到底思えない。結果は変わらない気もしますが」
「僕も一織くんと同意見です。どちらかを決めてもらうことが目的ならば、連弾は相応しくないかと……」

的を射た発言が2連発、私ののど元に突き刺さった。
何も言い返すことが出来ない。でも、これを決めたのは私ではないのだ。

「……まあ、言っていても仕方がないですね。きっとRe;valeのおふたりのことですから、何か意図があるのでしょう。曲は決まったんですか?」
「う、ううん。今日、意見を聞いて決めようと思って。候補は挙げてきたけど」

予想よりもあっさりと一織が話の主導権を握ってくれたので、なんだか拍子抜けをした。
もう少し何か言われると身構えていたのに、一織は何事もなかったかのように話を進めてくれている。
冷静と言えば聞こえはいいけれど、私にはちょっと違うように思えて。

なんかちょっと、もやもやする。





「橘さん、どうかしましたか」

粗方の話が終わり一織は撮影があったので先に帰ったが、運よくオフだった碓氷くんは私と一緒に残って練習をしてくれることになった。
演奏を突然中断したかと思えば、私の様子を伺うように碓氷君がこちらを覗き込んでいる。
途端、ものすごく申し訳なくなった。
私の悪い癖。すぐ態度に出てしまうところ。
あまり親しくもない碓氷くんに感じ取られてしまうほどに、私は今普通じゃないようだった。

「ごめんね。ちょっと一織の態度が気になっちゃって」
「一織くんですか。別に変わった様子はなかったように思えましたが、何かあったのですか?」
「ううん。喧嘩したとかそういうのじゃなくて。なんか今日の一織、そっけないっていうか、我関せず、というか……自分は関係ないみたいな、事務的な感じに思えて。私の勘違いなのかもだけど」
「なるほど。全然気が付きませんでした」
「だよね。だから思い過ごしかも。ごめんね!なんか変な雰囲気だしちゃって」
「いえ。お2人はとっても仲良しですから、僕にはわからない何かがあるんでしょう」
「仲良し、かな」

ピアノの鍵盤を眺める。
そういえば昔、この教室で並んでピアノを弾いたことがあったっけ。
先行く不安に、変わりゆく関係性に抱いた歯がゆさが鮮明によみがえってくる。

「私、ピアノを始めたきっかけはみっちゃんだったの」
「みっちゃん……三月さんですか?」
「うん!みっちゃんに憧れてね。初めて手にした武器にしがみつくように練習したんだあ。気が付けば音楽そのものが大好きにはなってたんだけどね。そのしがみつくモチベーションを保てたのは、一織のおかげなの」
「一織くんですか?」
「うん。だって一織、昔から何でもできて勝てっこなくて!悔しいからピアノは絶対負けないって思って必死で頑張った。一織、あんな感じで痛いところつくでしょ?私の下手なところとか、ピアノの先生かってぐらい的確に指摘してくるんだよね」
「すごいですね。一織くん、ピアノを習ったことがないのに」
「本当すごいよね!でもあるとき思ったんだ。一織がすごいからじゃない。私の音をそれだけたくさん聞いてくれてるから、わかっちゃうんだって。気づいた時、すっごく嬉しかったの。私の音はみっちゃんと一織、2人のおかげで出来上がった音なんだって思えて」

そっか。だから私、もやもやしてるんだ。
私の演奏を他人事のように思ってる一織なんて、見たくないんだ。

「私の音は……一織が、」
「ストップ」

突然、物理的に言葉が遮られた。
私の口を覆うのは碓氷くんの手だ。

「その言葉は僕じゃなくて、ちゃんと一織くんに届けてあげてください」

私はかぶりを振る。
弧を描いた目元には蘇芳色の瞳が薄っすら顔を出して、小刻みに光を反射していて、とてもきれいだ。

「お2人は本当に仲が良くて、羨ましくなるほど素敵な関係ですね」

碓氷くんの柔らかな声が、驚くほどあっさりと、いとも簡単に私のもやをさらって行った。










その夜、スマートフォンに一件の着信が届いた。
一織は電話に応じる。声の主は、昔から聞きなれた幼馴染の声だった。

『一織、こんばんは』
「どうしたんです。こんな夜中に」
『森の音のことで話がしたくて』

時計の長針が短針とそろって頂点に立とうとする頃だった。
電話の主である橘沙也は一呼吸を置いて話し始める。

『あのね大切なところちゃんと説明出来てなったなって。今回のドラマ、奏者オーディションの話が白紙になったでしょ。だからね、』
「私と碓氷さんのキャスティング事態も白紙になる可能性が高いってことですか?」
『う、うん。小鳥遊さんから聞いたの?』
「別に聞かなくても考えればわかりますよ。流れ的に自然な話でしょう」

一織は言葉を留めた。本当は続けようとした言葉があった。
けれど彼女には言えなかった。言いたくない気持ち半分。そして、言ってしまえば後悔しそうな気がした、というのが半分だ。

「……なので次の連弾は、自分の事だけを考えて挑めばいいんですよ。変に気負う必要はありません」
『き、気負う!?』
「あなた、この間までは私のキャスティングも左右されるって話だったから、らしくもなく緊張していたでしょう。珍しく碓氷さんと自分を比べたりなんかして」
『ち、ちがう……いやそう……てかいましたい話はそうじゃない!』

一度温度感が上がった沙也だったが、深い呼吸をして一頻り置き、構えた声で続けた。

『君はなぜ、音楽が生まれたんだと思う?』

突然セリフじみた事を言い出したので、一織は意表を突かれた。
困惑し、反射的に眉間に皺が寄る。

『……っていうセリフがあるはずだったんだって、次の森の音に』
「突然何かと思えば、セリフですか」
『うん。私はこの問いの答えを、次の連弾で出そうと思ってる。きっと猪俣監督にも届く。もちろん、一織にも』
「今、言えばいいじゃないですか。監督には仕方ないにしろ、なんで私にまで」
『だって演奏で届けないと意味がないもん。そういう作品だから、森の音は。届いて、運よく私が選ばれたら、自ずと一織がキャスティングされるに決まってる!だから、応援しててよ』
「どうしてそこまで言い切れるんです?」

“私じゃなくて、兄さんじゃないんですか?”
先ほど留めた言葉が再びこみあげてくる。
卑屈な物言いを胸の奥まで押しやった。彼女が音楽の道を選んだきっかけは兄だ。
彼女の演奏には兄の面影がある。選ばれるなら兄がふさわしいはずなのだ。

それはきっと、彼女も同じ考えのはずで、



『だって、私の音を育ててくれたのは一織だもの』



彼女の声は、深夜の静寂に驚くほど響いた。
一織は言葉に詰まった。浮かんだ空白を、彼女の声が埋めていく。

『一織しかいない。私を表現してくれる人は、あなた以外見つからないもの』

真摯なほどに痛烈なプロポーズの様な告白を、沙也は恥ずかしげもなく言ってのける。
窓越しに除く藍色の空に無数の星が輝いているのを一織は見やった。
耳元で彼女が『おやすみ』と囁く。

「……ありがとう、沙也」

こちらのを聞き届ける前に通話が切れてしまったけれど不思議と焦りや不安はなく、心が満たされていく。
夜空の星がより一層輝きだしたかのように、一織には見えた。