轟はモヤモヤとした感情を抱えていた。
体験したことのない、訳の分からないもの。
けれど不思議と心が落ち着いて、暖かくなるもの。
この感情の名前は何だ?
轟はこの問題の答えをまだ導き出せていない。

校舎裏に行けば分かるかもしれない。
ふと浮かんだ考えを行動に移すことにし、轟は帰宅しようとしていた体の向きを変えた。

賑やかな喧騒から離れた静かな空間。
垣根や木々に覆われた、鮮やかな緑に囲まれた空間。
いつ来るかわからない猫を待ち、ただゆっくりと流れる時間。
頭の中に浮かぶ、校舎裏にある魅力的な要素。
轟は自然と足早になった。早くあそこに行きたいと体が訴えているようだった。
目の前に見えてきた曲がり角を曲がればいつもの場所につく。
そう思った途端、突然轟は自分の足が止まったことに気が付く。

俺は、どうしてここに来た。

最初は猫に会うためだった。
入学して間もなくして見つけた、ささやかな息抜きの時間だった。
それがいつしか自分の中で大きな生活の1部となっていた。
そしてそこにはいつもある少女がいた。

『轟君は……優しい』

透き通った声を思い出す。
ぶるぶると、背中に震えが走る。
ここ数日、苗字の投げかけた言葉は轟の体を震わせ、同時に轟の心を満たした。
それほどまでに苗字の言葉が轟は嬉しかった。

俺は、どうして……。

再び自分に問いかける。
その答えはわからない。
轟は意を決したように再び歩き始めた。
角を曲がり、轟の待ち望んだ暖かな空間に入る。


「……ニャー」

そこには猫がいた。
轟を目にし、甲高い鳴き声を鳴らした。
轟は黒猫を目にし、なんだか胸が締め付けられる思いになった。
その小さな黒い物体に近づき、視線を合わせるようにして体を屈める。
―――………はずだったのに。

轟を再び新たな感覚が襲う。
まるで誰かに操られているかのように、轟の足は動かずに立ちすくんだ。
目の前に座る猫はそんな轟をただまっすぐに見据えている。
また1つ、猫の口から鈴の音が響いた。
その鳴き声に、轟の口角が上がっていく。

パズルのピースが合わさるよう。
その比喩が、今の感覚に近いように思えた。
轟は目の前の黒猫に話しかけるように言う。

「お前、苗字だろ」

猫は相変わらず轟を見据えたまま動かない。
轟は微笑んだままゆっくりと目を閉じた。
風が木々を揺らし、葉の重なる音が静かに響く。
それがまるで合図だったかのように思えた。
轟が目を開くと、目の前には1人の少女の姿があった。

苗字名前。
轟がここで出会った、自分と似ていると確信した少女だ。

「やっぱりお前か」

猫の姿はなかった。
猫のいた場所に、苗字が佇んでいた。
再び吹いた風が苗字の髪を掬い上げるように撫で上げている。

「………どうして」

苗字の声音はまるで鈴の音を転がすように高く、耳障りが良い。
轟は少しだけ口角を上げて、言う。

「……声で分かった」

その表情はすっきりとしていた。
轟はずっと、この少女に会いに来ていたのだ。
猫に会っていても、苗字に会ていても、同じように心が満たされ、落ち着いていた事に気づく。

苗字は猫を見に来ているとは一言も言わなかった。
ソーセージはやめた方がいい、と言ったのは食べている張本人からの声だったのだと思うと、なんだかおかしくなって轟はまた笑った。
さっさと言えばよかったのに。
口下手にもほどがある。


轟の表情は驚くほどに明るくなっていた。
父親への激しい憎悪や、復讐心にも似た黒い感情が渦巻いていたあの頃は、まるで凍てついたかのように冷たい顔つきだったのに。
猫としての苗字。
少女としての苗字。
たった1人の少女が、轟を凍てつく心をあたため、溶かしていったのだ。

「……そっか」

そしてそれは苗字だけではない。
轟もまた、知らず知らずのうちに苗字をあたためていたのだという事に気がつく。

「轟君は変わってない。……ずっと前から優しい」

目の前の少女は柔らかい微笑みを浮かべていた。


2人は目を見合わせて笑った。
互いに笑い慣れてないからか、照れが混じっている。
ぎこちなく、不器用な笑顔。


なんとなく似ている気がする。


以前彼らが思った通りだった。
似たもの同士の彼らは、同じような笑顔を浮かべて、頬をほんのりを染めている。
吹く風が、彼らの髪をゆっくりとなびかせていった。




It's you, I recognized you by your voice.








melt
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