01


『悪い。……別れてくれ』
『えっ、』

あの雪の日。君の切羽詰まったような、思い詰めたように苦しそうな顔を今でも思い出す。どうしてなんて縋ることすらできなかった。そんなことをしても無駄だと、顔を見ただけでわかってしまった。


『……わたし、邪魔になってたかな』
『そうじゃない』
『でも、これからなりそう?』

突然突き放されたんだから、これくらいの意地悪を言うのは許して欲しい。そう思いながら彼を見上げると、凛はなんだか迷子の子供のように見えた。

……思い当たる節が全くないわけではなかった。ちょうどその頃、凛のお兄さんである冴さんがスペインから帰国した。お兄さんのことが大好きな凛はずっとそれを楽しみにしていたのに、彼はその日からお兄さんのことを憎んでいるようにすら見受けられた。そして今まで以上に────今までもすごかったけれど────練習に打ち込むようになっていた。正直ほとんどデートの時間はなかった。

でも別にわたしはそれで良かった。少なくても一緒にいられる時を楽しめればいいと思っていた。凛が頑張っているんだと思うと、それだけでわたしも毎日を一生懸命生きられた。凛の彼女であるということが、その立場を許されているということが、どれほどわたしの支えになっていたんだろう。

……だけど、凛にはそうじゃなかったらしい。


『……頑張ってね、サッカー。応援してる! まったくもう、こんないい女振るなんて後悔しても知らないからね』
『……ああ』
『体に気をつけて。元気でね』

泣きそうになるのをなんとか堪えて笑顔を作り、急いで凛に背を向けた。一歩踏み出すと同時に目の奥は熱く痛くなり、喉はきゅうっと苦しくなって、信じられないほど涙が溢れる。

凛は気づいていただろう。けれどももう追いかけてもくれないし、涙だって拭ってくれない。いつまでも続くような気がしていた幸せは突然ぶつりと途切れて、行き場のない思い出はわたしの体をさまよい続けた。

凛の彼女じゃなくなっても、わたしはちゃんと生きていけるんだろうか。こんなにも愛おしい君を恨むことも忘れることもできない。いつかもしどこかで出会えたら、そのときはまた恋をできないだろうか。最後に一度でいいから手を繋いでおけばよかった。君の体温を縁に生きていけるくらい、体に刻み込んでおけばよかった。

ひとりぼっちになったわたしに、冬の寒さが酷く滲みた。せめてもう、ずっと冬なんてこなければいいのに。


────君を失った痛みにはけして慣れないまま、それでも時は止まることなく毎日流れていった。世界は凛が好きなもので溢れている。有線で流れる君の好きだったアーティストの声、コンビニに入ると君がよく買っていたホットアイマスクだとか。君の好きな食べ物、君の好きな飲み物、凛を連想させるすべてにわたしはいちいち足を止めては傷ついた。

寒かった冬は終わり、やわらかな日差しに包まれると少し救われる気がしてきた。いつしかその陽は熱になり、ジリジリと焼かれているうちに、いつの間にか衰えて穏やかになってしまう。

夏の終わり、少し冷気を帯びた風にわたしはまたいろんなことを思い出して、欠片も忘れることができない君を想ってまた泣いた。



























「エッ! お母さんがぎっくり腰!? 大丈夫!? いや大丈夫じゃないか!!!」

永遠に続くんじゃないかと思うくらい暑かった八月はいつの間にか終わり、九月になった瞬間に「ここから秋でーす!」と誰かがスイッチを押したかのように肌寒くなった。
九月になってからどうにも気分が上がらない。肌寒くなったこともあるし、何より祝えもしない凛の誕生日が近づいているからだと思う。

そんなふうにナーバスになっていたとき、高校で出来た友達に「なんか最近元気なくない!? 映画見に行こうよ」と誘われた。しかもその日が九月九日だったので、一人でいたくなかったわたしは二つ返事でOKしたのだけれど。

……その子が見たがった映画が、ホラーものだった。何もそんな、真夏でもなくこんなちょっと寒くなってきたタイミングでホラー映画なんて選ばなくても……! と思ったけれど、その子の推しのアイドルが出るらしい。
OKしてしまった手前断りにくく、めちゃくちゃ自分を奮い立たせてショッピングモール内にある映画館に乗り込んだ……まではよかったんだけど。

その友人から「親がぎっくり腰になって動けないから今日は行けない」と電話が入ってしまったのだ。

「いいよいいよ仕方ない、気にしないでお母さんと一緒にいてあげて。え? いやウーン、その推しさんのことはわたしも見たいけど、一人でホラー映画はねえ……チケットはもったいないけど……」

もうすでに自分と友人のチケットは購入済で返金もできない。友人は自分の分はまた学校で払うと言ってくれているので別にいいが、悩むのは自分の分だ。
高校生のお小遣い的にお金だけ払って見ずに帰るのはもったいないよなぁと思うのだが、ホラー映画は本当に苦手なので一人で見るのはどうにも気が進まない。とりあえずお母さんのことを見ててあげなよとその子のの電話を切り、ハァ……とため息を吐きながらスマホを鞄に仕舞って顔を上げた瞬間。

目の前を通った背の高い、めちゃくちゃ顔もスタイルもいい、そして見慣れたその男にわたしは固まった。


「凛!?」
「!」

驚きのあまり素っ頓狂な声を上げたわたしにイヤホンを耳に差したままの彼もこちらを見て固まる。なんでこんなところに、と彼の顔が言っていて、わたしも全く同じことを思ったのだけれど……そういえば凛はホラー映画を見るのが趣味だったと思い出し、ハッとした。

「なんでお前、こんなとこ……」
「ねえ凛もこの映画見に来たんだよね!? チケットもう買った!?」

思わず言葉を遮って食い気味に聞く。すると凛はわたしの勢いに押され、首を傾げながら返事をしてくれた。

「は? いや、これからだけど……」
「じゃあチケット余ってるから一緒に見よ!! ね!?」
「はっ?」

イヤホンを耳から取ったままのポーズでいきなりなんだと驚く凛に、わたしは名案じゃん! と友人に渡す予定だったチケットを押し付ける。

「ほらこれ! わたしの隣でもよかったら! 一緒に見る予定だった子が急に来れなくなって困ってたの!!」
「……お前ホラー苦手だったろ」
「だから一人で見れなくて困ってんじゃん!」
「いやなんで苦手なくせに付き合ってんだよ、俺が誘っても絶対嫌がったくせに」
「そこは気にしない気にしない」

だめ? と聞くと凛はハァ……とため息を吐きながらわたしからチケットを受け取った。そのとき凛の指先がわたしの指を掠めて、心臓が思わずドキッと跳ねる。

……あれ、わたし、元彼(しかも振られた)相手にとんでもないことしてる?
いまさらそう気づいてももう後の祭りで、凛はもうとっとと売店の方へ歩き出していた。


「ほら、飲み物買うぞ。ポップコーンもか?」

そう聞いてくる凛はあの頃と同じように見えて、でも背がさらに高くなって体つきもがっしりして、……男の人になっていて。


「うっ、うん!」

思わず声を上ずらせながらわたしは凛の後をついていく。髪の毛とか服とか、ちょっとだけした化粧とか、変じゃないかな……そんなことを考えて、いますぐ鏡でチェックしたくなって、どうしたらいいかわからないままわたしはせめてと前髪を指先で整えた。

……また会えるなんて、こうして映画を見られるなんて、思ってもいなかった。こんなことあるんだなぁと、わたしはぎゅっと自分のチケットを握りしめる。

もしかしてわたしは夢でも見ているんだろうか。夢ならどうか、醒めないで……そんなことを思いながら、凛の横を歩いた。















『うわあああああ!!!!! 助けて!!!!! 助けて!!!!! 助けっ……!!!!!』
「ヒッ、」

前言撤回。前言撤回します。夢ならとっとと醒めてくれ、頼むから。

……あの後、凛とジュースやポップコーンを買ったわたしは、どんな会話をすればいいのか全くわからず気まずいまま着席した。何を話せばいいんだろうと頭を悩ませているうちにCMが始まって、「よかった始まった〜!」と安堵したのも束の間。

このホラー映画、めっちゃくちゃ怖いじゃんか!!!!!

わたしは友達の推し(めちゃかわアイドル)が開始早々呪い殺されるのを見て、えっもう帰っていいですかね……という気持ちになっていた。しかしわたしの右隣には相変わらず涼しい顔をしてじっと画面を見ている凛がいる。さすがに誘うだけ誘っといて一人で帰れない。でもこれ見るの、どう考えても無理なんですが?????

困ったわたしがどうしたものかとビクビクして顔を逸らしていると、凛の方から小さくため息が聞こえた。
何? と顔を上げると、画面の明かりに照らされた凛がじっとこちらを見ている。……相変わらず綺麗な瞳で、下まつげが長いな…………。

なんて思って一瞬恐怖を忘れていると、凛はそのままそっとわたしの手の上に彼のそれを重ねてきた。

え、と口にしそうになるも、次の瞬間には凛はもう真っ直ぐ前を見ている。久しぶりに触れた、少し骨ばっていて大きくて、案外あったかい……だいすきだった凛の手。

いつでも振り払えるような柔い力加減に、嫌なら離せという凛からのメッセージが伝わる。きゅう、と胸が苦しくなった。振った元カノにそんなふうに接するな。

……だけど。


「!」

これは、この映画が怖いせいだから。甲に凛の左手が重なった右手をくるりと反転させ、わたしは彼の指に自分の指を絡める。ポーカーフェイスの凛は顔はそのままだったものの、少しだけ驚いたように指先を揺らした。

わたしは何も言わず、一旦穏やかな日常パートへ移ったその映画に視線をやる。

何度も何度も繋いだ手。何度も何度も思い描いた手。それは今でも変わらないようで、少し大きくなったようで。

ああ、やっぱりまだ、大好きだなぁ。


そう思うと泣きそうになったから、早く怖いパートに戻ればいいのに……なんて思った。




















(お、終わった……!!!)

めちゃくちゃ怖い映画だったけれど、最後はちょっと感動できるシーンもあって、よかった。

最初は繋いだ凛の手のほうに意識が持っていかれてなかなか頭に入らなかったけれど、普通に怖いパートは怖すぎて死んだしそのままうっかり凛の左腕に縋るという失態まで犯した。久しぶりに振れてしまったその腕はめちゃくちゃ逞しくなってて一瞬怖さも飛んだし、「この人わたしと別れたあとマジでめちゃくちゃサッカーに励んでるんだろうな……」と思わされた。

……正直最初に見た時は、「あんな突然振ったくせに映画館で再会かーい! サッカーに集中したいんだろうなと思って身を引いたのにー!!!」と心の中で叫んでしまったので、ちょっと申し訳なく思う。……いやまあ、そんな気持ちも連続する怖いシーンで消え失せていたのだけれど、本編が終わってエンドロールが流れるのを見て思い出した。

っていうかいま流れてる曲、凛の好きなアーティストじゃん。だから見に来たのかなあ。映画、付き合ってたときたまに見に行ってたけど、一人でも来るんだ。凛と最後に行ったのっていつだったっけ? そうだ、たしかあれは凛の誕生日に…………


「えっ」

凛の、誕生日じゃん、今日。


「……なんだ。そろそろ出るぞ」

あまりの衝撃にめちゃくちゃ頭から吹っ飛んでいたんだけれど、そうだ、今日、凛の誕生日だったじゃん。それを思い出すと同時に明るくなるシアター。声をかけられたわたしは慌ててぱっと繋いだ手を離して勢いよく立ち上がる。

「あ、う、うん! いこっか」

……えっ、凛、誕生日に一人映画!? えっ……えっ、な、なんて寂しい男なの……!?!? マジ!? 絶対彼女いないじゃん……。

別れる時に理由を教えて貰えなかったから、95%はサッカーのためだろうと思いつつも、もしかしたら他にいい子ができたのかも……なんて落ち込んだりしていたのに。絶対彼女いないじゃんこの人! さらにかっこよくなったから高校で新しい女の一人や二人できててもおかしくないなと思ったけど、絶対!!! 彼女!!! いないじゃん!!!!!

そう確信すると、さっきまで手を繋いでいたこともあり変に勇気がついたわたしは、吃りながらも頑張って聞いた。

「こっ……、これからどうするの!?」
「久しぶりのオフだし買い物行く。先になんか食う」
「え、あ、そうなんだ……! そ、そっか、ふーん、ふーーーーん……」

これ、ついて行っていいですか!? って言っていいやつかな!?!?!? いい……やつかな!?!? だめかな!?!?!?

元カノが着いてくるのどう考えてもうざいよね……!? いやでもさっき向こうから手を握ってきたんだし、普通に隣に座ってくれたんだから、大丈夫!? わっわからん!!! Hey Siri!! 元彼 復縁 方法で検索して!!!!!


「……お前も来るか?」
「エッ!? い、いいの!?」
「別に。好きにしろよ」


おそらく一人で百面相をしていたわたしに凛はそう言ってスタスタと歩いていく。くーーーっ、くそっ、さっきも思ったけど後ろ姿もやっぱりかっこいい、そして本当さらに身長が伸びた!!!

胸を高鳴らせたわたしは上擦った声で勢いよく返事をする。

「うんっ!!!」

誰か、どうか、いまここで、……時を止めてください。













「おいひぃー!!! これおいひぃよ凛、食べる? あっ食べないか!」
「……食べる」
「食べるか〜!! どうぞどうぞ!!!」

そしてカフェに入って各々パスタを注文した。凛と一緒にこんな、デートみたいなことができてとても嬉しい。とても嬉しいんだけど、振られた上に未練たらたらな身としてはどういう感じで話したらいいのかわからずテンションが空回ってしまう。

昔はよく頼んだものを分け合ったりしていたのでうっかりそのノリで誘ったあと、いや別れてるのにおかしいかと慌てて訂正すれば彼は平然とそれを受け入れた。……何考えてるのかまったくわからないなあ、なんて思っていると「お前も食うだろ」と凛がテーブルの端にあった小皿に少量盛り付けてくれたのでわたしは有難くそれを頂戴した。美味しかった。

凛はもともとわりとクールな節があったけれど、なんというか、纏う雰囲気とか……ものすごく変わったように思う。クールを通り越して無愛想である。凛も凛で元カノとこんなことになってどうしたらいいのかわからないんだろうか、とも思ったけれどわたしのせいではない気がする。なんか本当に変わった。

……思い当たる理由なんてひとつしかない。多分、いや間違いなく、これはきっと。

「凛、サッカー頑張ってるんだねえ」
「……急に何だよ」
「なんか雰囲気変わったからさ。無理してない? 高校に入るとやっぱりいろいろ大変なのかな」

わたしにはわからないけど、中学と高校じゃ全然違うんだろう。そう思って聞くと、凛はもぐもぐとパスタを頬張りながら答えた。

「……別に。ぬるいくらいだ、国内のサッカーなんて」
「そっか。凛が目指してるのはもっと先だもんね」
「……」

凛のお兄さんである冴さんのニュースは、調べたりしなくてもすぐに目に入る。凛が冴さんを目標……いや、彼に勝つことを目標にしているのであれば、本当に国内のことなんて大したことは無いのだろう。

ああ、この人は。
やっぱりどんどん遠くにいってしまうんだなあ。


「……お前もなんか雰囲気変わったな」
「え、そう? そのままじゃない?」
「……前は化粧とかしなかったろ」

じっ、と凛がわたしの顔を見ながらそう言ってくる。えっそこ気になる!? とびっくりしていると、凛はなんだか不機嫌そうに続けた。

「服もなんか変わった気がする」
「そ、そりゃ高校生になったし多少はオシャレもしようとするよ……!」
「ふーん」
「なに、似合わない?」
「別にそうは言ってねーだろ」

じゃあなんだよう。むう、と口を尖らせながら凛のことを見つめると、彼は少し黙ったあとなんだか不機嫌そうに続けた。

「……今日誰と来る予定だったんだよ、映画」
「え? 高校の友達」
「女?」
「はっ?」

いや男なわけなくない??? と、凛と別れてからも一切他の男にときめかなかった自分が心の中で間抜けな声を出す。しかし次の瞬間、もしかしてという期待が脳内を駆け巡った。

「……男、って言ったら、嫌だって思うの? 凛は」
「……」
「いやまあ女の子なんですけど」
「……」

無言かーい。

なんか言えよ、と思いながらも黙りこくった凛にどう突っ込めばいいのかわからない。だってわたしが発する言葉なんて、全部未練になってしまう。

……成仏できない哀れな幽霊みたいなわたしだから、彼の一挙手一投足に勝手に意味を見出して、もしかして凛もまだ……って思ってしまう。振られたくせに。泣いていても、追いかけてももらえなかったくせに。

そのあと結局わたし達は一言も言葉を交わさないまま、なんだか味のしなくなったパスタを食べ終えた。









「あ、お会計わたし払うよ」
「は?」

そしてご馳走様、と立ち上がるタイミング。凛が昔同様伝票を持ったので、わたしがそれを取ろうとすると彼は眉を寄せた。

「え、だって今日お誕生日でしょ? おめでとう。なんか変にプレゼント渡すよりこれくらいがいいかなって思って。さっきドリンク買ってもらっちゃったしさ」
「……覚えてたのか」
「まあ、そりゃ」

驚いたように凛が少し目を丸くする。……付き合ってた男だし、っていうか今でも好きだし。心中ではそう続けたけれどそんなことは言えないので、どこかぶっきらぼうにそう答えてわたしはまた凛から伝票を奪おうとする。しかしそれはひょい、と軽々躱されてしまった。

「別にそんなこと気にしなくていい」
「えー、なんかお祝いさせてよ」
「……してくれるのはいいけどここですんじゃねぇ」
「そう? ていうか自分の分は自分で払……ちょ、早い早い」

払うから、と言い切る前にスタスタと凛は長い御御足でレジの方へと向かってしまった。……ご飯の会計、女に出させたくないタイプだもんねえ……。今時古風というかなんというか……。

付き合っていた頃は代わりに別途差し入れを持っていったりめちゃくちゃ糖質に気を使ってお菓子を作ったりしていたんだけど、今じゃそれも重いだろうしなあ。どうしたもんかと困っていると、会計中の凛に「外で待ってろ」と顎で合図をされたので仕方なく受け入れる。

そのまま店先で数分ぼーっとしていると、会計を済ませた凛がひょっこり出てきた。


「……ご馳走様でした。美味しかったです」
「ああ」
「なんかでも払ってもらいっぱなしは申し訳ないんだけど、欲しいものとかないの? あっそういえば買い物に来たんだよね」

ならちょうどいいじゃん、そこで何かお礼に……とわたしが言おうとすると、凛はそれを遮って突っぱねた。

「別にない」
「いや買い物来た人が欲しいものないわけないじゃん。なに買いに来たのさ」
「……CD、服、あとスポーツショップで消耗品」
「じゃあどれか買ってしんぜよう」
「だからいらねーって」

めんどくさそうに凛が息をつく。……なによ、嫌かね。そりゃまあ確かに元カノに形に残るものを渡されたら嫌か。じゃあご飯も誘わないでくれたらよかったのに。ご馳走なんてしなきゃよかったのに。

期待して、期待して、期待して、疲れる。いやまあ元彼相手に勝手に期待してるわたしが悪いんだけど。

こんなふうに嫌がられるのなら、わたしはとっとと帰ったほうがいいのでは。そう思って少し口を尖らせたあと、じゃあこのへんで、と口を開こうとした。しかしそれより先に、凛のほうが言葉を発する。


「……お前は今日その友達と何しに来たんだよ」
「わたし?」

予想外の質問に目をぱちくりさせる。なに? 何って言われても……。

「映画見て、ご飯して、ウィンドウショッピング的な? 服買ったり……」
「ふーん」

興味があるのかないのか微妙な声色で相槌を打たれた。いったいなんなんだ、と思っていると凛はそのまま続ける。

「んじゃそれ付き合うから俺にも付き合え」
「は?」

予想外の内容に慌てて凛を見上げた。相変わらず彼は表情を顔に出さないまま、わたしを見下ろしている。

「お前の買い物と俺の買い物。合わせたら一日潰れるだろ」
「?」
「お前の一日寄越せ。誕生日プレゼントに」

……それって、つまり。


「い、一緒にいたいの? わ……わたしと」
「……」
「ねえ、都合が悪くなると目に見えて口数減るのめちゃくちゃよくないと思う!」
「うるせぇ」

そう言って凛は先程同様とっとと歩き出してしまう。まずはCD屋な、などと言いながら。どうせあのアーティストのCDでしょ、と言うとよくわかったな、と返ってくる。

もしかして、もしかして、もしかしなくとも。

これは脈があると。そう思ってもいいのだろうか。
せめて、せめて、今日だけは。

君の彼女に戻ったような気になってもいいんだろうか───────。




















それからわたし達はCDショップに行って二人してさっきの映画で流れた曲を買った。スポーツショップでの凛の買い物も済ませて、いまはモール内でぷらぷらとウィンドウショッピングをしている。

凛は高校に入って更に背が伸びたことで着れなくなった服が出てきたらしく、なんでもいいから秋服を買いたいと言っていた。こういうのが欲しいとかないの? と聞いたらダサくなければなんでもいい、と言われて思わず笑ってしまう。まあ凛みたいなイケメンは何を着たってめちゃくちゃ似合いますからね。試しに入ったお店で「この服凛に似合いそう!」とわたしはキャッキャとはしゃいだ。

だって顔がいい男の服を選ぶの、楽しくないわけなくない?

これもいいなぁ、あれもいいなぁ、こっちも案外似合うかも、なんて次から次に凛にあてがって頭を悩ませる。すると凛は「お前さっきから選びすぎ」と呆れたように言って、わたしが選んだたものの中から気に入ったらしいパーカーとニットを持ってレジへと向かった。

……この服を着るときは、わたしのこと思い出してくれるかなあ。

なんて女々しいことを考えながら凛の会計を待って、次はわたしの番だ。凛はテキトーに入った店でぱぱっと服を買っていたけれどわたしはそうはいかない。いろんな店に入って選びたいというのが本音である。……けど、元カノの全力の買い物なんて付き合いたくないよなぁ、とちょっと悩んでしまう。

復縁を望まなかったとしても、凛に嫌な思いをさせたくないと切実に願うのは仕方がない。

わたしの買い物は今度また別でしようかなあ、なんて考えていたら凛が会計を終えて戻ってきた。


「じゃあ次はそっちの番な。どこ行きたい?」
「あ、う、いややっぱいいよ! せっかくのオフにわたしの買い物付き合わせるのなんて」
「そういうのいらねぇから。あ、あそこお前好きそう」
「えっ」

行くぞ、と凛が指差した店は確かにわたし好みの服が置いてあって。……ああ、ちゃんとわたしのことを、わかってくれているんだと嬉しくなる。


「さっき俺も選んでもらったんだから、変な気遣うな」
「……」

わかったな、と見下ろしてくる凛。ぶっきらぼうで無愛想な言い方だけれど、きっとこうでも言わないとわたしが楽しめないとわかってくれているんだろう。
……雰囲気は変わったけれど、こういうところ、凛のままで胸がきゅうっと苦しくなる。

好き、と思わず言いたくなる自分をなんとか押し殺して、うんっと元気に頷いてわたしは凛とそのお店に入った。












「これとこれならどっちがいいと思う?」
「俺はこっちの方がいいと思うけどお前はこっちの方が好きだろ」
「ムムっよくわかるね凛くん」
「顔に出てんだよ」

……凛との買い物は楽しかった。

一件目の店をぐるっと見終わった後は「どうせ他も見たいだろ」と誘ってくれるし。意見を求めたらいいんじゃね、とか微妙、とか普通に言ってくれる。そして付き合ってた頃みたいに「これ似合いそう」と選んでくれたりもした。

だからといって学生のお小遣いじゃたくさんは買えないから、最後の最後、迷った二着のワンピースで決断を凛に求める。どっちにしようかなぁ、と悩むわたしに、凛は首を傾げながら言った。


「お前が気に入ってる方にすればいいだろ」
「まぁそうなんだけどさ〜。……んー、でもやっぱり凛がいいって言ってくれた方にしようかな」

凛が選んでくれたものは、とてもかわいくて素敵だけれどわたしにはちょっと可愛すぎるかなと思ったワンピースだった。……でもこんなにかわいいものを、凛が選んでくれたという事実が嬉しい。もしも着る勇気が出なかったとしても、さっき買ったCDと一緒に宝物としてずっと大切に飾っていられると思う。

今日、君とこんなに楽しい時間を過ごせた証になるような気がする。


「俺に気を使ってるなら」
「違うよ。凛が選んだやつがいいの」
「……」
「これくださーい」

声をかけると、パタパタと可愛らしい店員さんがレジに小走りでやってきてくれた。

その会計をしながら、わたしは単純に、凛に選ばれたこのワンピースがちょっと羨ましかったのかもしれないな、なんて思った。













……そして、楽しい時間というものはすぐに過ぎ去って。買い物はすべて終わってしまった。
日も暮れてしまった。

秋の匂いがする。暗くなった空の下、もうわたし達に一緒にいる理由はどこにもない。わたしと凛は乗る電車も違う。このショッピングモールを出たら、わたし達には一緒にいる意味が無い。


「……そろそろ帰ろっかぁ」
「……そうだな」

切り出されるのが怖くて自分から言った。変なところで臆病になってしまったな、と思う。


「もう暗いし家まで送る」
「えっいいよ。凛忙しいだろうに、遅くなっちゃうでしょ」
「今日くらい、いい」
「……そう?」

じゃあ、お言葉に甘えて。とわたしはそれを受け入れる。けれども帰りの電車の中、わたしと凛は一言も会話を交わさなかった。


そうこうしているうちに最寄り駅についた。付き合っていたときはよくこうやって送ってもらった。こんなふうにまた君とこの地元の駅に来るなんて思ってもみなかった。昔を思い出してまた胸がぎゅっとなる。

「ここまででいいよ、改札出たらお金かかるし。ありがとうね、わざわざ来てくれて」
「いいっつってんだろ」
「でも」
「……今日一日寄越せって言った」

そう言われると、もうどうしようもない。じゃあ、ありがとう。わたしはそうお礼を言って、大人しく凛と一緒に改札を出た。

「……あんま変わんねーな、このへん」
「そりゃまあ、半年くらいしか経ってないし」
「それもそうか」

駅を出た凜が呟いたのを聞いて、そういえば、とわたしは思い出す。


「公園寄ってく? ほらあのいつもの。昔よく行ったじゃん」
「……そうだな」

そう、昔、帰るのがどうしても名残惜しくて、君と行った公園。

駅から公園までの道のりを二人しててくてく歩く。やっぱり会話はない。凛は何を考えているんだろう。

わたしが凛のことをまだ好きなのはもうバレバレだと思う。……凛も、わたしのことを、悪くは思っていないとも思う。でも、わからない。だってわたしはきっと、凛の中でサッカーよりもずっと軽い存在だから。

別にわたしはそれでもいいんだけれど。凛がそれを駄目だと思ったから、わたし達は別れることになったんだし。

時刻は19時。もう随分と暗くなってしまった。門限のことを考えるとあまり長居はできない。でも、まだ、凛といたい。……君もきっと同じ気持ちだから、こうしてここにいるんだよね?
そう確信はしているのに、どう切り出したらいいのかがわからない。重たい無言に包まれたまま、わたし達は公園へとたどり着いた。もう誰もいない、夜の公園。

「……懐かしいな」
「そうだね。わたしも久しぶりに来たや」

そのまま昔みたいに、端にあるベンチにそっと並んで腰掛ける。凛が持っていた荷物を自分の隣に置いた時、けっこうな音がしたので驚いた。

「凛これ重かったんじゃない? ごめんね、いろいろ買った後に付き合わせて」
「いや別に。これくらい全然」
「そう? ……なんかさらに鍛えた感じするもんねえ」

本当に頑張ってるんだね、としみじみわたしはまた言った。


「……偉いねえ、凛は」
「別に偉くないだろ」
「そう?」
「偉くなんてない。……あんな中途半端にお前のこと傷つけて、サッカーしてるだけだ」

凛が重たく言う。その声には罪悪感みたいなものが滲みていて。わたしはそれに思わず少し笑ってしまった。

「それで十分じゃない。サッカー頑張ってくれてるなら傷ついた甲斐がありました」
「……」
「だって、何かを捨てないといけないって思うくらい頑張りたかったんでしょう」

それでちゃんとサッカーしてくれてるならいいよ。わたしが心からそう言うと、凛はあの時と同じ……迷子の子供みたいな顔をした。


「……お前といると、甘えが出る」
「……」
「今日もこんな、ずるずるこんなとこまで……ダセェ」
「ふふ」

凛が苦虫を噛み潰したような顔をして言う。その本音が、わたしにはなんだかすごく尊いもののように思えた。

「……今日はありがとな。一日付き合ってくれて」
「こちらこそ、凛とまた一緒に過ごせて楽しかったよ」
「そうか」
「うん」

どこかで鈴虫の声が鳴る。ああ、本当に秋になったんだ。黙ったままの凛とわたしを少し肌寒い秋の夜風が撫でる。……もしもこのまま終わってしまったら、またあの寒い、冬が来る。

「……ねえ凛」
「うん?」
「もう一回は無理かなあ」
「……」

思わず溢れ出た言葉は、頼りなく掠れて震えていた。……凛の方を見れない。君の沈黙が痛い。

もう、あんな冬を、迎えたくないのに。


「……俺はお前を優先できない」
「わかってるよ。別に優先してほしいなんて思ってない。ぜんぶ凛の都合に合わせるよ」
「……んなことできるかよ。俺はサッカーが一番だし、絶対お前に寂しい思いをさせる」
「バカね。別れてるいまより寂しいことなんてないよ」
「……」

思わずちょっと強く言うと、凛は少し罰が悪そうに口ごもった。……君がずっと好きだった。諦めるなんてできっこなかった。忘れられなかった。好きで好きでたまらなかった。

「凛と別れてから、凛の好きな物を見るだけで苦しかった。凛と付き合ってる間は、どんなに会えなくても凛が好きな物を見たり聞いたりするだけで、なんだか励まされた気持ちになって毎日頑張れたのに」
「……」
「いいよ別に……なんでもいいよ。凛が会いたいときだけでいい、たまにちょっと顔見るだけでもいいし、三ヶ月に一回LINEするだけでもぜんぜんいい」
「……さすがにそれはもうちょっとするけど」
「だったら十分嬉しいよ!!!」

なりふり構わず大きな声を出すと、凛は驚いたように目を丸くしたあと少し気まずそうに言った。

「……どんだけ俺のこと好きなんだよ」
「めちゃくちゃ好きだよ」
「なんでそんな恥ずかしいこと言えんだよ……」
「だって好きなんだもん。ずっと我慢してたんだから、言える時に言わせてよ……」

そう言うと同時にこぼれ落ちた涙を、小さなため息をこぼした凛が優しく指先で掬った。

「……敵わねぇな」
「振ったこと後悔した?」
「ずっとしてた」
「素直じゃん」

思わず笑うと、凛の腕が伸びてきて、ぎゅうっとわたしは抱きしめられる。肺いっぱいに凛の匂いを吸い込んだ。この匂いを、ぬくもりを、わたしはずっと、ずっと待ってた。

「……好きだ。俺もずっと好きだった」
「……」
「……でも、兄貴を倒して世界一になるには何かを根本的に変えないといけないと思った。すべてを絶って、全部見直して、そうじゃないと頂点なんか取れねぇ。……いくらお前を想ってたって、大切にできなきゃ意味ねぇだろ」
「……凛」

わたしはぎゅっと凛の服の裾を握る。すり、と彼の首筋に頬を寄せた。


「わたしは凛を想うと、毎日頑張れる。エネルギーが湧いてくる。元気いっぱいになれるよ」
「……」
「時間なんて取れなくていい。恋人っぽいこともぜんぜんできなくていい。寂しい思いもしていいし、大切にされなくても全然いいよ」
「……ッ、そんな虫のいい話、」
「いいの。凛がいつか世界一のストライカーになって、これでもかっていうくらいサッカーして、もうそろそろいっか、落ち着くかって思った時に今までの分を埋めてくれたらいいの」

少し声を荒らげた凛を遮って真っ直ぐいい放つ。わたしを抱きしめる腕に力を込めたまま動かない凛の髪を撫でて、わたしは精一杯優しく言った。


「そのときいっぱい甘やかしてくれるなら、いまはいくらでもわたしに甘えていいんだよ」

会いたいときに会いにいくよ。会いたくない時や大変な時はちゃんと我慢するよ。凛のことを応援してるよ。誰よりもずっと応援してるよ。


「お前は、ほんとに……」
「……重いかな?」

恥ずかしくなって照れ隠しに笑う。すると凛はふるふると首を横に振った。


「……すげぇ頑張れる気がしてきた」
「ならよかった」


ふふ、と笑うと凛の腕の力が少しだけ緩んで、端正な顔がわたしの顔の真ん前にくる。おでことおでこをくっつけて、凛はきょう、初めて少しだけ笑った。


「もう一個プレゼントもらっていいか、名前」

薄い唇が久しぶりにわたしの名前を呼ぶ。そのあたたかい声色に、わたしはにっこり笑ってそっと口付けた。

柔らかなその潤った唇が触れるだけで、足りなかった全てが補われたような気がした。いまならなんだってできると、大袈裟じゃなくそう思った。ただそこに君がいる、それだけで世界は色づいていく。

きゅっと凛の手を握る。ぎゅっと握り返される。優しい眼差しをわたしに向けてまた少しだけ微笑んだ君に、わたしはもう一度キスをした。

君の願いが叶いますように