冴くんにナンパから助けられる話

東京は夜の七時。ならスペインはいま何時でしょう。答えは簡単、+8時間。つまりおそらく彼はいまベッドの中です。ふと時計を見る度にスペインの時間を計算するようになってしまった。クセを通り越して病気みたいだな、と自嘲する。冴のいない毎日なんてとっくに慣れているのに、こんな馬鹿げた自分には一向に慣れない。
わたしと同い年で幼なじみの冴は、サッカーの才能を見込まれて13歳で単身スペインへと渡った。そのときももちろん寂しかったけれど、日本にいても知ることができる活躍ぶりはわたしを励まして、彼が帰ってきたときにもっといい女でいられるようにと自分を奮い立たせることができていた。けれども出発から4年、久しぶりに帰ってきた冴を見てわたしは言葉を失った。なんだかあまりにも遠いところに行ってしまったみたいだったからだ。
不思議なもので、冴と会えなかった4年間よりも彼がスペインに戻ってからの数ヶ月のほうが辛かった。彼がさらに遠いところに行ってしまうんじゃないかと思うと怖かったし、また長く会えなくなるんだと思うと息苦しささえ覚えた。何があったのかは知らないけれど、冴の弟の凛まで人が変わってしまったようで、わたしだけひとり置いてけぼりにされたような気持ちだ。……なんて思いながらもわかっている。わたしはたまたま彼らの家の近くに住んでいただけの人間で、こちらはふたりを勝手に特別に思っているけれど逆はまったくそうではない。頭で理解しているくせに、心というものは厄介だと思う。
はぁ、とため息をついてわたしは足を進めた。今日は東京に住む従姉妹のお姉ちゃんの家に泊まることになっているのだ。社会人の彼女と本当なら晩ご飯も一緒にするはずだったけれど、トラブルの対応で残業が確定してしまったらしく先程謝罪の電話がかかってきた。交差点を渡った先にあるファストフード店で食事を取りながら彼女の仕事が終わるのを待とうか、なんて思いながら信号待ちをする。そのとき、突然左隣から声をかけられた。
「一人? よかったら一緒に晩ご飯行こうよ。奢るよ」
……ナンパだ。こんな人のごった返すトーキョー、ぼーっと歩いている若い女なんて格好の餌食だろう。面倒だな、と顔を背けて無視をするも赤信号では逃げ場がない。男は懲りずに話しかけてきた。
「ね、このへんにすごい気に入ってるところあってさ! あっもし君が食べたいものとかあるなら合わすけど。だめかな、ねえちょっとでいいからこっち向いてくれない? 時間ないかな」
「急いでるんで………………っ、」
「あ、やったー顔見えた。かわいいね」
鬱陶しい、と思いながらその男に断りを入れようとして一瞬固まる。背格好や髪型が、少し冴に似ていた。鼻の形も近いかもしれない。いや、冴のほうが100倍かっこいいんだけど。
「どうしたの? ぼーっと俺の顔見て……あっ俺けっこうカッコイイって言われるんだけど気に入った?」
「……違います」
「なんだー残念。でもせっかくだし名前くらい教え……」
「っ、しつこ……」
「しつこい」
男はいつまでも食い下がり、その上わたしの肩に触れようとしてくる。その手から逃れようと反射的に体を動かした時、急にぐいっと右方向に引き寄せられた。えっと驚くよりも先に聞き慣れた声がして、理解するより前に耳から勝手に浮かれてしまう。……いまわたしの肩を、抱いているのは。
「どっか行け。警察呼ぶぞ」
「っ、なんだよ男連れかよ」
「……冴」
至極面倒くさそうに舌打ちをする彼に、心臓がバクバクと音を立てるのがわかる。え、冴が、助けてくれた? ……ていうかうそ、日本にいたんだ。驚きすぎて固まっているわたしに冴は不機嫌そうに声をかける。
「何やってんだ。ナンパなんかまともに会話すんな、ぼーっとしてるから付け入られるんだろ」
「……ご、ごめん。冴に髪とか似てたから、つい」
「…………あんなんと一緒にすんな」
苦虫を噛み潰したような顔で彼は言い、わたしから腕を離す。距離に変わりはないというのにたったそれだけのことが寂しい。その体温に縋りたくなる自分をなんとか振り払って、口を開いた。
「日本にいたんだ。いつから?」
「一昨日。パスポートの更新に帰ってきた」
「帰ってたなら教えてよ」
「どうせすぐ向こうに戻る」
「……そっか」
わたしは冴に少しでも会えたら嬉しいけれど、彼はそうではないのだろう。まあ帰国のタイミングって忙しいだろうし、わたしなんかに使っている時間はないんだろうな。そう思うとなんだか胸の奥が沈むような心地がする。しかしそんなわたしの気持ちなんてつゆ知らず、冴はわたしに聞いてきた。
「お前はなんで一人でこんなとこにいるんだ」
「従姉妹のお姉ちゃんの家に泊まることになってて、でもお姉ちゃんが仕事のトラブルでしばらく一人で時間潰さないとで……」
「そうか」
興味なんてなさそうな素っ気ない相槌が返ってくる。そりゃそうだよねと苦笑するも、なんだか凹んでいる自分がいた。何を話したらいいのかもわからないまま信号が青に変わる。ちょうどいいや、とわたしは彼を見上げて手を振った。
「じゃ、わたしお姉ちゃんが来るまで喫茶店かどっか入ってるからバイバイ。さっきは本当にありがとう」
「……一人じゃ危ないだろ。一緒に飯でも食うか」
「いいよ、忙しいでしょ? ……じゃあ、体に気をつけて頑張ってね」
ここで別れたら、次に会えるのは数年後なのかもしれない。そう思うと悲しくてたまらないくせに、会いたかったなんて言えるわけもない自分が情けなくて悲しくなる。目の奥がカァッと熱くなり、このままでは泣いてしまうとわたしは慌てて足を踏み出した。こんなめんどくさい感情がバレてしまったら、「会う必要のない女」から「会いたくない女」にまで落ちてしまうかもしれない。さすがにそれだけは、と自分に言い聞かせて唇を噛んだ。しかしその時また、彼に肩を抱き寄せられる。
「うわっ」
「……なに泣いてんだ」
「泣いてない」
「拗ねてんのか」
「拗ねてな、っ」
せっかく虚勢を張っているのに、わたしのおとがいは冴に持ち上げられた。そのエメラルドブルーと目が合った途端、抵抗虚しくぽたりと一粒涙がこぼれ落ちる。あっと思う間もなく、冴がそれを指先で壊れ物に触るように優しく拭った。
「……会いたくなかったわけじゃない」
「え? ……っ、」
次の瞬間その瞳は細められ、どんどんわたしに近づいてきた。こんな人通りの多い交差点の片隅、行き交う人々のノイズがやかましい中、気づいたらわたしの唇には柔らかくて潤った冴のそれが押し当てられていた。時が止まる。
「……一回会ったら次も早く会いたくなるだろ」
「………………」
状況を飲み込む前に終わられたキス。唇を離して言われた言葉すら咀嚼できずに惚けていると、冴はわたしの手を取ってそのままずんずん引っ張っていった。
「飯食いに行くぞ。和食でいいな」
「……うん」
さっきの言葉は、口付けは、つまり。肝心のことは教えてくれない言葉足らずの君に歯噛みする。けれども繋いだ手のひらの体温から漏れでる熱に浮かされて、夜風はこんなに冷たいのに体中茹だるようだった。

本当の愛に気づいている