ダダイズムすら破壊して

『ねぇ名前、今すぐ8000万用意してくれない? それがないとママ本当に困るの』

 母親からの電話の用件が金の無心以外だったことなんてないのに、どうしてわたしは通話ボタンを押してしまうんだろう。

「……つい最近5000万送ったところなのに、まだいるの?」
『ハァ!? ママがいるって言ってるんだからいるに決まってるでしょ!? そんなこともわかんないの!?』
「……ごめん。ちょっと確認したかっただけ。用意するよ」
『そ。ならいいのよ、よろしくね。やっぱり名前は自慢の娘だわ! ママ本当に苦労してあなたを育てたかいがあった』
「……」

 歌うように言ってママは電話を切った。それにため息をつきながら電話をポケットに仕舞う。
 ちょうどゲームが終わったところで、無事に勝った上に今回は相手も差し押さえをされず、怪我の治療もできる程度に余裕のある人だったから、安心して美味しいものでも食べようと思っていたのに完全に食欲がなくなった。
 でもこうしてはいられない。早くお金を渡す用意をしなくちゃ……。

 そう思っていたときだった。

「きゃっ、」
「! わりぃ……大丈夫か?」

 曲がり角で大きな体にぶつかって吹っ飛ばされる。うっかり尻もちをつきながら、どんな人にぶつかったらこんなに飛ばされるの……と目の前の人物を見たとき。
 明らかに鍛えられているがっしりとした恵体に、金髪に青い瞳の綺麗な男性がいて一瞬見とれた。しかしその直後、わたしは別の悲鳴を上げる。

「あなた、血がっ……!」
「ああ……さっきのゲームでやられた。それよりお前、立てるか?」
「大丈夫。あなたの怪我と比べたらこれくらい……! 治療費がないの? 差し押さえはされなかったみたいだけど……」

 右手から多量の血を流す彼にオロオロしながら声をかける。ハンカチで押さえてはいるようがもう変色するくらい血に染っているし、衣服にまで血飛沫が飛んでいた。そんな人にぶつかってしまって申し訳なく思う。

「……あー、気にすんな。とりあえずお前が大丈夫なら、俺は」
「でもこのままじゃ右手に何かしらの障害が残るかもしれないし……! もしお金がないんだったらわたしが払いましょうか?」
「ああ? いいよンなもん。それに金がなくて治療しなかったわけじゃねえ」
「?」
「……とにかく放っといてくれ。吹っ飛ばして悪かった」

 そう言って彼はスタスタと歩いていってしまった。
 ……差し出がましい真似をしてしまっただろうか。怪我人なんてここにいれば見慣れてもおかしくないはずのに、やっぱりいつまで経っても苦しみに耐える人間を見るのは胸が痛む。
 でもだからって人にはそれぞれ事情があるのに、初対面で深入りしてはいけないよな……と反省しながら立ち上がって埃を払った。
 わかってはいたけれど、改めて自分がここでのギャンブルに向いていないんだと思い知らされる。

 ……にしても、あの人。お金があるのなら、どうして治療をしなかったんだろう。
 それにあの眼差し。……ゲームに負けたひとはみんな、もっと勝者への恨みでいっぱいになっていたり、絶望や悲観、自棄で歪んだ顔をしているのに。

 あの人は、なんだか。
 前に進もうともがいて、燃えているみたいだった。そう、直前の敗北すらも、糧にするみたいに───────。

「…………」

 あんなふうにわたしも前を向けたら、このどうしようもない人生ももう少しまともになるんだろうか。
 わたしは思考を放棄したまま金を稼ぎ、母に渡し続けている。……だって何かを考えてしまったら、マシになったはずの日常すらも、新たな地獄に形を変えるとわたしはわかっていたから。





『ねぇいますぐ2億ほしいの。届けてくれない?』
「えっ……」

 その一週間後の朝、あと五時間でゲームが始まるというときにかかってきた電話にわたしは目を見開いた。

『あんたなら用意できるでしょ? 2億くらい。それがないとママ本当に困るの』
「っ……でき、るけ、ど。2億円もママに渡したら、掛け金が足りなくて……次のゲームで負けたとき、差し押さえられる……」
『負けなきゃいいじゃん。バカなの?』
「っ…………」
『差し押さえられたってオークションに飛ばされるだけなんでしょ? どうせそういう目的のオッサンに買われるだけよ、あんたも慣れてるじゃない。そもそも店でいろんな男を相手にするよりずっとマシでしょ!? ママはあんたのために、あんたなんかよりずっと酷いところで……』
「わかった、わかったから! ……ちゃんと2億、用意するから…………」

 昔の話をしないでほしい。仕事に疲れたママに、血を吐くほど暴力を振るわれたことや、何人か前のママの彼氏とママに身体を売らされていたことを思い出すから。

 でもそれはぜんぶわたしが悪いんだ。わたしを産んだせいで、身ごもったせいで、ママの人生はめちゃくちゃになっちゃったから。
 だけどママはわたしを愛しているからこの歳まで育ててくれた、だから、だから
……。

 ……そう言い聞かせるだけで我慢ができるような年齢はもうとっくに過ぎ去ったのに、暴力を振るっておいてどの口がそんなことを言うんだと今なら思うのに、結局何も言えない自分はクローゼットの隅で怯えていた頃から何も変わらないんだろう。

 わかればいいのよとママに電話を切られた後、わたしはぎゅっと拳を握って、でも逆らえるわけもなくてスマホを操作した。
 そして連絡先のページをタップして、梅野さんに電話をかける。

「……あ、もしもし。はい、名字です。あの、いつもすみません。母に2億持って行って欲しくて。はい、なるべく急ぎで……ありがとうございます」

 梅野さんはわたしの事情に深く立ち入ってこない。うちがどうかしているということはよくわかっているだろうけれど、顔色ひとつ変えずに依頼をこなしてくれるので楽だった。
 でもそんな彼が、『一点ご承知いただきたいことがございます』と珍しく口を挟んできた。

『名字様はこの後試合が控えております。2億円お使いになられますと残高が5258万円になり、掛け金によっては負けた場合身柄を差し押さえられる可能性があります』
「……はい、もちろんわかってます。よろしくお願いします」
『かしこまりました』

 電話を終えたわたしはため息をつき、化粧をするため顔を洗いに洗面所へ向かった。2億円失っても5000万以上口座にある人間が住むには狭すぎるだろう1LDKのマンション。下手を打てばもうここにすら帰って来れなくなるのかもしれない。そう思いながらぼんやりと家中を見渡す。
 ……でも勝ったところで、延命措置でしかないのだろう。わたしにギャンブルは向いていない。幼少期から大人の顔色をうかがい続けてきたせいで少しだけ他人の感情の機微に敏感なだけなのだ。

 ワンヘッドの人間だって最初は5スロットから始まる。4リンクでの試合がいつまでも簡単なものであるとは限らない。
 まあそういう意味では、母にすぐ金をせびられるから、いつまで経ってもハーフライフに上がれないのは自分の身のためなのかもしれないけど。

「………………」

 いつまで。
 いつまでこんな生き方をすればいいんだろう。

 母に怯え、ギャンブルで勝ち相手を苦しめることにも怯え、負けることにも怯え。変わらないまま、同じことを繰り返したまま、一生生き続けるしかないのだろうか。
 ……いつまで? 一生? ママが死ぬまで? それともわたしが死ぬまで???

 身支度を整えた頃、梅野さんから仕事を終えた旨の連絡があったけれど、ママからはメールひとつ届かなかった。
 2億円という大金ですら、わたしから奪ったものになんの価値もないんだろう。

 だってわたしはママの子供で、子供のものはすべて親のものだからだ。



 梅野さんと一緒に会場まで歩く。途中、差し押さえられたらしい人とすれ違った。「親に連絡させてくださいよォ、母親とかマジ俺のためならなんでもしてくれると思うんスよォ」なんて情けない声を出している男は悲壮な顔をしていた。
 ……そんなに素敵なお母さんがいるのに、どうしてこのひとはこんなところで自分を不幸だと嘆いているんだろう。

 わかってはいたけれど世界は不平等だ。

 ああ、なんだかもう。
 何もかも嫌になってきたな───────

「こちらのお部屋になります」
「はい」

 ぼんやりしているうちにゲームを行う部屋に着いたらしい。中から人の気配がしたので待たせてしまったことを申し訳なく思いながら中へ入る。
 会釈しながら入ったため反応が遅れたが、先に向こうが「あ? お前……」と声をかけてきた。それに顔を上げると、先日廊下でぶつかった男性がいる。

「あなた……。そう、今日の相手はあなたなの」
「…………」
「お知り合いですか?」
「いえ、前にすれ違っただけです」

 梅野さんに聞かれて答えると、そうですかと返事がきた。ではゲームの説明に移ります、と言われたのでお願いしますと言いながら席に着く。
 すると目の前の彼に話しかけられた。

「……女のギャンブラーなんて滅多に見ねぇからもしかしてとは思ったが、やっぱりか。こんなことやめたほうがいいんじゃねえのか、ひでぇツラしてんぞ」
「あなたこそ、治療もしていない右手が痛んで集中できないんじゃないの?」
「こんなもんただのかすり傷だ、ゲームに支障なんかねぇよ」
「そう。ならよかった……じゃあ始めましょう」

 そう言って梅野さんに目配せをすると、彼は頷いてゲームのルールを説明し始めた。選ばれたのは4リンクでよく使われるゲーム。わたしも数度プレイしたことがあるし、相手の様子もそうだった。彼も4リンクの常連なんだろう。

「では、スタートです」

 説明のあと梅野さんがそう言って、ゲームが始まる。早く終わらせて、帰って泥のように眠りにつきたいと思った。





 ……勝てるな。

 1ラウンドをプレイし終わったところでわたしは確信した。

 なんなんだろうか、この人。戦い方に違和感がある。
 ぎこちないというか下手というか、違和感があるというか。

 そう思いながら前に座っている獅子神さんとやらを見つめると、彼自身焦っているようだった。
 わたしはそれを見て口を開く。

「わたしが女だから手心を加えてくれてるんですか?」
「……」
「あなた、普段はイカサマやズルをして確実に勝ちに行くタイプでしょう。でも今回はそれをしていない。……舐めてる以外、何かあるの? あなた、このままじゃ負けるけど」

 静かに問うと獅子神さんは一瞬……ほんの少しだけ眉間に皺を寄せた後、笑顔を作った。そして堂々とした振る舞いで悠々と語る。

「別に。お前程度にイカサマなんてする必要ねぇだけだ」
「……」

 この人は素直だ。ギャンブラーには向いていないと思う。
 この言葉、やっぱり普段はイカサマを働いて堅実に勝っていたんだろう。でもわたしには仕掛けてすらいない。それも、わたしに「バレる」と踏んで……ではなく、最初から仕掛ける気すらなかったようだ。

 それが意味するところはつまり。

「その傷を与えた人とのゲームは、そんなに有意義だった?」
「!」
「あなたのゲームスタイルを変えるくらい、素敵な人だったの?」
「…………」
「いいわね」

 そんな人に出会えたことも、人との出会いで変われる貴方も。

 そう思ったとき、わたしは完全に戦意を失ってしまった。
 だってわたしはゲームを嫌々続けているだけで、勝ったところでたいした喜びもなければ負けたところで母親に支払う金の心配をするくらいなのだ。
 ……誰かとの出会いで、自分の何かが変わることなんて一度もなかった。

 そう、わたしは変わらない。
 一生変わることはないだろう。

 子供の頃からずっと母親の奴隷だった。誰に救いの手を差し伸べられても逃げることなんてできなかった。この先もずっと変わらない。この先もずっと変われない。

 ……いつかとんでもない強者と出会って、負けて、別の地獄に突き落とされるくらいなら。
 少しでも素敵だと思ってしまったこのひとに、この地獄を終わらせてほしい。

 そう、思ってしまった。





「ゲームセット! 獅子神様の勝利、8000万獲得です」
「ッ……ふざけんな! わざと負けやがって、どういうつもりだ!!」
「……」

 試合終了のアナウンスがされる。幸いなことにどこにも怪我をすることはなく負けることができた。これでオークションに行っても若い女としてそこそこの価格がつくだろう。あとは変な人間に買われないことを祈るのみだ。

 高らかに勝者の名前が宣言されたのに、勝った本人は納得いかない様子でわたしに吠えた。ゲーム中何度も「真剣にやれ」「ふざけてんのか」と怒られていたから仕方ないのだけれど。

「名字様の所持金、それから融資できる金額を合わせても今回の掛け金に及びません。差し押さえ措置を取らせていただきます」
「はい。支払えなくて申し訳ないです。お手数おかけします」
「おいおいおいおい!」

 梅野さんに淡々と説明されて、頷き立ち上がると獅子神さんが大声を出した。それに緩慢な仕草で視線をやると、彼はそのまま捲し立てる。

「なんでわざと負けた! 差し押さえられるとわかってたんだろ!? それなのになんでっ……」

 心底理解ができないという様子の彼に、少しおかしくなってしまう。そしてわたしはクスリと、少しだけ笑った。

「この地獄を終わらせる相手はあなたがいいなと思ったから」
「ッ……!」
「それだけ。嫌な勝ち方をさせてごめんなさい。これからも頑張ってね……あなた、強くなるわ」

 じゃあね、と頭を下げて彼に背を向ける。逃げないよう拘束するのが決まりなんです、という梅野さんに頷いて両手を差し出した。
 そのとき獅子神さんが立ち上がり、一段と大きな声を出した。

「オレが買う」
「!」

 その言葉に驚いて振り返ると、彼は小さく舌打ちをする。そしてこちらに歩み寄りながら苦々しげに続けた。

「クソッ……もうこういうのは終わりにしようと思ってたのに……! ッ、お前! どんな事情があるんだか知らねぇけどなあ、オレを言い訳に逃げるんじゃねえ!」
「…………」
「何が地獄を終わらせるだ、ふざけやがって。差し押さえられた人間がどんな目に合うか知らねぇわけねえだろうが! ……ッ、それより今の方が嫌だっつーのか」
 
 どう答えていいかわからない。しかし俯くわたしに、無言は肯定だと取ったらしい獅子神さんは続けた。

「とにかくいいか、お前はオレが買う。オレがこれからお前の主人だ」
「……!」

 その言葉は、なんだか。途方もなく眩しい、キラキラした宝物みたいに思えた。

 ……これからは、獅子神さんが、わたしの主人。
 もう、母は必要ない。

「……わかりました。ありがとう」

 このひとがどんな人かもわからないのに、どうしてか胸がほっとする。わたしを買うような人間にろくな人はいないと知っているのに、それでもどうしてか獅子神という男は煌めいて見えた。

 何故か目の奥が熱くて痛くなって、一筋の涙が右目から流れ落ちた。泣くのなんて久々で戸惑っていると、獅子神さんが眉間に皺を寄せながら指を伸ばし、優しくそれをそっと拭う。

「……早く手続きを済ませてくれ。コイツはもうオレのもんだ」

 獅子神さんが放った声はやけに凛と響いた。
 わたしはそれに救われるみたいに、また少しだけ泣いた。