カガリビ


「じゃあ僕と付き合う?」

夢にまでみた言葉を彼が口にしたのは、お世辞にも綺麗とは言えない常連客で賑わう居酒屋で、だ。私は思わず手に持っていた枝豆をぽとりと落とした。

「え…っ」
「…もう一回言う?」

木目のテーブルに落ちたツマミを慌てて拾う私に、隣に座る彼は再度尋ねた。…その顔を、見れない。だから俯いて殻入れ用の器をジッと眺めながら、小さく頷く。きっと耳まで真っ赤だ。がやがやとした騒めきを拾うそれ。誰も私たちのことなんか気にしてないだろうし、会話だって聞こえてないだろうけれど。それでもやっぱり恥ずかしかった。そして…なんで彼はこの場所を選んだんだろう、とも思う。
さっきまで話していたのは、なんてことない世間話のはずだった。部署こそ違えど同僚ということもあって話のタネは尽きない。まあ公の場で仕事の話をするわけにもいかないから、当たり障りのない話題ばかりだったけれど。それが、どうして、こうなった。

「僕と付き合って欲しいんだけど」

カウンターの上で、重なる掌。その手は肉刺だらけ。野球をしている人の手だ。硬くて厚くて、暖かい。…男の人だなって実感する。
いつまでも俯いているわけにもいかず、ゆっくりと顔を上げて彼を見た。カウンターの向こうで忙しなく動き回る店員さんが視界の端にチラリと映るけれど、一度彼を見てしまったらもうそこから動けない。大きな瞳が私をジッと見つめて離さない。

「…返事は?」
「う、…」
「いや?」

彼はさっきから私に聞いてばかりだ。その言葉尻は柔らかいけれど…どこか、圧が強い。でも強引というほどでもない。上手く言えないけれど、彼が求める道の先に手を引かれて優しく引っ張られる感じ。これがなんとも思っていない相手だったら、嫌だってすぐに振り払えたけど。でもそうじゃないから。

「いや、じゃ、ない…嬉しい…」

蚊の鳴くような小さな声で、呟けば。彼は嬉しそうに目を細めた。「僕も嬉しい」って、その薄い唇が喜びを紡ぐ。
その瞬間。私たちふたりはお互いに大人になったんだなって、そう実感した。だって私の記憶は覚えてる。十年近く前にも同じようなことがあったこと。私が彼の手に触れたこと。覚えてる。
感じるものは一緒なのに、結末は違った。
ーー今度は、ずっとずっと望んでた結末になった。


今この瞬間、私の恋人になった小湊春市くんは、中学校の同級生。そこに付け加えることがあるとするなら、それは。

---私の、初恋の人。

今も昔も、私の心に棲みつく人だ。


■■■


「小湊くんって意外と手おっきいね」

なんでもないことのような口振りを披露した私だったけれど、実は結構緊張していた。

「そう?そんなこと初めて言われた」

向かいで看板用の段ボールと睨めっこしていた小湊くんが、顔を上げてそれから首を傾げる。長い前髪の向こう。目が隠れているからどんな表情をしているのかよくわからない。小湊くんは私がそう指摘したからか、鉛筆を握っていた自分の手をマジマジと見つめている。

「普通だよ」

ほら、と差し出された右手。パーの形。その掌には肉刺がいくつもあって、硬そうだ。私のそれとは全然違う。…こういうところで男の子なんだなぁって実感するのだ。私は思わず彼の手に自分のそれを合わせていた。

「やっぱり大きいよ」

ぴたりと重なったふたつの手。感じる体温は暖かい。そしてやっぱり彼の掌は硬かった。男の子の手だ。そんな風に突拍子もない行動をしてしまった私は、多分文化祭っていう非日常の雰囲気にのまれていたんだと思う。普段だったら絶対こんなことしない。
…それを、指摘するように。

「……あんまりこういうことしない方が、いいよ」

合わさった手は、そんな言葉と共に小湊くんの方から離れた。彼の手は、改めて鉛筆を握る。それから、途中だった看板づくりに戻るように、小湊くんの視線は手元の段ボールへ。私は思わず唇を噛んだ。彼の言葉が柔らかい心臓を一突き。さっきまで浮かれていた気持ちが、途端に萎む。それを誤魔化すように私も手元の段ボールに視線を落とし、そこへ刷毛をはしらせた。クラスの出し物である『暗闇迷路』。それを象徴するような黒色。…憂鬱な今の気分にぴったりだ。小湊くんはゴシック体のレタリングに苦戦している。難しい漢字ばかりだから仕方ない。…そんな風に気まずい沈黙を誤魔化すように自分にいい聞かせる。

私と小湊くんは、それなりに仲が良かった。中学生ともなれば男女の間に思春期特有の壁が出来て、だいたい皆んなが微妙な距離を保つ。勿論私たちの間にもそういう空気があったことは否定しない。それでも、「小湊くんって祥子とはよく話すよね」なんて言われることが多かったから…私は多分、浮かれて調子に乗っていたんだと思う。
最後の文化祭で告白しよう。
そう決めたのは、一ヶ月前。小湊くんが東京の高校に行くらしいって聞いたのがきっかけ。友達にこっそりと打ち明けたら「絶対脈ありだよ!」って励ましてくれたから、私の恋心は更に燃え上がった。
正直自分でも大丈夫だって思ってたんだ。私が彼に「好き」って言って、そして彼はちょっと照れて「僕も」って言ってくれるって。そう信じてた。…信じてたんだけど。

(嫌われちゃったかな)

先程自分に向けられた小湊くんの声を思い出す。私の行動に呆れて咎めるような言葉。目が見えないから表情の全貌は定かではなかったけれど、その唇は決して笑ってはいなかった。それだけは理解ったから。

(…嫌われちゃった…)

確かめるように、自分に言い聞かせるように、もう一度心の中で呟いた。

結局それきり私と小湊くんの間に会話らしい会話もなく、文化祭の準備に充てられたホームルームの時間は過ぎていったのだ。


燃え上がった炎は想いに火をつけた彼本人によって、消化されてしまった。淡い青春の一ページと割り切れればどんなに良かっただろうか。だけど私にはそれが出来なかった。水を掛けられて鎮火した恋心は、白い煙を上げて消し炭となったけれど。…でも、火種は消えなかったのだ。それ以降もただ静かに白と黒のコントラストの中で鈍く燃え続けた。
それは中学を卒業して私の世界に小湊くんという存在がいなくなってしまっても、ただずっとずっと静かな熱を孕んでいた。

それは時折、パチパチと音を立てた。
特に顕著だったのは、高校二年生に進学する前の三月。テレビの画面越しに小湊くんを見た時。心の炎は一瞬にして燃え上がった。その勢いに任せて、思わず小湊くん宛にメールを送信していた私。我ながら、すごく単純。
小湊くんからの返事は、わりとすぐに返ってきた。だけどやっぱりどこか素っ気なかったし、…それ以降のやりとりは長く続かなかった。忙しいのだから仕方がない。そんな風に自分に言い聞かせて、また自分の心の炎を鎮火させた。

地元の高校を卒業した私は、そのまま地元の大学に進学。初めて彼氏が出来たのは、その時だ。アルバイト先の先輩。優しくていい人だったけれど、二年付き合って別れた。特に大きな喧嘩をしたわけでもない。ただ私の心がずっと凪のように静かだったから…それに嫌気がさして自分から別れを告げた。就活が忙しくなってきた時期だったので、タイミング的にはちょうど良かった。やっぱり狂おしいほどに私の心を掻き乱す人は、ひとりしかいなかった。そう実感しては、溜息。そして何度も過去の思い出に浸る。そんなことを繰り返した。

大学卒業後は、東京に就職した。誰もがその社名を知る大企業だ。もともと大学で専攻した分野を活かせる進路という名目で志望したその会社だったけれど。そこにはーー野球部があった。都市対抗野球大会にも出場したことのあるチーム。下心というには不確かなそれ。だけど無関係とも言い切れない。

いつまでも十五歳の消し炭を大事に大事に抱えて、自分の人生を歩む私はきっと世界一愚かに違いない、なんて。自分自身を哀れんで迎えた新卒の春。

薄桃色の、春。
そんな言葉が一瞬にして浮かんだその瞬間。私は「彼」と目が合った。初めて見たその意思の強そうな大きな瞳を見て、言葉もなくただポカンと開いた私の唇。思わず指を差していた。

「……小湊くん…?」
「…相田さん?」

入社式で、私は初恋の人と再会したのだ。


■■■


奇しくも同僚となった小湊くんと同期の中で一番親しい間柄になるのにそう時間はかからなかった。学生時代の同級生で地元も同じ。共通の話題が多いとそのぶん会話も盛り上がる。そうなるとやはり勢いづくのは私の消し炭。もはや火種など残っていないと思っていたけれど、それはどうやら勘違いだったようだ。
ーー煌々と燃え上がる炎。
彼の姿を見るたびに、彼と言葉を交わすたびに、それはどんどん大きくなっていく。
でも今度こそ私はそれを自分の胸のうち、頑丈な筐の中に仕舞い込んで、鎖を巻いて、鍵を掛けた。二度と失敗しない。そう心に決めたのだ。

ーー……あんまりこういうことしない方が、いいよ

思い出すのは、いつもあの時の小湊くんの言葉。思い出すたびに、心が粉々になる。だから「同期」として「友人」として傍に居られるだけで良かった。だって私はもう彼を失いたくなかったから。同じことを繰り返したら、今度こそ私は亡霊になってしまう。そんな未来が目に見えていたから。

…そんな風に、思っていたのだけれど。


「人生ってなにがおこるかわからない」

ポツリと呟いた言葉は、冬の冷気で冷えたキッチンに溶けてそして消えてしまった。火にかけたヤカンがシュウシュウと音を立てて、うっすら白い湯気がモクモクと天井に向かって登っていく。カタカタと動く蓋。吹きこぼれる前にコンロの火を止めた。
沸騰したお湯を、用意しておいたマグカップの中に注ぐ。
いつまで経ってもブラックでは飲めないから、ミルクと砂糖は必需品だ。一緒にお湯で溶かしてスプーンで掻き混ぜるとそれはブラックから穏やかなブラウンになる。中和される。
マグカップの内側で渦をつくるそれを見ながら、私はふいに中学生の頃を思い出していた。段ボールに塗った黒色。ずっと私の心にこびりついて落ちなかった色。
だけど今は、違う。
そこに差した穏やかな春の日差しのような灯。
絵具は色を混ぜれば混ぜるほど鈍くなるけれど、光源は違う。重ねれば重ねるほど明るくなる。だからきっと彼は私にとっての光なんだ。そんな風に実感する。

「おはよう」
「あ、おはよう」

ぼんやりと流し台の前に立っていた私に掛けられた声。振り返れば、恋人の姿。寝起きのその姿を見るのも、随分慣れた気がする。今でも不意をついてドキドキするけれど、最初の頃に比べると私の心拍数もだいぶ落ち着いている。
用意しておいたもうひとつのマグカップにもお湯を注いで、スプーンでぐるぐる混ぜる。
彼の分はお砂糖もミルクもなしのブラック。
少しずつ理解したことだけど、私の恋人は可愛い顔をしながら中身は男らしい。それを面と向かって指摘すると「当たり前でしょ」って呆れられるから言わないけれど。
ーーでも、そんな当たり前に触れることが出来るようになって、私は心底嬉しいんだ。

マグカップをふたつ両手に持って、ダイニングテーブルに置いた。それぞれいつもの定位置。彼が座ってから、私も座った。

「春市」

確かめるように、恋人の名前を呼ぶ。
彼の名を呼ぶとき、私の唇はいつも僅かに震えてしまうのはなんでだろう。彼の輪郭を確かめるように私はいつもその名前を呟く。そうすると、彼はーー春市は、その大きな瞳を薄っすらと細める。私はその瞬間がたまらなく好き。十五歳の私が望んでいた光景。それが目の前にあって、いつでも触れることが出来るから。

「私たちって運命の赤い糸で結ばれてたのかな」
「…どうしたの、急に」

突拍子もない私の言葉に、春市はその端整な眉を持ち上げて首を傾げた。

「別になんとなくそう思っただけ」
「祥子って時々突然だよね」
「…そう?」
「うん」

呆れたような言葉尻。そうかなぁと首を傾げた。すると途端に春市は揶揄うような問いを紡ぐ。

「中三の時に祥子が俺と手を合わせたの覚えてる?」
「……覚えてるよ」
「驚いて照れて、あの時は素っ気なくしちゃったけど。嬉しかったんだよね」
「…そうなの?」
「そうだよ。あの時祥子のこと好きだったから」

その言葉に、思わず持っていたマグカップをごとりと音を立ててテーブル上に置いた。そんなの初耳だ。「初めて聞いたよ、そんなこと」とやっぱり震える唇を開けば、「だって初めて言ったから」と春市はなんでもないことのように言う。

「なんでだろうね。それ以来ずっと俺の心に祥子が棲みついてる」

今も昔も、私の心に棲みつく人。付き合うことになった日に、居酒屋のカウンターに座って心中で呟いた言葉が改めて蘇ってくる。

「うれしい」
「そう?」

「重いでしょ」って春市は自虐的に笑った。仕事でも野球でもいつもなんでもそつなく熟すイメージが強かった彼が、そんな一面を見せてくれるようになったのは勿論付き合うようになってからだ。
ーーそれが、私にはなによりも嬉しい。

「私もね、」

折角彼が昔話を聞かせてくれたのだから、私もとびきり重たい話をしよう。ずっと心の中に仕舞い込んできた消し炭の話。今は穏やかに燃える炎の話。お揃いのマグカップに描かれた赤い線。ふたつを合わせるとハート型になる運命の形。それはまるで私たちみたいだねって。

私はそんな想いを全部全部伝えたくて、ゆっくりと震える唇を開くのだった。

いつも仲良くしてくれている幹ちゃんからのリクエストでした。ダイヤ面白いよ〜と勧めてくれた謂わば私のダイヤのお母さん。 イメージソングを聞いたときに、バタバタと波乱万丈な話ではないなぁと思ったのでこのような形になりました。穏やかで静かな重たい、でもどこか透明感のある話を目指していたのでそれが表現出来てたら嬉しいなぁと思いつつ。 幹ちゃんがイメージしていたようなお話に仕上がっていたら嬉しいです。 春市はACT2になってから漢前度が上がってどうしてもそっちの印象の方が自分の中で強いので中学生の時どうだったんだろうなあとかなり苦心しましたが、基本的にこの子は小さい頃から頑固でいい意味で男の子っぽかっただろうなと思います。
改めて幹ちゃんリクエストありがとうございました!