いつかきっとユートピア



ああ、ちょっと待ってくれ。
そんな思いは当然のことながら言葉にはならない。だけど視線は、少し離れた道の先に張り付いたままだ。梅雨が明け日毎増す日差しの強さに目を細めるように、俺は何度も瞬きを繰り返す。目に焼き付いた光景を信じたくない思いが強かった。だけど何度それをしたところで現実が変わるわけがない。

「純、何やってんのー?」

そんな俺の心情を知るはずもない存在の、能天気な声が掛かる。その瞬間。俺の視線先にいた仲睦まじく寄り添うふたりが振り返った。彼女がこちらを確かに見て、交わる視線。普段穏やかに微笑むばかりのその瞳が、僅かに見開かれたのは気のせいだろうか。でもそんなことよりも、彼女の隣に経つ背の高い男の存在が俺の胸を軋ませるものだから。不自然と解っていながらも顔を背けた。

「どうしたの?知り合い?」
「…なんでもねぇよ」

俺が立ち止まったことにより1メートルほど先に進んでいた姉貴の姿。それを追い越すように懸命に動かす足。コンビニのレジ袋を握る指先に力が入り、走る度にガサガサと音がなる。がらにもなく身体のどこもかしこもが震えるのは、それほどまでに俺が本気だったということだろう。だけど、はじまる前に終わってた。それを嫌というほど思い知らされて、…泣きそうになるなんて。男らしさの欠片もねぇなと思うから。俺はただただ唇を強く強く噛み締めるのだった。


▼▽▼


進学した大学生活にも慣れた去年の今頃。思い返せば、所属する教育学部内でなんとなくグループができはじめた時分。俺は相田と言葉を交わすようになった。

「祥子の話し方って可愛いよね」
「え〜そう?普通やんかぁ」
「それ。そのちょっと間延びしたのが可愛ええんよ」
「確かに相田の話し方って大阪弁ともまたちゃうしな」

グループ内の男女共々だいたいが関西近郊出身者ばかりの中。相田は東海地方の中でも関西寄りの県の出身で、俺は神奈川出身。まあ正直なところ関東出身の俺からしてみたら、相田の話し方も関西弁も同類。だけどそんな彼女が俺の名を呼ぶ時だけは違った。
伊佐敷と言うイントネーション。それが少し独特。普通(というかなれ親しんだ呼び方)は矢印が全て右を向くように真っ直ぐな発音だが、彼女の呼び方は、一文字目が上ずるように低く、二文字目が急上昇。まさにそんな感じだ。聞けば母親が名古屋の出身でそちらの方言も混じっているらしい。

「変かなぁ?変よなぁ、ごめんねぇ」
「…いや別に謝ることじゃねぇけど」

そんな会話を交えたのは、顔見知りになってわりと最初の頃だ。
間延びする話し方もまた相田を相田たらしめているように感じた。きっかけはそんな些細なこと。でもそれが切っ掛けとなって、ふとした拍子に彼女を思い出すようになってしまった。それは講義の合間にシャーペンをノックして芯を出している時だったり、野球部の練習を終えてロッカーで着替えている一瞬だったり、好きな少女漫画を読んでいる時だったり、眠りに落ちる瞬間だったり。
ゴム毬のような白い手や、雀斑が浮かぶふっくらとした頬。飛び抜けて美人かと聞かれればそうじゃないけれど、相田にはどこか愛嬌があった。大きな瞳を細めて笑う時、彼女の頬はきゅっと持ち上がり丘ができる。
相田は性格も良かった。一言で表すなら優しい。志望は小学校教諭だと聞いた時、ああぴったりだな、と思ったものだ。

「いさしきくんはなんで高校を志望しとるん?」
「…あー…」

グループワークの合間に、彼女が俺に問うたのは冬も間近な季節だった。秋季リーグが閉幕し、部活はオフシーズン突入。そろそろ年末年始の帰省の予定を立てなくては、と考えていたそんな折。

「どうしても手に入れたいもんがあって」

我ながら随分と抽象的で、愛想のない回答になってしまったように思う。その時には既に俺の心には相田が住み着いていたものだから、多分格好つけたかったのかもしれない。素直に高校野球に関わっていたいと言えば、簡単に話は広がっていただろう。
相田は俺の言葉に少し考え込む素振りを見せ、そしてやっぱり目を細めて頬に丘をつくった。

「格好ええねぇ」

馬鹿にするわけでも、失笑するわけでもなく、ただ本当に心からの称賛を表す声音にこちらの方が照れてしまった。誤魔化すように顎の髭を触る。
相田は兄がふたりいる兄妹の末っ子で、ある意味境遇が俺に似ていた。おっとりしているわりに、好みが男っぽい。だからこそ、抽象的で無骨な俺の回答が彼女の琴線に触れたのだろうか。
友人というほど距離は近くなく、だからと言って全くの他人というわけでもない。顔を合わせれば、少し言葉を交わす程度。宙ぶらりんな関係性。でもだからこそ俺はよく相田のことを考えてしまっていたのだろう。与えられる情報が少ないほど、頭は自分の妄想で情報を補完しようとするのだ。

今までいいなと思う存在の一人や二人、いたことがあるのは否定しない。
それでも俺の中で絶対的に一番はいつだって野球だった。勿論、今でもそれが変わることはないと思うけど、でも不意を突いて相田のあの笑顔が浮かんでくるのもまた確かで。柄にもなく誰かに相談しようと思い立ち、哲は駄目、亮介も駄目だ絶対揶揄われる、こうなったら楠木か門田か…と携帯電話と睨めっこした夜を何度過ごしただろう。愛読している漫画の登場人物の顔が俺と相田に見えてしょうがない時も数えきれないほどあった。

我ながら浮かれてたんだろうな。
出会いから、なんの進展もなく過ぎていった約一年。
ビリビリに破れた紙をセロハンテープで貼り合わせるように。
思い出した過去のあれこれ。
繋ぎ合わさってひとつになった感情の名前は、

俺の××。


▼▽▼


「さっきの子って知り合い?」
「大学で同じ学部」
「挨拶しなくて良かったの?」
「どう見てもデート中だっただろ」

姉貴の問いに俺が唇を尖らせて答えれば、それだけで色々と察したらしい。それ以上の追求はされなかった。
週末こっちで開催されるイベントにサークル参加する予定の姉は、昨日から俺の下宿先に宿泊している。毎回イベントの度にやってきては「宿代が浮く!」と公言しているあたり、俺の家をホテルかなんかだと思っているに違いない。まあその分、滞在中は諸々でおごってくれるので特に文句はないけどな、なんてことを考えながらさっきコンビニで買ってきたばかりのカップアイスをスプーンで掬って口に運ぶ。
懸命に思い出さないようにしても、脳裏に焼き付いて離れないのは相田と名前も知らない男の姿。下宿先がわりと近いということは知っていたけど、大学の校内以外で彼女の姿を目にするのは初めてのことだった。そしてそれが記念すべき失恋決定の瞬間となったわけだ。口の中で溶けるバニラを味わうこともなく飲み込んで、また唇を噛む。我ながら女々しい。心臓が早鐘を打ち、冷静ではいられない自分にも苛立つ。
背が高いモデルみたいな男だったな、とか。
チラリと見えた相田の横顔は満面の笑みを浮かべていたな、とか。
一度考え始めると止まらない。堰を切ったように流れ出す感情の洪水。
これが例えば漫画や映画のようなフィクションだったなら。
最後はハッピーエンドだろう。
だけど現実はそんなに甘くない。

(んなことは、嫌っていうほど思い知らされただろ)

自分に言い聞かせる。神様なんていない。現実は残酷。俺はやっぱり選ばれる方じゃねぇんだよ、なんて。ちょっとネガティブすぎるだろうか。でも今日という日ぐらいは感傷に浸らせて欲しい。はぁ、と重たい溜息が口から漏れた。

ーーー格好ええなぁ

ふっと思い出すのは、彼女の言葉。
今の俺はその言葉とはまるで正反対。
男らしくもないし、全然格好良くなんてない。

…だったら、せめて。次に彼女と顔を合わす時までには。なんとか立ち直っていたいな、と。そんな決意を胸に抱きながら、俺は残りのアイスを口に掻き込むのだ。


▼▽▼


日曜日。俺は部活で、姉貴は待望のイベント。アフターという名の飲み会でしこたま酔っ払ったらしく、姉貴が俺の家に帰ってきたのは終電間際のことだった。翌日。二日酔いの姉貴の為に朝食を作ってやり、大学の授業が二限目ということもあって最寄り駅まで送ってやることになる。

「じゃあね、純。元気だしなよ」
「わーってるよ」

最後にバシン、と背を叩かれた。戦利品を詰め込んだトランクケースを引き摺りながら改札を抜けて、どんどん小さくなる姉貴の姿。週明けの月曜日は普通出社だが、姉貴は贅沢にも有給を使ったらしい。これからゆっくりと神奈川に帰るその姿をちょっと羨ましいと思ってしまう俺には、大学の授業が待ち構えている。午後は野球部の練習。またいつもの忙しい日常が始まるわけだ。
でも忙しいほうがいい。余計なことを考えずに済む。
…とは言え。
簡単に割り切れるなら苦労しない。
人知れず抱え込んでいた想いに蓋をしようと決めて、二日。やっぱり不意を突いて考えてしまうのは、彼女のこと。顔を合わせたらなんと声を掛けようか。無視は駄目だ、無視は。なるべく愛想良く…と頭の中で何度もシュミレーションする。土曜日に姿を見掛けた時、我ながら失礼な態度だったなぁ、と今更後悔。
そんなことを考えながら、くるりと踵を返し、改札に背を向ける。
このまま大学に向かう為に足を踏み出したその時だった。

「もうええ加減に元気だしてくれんと、俺帰れへんわ」
「…ええよぉ、気にせんといて」

耳に届いたのは、なんてことないカップルらしき会話だ。言葉から察するに別れ際だろうか。普通なら素通りするところだが、女の声と話し方には聞き覚えが有り過ぎた。
ーーー相田だ。
俺は咄嗟に気付かれないようにふたりの死角になるであろう壁側に身を寄せていた。そしてソッと耳を欹てる。

「お前、土曜からそればっかやんか」
「傷心なんよ、ほっといてよぉ」
「せっかく会えんの楽しみにしとったのにな」

チラリと見えたのは、背の高いあの男が相田の頭を撫でたところだった。その瞬間、やはり鈍器で殴られたような衝撃が身を襲う。今すぐこの場から逃げ出したかった。でもそうすると相田に俺の存在が気付かれてしまう。この場で顔を合わせるのは、望んでいた再会じゃない。悔しさに唇を噛んだその時だ。

「おにいちゃんが楽しみにしとったんは個握イベントやろぉ」
「はは、バレたか」
「バレバレ」

…今。
相田はなんと言っただろうか。
俺は突然与えられた情報に、事実に、何度も瞬きを繰り返した。
それと同時に、ヘナヘナと地面に座り込んだ。状況を整理しようと思ったが、迅る気持ちは抑えきれない。もしかして、と、いやでも恋人をそういう風に呼んでいるだけかも、が鬩ぎ合う。頭の中で自問自答。そうこうしているうちにふたりの別れの挨拶は終わったらしい。男がでかい荷物を持って、俺の横を通って改札を抜けていく。蹲み込んでいる俺の姿を怪訝そうな目で見られたが、今はもうそんなことどうだっていい。
気づけば俺は、走り出していた。

「相田!!!」
「…っ、い、いさしきくん…?」

でかい声で名前を呼んで、思わず掴んでいた彼女の柔らかい手首。
突然のことに振り返って、驚いた表情で俺を見る彼女のイントネーションは相変わらずだ。なんだかいつもより目蓋が腫れているように感じるのは、きっと気のせいじゃないと思う…なんてこれは俺のただの願望。だけどいつまでもいつまでもグダグダとひとりで悩んでるのはやはり俺らしくねぇ。そもそも言わなきゃ始まんねぇだろ。後悔した気持ちを忘れんな。そんな言葉で自分を鼓舞した。

下手したら、ここ一番の試合中よりも緊張しているかもしれない。喉はカラカラに乾いているし、心臓はありえないほどの早鐘を打っている。そもそもなんて切り出そう。なんと伝えよう。
狂おしいほどの恋慕を。彼女への高鳴る想いを。
俺の人生には、相田が必要だってことを。
まるでこれからプロポーズでもするのかというほどの心情。
相田は何も言わない。ただその粒らな瞳で俺の顔をジッと見つめている。

俺はそんな彼女の表情を目にして、やっぱり好きだな、と実感する。
そうして初夏の日差しに目を細めながら、ゆっくりと口を開いた。

俺は、今でもこの瞬間を覚えている。
彼女の頬の丘を覚えている。

いつだって俺を選ばなかったクソったれの神様だけど。
たまには、気まぐれっていうのもあるらしい。

時々、思い出す。
これはそんな…俺の初恋の話だ。


ついにダイヤの初代推し・伊佐敷純を書く機会を頂戴しまして書かせていただきました。純さんに関しては「私の知らないところで幸せになって欲しい」というクソでか感情しか持ち合わせてないので、書き上がった今も不安でいっぱいです(苦笑)
ただ、いただいた夢主の設定がなかなかに斬新というか、私が普段描かない個性のある子でしたので楽しかったです。
純さんって周囲にはある意味ガサツと受け取られがちですが、本当に繊細な人なんですよね。そういうところが魅力だと私も思っています。リクエストくださったまし部さんの鋭い「伊佐敷純ってこういうところありますよね」という考察には頷くばかりで、少しでもそれに近づけることが出来たらなぁと思いながら書き上げたんですが、いかがでしたでしょうか。
エンディングはあえて描きませんでした。皆様各々想像していただけると嬉しいです。
まし部さん、リクエスト本当にありがとうございました!