ダフネ、君を愛してる。



初めて彼と出逢ったのは、中学三年生の一月だった。新年を迎えたばかりの、東京に雪が降った日。

前の日から降り続いた雪は、昼頃には降りやんでいて、アスファルトに積もったそれを長靴で踏みしめながら、愛犬の散歩に出た私。童謡の歌詞のように、犬はどうやら雪が嬉しいらしい。リードをぐいぐい引っ張りながら先へ先へと進んでいく。
私はそれをなんとか制御しながら、転ばないように必死に雪面を踏み締めて歩いていた。

「…あれ」

気になって立ち止まったのは、行きに通った道でまた同じ人を見かけたからだ。手に地図らしきものを持って、俯いている。背は高いけれど、あどけなさの残る顔はどうやら私と同い年ぐらい。なんだか気になって、足を止めた。すると犬がその人の方に向かって急に走り出したものだから、べしっ、と前のめりになって転ぶ。リードが手から離れた。犬が走っていく。

「サトル、駄目!」

愛犬サトルの名前を叫んだ瞬間。彼がこちらを振り向いた。と同時に、サトルは彼の足元へ。そして盛大に尻尾を振っている。男の子が、サトルのリードを手に取ってくれた。私は慌てて起き上がって、ひとりと1匹に駆け寄る。

「あ、あの、ごめんなさい…」
「…大丈夫?」
「はい、大丈夫です…」

差し出されたリードを受け取り、彼の足にジャレついているサトルを見下ろした。

「サトル、駄目でしょ」
「……あの、」
「…はい?」
「この子、サトルって…言うんですか?」
「あ、はい。そうです」
「そうなんだ」

そう言うと、男の子は徐に蹲み込んでサトルの頭を撫でた。サトルは気持ちよさそうに目を細める。白いフワフワの毛に埋もれる、男の子の手袋を嵌めた掌。

「僕と一緒だね」
「えっ!あ…そう、なんですね…?」
「うん」

それはきっと驚いただろう。突然名前を呼ばれて。彼はサトルを撫で続けた。その手つきを見ている限り、「さとる」さんは動物が好きなんだろうなぁっていうのが伝わってくる。
私はコートについてしまった雪を払いながら、彼の旋毛を見下ろしていた。艶々とした黒い、綺麗な髪。サラサラだ。癖っ毛の私とは大違い。さっきチラリと見た顔も、すごく整ってた。鼻筋の通った造形。私の胸は、途端に高鳴る。

「……あの」
「あ、はい…!」
「実はちょっと道に、迷ってて…」

彼は顔を上げて、私を見つめながらそう言った。薄らと青がかかった黒目。私はそれにドキドキしながら、気づけば「私がわかるところなら、案内しますよ」と親切を申し出ていた。下心がなかったわけじゃない。これがきっかけになればいいなって、そう思ったから。


彼は、降谷暁くんと名乗った。
北海道に住む私と同い年の中学三年生。お祖父ちゃんのお家が東京にあるらしく、お正月を利用してこっちに来ているのだ、と。並んで歩く道すがら、ぽつりぽつり、と口にした。あまり自ら話す性格ではないんだろう。ゆっくり静かに、私の問いに答えるように。自分のことを教えてくれた。それに答えるように、私も自分のことを彼に伝える。
名前は、相田祥子。同じ中学三年生だということ。家はこの近所だということ。だけどそれくらいだ。気恥ずかしかったのもある。私は緊張していた。だから、私自身のことを伝えるより、気づけば口は愛犬サトルのことをスラスラと口にしていた。
サトルは今年六歳になるサモエドっていう犬種。番犬として飼い始めたけど、人懐っこい性格で本来の役目をあまり果たしてくれないこと。雪に興奮するようにグイグイ前へ進むサトルをリードで上手くコントロールしながら、眉を下げてちょっと愚痴混じりにそんなことを口走れば、降谷くんはあまり表情を変えずに私を見下ろして口を開いた。

「サモエドは…ロシアが原産でそり犬とかトナカイの牧畜とか、そういうことで活躍した犬種だから。社交的な、性格」
「えっ、あ、そうなんだ…詳しいね…?」
「図鑑に書いてあった」

降谷くんはどうやら、図鑑を読むほど動物が好きらしい。私も好きだ。ほんの些細な共通点。それだけで嬉しくなる。

彼は…この近くにある青道高校を受験するのだと言った。近々試験があるから、念のために下見に行きなさいと言われて、このあたりを歩いていたこと。案の定道に迷ったこと。やっぱりあんまり表情を変えずに、そう教えてくれた。そんな一連の彼の話、素振り、様子。それを見て雪みたいな子だなって思ったのは、内緒。夜中に降る雪。静かに白い世界を作る雪。

それからしばらく歩いて、無事に青道高校の校門の前に着いた。彼はこれから入部するつもりの野球部のグラウンドの方も見に行くらしい。この雪で部活を行っているかわからないのに、真面目だ。降谷くんは、相変わらず私を見下ろして薄らと目を細めた。

「それじゃあ、ありがとう。すごく助かった」
「いえいえ。帰りは大丈夫?」
「…多分…。でも、相田さんにこれ以上迷惑かけるわけにもいかないから。サトルも…もう帰りたそうにしてるし」
「そうかなぁ」
「そうだよ」

そう言って、彼はもう一度、足元に蹲み込む。そして手袋をした掌で名残惜しそうにサトルを撫でる。私は彼を見下ろしながら、ずっと思案していた。言おうか、言うまいか。でも言わずに後悔するよりは、言った方がいい。もうひとりの自分がそう囁くから。私は、意を決して口を開く。

「私も、青道、受けるの」
「…本当?」
「うん。本当」
「……それは…」

降谷くんが顔を上げた。またあの瞳が、私をジッと見つめる。

「それは、とっても嬉しいな」

彼がその言葉をどういうつもりで私に贈ったのか。どうして北海道からわざわざ東京の高校に進学することを希望したのか。どうしてここまでくる道中に「雪はあんまり好きじゃない」って悲しそうに笑ったのか。
その全部を、私は知らない。
知らないけど、でも全部覚えてる。

降谷くんとサトルと、東京に降った雪。
私の心に焼き付いた情景。…これが、始まり。



青道の入試の日に降谷くんを見かけることは出来なかったけれど、入学式にはその姿があったから私は胸を撫で下ろした。そしてなんの因果か、同じクラスになったのだ。1年B組。私はそれだけで、恋の神様は本当にいるんだなって思った。
三ヶ月ぶりに顔を合わせた私たちは、お互いに照れ臭そうに笑い合う。真新しい制服に身を包んで、周りは知らない子たちばかり。そんな中で降谷くんの存在は私にとって心強いものだった。…降谷くんもそうなら、いいな。そんなおこがましいことばかり、考えてしまう私。

「サトル、元気?」
「うん、元気だよ」

まだグループも出来上がっていない教室の片隅で、私と降谷くんは内緒話をするみたいに言葉を交わした。だいたいは私たちが出会うきっかけになった我が家の愛犬、サトルの話。降谷くんは動物の話をするとき、とても優しい顔をする。それを知っているのが私だけだと思うと、ほんの少しの優越感が胸を擽るのだ。

降谷くんは出会った時にそう言ったように、野球部に入部した。寮生活。なんだかとっても厳しい部活らしい。青道の野球部が強いって話は勿論知っていたけど、部員が百人近くいるとか、夜も遅くまで練習しているとか。そういう現実を目の当たりにしたのは入学してからだ。

「野球部大変そうだね」

授業中、こっそりと降谷くんを見れば、彼は船を漕いで眠ってしまっていることが多かったから。そんな言葉で労わるのは当然の流れのように思う。降谷くんは、うん、と小さく頷いた。

「でも今は、ただ楽しいし…嬉しい。僕の球を受けてくれる人がいるから」

滲み出る喜びを噛み締めるような、彼の言葉。私はやっぱり思い知る。降谷くんのことなんにも知らない。ただ彼と知り合うというスタートラインが人より少し早かっただけだって。そんな考えは、日を追うごとに増していった。


▼▽▼


「降谷が!女子と!話してる!!」

指された指と大きな声に思わずびくりと肩を揺らしたのは、衣替えの期間も終わって生徒たち全員が夏服に移行した、そんな時期。教室に差し込む日差しは眩しくて。目を細めながら、降谷くんといつものようにお話ししていたそんな折。突然現れたのは、隣のクラスの沢村くんだった。沢村くんは、いろいろ有名。声が大きいし明るい性格でお友達も多いから。そんな沢村くんの後ろには、彼を引き留めるように私たちと同じクラスの小湊くんの姿。だけど沢村くんはそんな小湊くんを振り切って、私たちのもとへ。

「もしかして彼女…?!」
「…か、彼女じゃないよ…」

想定外の質問に、私は思わず否定の言葉を口走っていた。そうだったらいいなって思ってるけど、でもこの場でそんなこと言えない。恥ずかしくなって俯いて、自分の靴の爪先ばかりをジッと見つめていたら、降谷くんが口を開く。

「サトル仲間」
「さとるなかまぁ?」
「そう」

降谷くんの説明はとても端的で、まさに私たちの関係を言い表していたけれど。事情を知らない沢村くんにしてみれば、首を傾げる言葉だろう。そんな沢村くんに対して、降谷くんはその「サトル仲間」について詳しく説明しなかったものだから、私たちの話はそれでなんとなく終わりになってしまった。

「…なにか用事?」

話題を変えるように、降谷くんは突然やってきた沢村くんに尋ねる。そうしたら彼は「そうだった!」と本来の用事を思い出したらしい。それを聞く限り、野球部の話のようで。小湊くんも会話に交じって、三人で話始める。その横で…私は、ずしん、と胸に大きな重りが落ちたような気分になった。

降谷くんは、とても早い球を投げるのだという。私はあまり野球のこと詳しくなくて、よくわからないけど。それでも彼が一年生にして強豪の野球部のレギュラーになったのは入部して間も無くのこと。あの教室の片隅での会話から、わりとすぐ。

それからだ。降谷くんの名前を少しずつ少しずつ他の子たちが認識していって、「あの子格好いいよね」とか「すごいよね」なんて言葉を耳にするようになったのは。
私はその度に胸が押し潰されそうなほど、苦しくなった。
降谷くん自身も、私と話すより、同じ野球部の小湊くんと一緒にいることが増えて、開いていく私たちの距離。それがわかるから、辛い。別に喧嘩したわけでもなくて、顔を合わせて話をするときはいつだって彼は優しいのに。欲張りな私は、もっともっと、って求めてしまうんだ。
最初に降谷くんと出会ったのは私なんだよ。そんな風にみんなに大きな声で言ってしまいたかった。

どうしてこんなにも彼に心惹かれてしまうのか。自分自身に問うてみても、明確な答えは出てこない。ただ心が叫ぶの。この人のことが好きだって。この人の全部を知りたいって。この人の全部を知って、私のものだってみんなに伝えたいって。叫ぶ。

そう思うたびに思い出すのは、あの雪の日だ。サトルの頭を撫でた手袋。その中に存在していた彼の綺麗な手。スラリとした指。この掌で投げるボールがすごいってこと。できれば知りたくなかったな。ずっとずっと手袋をしたままでいて欲しかった。沢村くんと小湊くんと話す降谷くんの指先をチラリと横目で見て、そんな自分の自己中心的な考えに小さく溜息を吐く。そして私は、「じゃあ私は席に戻るね」と呟いて、ゆっくりと降谷くんの側から離れたのだった。

▼▽▼

茹だるような夏がやってきて、そしてあっという間に去っていった。野球部は予選決勝まで駒を進めたものの、甲子園には行けなくて。…とても残念だなぁって思ったけど、でもちょっとホッとしてしまった自分がいたのも事実。だって、青道に勝って甲子園に出場した西東京代表の学校の投手がテレビや新聞で散々取り上げられているのを見ると…降谷くんがそうなってたかもしれないって。そう思ったから。

夏休みの間、サトルの散歩も兼ねて私はよく野球部のグラウンドまで足を伸ばしていた。目立たない場所を探して、練習中の降谷くんの姿をただジッと眺めるだけ。…降谷くんは、表情が豊かになったと思う。練習は大変そうだけど、野球部のみんなに囲まれて楽しそうだ。もうひとりぼっちじゃないし、私がいなくても大丈夫なんだなって思い知らされる。
私はみんなよりほんの少しだけ先に、彼の人生に関わっただけで…結局大したことも出来なかった。そう思うと、ただただ胸が苦しい。片想いってこんなにも辛いものだったんだ。恋ってもっとキラキラと輝くものかと思ってた。

これ以上私の手の届かない場所に行って欲しくない。我儘な私の願い。誰にも言えなくて、そんな想いをひとりで抱え込んだまま…暦はあっという間に秋になる。

新チームになってから降谷くんがエースナンバーをもらったらしい。野球部は秋の大会の予選を順調に勝ち進んでいるらしい。二年生の先輩達は大会日程と被っていて修学旅行に行けなかったらしい。耳に入ってくるそんな情報。それを聞いて、つい来年のことを考えてしまう私。どんどんとあの雪の日が遠くなっていく。

「相田さん」

降谷くんが私を呼び止めたのは、野球部が秋の大会で優勝した数日後のことだった。もうその頃には教室の片隅で降谷くんとふたりで話すこともなくなっていた。私が一方的に彼に対して引目を感じて、避けていたから。

「サトル、元気?」
「……元気だよ…」

…結局。思うのだ。私と彼との間にはそれしか話題がないんだなって。久しぶりに交わした会話だったいうのに、私は俯いて小さな声で呟いた。

「…どうしたの?元気ない」
「本当に、大丈夫だから」

降谷くんが甲子園に出場することを喜べない私が、彼の前に立つことなんて許されない。そんな気がして降谷くんの顔が見れない。誤魔化すように、髪を掻き上げる。

「…野球部、おめでとう。甲子園楽しみだね」
「ありがとう」
「これで…ますます、降谷くん…有名になっちゃうから…もうふたりで、お話もなかなか出来ないね」

暗に、これでお終いにしよう、って。そう伝えたくてそんな言葉を絞り出した。今だってクラスメイトからの視線が痛い。被害妄想かもしれないけど。でも降谷くんはそれほどまでに有名になってしまったから。私の気持ちが、もう限界に近かった。

「どうして?」
「だ、だって…」
「僕は、相田さんだから好きなのに」
「……え、」
「これからも話したいって思う」

…いま、降谷くん、なんて言った…?
驚いて顔をあげて、彼の顔を見上げる。随分と上に位置している彼の端正なそれ。顎のラインから、耳、それから、瞳を見た。あの雪の日と同じ目をしてる。煌く夜空のような瞳。それが私をジッと見つめているのだ。鼓動が、高鳴る。心臓が壊れそう。

「僕は相田さんがいいんだよ」

彼がどういうつもりで、そんな言葉を私に贈るのか。それはやっぱりわからないけど。でも、優しげに微笑む降谷くんは確かに私の目の前にいて。…嗚呼、それだけで、いいのかなって。そう思ってしまった。

「…う、嬉しい…」

ずっと胸に秘めていた苦しい気持ちを認められたような気になって、溢れ出る涙を我慢するように唇を噛んだ。また顔を伏せて、鼻をすする。
---その時。
ざわり、と教室内に騒めきが広がる。と、同時に私の目の前は暗くなって、鼻腔に広がるのは微かな洗濯洗剤の香り。温かなぬくもり。

「元気出して」

降谷くんに、抱きしめられてる。そう認識した途端。私の頬は茹で蛸のよう。驚きと嬉しさと混乱で、思わず彼の胸に顔を埋めた。

これからどうなるんだろう、とか。
みんな驚いてる、とか。
…もう、そんなことどうだっていい。

私の頭を撫でる、あの綺麗な掌。サトルの頭を撫でた、彼の手。その暖かさを享受するように、私はそっと目を閉じるのだった。


「有名になっていく降谷くんに夢主が引目を感じるようなお話(要約)」ということで1万打に続きシアちゃんにリクエスト頂きました!イメージソングの切ないメロディーラインが印象的で、恋の苦しさとかを全面に出しすぎてしまった感は否めないんですが、まあ最後は降谷くんがやらかしてくれるといういつも通りの展開になりました。多分この後、春市に呆れられるし、沢村たちには物凄く揶揄われます。しかし当の本人はケロッとしているという。降谷くんそういうところありますよね〜〜〜
改めて、シアちゃんいつも仲良くしてくれてありがとう!また是非次の機会もリクエストお待ちしております!