Goodbye Innocence


「これめっちゃ美味しい!」
「やばーい!」

いい歳した女ふたりが使う言葉かよ、と内心思ったけど口には出さない。言葉にしたら最後、ふたり掛かりで責め立てられるのは目に見えている。俺も大概、口が立つ方だと自覚しているけれど、このふたりは俺以上に口が立つ。我が姉達ながらよくもまあそんなにボキャブラリーがあるものだなと感心するほど、口喧嘩では勝てないのだ。

「鳴全然食べてないじゃん」
「フツーに食べてるだろ」
「いつもはもっと食べるのに」
「身体に気を使ってんの」
「ふうん?」

まあ、反論したものの指摘された通りあまり食が進んでないのは確かだった。目の前のテーブルには、ひとつ前の温前菜の皿が残っている。スープはひと口スプーンで掬って口をつけて以降手つかずだった。姉ふたりが俺をチラチラ見てくるものだから、その視線から逃れたくて握りしめていた席次表に視線を落とす。シンプルなデザインのそれ。観音開きの両サイドには見知った顔がそれぞれ印刷されている。どっちも珍しく笑顔だった。

(…こんな顔も出来んだなぁ…)

右手の親指で、女の方の顔をなぞった。それから左側に少し身体を逸らして、正面でスポットライトを浴びている高砂のふたりを見る。ちょうどそのタイミングでふたりの横に立つ司会者がマイク越しに話す声が耳に届いた。

「新婦 祥子 さんのベールはなんとご両親の結婚式でお母様が身につけてらっしゃったもので…」

その言葉を聞いた瞬間、俺はゴクリと喉を鳴らす。記憶の奥深くに仕舞い込んだセピア色の思い出が、一瞬にして頭の中を駆け巡った。








「鳴ちゃん、これ見て」

あまり笑わない祥子がその時珍しく柔らかな笑みを浮かべていたのを覚えている。そんな彼女の白い手は、柔らかそうな何かをふわりと掴んでいた。

「なにそれ」

子供用のグローブを右手に嵌めて、左手には白球。それを片手でポーンと弄びながら、怪訝そうな表情を浮かべた俺。祥子はそんな俺に対して、「家で見つけたの」とまだ笑っている。よっぽど気に入った代物らしい。俺にはそれが薄い布の塊にしか見えないから余計に首を捻った。

「お母さんが結婚式の時につけてた『ベール』なんだって」
「ベール?」
「うん、頭につけるの」

そして祥子は、「こうやって」という言葉と共に実践するようにその『ベール』とやらを頭に乗せた。わざわざ隣の家(つまり俺の家のことだが)の庭まで持ってくるほど、祥子にとっては胸を躍らせるものだったのだろう。確かに彼女の頭に乗ってダラリと垂れ下がったソレは、手に持っていた時よりも光に反射してキラキラと輝いていた。

「似合ってるんじゃない?」

姉ふたりに鍛え上げられ、女には優しい言葉を掛けた方が色々と揉め事にならないということを早々に学んでいた俺である。祥子はそんな世辞に嬉しそうに目尻を細めた。
その表情をいまだに覚えているのは、『ベール』越しに見えた彼女の顔がやっぱり整った造形をしていたからだろうか。
「可愛い」という言葉は、喉の奥に張り付いて出てこなかった。


俺たちが生まれる前、ある二組の新婚夫婦が同じタイミングで隣り合った新築に引っ越してきた。
年も近い隣人で新婚同士。夫はお互いに野球好き。それが、俺の両親と祥子の両親。その後それぞれ子供を出産したタイミングもほぼ同じで、仲がよくならない理由が見当たらなかった。子供達で野球チームを作るんだ、なんて父親同士が盛り上がっていたらしいなんてことは今となっては笑い話に近いだろう。結局男は、俺と祥子の兄ちゃんのふたりしか生まれなかった。
とはいえ小学生のうちは、まるで義務教育のように俺の姉ふたりも祥子も野球をしていた。俺の姉ちゃんふたりにとっては『させられていた』という感覚に近いだろうけれど、…祥子はどうだったんだろうか。
俺と一緒に泥だらけになってグラウンドを駆け回っていた姿を思い出す限りは、…俺たち『家族』の女の中で、唯一野球が好きだったように思う。それでも彼女は、『ボール』じゃなくて『ベール』で喜ぶ感性を持っているし、その布越しの顔は随分と白かった。日焼けしているはずだろうけれど、多分もともと色白なんだろう。そういう些細なところで俺と祥子は違う個体なんだなって実感したのを覚えている。

姉ちゃんたちが小学校卒業と同時に『義務教育』を終えたように、祥子もまたリトルで野球を辞めた。それでも俺のシニアの試合を観に来ていたから、野球が嫌いになったわけじゃないんだろう。相変わらず春夏共に甲子園の時期はどちらかの家でテレビ越しの激闘をふたりして食い入るように観ていたのもそれを体現していた。…だけど、今となってはそれも霞んだ記憶だ。

中学に進学して『進路』という話題が学校でも家でも会話に混じるようになり、俺はハッキリとその先の将来を公言するようになった。
甲子園を目指せる学校に進学し、結果を残してドラフト候補として名を全国に響かせる。
凡人には雲のような上の目標も俺にとっては当然のこと。自分自身の為に努力する事は嫌いじゃなかったし、なによりとにかく野球が楽しかったのだ。朝から晩まで頭の中は野球一色。
思い返してみれば、その頃から俺たちの『距離』は少しずつ離れていったように思う。


「鳴ちゃんは凄いね」

いつだったか、祥子は俺にそう言った。
その時も俺の家の庭だっただろうか。父親お手製のゲージ、俺の為に作られた小さな練習場。祥子の手には彼女の母親が作りすぎたという夕飯のおかずが入ったタッパー。俺は汗を拭って、顔を上げる。昼でも夜でも学校でも家でも関係なく、俺の生活はとにかく『野球漬け』だ。

「なにが偉いって?」
「ちゃんと目標があって」
「そう?」
「うん」

俺はただ目標に向かってただ淡々と自分のやるべきことをこなしているだけだ。そんな風に『偉い』と形容されることはなにひとつない。そう言おうとしたが、祥子の顔がなんだか暗くて思わず口を噤んだ。どうしてだろう。…その頃はずっとそんな感じだったように思う。

「進路の悩み?」

俺は早々に野球の推薦で高校を決定していたけれど、祥子はまだだった。きっとその悩みなんだろう、と。ズバリ尋ねれば祥子は整った眉をへにゃりと下げた。中学校で「高嶺の花」だとか「クールビューティー」なんていう風に形容される祥子は確かにしっかりとした性格で尚且つ美人だ。でもそれだけじゃない面を俺は知っている。

「…まあ、それもあるかな」
「前から言ってるけどさぁ、稲実来てマネージャーやればいいじゃん。好きでしょ、野球。俺もいるし…」
「でも稲実は遠いよ」

…確かに、祥子の言う通りだった。俺は寮生活になるけど、祥子は違う。通いとなると毎日はしんどい距離だ。…ということは、稲実は祥子の中に候補としてすら入っていないんだろう。それを思うと、…なんというか、胸が焦げるような思いが燻った。

「……青道にしようかなぁって」
「青道?」
「うん、…稲実よりは家から近いし、お父さんの母校だから。学力的にも問題ないし…」
「…マネージャーやるの?」
「……それはまだ決めてない」

やめろ、とは言えなかった。そんなこと俺が言う権利ない。我儘な性格をしていると自分でも自覚している俺だけど、こと祥子に関しては、無理強いをすることは出来ないのだ。それはずっと昔から変わっていない。幼い頃に抱いた「俺と祥子は違う」という考えが拭えないからだろうか。

「まあ、青道なら一也がいるからいいんじゃない?」

一也が俺の誘いを断って青道に進学する話は既に決定事項だった。祥子が俺の傍にいないのは心にポッカリと穴が空いたように感じるけれど、それでも彼女が見知らぬ場所で人知れず苦労するよりかはいいと思ったのだ。

「御幸くんは青道に行くの?」
「そうだよ」
「…そうなんだ」

俺の言葉を聞いて、祥子は少し安堵の表情を浮かべた。
祥子と一也は顔を合わせれば話すぐらいの仲でそこまで親しいと言うわけではないけれど、そんな存在でもいるだけで心強いのだろう。
…なんとなくこの瞬間、祥子は青道に進学するんだろうな、と強く感じた。うまく言えないけれど、そう思ったのだ。

それ以来進路の話を祥子から持ち掛けられることはなかった。俺は相変わらずいつでもどこでも野球漬け。祥子は受験勉強。…これが俺たちの岐路になるのだろうか。緩やかに、穏やかに。ずっと一緒だった一本道が、左右に分かれていく感覚。それを自覚したくなくて、ただ無心にボールを握っては投げる毎日。
そんな日々の中で…夜、日課になった庭での練習の合間に、祥子の部屋に灯る明かりをふっと見上げるのが、俺は好きで。向こうも受験勉強頑張ってるんだから、俺も頑張ろう。そういう風に思えた。

結局。
祥子は青道で野球部のマネージャーになって、大会で顔を合わせることもあったけれど、お互いその場では言葉を交わすこともなく…ただ高校生活の三年間が過ぎていった。なんとなく気まずかったのもあるし、別にその場で話さなくても後でメールや電話をすれば祥子は相変わらず俺の『家族』だったから。なにひとつ変わっていない。それに安心しきっていたような気がする。


「祥子、元気?」

東京選抜の帰り道。俺は隣に立つ一也に問いかけた。一也は「元気だよ」と笑う。

「あいつ本当に野球好きだよな」

一也が祥子のことを「あいつ」と呼ぶ事実と、浮かべた柔らかな表情に少し胸が軋んだのを覚えている。祥子の姿を思い浮かべているんだろうか。

俺が稲実で過ごした時間、祥子が青道で過ごした時間。それは決して交わることはない。道は完全に違えてしまった。それが寂しいと思うのは、多分俺の我儘だ。
先に稲実に行くと決めたのは俺で、祥子に無理強いしなかったのも俺で。
…祥子はただ自分自身の意思で彼女の道を歩んでいるだけだ。俺がそうしたように。

…寂しいとは思うけれど、こんなことで俺たちの絆が切れることはない。そう思うから、胸に渦巻く喧騒は聞かぬふりをした。







その選択の先に待ち受けた答えが「これ」なら、神様は随分意地悪だと思う。

俺は長い長い回想をまた胸の奥底に仕舞い、手に持っていた席次表を開いた。記載された一也と祥子のプロフィールは見なくても知ってる。だからマジマジとは見ない。開いた席次表に印字されているテーブルの円にはゲストの名前が並んでいて、それぞれ新郎側と新婦側に分かれているけれど大体がプロ野球関係者と青道の関係者で埋まっていた。
…俺は、自分の名前をなぞる。

新婦幼馴染
成宮 鳴 様

それが答えだ。
俺の上に並んでいる姉ふたりの肩書も同じそれ。両親の肩書は『新婦両親友人』となっている。テーブルの場所は、祥子の両親が座るテーブル---所謂末席に近かった。それが、俺たちは『家族』だ、と。祥子がそう思ってくれていることを体現しているように感じる。

結婚式は一也と祥子らしく派手すぎず、でもだからといって一也の仕事柄地味すぎることもなく至って普通の結婚式だった。一部騒がしい奴らはいるけれど、それも一也達の許容範囲内だろう。運動部の連中の結婚式なんてみんなそんなものだ。今まで参列してきた結婚式を振り返ると、そんな風に思えた。

「ほんっと、祥子ちゃん綺麗だよねぇ」
「もとから美人だったけど、磨きがかかった」

仕事柄、美に厳しい姉達が手放しで褒めるぐらい、確かに祥子は美人だった。今日は特にそうだ。ニコニコ笑いながら一也と寄り添っている姿を見ると、まるで俺の知らない女に見える。でもやっぱりそこにいるのは祥子以外の何者でもなくて。
あの笑みは確かに俺だけのものだったはずなのに、この場にいる誰もが目に出来るものとなってしまった。それがとてつもなく胸を傷つける。
俺はそんな痛みに向き合えず、すっかり冷めてしまったスープに手を伸ばした。披露宴が始まってそろそろ一時間が経つ。タイミング的には中座だろうか、なんて。結婚適齢期を迎えて、挙式に招待されることも多くなり、すっかり結婚式に詳しくなってしまった俺。自分が結婚するとなれば多少役立つだろう知識も、まだ披露する機会などない。…ついこないだ彼女と別れたばっかりだし。
だから多分こんな風に感傷的になるんだろう、と半分自分に言い聞かせている。

例えば、祥子が一也の幼馴染みだったら、とか。
俺が我儘を通して祥子が稲実に進学していたら、とか。
…俺がもっと素直に自分の気持ちに向き合っていたら、とか。

いつの頃からか思い浮かび上がるようになった考えに、俺は首を振る。どれも「たられば」の話だ。そんなものに生産性などあるわけがない。だけど時間の無駄と切り捨てる事も出来ない。ハレの日に似つかわしくない今日何度目かの溜息を吐き出したその時だった。

「それではここで新婦祥子さんはお色直しの為に中座となりますが…是非一緒に歩きたい方がいらっしゃるんですよね」

そんな司会者の言葉が耳に届く。俺は相変わらず冷たいスープをスプーンで掬って口に流し込んでいた。

「鳴ちゃん」

ボタリ、と。だらしなく膝の上のナフキンにスープが落ちたのを気づいたのは多分誰もいない。マイク越しの彼女の声は、確かに俺を呼んでいた。昔から変わらないその呼び方。不覚にも泣きそうになる。姉ちゃんふたりが、ぎゃあぎゃあ騒いで俺を立たせた。何がなんだかわからないうちに俺は自分の足で高砂の方へと歩いていたらしい。気づけば目の前には一也と祥子。ふたりがジッと俺を見つめている。

昨夜。珍しく一也から電話があった。
その時の「絶対来いよ」と念を押すような言葉を、今更思い出す。
…随分悪趣味なサプライズだ。
司会者にマイクを向けられて、俺はいつもインタビューを受ける時のような調子で答えたけれど。でもやっぱり身体反応は感情に素直だ。横に立つ祥子の姿を見れない。こちらに注目するゲスト達の姿がぼんやりとぼやけて見えた。

「幼馴染のおふたりです。是非子供の頃を思い出して手を繋いでくださいね」

そんな司会者の言葉と共に差し出された、祥子の掌。白くてすべすべしたそれは肉刺だらけの俺のものとは全然違う。彼女の指がマネージャーの水仕事で皸ていたのはもう十年近く昔の話。俺はそれを母親からの又聞きで知っているだけで実際に目にしたこともなく、…いま目の前にあるのは昔ベールをふわりと掴んでいたそれがそのまま大きくなったような、白い掌。
俺は一度確認するように一也を見た。
一也はただ小さく頷くだけだ。でもその穏やかな目が全てを物語っていた。
俺はごくりと生唾を飲み込んで、その手をとる。祥子と俺の掌が重なった。

「新婦中座でございます」のアナウンスとともに披露宴会場内のBGMがボリュームを上げ、場を盛り上げる。盛大な拍手に包まれて、俺と祥子は先導するプランナーの後を追ってテーブルの隙間を縫うようにして歩く。チラリと視界の端に映った『家族』たちの顔は随分と嬉しそうだ。

……それを見て、ああもういいかな、なんて考えが胸を占め。

扉の前に立ち、ふたりで並んで一礼。いま一度大きな拍手が俺たちに贈られる。……それが、どうしようもなく、涙腺を熱くさせた。

廊下に出て、閉まる扉。折角なので写真を撮りましょうと掛けられる言葉。ふたりで並ぶこちらに向かって構えられたカメラのレンズをジッと見つめて、俺はいつも通りの笑顔。作り笑いはここ数年で慣れたものだ。心中にどんな感情を抱いていても、愛想は振りまける。

「鳴ちゃん、ありがとう」

写真撮影が終わってから、祥子は俺と向き合うように立って口を開いた。御礼を言われることなんて何一つしていない。でもそこでようやく…俺は気づいたのだ。さっきの中座は祥子にとっても禊のひとつだったのだろう、と。

祥子の人生にとって俺は脇役でしかなかったけれど、さっきのあの瞬間だけは「俺たち」が主役だった。繋いだ手。感じた温もりと柔らかな祥子の掌の感触。

それを思い出して、気づけば俺は彼女の身体を抱きしめていた。華奢な肩に顔を埋める。もうどうにでもなれ、とは少し違う。今日ぐらい許して欲しいという祈るような気持ちだった。祥子が鼻をすする音だけが、しっかりと耳に届いた。

昨日久々に実家に泊まってさ、祥子の部屋の窓を見たよ。もうそこから光は漏れてなくて、嫌というほど思い知らされた。
祥子はもう俺の傍にいないって。
…でもさ、思うんだよ。例えば俺たちが少女漫画みたいに結ばれていたとしても、俺の一番が野球であることは変わりなかったんだろうなって。
だからこれでいいんだよ。
こんな我儘な俺の運命の赤い糸は、祥子に繋がってなかったけど。祥子の赤い糸が、俺が認めた男に繋がってたなら、それを俺が結んだというのなら。

「祥子」

彼女の名前を呼んだ。肩に回した腕の先。彼女の後毛が指を擽る。じんわりと痺れを感じるのはきっと気のせいじゃない。

伝えたい言葉はたくさんあるよ。
だけど、俺の口が紡げるのはただひとつだけだ。

「すげー綺麗だよ」

幼い頃には言えなかった言葉が、今度はするりと喉を通った。



コメントにて頂いた「綺麗な終わりだといいな」というお言葉を軸にお話を書かせていただきました。成宮の凄いところはなんだかんだ言いながら己と向き合うことが出来、そして自分で自分のメンタルを整えられるところだと思っています。後悔と反省を繰り返し、彼はまたひとつ成長していくんだろうなぁ、と。
成宮視点のため、御幸があまり出てこなくてすみません。リクエスト頂いた曲を聴く限りこれは成宮視点で正解だったのではないかな、と思います。
作者的にはとにかく楽しく書かせていただきました。りょう様、リクエストありがとうございました!