愚者の行進

白河→御幸 要素あり
「暁天の白むころ」スピンオフです
直接描写はないですが、R-15風味


「御幸のこと好きなの?」

その言葉が不意に口をついて出たのは、いつのことだっただろうか。何気ない日常のヒトコマだった気がする。面と向かって問うた場面ではなかった。私の呟いた馬鹿げた問いに、「なに馬鹿なこと言ってるんだ」って。そんな言葉が返ってくると思っていたのに、沈黙がいっこうに破られることはなかったから。少し焦って、誤魔化すように髪の毛を掻き上げながら俯いていた顔をあげれば、視界に映ったのは、薄らと朱に染まった白い頬と眉間に刻まれた深い皺。そのコントラストが私の胸を抉る。

「…そんなの俺が聞きたい」

吐き出すように、呟かれた彼の想い。
私はただその言葉が孕んだ苦い味を味わいたくなくて、ただ唇を噛みしめたのだ。



(…あー…)

真鍮の蛇口から流れる水を眺めながら、ふっと思い出された昔の一場面。私は手を洗いながら、自己嫌悪に陥っていた。鏡に写る着飾った自分の姿。ハレの日用に誂えたネイルが水を弾く。今日の為に諭吉が何枚も飛んでいった。ご祝儀だけで三枚。社会人になって半年の身には厳しいが、まあお祝いの席なので仕方がない。トイレすら美しい造形美なのは流石老舗ホテルだな、と思う。一体総額いくらぐらいなんだろうとつい下世話なことを考えてしまうが、首を振った。今日の主役二人のうち、一方は社会人五年目で更にプロ野球選手だ。
ーーー成宮鳴。
私の高校時代の同級生。同じ野球部で選手とマネージャーとして苦楽を共にした間柄である。ただ正直在学中も卒業後も個別に連絡を取り合っていたわけではないので、まあ数いる学生時代の友人としての招待。

「ご祝儀のもとはとってやる」

そんな節操のない言葉を私が呟いた瞬間、お手洗いの扉が音もなく開いた。それが視界の端にチラリとうつり、私の身体は思わずビクリと揺れる。無意識に顔を右側に向けたことによって交わる視線。黒曜石みたいな艶やかな瞳。

「あっ」

思わず飛び出していた声を誤魔化すように、咳払い。すぐに顔を伏せて、濡れた手を手持ちのハンカチで拭き取る。幸い彼女は私の存在をさして気にも留めていない。そりゃあそうだ。さっきまで同じ場にいたけれど、そもそも招待客は百人近い。新郎新婦が配席したテーブルも離れていた。私は新郎側で、あちらは新婦側。

(…綺麗な、人だな)

ポツリと胸のうちで呟いた、ただの感想。華美なパーティードレスだと尚際立つ華奢な身体に、流れるような黒髪。本当に綺麗な人だ。彼女の隣に立つあの男もまた、美しい。美男美女じゃん、と思う。慈しむように微笑みあって、こういう公の場でも隠すわけでもなく仲睦まじい姿。聞けば高校時代からの付き合いなのだという。私はその事実を、今日同じテーブルに座る同期から聞いた瞬間、胸がヒヤリと冷えた。…白河は、知っていたんだろうか。そんな言葉が浮かんで、そして消えない。随分前に抉られた胸を痛みを思い出して、喉がカラカラに乾いた。誤魔化すように乾杯酒を煽りながら、高砂を見るふりをして隣に座る彼を不自然ないように視界に入れれば、彼は相変わらずいつもの仏頂面だった。やっぱり何を考えているのかさっぱり分からない。それは学生時代からちっとも変わらない事実。
私は小さな溜息をついて、お手洗いを出た。来た道を戻る。履き慣れないピンヒール。床に敷き詰められたふかふかの絨毯に沈んで、歩きにくい。お祝いの場なのに私の気持ちは晴れなかった。ひとつひとつの小さな事実が、硝子片のように柔らかい心臓に突き刺さるのだ。

「あ、相田戻ってきた」
「成宮」

披露宴会場に戻ったら、私が座るテーブルに成宮がいた。…いいのか、今日の主役が前でニコニコしていなくて、とは思ったけど。結婚式なんてそんなものなんだろうか。初めての参列で勝手が分からないから判断がつかない。でも成宮なら勝手に行動してそうだなとは思った。こいつは昔からそうだった。苦労した懐かしい記憶が瞬時に蘇る。

「元気?」
「うん、元気だよ」

こうして言葉を交わすのは、本当に久しぶりだった。…成宮は、相変わらずだ。相変わらず華がある。白いタキシードが似合う日本人なんてそうそういないんじゃないだろうか。豪華な照明に輝く色素の薄い髪は後ろに撫で付けるようにセットされていて、ちょっと大人っぽい。群青色の瞳がジッと私を見つめる。

「元気ならいいけど」
「主役がこんなとこにいていいの?」
「いいの、向こうも友達と喋りたいって言ってたし。プランナーさんがこういう時間も込みで色々考えてくれたからさぁ」
「そういうのは二次会でいいだろ、こういう場ぐらい大人しくしてろよ」

横から辛辣な声が飛んだ。…やっぱりこっちも相変わらずだ。白河が白ワインの注がれたグラスを煽りながら私と成宮の会話に入り込んでくる。成宮は唇を尖らせて「俺の勝手じゃん」と文句を垂れた。やっぱり相変わらず。昔の一幕を思い出すようなやりとりを聞きながら、成宮の奥さんになった女性をチラリと見た。豪華なウェディングドレス。それは成宮が選んだ、と司会者の紹介を思い出す。飛び抜けて美人というわけじゃないけど、愛嬌があって可愛い人だなって感じ。…成宮ならもっと派手なモデルみたいな人と結婚すると思ってたけど、どうやら予想は外れた。このふたりも高校時代からの付き合い。高三の冬からだったはずだから、丸5年。5年経っても成宮の彼女への熱烈な愛情は健在らしい。「ほんっと可愛いよね」と今も言ってる。人の惚気は苦手だ。まあ、成宮が楽しそうでなによりだけどさ。なんて考えていたら、彼女がテーブルを移動して、あの男と話をし始めたから。私の口はまた不意をついて、その名前を呟いていた。

「奥さん、御幸一也の幼馴染みなんでしょ」

その言葉に、私たち三人の間に一瞬変な間が訪れた。でも本当に、僅かな間。

「…そうだよ。でも俺も小学生の時から知り合いだから、似たようなもん」
「へー」

成宮は明るい声音でそう言ったけど。正直…負け惜しみだなって思った。だって彼の顔は険しい。誤魔化そうと見繕った笑顔も嘘くさい。私にはお見通しだ。だって練習の時も試合の時も、彼のその顔を幾らでも見てきた。白河はなにも言わない。試すように御幸の名前を出したというのに、その表情は変わらない。高校生の時。成宮の奥さんが、幼馴染みの御幸を追いかけて青道高校に進学したことを、嫌味まじりに教えてくれたのは白河だ。それを聞いた瞬間、それって好きって言ってるようなもんじゃん、と思ったのを今でも覚えている。でも、成宮と御幸の幼馴染の間には、私の知らない諸々があって今日という日を迎えたのだから、人生って不思議だ。

「よかったね、結婚できて」
「まあね」

もっといい言い方があったはずだけど、私が表現できたのはそんな嫌味みたいなそれ。でも成宮はあんまり気にしてないようだった。良くも悪くも彼は、私なんかに興味がない。

「ダメですよ!カルロスさん!!!」
「ちょっ、!!カルロ!今日は脱ぐな!!」

テーブルの向こう側で、樹の慌てた声。それに釣られて見てみれば、酔っぱらったカルロスが既にワイシャツのボタンを外していたところだった。成宮は慌ててそちらに足を向ける。残ったのは、私と白河だけ。白河の溜息が会場の歓談曲に混じって私の耳に届いた。この人は今どういう気持ちでここに座っているのだろう。そんなことばかりを考えてしまう。自分じゃない誰かを想っていた人を振り向かせた成宮と、自分じゃない誰かと一緒にいる人を想う白河。そしてそんな白河のことを想う私。とても歪だ。ずっとずっと前から理解している。白河が御幸に対して重苦しい感情を抱いていること。そこに私が浸けいる隙なんてないってこと。そう考える度に思い出すのは、あのコントラスト。胸に焼き付いたそれ。全部見えないフリしてヘラヘラと笑えればいいのに。そう考えるけど、やっぱり無理そうだ。

「…白河は二次会いく?」

私は誤魔化すように、そんな言葉を呟いていた。



///




(……あたま、痛い…)

酷い頭痛で目を覚ました。寝返りをうてば、更に酷くなるそれ。元々寝起きはすっきりと起きれない方なので慣れてはいるけれど、それにしてもこれは酷い。呻き声を上げて掛け布団に潜る。…しかし、ここでハタと気がついた。私のベッドじゃない。それに気づいて、慌てて跳ね起きる。

「う、嘘でしょ…」

目の前の現実が信じられなくて、唖然とした。何度も瞬きを繰り返す。だけどそうしたところで隣で眠る男の存在が幻のように消えてくれるわけではない。確かにそこにいる。思わず身を引いた。嘘でしょ、嘘でしょ、嘘でしょ。被りを振ってほっぺたを抓ってみても、やっぱり痛い。自分の身体を見下ろしても、裸であることはやっぱり変わらない。いや、でも、と否定の言葉を繰り返す。だけど下腹部の鈍痛は確かにそこにあって、ベッドサイドに置かれたゴミ箱を覗き込んだら丸まったティッシュもそこにあって。くらり、と感じる目眩。頭を抱え込んだ。

記憶に残っているのは、成宮の結婚式の二次会。鬱憤を晴らすように酒を飲んだ私。原田先輩が呆れて止めてくれたような気もするけど、それよりも吉沢先輩が酔っぱらった私を面白がって離してくれなかったから。お見送りの時には既に千鳥足だったように思う。成宮と奥さんが私の顔を覗き込んで「大丈夫?」って聞いた時…私を抱えてくれていたのは、誰だったっけ。
いや、そんなことを今考えている暇はない。一刻も早く此処から逃げ出さなくては。だって、どんな顔をして彼と顔を合わせればいいのかわからない。脱ぎ散らかされた下着や洋服を掻き集め、ベッドの中から這い出る。いや、這い出ようと、した。

「…もう起きたのか」

掠れた寝起きの声。こんな声、聞いたのは勿論初めてのことだ。遠征の時だって、朝起きて最初に顔を合わせるのは朝食の時。彼はいつだっていつもの調子だった。それなのに、なんで、なんで、なんで…

「し、白河…」
「なんだよ」

私たちなんでこんなことになってるの、なんて聞くのは野暮な話なんだろうか。答えなんてわかりきっている。セックスしたんだ、私たち。

「あ、あの、ここ…」
「…覚えてないのかよ」
「………ごめん」

俯いて、謝罪を口にしたら大きな溜息を吐かれた。白河の顔が見れない。こういった行為は初めてではないけど、でも経験なんて数える程だし、何より交際という段階を踏まずに致してしまったことはこれが初めてで。どっちから誘ったの?白河って性欲あったの?…女と、そういうこと、しても、貴方は本当に良かったの…?そんな言葉が次々と浮かんでは、消える。唇を噛んで黙り込んだ私に、白河はまた溜息を吐いた。

「俺の自宅」
「…うん……やっぱり、そうだよね…」

これが例えばラブホテルとかだったら、こんなに罪悪感を抱くことはなかったんだろうか。…いや、多分同じだったな。それが大きいか少ないかの差だ。結局、結果は変わらない。
男の一人暮らしっぽい少し雑然とした様子は、いつも用具の手入れや片付けに煩かった白河らしくない。もっと神経質になんでもかんでも整理整頓してるものかと思ったけど、違うみたいだ。稲実の仕事、忙しいんだろうか。こんな一面知りたくなかったな。だって、知ってしまったら、もっと深みに嵌ってしまうじゃないか。
私がひとりでそんなことを考えているなんて知りもしない白河は、徐にベッドから這い出た。下着を履いて、Tシャツを着る。

「朝飯、食べてくだろ」

こいつはなんでこんなにも平然としていられるんだろう。それを考えただけで、ちょっと泣きそうになった。もしかしたら私が知らないだけで白河にとってはワンナイトラブも慣れたことなんだろうか。ズキン、と痛んだのは二日酔いによる頭痛なのか、それとも柔らかい心臓か。それは私にはわからない。わからないから、素知らぬふりをする。

「……食べる」

白河と少しでも一緒にいたいって一心で頷いた私は、きっと世界一愚かだ。


///


そんな風に二十三歳の十二月から始まった私の白河の関係は、四年経った今でも続いている。やっぱりいつまで経っても、私たちは歪だ。
白河は相変わらず稲実で生物教師と野球部コーチの二足の草鞋。私は新卒で入社した会社で五年目を数え、ちょっとずつ責任のある仕事も任されるようになってきた。本当にちょっとずつだけど。お互いそれなりに忙しいということもあって、そうしょっちゅう会うこともない。だってそもそも私たちはセフレだ。白河にとって都合のいい存在に甘んじている私から、会いたいっていうわけにもいかない。ただ白河からの連絡を待つ。
春から秋にかけては、三ヶ月に一度会えればいい方で、オフシーズンの冬は少し頻繁に会ったりするけれど…それも本当に一ヶ月に一回とか、そういう感じだ。
テスト期間前後は避ける。会うのはだいたい金曜日。仕事終わりに一緒にご飯を食べてセックスして一緒に寝て、朝起きて朝食を食べて、それからバイバイ。面と向かって話し合った決まり事じゃないけど、だいたいそういうサイクルが出来上がったのでそれに沿って付き合いを続けている。

白河は、私に触れる時、とても優しい。びっくりするぐらい。乱暴にしてくれたらそれで諦めがつくのに、そうはしてくれない。それもある意味、白河なりの意地悪なのかも知れないけど。やっぱり何年経っても彼が何を考えているのか、私にはよく理解できなかった。

よくこんな私を抱けるなって思うのだ。だってたいして可愛くない。骨格が大きくて女にしてはゴツいし、足も太い。…もしかして男っぽいから私を抱いているんだろうかっていう考えに至っては、自己嫌悪。
だって白河は…相変わらず、御幸のことが好きなんだと思う。

去年。シーズンが終わってすぐ、御幸の結婚というニュースがスポーツ新聞を騒がせた。それを私が知ったのは、ちょうど白河と一緒にいる時だ。相手は学生時代から付き合いのある一般の方、と情報番組キャスターが読み上げた常套句に、浮かんできたのは成宮の結婚式で見掛けた美しい人。平静を装って、チラリ、と隣に座る白河の表情を伺って…そしてすぐに自身の行動を後悔する。眉間に皺を寄せて、テレビ画面を睨みつけるようにしていた白河。私はすぐに顔を背けた。…嗚呼、やっぱりって思ってしまった。この人は叶わぬ存在に恋してる。憎悪とも嫌悪とも愛情ともとれる矛盾した感情を抱いてる。それを私は知ってる。だってずっと横で見てきたから。

…最初に、白河のことを好きになったのは私だったのにな。そう思う。でももしかしたら白河自身が気付いてなかっただけでシニア時代からその感情は芽吹いていたのかも知れない。そう考えると、私には到底敵わないからやるせない。
片思い何年だよ、って思う。いい加減諦めなよ、って。だけどそれって結局私自身に対しての特大ブーメランだ。
諦められたらいいのに。さよならって言えたらいいのに。そう考えて自分の中の心の引き出しを探るけど、出てくるのはやっぱり白河が好きな私だけだ。
白河が御幸のこと好きでもいいよ。セフレだっていいよ。傍に置いてくれるならそれだけでいいよ。最初は藁にもすがるような願いだった。だけど彼と過ごす時間を重ねれば重ねるほど、それは嘘に変わっていくから。

(…握り潰したい…)

白河のこと好きな自分を。淡い恋心を。消してしまいたい。
そう思ってるのに。
でも結局、白河から連絡があると私の足は彼のマンションに向いているのだ。我ながらチョロい女だ。

今だって、何故か白河の家の台所を借りて料理をしている。本当は、今朝帰るつもりだった。だけど連日の残業続きの激務と昨晩の名残で、目覚めたのは夕方に近かったのだ。…我ながら、寝過ぎだろ。自分自身にツッコミをいれたのはいうまでもない。白河は野球部の試合の引率で当然のことながら家を空けていた。今日は夏大の準決勝だ。確か十三時からの試合だと言っていた。…そろそろ終わってるからな。壁にかかった時計を見て思う。流石に準決勝でコールドはないだろう。暇なんだったら久々に試合見にくれば、と白河が昨夜言っていたけれど。もう遅い。…何時に帰ってくるんだろう。遅いだろうなぁ。こんなことになるのは、四年間で初めてのこと。いつも名残惜しくないフリして、朝には帰っていた。

「…なんなんだろうな、ほんと…」

夏の暑さがそうさせるのか。久々の逢瀬に有頂天になってしまっていたのか。とにかく私は、「白河の為に夕食を作ろう」なんて愚かな考えを抱いてしまったのだ。冷蔵庫の中にはめぼしい食材がなかったので、近所のスーパーに買い物にも行った。合鍵を貰ったのは随分前だ。使うのは初めてだけど。でもずっとキーケースに自宅の鍵と並べて吊るして持ち歩いていた。それが私の白河への執着心を見事に現している。

料理は、人並みには得意だと思う。少なくとも下手でもなければ味音痴でもない。人様の台所に立って、包丁を握って、食材を切りながら考えるのはやっぱり白河のこと。
白河は食が細そそうに見えて、そうでもない。結構食べる。高校時代は食事もトレーニングの一環だった。その名残だろうか。
そして、学生の時もそうだったけど相変わらずラジオ番組が好きで、特に金曜日のそれがお気に入り。白河とこの関係が始まってから、私もそれを聞くようになっていた。事が終わってからベッドに並んでその番組を聞いて、ふたりでクスクス笑うのが普通になったのは、いつからだろう。その時だけはなんだか普通にカップルみたいだなって思うのだ。私が好きなのは替え歌のコーナー。普段あまり笑わない白河もラジオ番組ではクスリと小さな笑みを漏らす。

そういう一面を知れば知るほど、嗚呼やっぱり戻れないなって思うのだ。もういい歳なのに。両親にもそろそろ結婚相手を見つけろって言われてるのに。白河から離れられない。玉葱を刻みながら、ポロリと頬を伝う涙。これは悲しくて泣いてるんじゃない。目に染みただけなの。この姿を見ている人なんて誰もいないのに、言い訳を並べ立てる。

出来る事なら普通の恋をしたかった。
白河と、普通の恋をしたかった。
でもそれは…白河に対してすごく失礼だ。
彼は、好きな人に、自分の想いすら告げる事が出来ないんだから。
私はそれが出来る。出来るけど結果がわかっているから怖くて自分から一歩踏み出せないだけ。臆病な私。馬鹿みたいな私。

「…すき…」

ずっと喉の奥に張り付いて吐き出せない気持ち。彼に伝えられない気持ち。誰もいない部屋に、ぼとん、と落ちた。涙と一緒に。


///


夕食は、一口ヒレカツとポテトサラダにした。サラダはお皿によそって、ラップをして冷蔵庫へ。白河が何時に帰ってくるかわからなかったから、カツは十九時に揚げた。油をきってから、お皿に並べる。付け合わせはキャベツの千切り。お皿にラップをかけてダイニングテーブルへ。…このまま帰ってもよかったけれど、私の身体は一度腰を下ろしたソファーから離れなかった。
…やっぱり今日はなんだか変だ。柄にないことばかりしている。
白河の顔を見たかった。それで、今日、全部を最後にしたかった。
はっきり言って悪足掻きだって、理解している。それでも…。

結局、白河が帰宅したのは二十一時に近かった。ガチャガチャと金属音が廊下の向こうの玄関に広がる。その音が耳に届いた瞬間、私は肩をびくりと揺らした。息を殺して、その時を待つ。…リビングの明かりがついている時点で白河も私がいることは気づいたはずだ。ゆっくりと開いた、扉。白河と視線が交じり合う。

「……まだ、いたのか」
「………うん、ごめん」
「いや」

白河のその言葉を聞いた瞬間。膝の上で組んでいた手先が一瞬にして冷えたような気がした。見慣れた彼の仕事着のワイシャツにスラックス姿。彼は私の存在に一瞬驚いたような表情を見せたけど、相変わらずの無表情に戻った。そして肩にかけていた鞄を下ろし、私のことをさして気にも留めず身支度をとく。私は唇を噛んで緩んだ涙腺に喝を入れた。

「夕飯作ったのか」
「うん」
「カツ?」
「明日、決勝だから。験担ぎに、と思って。明日はカーツ!みたいな」

わざと明るい声で、馬鹿みたいなことを言う。だってそうじゃないと、本当に泣いてしまいそう。そんな私の思いを知ってか知らずか、白河は予想外にもフッと笑みを漏らした。

「それ。お前、高校の時も言ってたな」
「…そうだったっけ」

そう言ったけど。本当は、覚えている。その時も白河は珍しく口角を上げたから。あの一瞬は今でも私の宝物だから。…嗚呼、やっぱり、ダメだよ。泣いてしまいそう。誤魔化すように、白河から顔を逸らした。その行動を白河はどうとったのかは理解らないけれど…気に留めることのほどでもなかったのだろう。スマホを弄って、何故だか電話をかけ始めた。こういうところ、自由だと思う。なんていうかB型だなって実感するのだ。
白河の電話の相手は、どうやら成宮らしい。急にどうしたんだと思ったけど、聞き耳を立てて聞いた会話の内容からなんとなく成宮の奥さんの話だと察する。…成宮の奥さんは、いま青道で吹奏楽部の外部講師をしていると白河から聞いていた。試合でよく顔を合わせるらしい。今日もそうだったんだろう。

「……あいつ、なんかあったのか?………は、…それ、……冗談じゃないよな……いや、まあ、なんとなく様子がおかしかったから。……で、御幸のことは………ああ、そうか」

ーーー御幸。
その言葉に、私の胸はかつてないほどざわざわと騒いだ。白河の口からその名前を紡がれるのを聞くのは、初めてで。もうそれ以上は白河と成宮の会話を盗み聞きすることは出来なかった。冷たくなった手で、心拍数が上がった胸を押さえる。もう帰ってしまおうか。だって白河の顔を見るって目的は既に遂行されたのだ。これが、最後。最後だ。もう終わりにしよう。この人に幸せになってもらいたい。私がここにいちゃダメだ。タールのようなドス黒い独占欲を胸に抱く私は彼に相応しくない。

白河の恋はこれからもずっと実らないけれど、それでもこれから先の人生で素敵な人に出逢うかも知れない。御幸のことを忘れさせてくれる人が現れるかもしれない。その時に、私がいちゃ駄目だ。

私は、ゆっくりとソファーから立ち上がった。鞄を手に持って、白河の横をすり抜けるようにリビングから出て行こうとした。…したのだけれど、

「…飯。食べてかないのか?」

いつの間にか電話を終えていた白河が、私の腕を掴んだ。その暖かさに触れた瞬間。私の涙腺はついに決壊する。ボロボロと大粒の涙が、頬を伝った。

「おい、なんで泣いて…」
「…わ、わた、し、…もう、白河…とは…終わりに、したい…もうむり…」

しゃくりあげて子供の癇癪のような言葉を紡ぐ私。白河は何も言わない。ジッと私を見つめている。顔を伏せているからその視線を正面から受け止めることは出来ないけれど、あの切れ長な瞳が私を見ているのが、わかる。

「むり、なの…ずっと、ずっと、我慢してた。だけ、だけ、ど、わたしの、こと…なんと、も、思って、ない人と、これ以上、いっしょには…いれない…ッ、も…いいトシ、だし…わたし、だって…結婚、したいし…」

それが貴方とならどれだけ幸せだろうって、ずっと思ってた。だけどよくよく考えてみればその言葉は、なんて自分本意で身勝手なものなんだろう、と思うのだ。だって白河はそれを望んでも実現できないんだから。やっぱり私は、最低で、最悪な女だと思う。白河に相応しくない。…それを体現するかのように、白河の大きな溜息が静かな部屋に響いた。…これで本当に終わりだ。覚悟を決めて、ギュッと拳を握りしめる。そしてその時をーーー待った。

「結婚なら考えてる」
「………は、」
「俺は別れるつもりなんてない」
「……………え、わ…わかれ、る…?」

身体の関係が終わる時。それを別れるって形容するだろうか。どっちかっていうと『終わりにする』が正しいような気がする。それに白河は結婚を考えているって言った。…誰と?…御幸のわけ、ないよな。だってアイツ結婚してるし。なんて一瞬にして私の脳裏は、疑問で溢れかえった。つい顔をあげて、キョトンとした顔で白河をみれば、彼は眉間に皺を深く刻んでいた。恐る恐る、口を開く。

「…私たち…付き合って、た、の…?」

白河の口から盛大な溜息が漏れた。
…いや、そうしたいのは私の方だよ、白河。全くわけがわからない。

「付き合ってなきゃセックスなんてしないだろ」
「…ッ、い、いつから!?」
「成宮の結婚式の日」
「は、はぁああ!?え、あ…ッ、御幸、御幸のことは!?」

さっきまで泣いていたというのに。私は矢継ぎ早に白河のことを問い詰めていた。今までの四年間。私は白河のセフレのつもりだったけど、白河は私と付き合ってるつもりだったってこと?好きも愛してるも、そんな甘い言葉一切言ってくれなかったのに?会う頻度も連絡する頻度も、友人以下だったのに?…やっぱり疑問は、後をつきない。白河は相変わらず険しい表情のまま、私の問いに対して呆れた様子で口を開いた。

「……お前、またソレ聞くのか」
「…え、……前も、聞いた…?」
「…聞いた。成宮の二次会でグダグダに酔っ払ってそのネタで俺に絡んできた」
「……ッ!?」

……当然のことながら、記憶にない。

「……確かに学生の頃は御幸のことを意識してた節はあった。それは認める。でも絶対恋愛感情なんかじゃない。俺はやっぱりアイツが嫌いだ」
「………だ、だって…私が、昔、『御幸のこと好きなの?』って聞いたら、『そんなこと俺が聞きたい』って言った…」
「…ああ…」

白河もあの瞬間を覚えているのだろう。苦々しい顔。…白河ってやっぱりよくわからない。その表情はいつも御幸に向けていたものだ。…ということは、やっぱり本当に彼がさっきそう言ったように、ただただ御幸のことが気に入らなかっただけなのか。…じゃあ、私が、ずっと悩んで、ずっと胸に抱え込んできた、この感情は…

「……私の、勘違い、だったの…?ずっと…?」
「…どう考えてもな」

白河の掌が、私の頬に触れた。その指先の熱さが伝染するように、朱色に染まるほっぺた。呆れたような言葉なのに、見つめた彼の表情は珍しく柔らかくて。それは深夜にふたりでラジオ番組を聴く時に白河が見せる一面。彼が大好きなものに触れる時に見せる、顔。それを理解しただけで、私の身体中の血液が沸騰したように、ぶわり、と熱を持つ。

「……私のこと、好きなの…?」

いつか不意に口に出ていた言葉と似たそれ。以前と違って言葉尻に自信はない。今だってまだ信じられない。沈黙が、私たちの間に横たわる。これもまた、いつかと同じ。返事がないことにやっぱり急に不安になってくる。白河の掌が添う頬とは反対側にかかった髪を掻き上げるように、顔を上げた。
そんな私の視界に飛び込んできたのは、あのコントラスト。
染まった頬に、眉間の皺。だけどその下にある瞳は、やっぱり凄く優しくて。

「……好きだ」

その言葉の甘い響きが耳に届いた瞬間、私の口端はゆるゆると緩んだ。


「夢主→白河→御幸。だけど最後はハッピーエンド」というすごいリクエストを、知人である通称『白河の女』、ハラダ様から頂きまして書かせていただきました。幸いなことに「もう好きに書いてくれ!」という有り難いお言葉をもらったので、暁天設定で書きましたが如何だったでしょうか。こんなことないだろ、と思う反面、これは夢だからよし!と思う自分もいます。夢主の独り相撲みたいな話になってしまいましたが、私はこういう勘違い両片思いの話がものすごく性癖なんです。なので本当に好きに書かせていただきました。ハラダ、有難う。
よくよく考えてみれば理解るはずのヒントのような白河くんの気持ちを表すふとした瞬間を散りばめてみました。ちなみにイメージソングも聴き込みましたが、終盤聞いていたのは白河くんが大好きなあのラジオ番組です。ヒ◯ペキ兄さんのコーナー本当に面白いですよね。
そして、あれもこれも書きたい、と久々にお話の字数が多くなってしまいました。それでも読んでくださってありがとうございます。誰かの性癖に刺さりますように。そして改めて、ハラダ様リクエストありがとうございました!